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第二章 ビル・エヴァンス「ポーギー」
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「やぁ、いらっしゃい」
カフェの入り口を開くと、ジャズビートに乗って店主の東さんの声が聞こえた。
「ちひろも今来たところだよ。今日は一緒に来たのかね?」
「ええ。泉福寺駅で偶然会ったので」
「そうか」
東さんはどこかつまらなそうに言う。
この人はすごく無愛想だけど、悪いひとではないことはここ一週間でよくわかった。
その証拠に、東さんは何も言わずコーヒーカップを差し出してきた。
俺がいつも頼んでいるアイスカフェオレだ。
どの客が何を好んでいるのか、すべて記憶しているらしい。
飲み物だけじゃなく、曲の好みまで。
「すみません、マスター」
背後から女性の声がした。
店の一番奥、大きなスピーカーが設置されている前の席で老婦が手を挙げていた。
上品な雰囲気の老婦だ。
前もあの席に座っていた気がする。
「いつもの曲をお願いできますか?」
老婦が言うと、東さんはこくりと頷き席を立つ。
だが、彼がレコード棚に行く前に店の奥から出てきた有栖川が一枚のレコードを手にした。
流れていた曲が終わると、手慣れた動きでレコードを入れ替える。
流れはじめたのは、軽快なピアノジャズ。
軽快かつ、繊細。透明感があるワルツとでも言えばいいのだろうか。
ビル・エヴァンス・トリオの「枯葉」──
エヴァンスは父のコレクションの中にもあったので名前だけは知っていたけれど、有栖川にいろいろと教えてもらった。
エヴァンスはモダン・ジャズを代表するアーティストで、黒人ばかりが活躍していた当時では珍しい白人のピアニストだった。
彼の曲に優雅さがあるのは、クラシックの血が流れているからだ。
そのスタイルから、エヴァンスには「繊細で哲学的」というイメージが定着したらしい。
「住吉さんのリクエストは、エヴァンスの次に流しますからね」
エヴァンスのピアノを邪魔しない、控えめな有栖川の声が流れてきた。
俺も小さな声で彼女に尋ねる。
「あのおばあさん、前もそのレコードをリクエストしてた気がするけど、いつもそれを?」
「そうですね。週に1回ほどいらっしゃるのですがいつもこのレコードをリクエストされてます」
「そうとうエヴァンスが好きなんだな」
レコードのタイトルは「メモリーズ・オブ・ビル・エヴァンス」。
顔に手をあてがい、肩肘を付いている物憂げなエヴァンスが写っている。
このレコードはあの老婦が預けたものなのだろう。
自宅で聴けなくなった事情があって、思い出の一枚をこのカフェに預けて、ああやって毎週足を運んで──
「……あれ?」
と、俺はジャケットの「とあるもの」に気づいた。
ジャケットの左上部分──。
余白部分に誰かのサインと「ポーギーを正男さんに」という言葉が添えられていた。
サインは筆記体で書かれていて、何と書かれているのかよくわからない。
だけど、なんとなくビル・エヴァンスと書かれているような気もする。
「有栖川。これって──」
サインのことを訊ねようと有栖川のほうを見ると、彼女はピアノの音につられて、まるで波に揺られるように体をゆらゆらと動かしていた。
ううむ。邪魔するのは良くないかな。
しばらく様子を伺っていたのだが、すぐに俺の視線に気づいた。
「あっ」
びくりと身を竦ませる有栖川。
慌てて身だしなみを整え、「別に聴き入ってはいませんよ?」と言いたげに、笑顔を作る。
「は、はい、なんでしょう?」
「あのさ、これって、もしかしてエヴァンスのサイン?」
「……サイン?」
「ほら、ここに」
ジャケットの端を指差す。
有栖川は特に驚く様子もなく、言った。
「あ、それですね。確かに、ビル・エヴァンスと書かれていますね」
「本当に? だったらこれって、相当レアなんじゃないか?」
