ロマン・エイジ

葉桜藍

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第四章 少女の独白

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 数日が経った。さすがにクラウスとユリカとの間に変な空気はなくなり、以前のように普通に過ごせるようになっていた。
 しかし、仕事の方はいい結果は出ていない。参謀本部にいるというスパイの尻尾は掴めないままだった。クラビッツの方でも調べてはくれているが、あちらも結果は芳しくないという。
 もしかしたら本当はスパイなんていないのではないか? クラウスにはそんな考えすら浮かんでいた。
 しかし、あのジョルジュのことを考えれば、楽観的過ぎる思考だ。
 あのジョルジュに勝てるのか? そんな不安すら芽生えていた。
「あまりいい話にならないわね」
 目の前でユリカが呟く。二人はユリカの部屋で朝食を共にしていた。今日もリタが運んでくれた食事は美味しそうなもので、ユリカは笑顔で食べていた。それくらいしかいい話はなかった。
「もう参謀本部に関わる人間のほとんどは調べたはずだ。もしかしたら部外者の可能性は無いだろうか?」
「それはないと思うわ。ここに出入りできるのは限られた人間だけよ。手紙なんかも一度受取所で預かってから各部署に配られるの。少なくとも部外者が入って来れるはずはないわ」
 そもそも部外者がいればすぐにわかってしまう。見知らぬ人間がいればすぐに憲兵隊が飛んでくるだろう。
「あとはもう、計画書が盗まれないように警戒するくらいだけど」
「……ある意味それが一番いいのかもしれないな」
 実際最優先は機密情報の漏洩を防ぐことだ。ジョルジュたちのことは放っておいて、情報を守ることに専念する方がいいかもしれない。
 だが、ジョルジュにもそれくらいのことは予測できているはずだ。この参謀本部という要塞を、彼女は陥落させようとその智謀を働かせているに違いない。
 自分たちに太刀打ちできるのか。守り切れるのか。それだけが問題だ。
「あ、そうだ。すまないが今日は少し出かけてくる」
 クラウスが何かを思い出したように声を上げた。
「あら? 何かデートのお誘いでもあったのかしら?」
「そんなわけないだろう。そろそろ実家に手紙を出しに行かないと」
 クラウスは実家に定期的に手紙を出していた。最近仕事で忙しかったので、久しぶりに行かなければならなかった。
「ああ、そういえばそうだったわね。お父様は元気にしているの?」
「ああ。特に病気もしていないし、母さんとも元気にやっているらしい」
「それは何よりだわ」
 家族の健康というのはやはり嬉しいものだ。手紙でそれが知れるというのは、とても幸運なことだった。
「君はどうする?」
「私も出るわ。ただ少しやりたいことがあるから、ここに残らないと。終わったら出るから、あとで郵便局で落ち合いましょう」
「わかった。そうしよう」


 郵便局は今日も多くの人が集まっていた。ここに集まる人は手紙に想いを込めて、それを配達人に託す。配達人は彼らの大切な想いを相手に届けに行くのだ。
 今日も色々な想いがここに集められている。大切な人に言葉を伝えるために。 
 電信ができたとはいえ、まだまだ一般人が扱えるような代物ではない。それにやはり手紙というのは人々にとって特別なものなのだ。想いが形となって相手に届くというのは、それだけでも大切なものになるのだ。
「さて、どうするかな?」
 手紙を出し終えたクラウス。ユリカと落ち合うことになっているが、時間までは指定されてはいない。
 いつ来るかわからないし、時間をつぶそうにも遠くに行くわけにはいかなかった。
 またモンデリーズにでも行こうかと思い始めた時だった。
「やあ。クラウスくん。今日は一人なのかい?」
 もうすっかり聞き慣れた声だった。クラウスが声のする方を見ると、ジョルジュがそこにいた。彼女の笑みにも慣れ始めていた。
 さすがに声を上げたりはしなかったが、やはり警戒してしまう。少し顔が強張るのを感じた。そんなクラウスの反応が面白いのか、ジョルジュはくつくつと笑う。
「今日はお嬢様はいないのかい?」
「……君に教える必要もないと思うのだが?」
 思わず棘のある言葉を吐くクラウス。そんな彼の言葉も意に介さず、ジョルジュはなおも楽しそうだった。
「おお、怖い怖い。そんな親の仇を見るような顔をしないでくれよ」
「お互いの立場を考えれば、仕方ないと思うがな」
 クラウスが周りを見る。今は自分一人だけ。ジョルジュの他にも敵がいるかもしれない。一人で出るのは軽率だったと、少し後悔するクラウス。
 そんなクラウスにジョルジュが話しかけてきた。
「クラウスくん。時間があるのなら、少しお話に付き合ってくれないか?」
「……お話?」
「見たところ暇しているみたいだし、少しお話をしたいと思っていてね。前にも言っただろう? 君とは仕事抜きで仲良くなりたいって」
 何かの罠だろうか? あまりいい想像ができなかった。クラウスが後ずさりする。
 そんな彼の考えを察したのか、ジョルジュが笑いかけてくる。
「罠だと思うかい? 一応言っておくけど罠は仕掛けていないよ。本当に話がしたいだけさ」
「……さすがにそれを信じるのは難しいのだが」
 クラウスの答えにジョルジュも仕方ないなと苦笑いを浮かべた。
「それなら人通りの多い所で話さないか? それなら君も安心できるだろう? さすがに一目のあるところで変なことはしないよ。どうだい?」
 そう言って、ジョルジュがクラウスに近寄る。そうして彼女はクラウスにしか聞こえない小声で話しかけた。
「少なくとも、ここで変なことをされるよりはマシだと思うけどね」
 背筋が寒くなるのを感じた。もしここで断ったら、何か仕出かすのではないか? そう思うとクラウスは嫌な予感がした。
「……わかった。そうしよう」
 そこまで言われて断ることもできなかった。クラウスの答えを聞いて、ジョルジュはにっこりと笑った。


 
 ジョルジュに連れられてやって来たのは、街の中心部から外れた喫茶店だった。静かな場所にある喫茶店で、モンデリーズほどの賑わいはないが、静けさを好む人たちがコーヒーを楽しんでいた。
 決して人通りは多くは無いが、静かな空気が好ましかった。ジョルジュはその喫茶店のテラス席に座った。
「ここは私のお気に入りでね。モンデリーズのようなお店も好きだけど、こういう静かな場所の方がゆっくりできて、私は好きなんだ」
「……そうか」
 クラウスはそれだけ答えて、席に座った。ウェイターが注文を取りに来る。ジョルジュはエスプレッソを。クラウスも同じものを頼んだ。
「すまなかった」
 ウェイターが立ち去ってから、ジョルジュがいきなり謝ってきた。唐突なことにクラウスは戸惑うしかなかった。
「何を、謝っているんだ?」
「無関係の市民を人質に取るような真似をしたことさ。あまりいい気分ではなかっただろうと思ってね」
 それはモンデリーズでのことを言っているのだろう。クラウスたちと会った時、ジョルジュは何かあれば店の客に危害を加えると言って、市民を人質に取っていた。
 あの時のことを思い出す。確かにあの時はいい気分ではなかった。そんなことを考えるクラウスにジョルジュがさらに言った。
「信じてもらえるとは思えないけど、本当は市民に危害を加えるつもりはない。さっき君に言ったことも、嘘でしかないんだ」
「……何?」
 ジョルジュの言葉にクラウスが呆気に取られる。一瞬彼女の言ったことが理解できなかった。戸惑う彼にジョルジュが畳み掛けるように話し続ける。
「最初に君たちに会った時、確かに私の部下も周りにいたけど、さすがに店を爆破させる気はなかった。せいぜい騒ぎを起こして私を逃がすくらいだったよ。今も部下は周りにいない。ここには私一人だけだ。信じてもらえるとは思えないけど、私ができるのは嘘をついていないと誓うことだけさ」
 そんな風に笑うジョルジュ。その様子を見ていたクラウスは、彼女が嘘を言っていないと感じていた。少なくとも、無関係の人間を巻き込みたくないというのは本心だろうと思った。
「じゃあ、何であんな嘘を?」
「さすがに相手の本拠地では分が悪いからね。交渉の場で対等になるために必要だったのさ。実際君たちは、私と話をすることを拒否できなかっただろう?」
 確かにあの状況ではクラウスたちに拒否する選択肢はなかった。本来なら自分たちが有利なはずなのに、彼女は嘘一つで対等な立場を作り出したのだ。
「……それはいいが、しかしここで嘘だと言っていいのか? これまでの対等な立場が崩れるのではないのか?」
 今まで嘘をついて自分たちと渡り合ってきたのだ。その状況を自ら捨て去るようなことをして、彼女にどんな利益があるというのか?