「ん~、なんとも言えないですが……少なくともこのレコードに関してはレアではありませんね。エヴァンス本人のサインじゃありませんので」
「え? そうなの?」
「はい。このレコードにエヴァンスがサインを残すことは不可能です。だってこのレコード……エヴァンスの追悼盤ですよ?」
追悼盤。
つまり、エヴァンスが亡くなった後にリリースされたものか。
そりゃあ、無理だな。
「『メモリーズ・オブ・ビル・エヴァンス』は1980年に出された日本オリジナルの追悼LPなんです。59年から61年にかけてスコット・ラファロ、ポール・モチアンのトリオで作られた『リバーサイド4部作』と呼ばれているアルバムから代表的な曲を選んだオムニバス形式になっています」
「この『ポーギー』っていうのは?」
サインペンで書かれた「ポーギーを正男さんに」という部分を指す。
「リバーサイド4部作の『ワルツ・フォー・デビー』というアルバムに収録されている曲ですね。このレコードにも収録されています。1935年のオペラ『ポーギーとベス』の挿入歌で、多くのジャズプレイヤーに取り上げられている名曲です」
「へえ、そうなのか。というか、すごいな」
「そうですね。キース・ジャレットやマイルス・デイヴィス版はもちろん、ニーナ・シナモンが歌ったポーギーも素晴らしいのでぜひ聴いてほしいです」
「……あ、いや、凄いって言ったのは、そっちじゃなくて有栖川の知識のほうなんだけど」
途端、有栖川はぎょっと目を見開いて固まってしまった。
みるみるうちに耳先まで真っ赤に染まっていく。
「こっ、ここ、こ」
目を泳がせながら、有栖川は鶏の如く「こ」を連呼する。
「ここ、このレコードは、あちらのお客様のものなんですけど……きっと、旦那さまの思い出のレコードだと思うんです。だ、だから毎週ああやって……その、ええと」
そして、手にしたジャケットをしきりにひっくり返す。
「すっ、住吉さんは『汚レコード』というのを、ごご、ご存知ですか?」
「え? オレコード?」
「き、汚いレコードと書いて『汚レコード』です」
有栖川は小さく深呼吸して続ける。
「い、所謂、ジャケットに落書きをされたレコードのことです。メモ帳代わりにジャケットの裏に伝言を残したり、アーティストの写真にいたずら書きをしたり、そういうものは一部のコレクターの間で『汚レコード』と呼ばれているんです」
「ああ~、教科書の写真に落書きするようなものか」
俺もやった経験がある。
歴史上の人物の写真にいたずら書きするのは定番だよな。
「そういう落書きがあるレコードは価値が下がるものなのですが、ちょっと面白い話があって、ジャズの場合はアーティストのサインでも価値が下がることがあるんです」
「下がる? 逆じゃないのか?」
「理由はよくわかっていないのですが、綺麗なままコレクションしたいという方が多いのかもしれません。コレクターにとってはアーティストのサインであろうと、落書きであろうとすべて『汚レコード』というわけです」
「……なるほどなぁ」
だからさっき、有栖川はエヴァンスのサインを見て「一概にレアとは言えない」と言ったのか。
まぁ、これはエヴァンスのサインではないのでただの「落書き」なのだけれど。
「でも、どうしてエヴァンスのサインっぽい落書きをしたんだろう」
「理由はわかりませんが、きっと事情があったのだと思います」
「本人から聞いてないのか?」
あの老婦は常連なのだから、そういう話をしそうだけれど。
「こちらから詮索はしないようにしています。ここはあくまでジャズを楽しむお店ですからね。住吉さんのお父様の件のように、御本人から話を切り出された場合は別ですけれど」
来るもの拒まず、去るものは追わず。
それがこの店の信条だと東さんも言っていた。
「でも、きっとこの落書きにも素敵な思い出があるはずです。だから私、汚レコードって大好きなんですよね。そういうレコードのほうが思い出が詰まっていると思いませんか?」
「……ん~、そう、なのかな」
いまいちピンとこない。