 そんな彼の疑問を察したのだろう。ジョルジュはニヤリと笑う。
「一度くらいは仕事とか関係なく、正直な気持ちで語り合いたいからさ」
 正直な気持ちと語るジョルジュ。それはグラーセンとかアンネルとか、もしくは仕事も関係なく、本当に正直な気持ちでの語り合い。
 彼女の言葉に首を傾げる。何故彼女はここまで自分たちに入れ込むのか?
「君はどうして、私たちにそんなに興味を持つんだ?」
 クラウスの疑問を受けて、ジョルジュは少し考えてから答えた。
「私から見て、君たちはとても羨ましいのさ」
「羨ましい?」
 意外な言葉にクラウスが驚く。彼女は何を見て自分たちを羨ましいというのか? 
「一体何が羨ましいんだ?」
「……アンネルではゲトリクス皇帝や、デオン元帥たちはどんな風に語られていると思う?」
 唐突に語り始めるジョルジュ。その顔を見ると、わずかに寂しさが滲んでいた。
「皇帝時代を知らない若い世代にとって、ゲトリクス皇帝は英雄であり、神話であり、伝説だ。まさに少年のロマンそのもの。若者たちにとっては憧れの的なのさ」
 その話にはクラウスも共感した。かつて大陸を駆け回り、大帝国を築いた英雄。そんな皇帝の物語は、少年なら誰もが胸を熱くしたはずだ。
「そして、それはデオン元帥など、皇帝と苦楽を共にした将兵たちも同じだ。皇帝と共に英雄となった彼らを、誰もが憧れている。今この時もね」
 もはや歴史でしか語られない勇者たちの物語。しかし今のアンネルの若者にとっては、今なお鮮明に輝く英雄譚なのだろう。
 そう語るジョルジュの顔は、しかしどこか寂しそうだった。そんな彼女の顔をクラウスは不思議そうに見ていた。何故寂しそうなのか。
 ジョルジュがそれに答えるように苦笑いを浮かべた。
「私はデオン家の末裔として生まれて、幼いころから皇帝とデオン元帥たちの話を聞かされて育ったんだ。皇帝と共に戦場に立った老人たちは、かつての栄光の思い出を語ってくれたよ。私も女の子だけど、彼らが話す物語に胸を躍らせたものさ」
 かつての思い出を嬉しそうに語る老人。その物語に耳を傾け、目を輝かせる少女の姿。どこにでもある普通の光景だ。
「私もそんなデオン家に生まれて、デオンの名を受け継いだことに誇りを持っている。伝説の一族に連なっていると思うと、とても胸が熱くなるのを感じる。だけどね」
 そこまで語ったところで、ジョルジュが苦笑いを浮かべる。先ほどから見せていた、寂しそうな顔だった。
「そんな私をみんなは『デオン家のジョルジュ』としか見てくれないんだ。かの英雄の血を引く女の子。みんなの目には、ジョルジュという女の子の姿は映らなかったんだ」
 ジョルジュの言葉にクラウスもわからなくはなかった。確かにクラウスもデオン家の名を聞いた時、ジョルジュという少女よりも、デオン元帥の影の方が強く感じられた。
「無理もない事だとは思うよ。デオンの名はそれだけ偉大だ。何もない少女よりも、少女が受け継いだデオンの家名こそが重要なんだって。だけど、それで寂しくならないと思うかい?」
 自虐気味に語るジョルジュ。初めて見せる少女の姿に戸惑うクラウス。そんな彼にジョルジュがさらに続ける。
「色々な人が私に会ってくれた。だけど彼らが会ったのは少女ジョルジュではなく、『デオン家の女の子』なんだ。決して私に会いに来ていたわけではない。それはとても、寂しいものだったよ」
 今まで色々なことがあったのだろう。偉大なデオン家に取り入ろうとする人間も近づいてきたに違いない。そんなこと、このジョルジュが楽しいと思うはずがなかった。
「その内、私はこう考えるようになったんだ。デオン家の人間としてではなく、ジョルジュとして認められたいと」
 ジョルジュとして、一人の人間として認められたい。それはデオン家に生まれた彼女にしかわからない、切なる願いなのだろう。
「……まさか君は、そのためにアンネルの情報部に所属しているのか?」
 クラウスの問いかけにニヤリと笑うジョルジュ。
「正直、とても心地よかったよ。あそこでもデオン家の名は強かったけど、情報部の人たちはあまり気にしなかったよ。それよりも私の能力にこそ注目してくれた。ジョルジュという女がどれだけ有能で、利用価値があるか。それが彼らにとって大事なことだった。私はそこで初めて、一人の人間として評価されたんだよ」
 初めて一個人として評価された。そのことを嬉しそうに語るジョルジュ。
 実際ジョルジュはとても優秀な女性なのだろう。頭もいいし勇気もある。きっと男だったなら、軍人として名を馳せていたに違いない。それくらいに彼女は価値ある人間だった。
 そして、そこからジョルジュの活躍が始まったのだ。
「それからは大陸を西へ東へ走り回る日々さ。上層部は私に命令を下し、私は見事に仕事を成功させる。そんなジョルジュの活躍を上層部は評価し、さらに命令を繰り出す。ここにアンネルの黒狼・ジョルジュの伝説が生まれたわけさ」
 大袈裟かもしれないが、確かに伝説とも言える活躍だ。ローグ王国を出し抜くなど、間違いなく大陸の歴史を変える活躍を見せている。
 それは間違いなくこの少女の力で成し遂げたものだ。クラウスは初めて、ジョルジュという少女を見た気分だった。
「そんなことをしているうちに、私はある噂を耳にした。グラーセンに面白い二人組がいると」
 いきなりの言葉にクラウスが驚く。
「それは、私たちのことか?」
「その通り。情報部に所属しているらしいが、まるで恋人みたいに仲のいい二人だと。それでいて多くの事件で活躍しているという。アンネル情報部でも噂になっていたんだ」
 思わずクラウスが咳き込む。噂になっているのは聞いていたが、恋人みたいだと言われているとは思っていなかった。そんな彼の反応をジョルジュが面白そうに見ていた。
「気になった私はその二人組について情報を集めたよ。君のこと、お嬢様のこと。マールやジズーで何が起きていたのか。ジズーでは噂のカップルになっていたよ」
「……それは、なんというか」
 さすがに顔を背けるクラウス。未だに噂になっていると思うと、腹の奥が重くなる気分だった。
「ははは。照れなくてもいいじゃないか。とてもお似合いだったそうじゃないか」
「噂される身になればわかるさ」
 クラウスの言葉にまた笑い出すジョルジュ。しばらく笑ってから、彼女はもう一度クラウスに向き直った。
「そんな君たちの話を集めるうちに、君たちのことが羨ましくなったんだ」
「……さっきも言っていたが、君は私たちの何が羨ましいんだ?」
 自分たちのことを羨ましいと言っていたジョルジュ。クラウスたちのことを知った彼女が、彼らに何を見つけたというのか? 彼女はクラウスに言った。
「隣に並んで一緒に歩く君たちが、私は羨ましかったんだ」
「……それは、どういう意味だ?」
 ジョルジュの真意がわからず、思わず問い直すクラウス。ジョルジュは嫌な顔せず話してくれた。
「私は今まで一人で走ってきた。上司や部下はいたけど、相棒と呼べるような相手はいなかった。私と一緒に冒険して、夢を共有してくれる人はいなかった。みんな私の周りにいるだけで、隣に並んではくれなかった。そんな私から見て、君たちは対等な相棒に見えて、その在り方がとても羨ましく思えたんだ」