「以前に住吉さんに『当時、レコードといえば高級品だ』という話を以前にしましたよね? インターネットも無く、海外から苦労して輸入するしかなかったって」
「ああ、覚えてる」
それがジャズ喫茶を生むきっかけのひとつになったと、有栖川は言っていたっけ。
「そんな高級品に、普通は落書きなんてしないはずです。でも、書きたいと思わせる『何か』があったんです。無意識に書き残したいと思わせる何かが」
作為的ではない、無意識な何か。
残したいと思う情念ってやつか。
「レコードが全盛期の頃って、今と違ってメールも携帯電話もなかった時代です。だから、こういうふうに何かに思いを託すってことが、あったと思うんです」
今と違って連絡を取り合うことすらも苦労する時代だ。
想いを伝えるために手紙を書くのが普通だったと聞いたことがある。
それを考えると、レコードに気持ちを乗せて相手に送るなんてことがあったかもしれないな。
「なるほどな。そういわれると、確かに魅力的だな」
「でしょう?」
「このレコードはあの人にとっての本当の『思い出の一枚』ってわけだな」
これはあの老婦が「正男」という男性に向けて送ったレコードなのだろう。
もしかすると、亡くなった旦那さんなのかもしれない。
だからあの老婦は毎日のようにここでこのレコードを聴いている。
俺が父のレコードをリクエストしているように。
「……ちょっと、失礼します」
有栖川が席を離れると同時に、流れていたエヴァンスのピアノが静かに終わりを告げた。
有栖川が慣れた手付きでレコードをプレイヤーから取り上げ、別のレコードを乗せる。
わずかな静寂のあと、同じエヴァンスのものと思われる繊細なピアノサウンドが店の中に広がっていった。
「どうも、ありがとう」
ぽつりと浮かんだのは、あの汚レコードの所有者である老婦の声だった。
老婦は有栖川に小さく頭を垂れ、頼んでいたコーヒーの代金を支払う。
ちりんと鈴が鳴り、老婦は店を去っていった。
その背中がほんの少しだけ悲しげに見えたのは、流れるエヴァンスの繊細なピアノに感化されたせいなのかもしれない。
カフェの入り口を開くと、ジャズビートに乗って店主の東さんの声が聞こえた。
「ちひろも今来たところだよ。今日は一緒に来たのかね?」
「ええ。泉福寺駅で偶然会ったので」
「そうか」
東さんはどこかつまらなそうに言う。
この人はすごく無愛想だけど、悪いひとではないことはここ一週間でよくわかった。
その証拠に、東さんは何も言わずコーヒーカップを差し出してきた。
俺がいつも頼んでいるアイスカフェオレだ。
どの客が何を好んでいるのか、すべて記憶しているらしい。
飲み物だけじゃなく、曲の好みまで。
「すみません、マスター」
背後から女性の声がした。
店の一番奥、大きなスピーカーが設置されている前の席で老婦が手を挙げていた。
上品な雰囲気の老婦だ。
前もあの席に座っていた気がする。
「いつもの曲をお願いできますか?」
老婦が言うと、東さんはこくりと頷き席を立つ。
だが、彼がレコード棚に行く前に店の奥から出てきた有栖川が一枚のレコードを手にした。
流れていた曲が終わると、手慣れた動きでレコードを入れ替える。
流れはじめたのは、軽快なピアノジャズ。
軽快かつ、繊細。透明感があるワルツとでも言えばいいのだろうか。
ビル・エヴァンス・トリオの「枯葉」──
エヴァンスは父のコレクションの中にもあったので名前だけは知っていたけれど、有栖川にいろいろと教えてもらった。
エヴァンスはモダン・ジャズを代表するアーティストで、黒人ばかりが活躍していた当時では珍しい白人のピアニストだった。
彼の曲に優雅さがあるのは、クラシックの血が流れているからだ。
そのスタイルから、エヴァンスには「繊細で哲学的」というイメージが定着したらしい。
「住吉さんのリクエストは、エヴァンスの次に流しますからね」
エヴァンスのピアノを邪魔しない、控えめな有栖川の声が流れてきた。
俺も小さな声で彼女に尋ねる。
「あのおばあさん、前もそのレコードをリクエストしてた気がするけど、いつもそれを?」
「そうですね。週に1回ほどいらっしゃるのですがいつもこのレコードをリクエストされてます」
「そうとうエヴァンスが好きなんだな」
レコードのタイトルは「メモリーズ・オブ・ビル・エヴァンス」。
顔に手をあてがい、肩肘を付いている物憂げなエヴァンスが写っている。
このレコードはあの老婦が預けたものなのだろう。
自宅で聴けなくなった事情があって、思い出の一枚をこのカフェに預けて、ああやって毎週足を運んで──
「……あれ?」
と、俺はジャケットの「とあるもの」に気づいた。
ジャケットの左上部分──。
余白部分に誰かのサインと「ポーギーを正男さんに」という言葉が添えられていた。
サインは筆記体で書かれていて、何と書かれているのかよくわからない。
だけど、なんとなくビル・エヴァンスと書かれているような気もする。
「有栖川。これって──」
サインのことを訊ねようと有栖川のほうを見ると、彼女はピアノの音につられて、まるで波に揺られるように体をゆらゆらと動かしていた。
ううむ。邪魔するのは良くないかな。
しばらく様子を伺っていたのだが、すぐに俺の視線に気づいた。
「あっ」
びくりと身を竦ませる有栖川。
慌てて身だしなみを整え、「別に聴き入ってはいませんよ?」と言いたげに、笑顔を作る。
「は、はい、なんでしょう?」
「あのさ、これって、もしかしてエヴァンスのサイン?」
「……サイン?」
「ほら、ここに」
ジャケットの端を指差す。
有栖川は特に驚く様子もなく、言った。
「あ、それですね。確かに、ビル・エヴァンスと書かれていますね」
「本当に? だったらこれって、相当レアなんじゃないか?」
「ん~、なんとも言えないですが……少なくともこのレコードに関してはレアではありませんね。エヴァンス本人のサインじゃありませんので」
「え? そうなの?」
「はい。このレコードにエヴァンスがサインを残すことは不可能です。だってこのレコード……エヴァンスの追悼盤ですよ?」
追悼盤。
つまり、エヴァンスが亡くなった後にリリースされたものか。
そりゃあ、無理だな。
「『メモリーズ・オブ・ビル・エヴァンス』は1980年に出された日本オリジナルの追悼LPなんです。59年から61年にかけてスコット・ラファロ、ポール・モチアンのトリオで作られた『リバーサイド4部作』と呼ばれているアルバムから代表的な曲を選んだオムニバス形式になっています」
「この『ポーギー』っていうのは?」
サインペンで書かれた「ポーギーを正男さんに」という部分を指す。
「リバーサイド4部作の『ワルツ・フォー・デビー』というアルバムに収録されている曲ですね。このレコードにも収録されています。1935年のオペラ『ポーギーとベス』の挿入歌で、多くのジャズプレイヤーに取り上げられている名曲です」
「へえ、そうなのか。というか、すごいな」
「そうですね。キース・ジャレットやマイルス・デイヴィス版はもちろん、ニーナ・シナモンが歌ったポーギーも素晴らしいのでぜひ聴いてほしいです」
「……あ、いや、凄いって言ったのは、そっちじゃなくて有栖川の知識のほうなんだけど」
途端、有栖川はぎょっと目を見開いて固まってしまった。
みるみるうちに耳先まで真っ赤に染まっていく。
「こっ、ここ、こ」
目を泳がせながら、有栖川は鶏の如く「こ」を連呼する。
「ここ、このレコードは、あちらのお客様のものなんですけど……きっと、旦那さまの思い出のレコードだと思うんです。だ、だから毎週ああやって……その、ええと」
そして、手にしたジャケットをしきりにひっくり返す。
「すっ、住吉さんは『汚レコード』というのを、ごご、ご存知ですか?」
「え? オレコード?」
「き、汚いレコードと書いて『汚レコード』です」
有栖川は小さく深呼吸して続ける。
「い、所謂、ジャケットに落書きをされたレコードのことです。メモ帳代わりにジャケットの裏に伝言を残したり、アーティストの写真にいたずら書きをしたり、そういうものは一部のコレクターの間で『汚レコード』と呼ばれているんです」