「……対等、ねえ」
 ジョルジュの言葉に曖昧な笑みを浮かべるクラウス。実際は上司部下の立場だし、いつもユリカにはからかわれてばかりいるのだ。とても対等とは思えなかった。
「君の言うとおり、対等な立場ではないと思うのだが」
「ははは。そうだね。少し言葉が違ったね。私が本当に羨ましいと思ったのは、君たちが同じ夢を見ていることなんだよ」
「同じ夢?」
「君たちはクロイツ帝国の復活を夢見ている。その夢を共有し、一緒に目指して歩いている。そのことが羨ましいんだ。私には仲間がいるけど、隣に並んで歩く相棒はいなかった。同じ夢を見る相棒が、私は欲しかったんだと思う」
 その言葉を聞いて、クラウスはこれまでのジョルジュについて考えた。誰も自分を見てくれない少女時代。初めて一人の人間として情報部で働くようになって、今度は一人きりの寂しさを知った。
 不思議な話だ。認めてもらうために一人で走り抜けた彼女は、今度は一人きりの寂しさを知ってしまったのだ。
 以前ユリカが言っていた。隣に誰かがいる。それだけでも大きく違うのだと。それは一緒にいるクラウス自身もわかることだ。
 もしかしたらユリカも、一人きりの寂しさを知っているのかもしれない。だからクラウスと一緒にいることを望んだのかもしれない。
「それに、私は歳の近い友人が少なくてね。仕事柄、色男に囲まれてはいるけど、世間話ができる女友達がいないんだ。だからそちらのお嬢様とはもっとお話がしてみたいんだ。たぶんだけど、彼女とは気が合うとは思うんだよ」
「まあ……それは否定できないな」
 実際ユリカとジョルジュは話が合いそうなタイプだとクラウスは思っていた。同じ国に生まれていたら、きっといい友人になれただろう。そんな二人の姿をクラウスも見てみたいと思った。
「ま、こればかりは仕方ないけどね」
 苦笑いを浮かべるジョルジュ。寂しさを滲ませて、彼女は溜息を吐いた。
「あ、そうだ。そう言えば答えを聞いていなかったね」
「答え?」
 ジョルジュが満面の笑みでクラウスを見た。その笑顔にクラウスは嫌な予感がした。
「この前私と恋仲にならないかと提案したじゃないか? その答えをまだ聞いていないと思うのだけど?」
「……ああ、そういうことか」
 嫌な予感が当たったとクラウスはげんなりとした。まさかここでそんなことを言われるとは思ってもいなかった。
「あれから少し時間が経っているし、考えてはくれたかな?」
 猫みたいに笑うジョルジュ。まだ幼い少女なのに、その情熱的な在り方はクラウスも感心するほどだ。アンネルの女性はみんなこうなのだろうかと、クラウスは思うのだ。
「あー……悪いが答えられない。というか、お互いの立場を考えればするべき話ではないと思うのだが」
 それだけ答えるのがやっとだった。そんなクラウスの答えにジョルジュは嫌な顔せず、ただクスクスと笑うのだった。
「おやおや。女の子を待たせるだなんて、君も罪深い男だな。その様子だと、まともに恋愛をしたことがないんじゃないか?」
 沈黙するクラウス。元々人付き合いが苦手なクラウスだ。そんな彼が女性とまともに付き合ったことなど、あるはずがなかった。
「ふふ、まあこの話は保留にしておこう。まあそちらにはお嬢様がいるから、確かに難しい話だろうしね」
 ジョルジュの言葉にクラウスが顔を上げる。何故そこでユリカが出てくるのか?