「ああ~、教科書の写真に落書きするようなものか」
俺もやった経験がある。
歴史上の人物の写真にいたずら書きするのは定番だよな。
「そういう落書きがあるレコードは価値が下がるものなのですが、ちょっと面白い話があって、ジャズの場合はアーティストのサインでも価値が下がることがあるんです」
「下がる? 逆じゃないのか?」
「理由はよくわかっていないのですが、綺麗なままコレクションしたいという方が多いのかもしれません。コレクターにとってはアーティストのサインであろうと、落書きであろうとすべて『汚レコード』というわけです」
「……なるほどなぁ」
だからさっき、有栖川はエヴァンスのサインを見て「一概にレアとは言えない」と言ったのか。
まぁ、これはエヴァンスのサインではないのでただの「落書き」なのだけれど。
「でも、どうしてエヴァンスのサインっぽい落書きをしたんだろう」
「理由はわかりませんが、きっと事情があったのだと思います」
「本人から聞いてないのか?」
あの老婦は常連なのだから、そういう話をしそうだけれど。
「こちらから詮索はしないようにしています。ここはあくまでジャズを楽しむお店ですからね。住吉さんのお父様の件のように、御本人から話を切り出された場合は別ですけれど」
来るもの拒まず、去るものは追わず。
それがこの店の信条だと東さんも言っていた。
「でも、きっとこの落書きにも素敵な思い出があるはずです。だから私、汚レコードって大好きなんですよね。そういうレコードのほうが思い出が詰まっていると思いませんか?」
「……ん~、そう、なのかな」
いまいちピンとこない。
「以前に住吉さんに『当時、レコードといえば高級品だ』という話を以前にしましたよね? インターネットも無く、海外から苦労して輸入するしかなかったって」
「ああ、覚えてる」
それがジャズ喫茶を生むきっかけのひとつになったと、有栖川は言っていたっけ。
「そんな高級品に、普通は落書きなんてしないはずです。でも、書きたいと思わせる『何か』があったんです。無意識に書き残したいと思わせる何かが」
作為的ではない、無意識な何か。
残したいと思う情念ってやつか。
「レコードが全盛期の頃って、今と違ってメールも携帯電話もなかった時代です。だから、こういうふうに何かに思いを託すってことが、あったと思うんです」
今と違って連絡を取り合うことすらも苦労する時代だ。
想いを伝えるために手紙を書くのが普通だったと聞いたことがある。
それを考えると、レコードに気持ちを乗せて相手に送るなんてことがあったかもしれないな。
「なるほどな。そういわれると、確かに魅力的だな」
「でしょう?」
「このレコードはあの人にとっての本当の『思い出の一枚』ってわけだな」
これはあの老婦が「正男」という男性に向けて送ったレコードなのだろう。
もしかすると、亡くなった旦那さんなのかもしれない。
だからあの老婦は毎日のようにここでこのレコードを聴いている。
俺が父のレコードをリクエストしているように。
「……ちょっと、失礼します」
有栖川が席を離れると同時に、流れていたエヴァンスのピアノが静かに終わりを告げた。
有栖川が慣れた手付きでレコードをプレイヤーから取り上げ、別のレコードを乗せる。
わずかな静寂のあと、同じエヴァンスのものと思われる繊細なピアノサウンドが店の中に広がっていった。
「どうも、ありがとう」
ぽつりと浮かんだのは、あの汚レコードの所有者である老婦の声だった。
老婦は有栖川に小さく頭を垂れ、頼んでいたコーヒーの代金を支払う。
ちりんと鈴が鳴り、老婦は店を去っていった。
その背中がほんの少しだけ悲しげに見えたのは、流れるエヴァンスの繊細なピアノに感化されたせいなのかもしれない。
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