「いや、ユリカは別に関係ないと思うのだが?」
 そんなクラウスの言葉に今度はジョルジュが首を傾げた。何を言っているのか、不思議そうな顔だった。
「いや、だってそうじゃないか? お嬢様がいるから、君は答えが見つからないのではないのか?」
「いや、別に私たちはそういう関係ではないのだが……」
「まあ、それはそうなのだろうけど……」
 なおもジョルジュは首を傾げる。クラウスの言葉が不思議でならないといった様子だった。
「なんだか、君たちは改めて不思議なカップルだな」
 失礼なのかよくわからないことを呟くジョルジュ。何のことかわからないクラウスは、ただ怪訝な顔をするだけだった。
「まあでも、少しは安心するよ。まだ私にも入り込める隙はあるみたいだし。ゆっくり君のことは仕留めて見せるさ」
「人を狩猟の獲物みたいに言わないでくれ」
 クラウスの言葉にニシシと笑うジョルジュ。その笑い方もいちいち似合っているものだから、クラウスもそれ以上何も言わなかった。
 コーヒーを飲むジョルジュ。一息ついてから、彼女がクラウスを見た。
「恋と戦争においては、あらゆる手段が許容される。どこかの偉い誰かが言ったらしい。覚えていてくれ。アンネルの女の子は、恋愛においてあらゆる手段を使うと」
 その時、ジョルジュがにいっと笑った。
「いつか、君を手に入れてみせるよ」
 それは宣戦布告だった。こんなにも挑発的な宣戦布告など、初めてだ。思わずクラウスがたじろぐ。彼女のその瞳でまっすぐ見つめられると、つい気圧されてしまうのだった。
「クラウス?」
 その時、彼に呼びかける声が響いた。クラウスが振り向くと、そこにはユリカが立っていた。
 ユリカが驚いていた。クラウスとジョルジュが一緒にいることが、とても意外だったのだろう。
「あ、ああ。すまない。ちょっと彼女と話をしていた。用事は済んだのか?」
 そう言いながらクラウスが立ち上がる。その時だった。
 クラウスは自分の体が引っ張られるのを感じた。それから彼は自分の右の頬に温かいものが押し当てられるのを感じた。
 それが何なのか知る前に、クラウスのすぐ横で、ジョルジュの匂いがした。
 ジョルジュはクラウスの体を引っ張って、彼の右の頬に自分の唇を押し当てていた。
 事実を把握したクラウスは固まった。その光景を目の前で見ていたユリカは凍り付いていた。
 そんな二人を見ながら、ジョルジュが舌をぺろっと出した。実に見事な笑みだった。
「き、君は何を……!?」
 慌ててジョルジュから離れるクラウス。そんな彼にジョルジュがにやりと笑った。
「言ったじゃないか? 私は恋のために手段は選ばないと」
 ジョルジュはそう言ってユリカに顔を向けた。
「すまない、お嬢様。彼をお借りしていたよ。私はこのまま行くから」
「え、ええ……」
 そう言ってジョルジュはテーブルに代金を置いて、その場を去ろうとした。その直前、ジョルジュはクラウスに言った。
「答えはまた今度聞かせてもらうよ。愛しの君よ」
 ジョルジュはそう言って、その場を後にした。後に残されたクラウスとユリカは呆然とするのだった。


 しばらくその場に立ち尽くすクラウスとユリカ。二人は向かい合ったまま、お互いの顔を見ていた。
 さきほどのジョルジュのキスに動揺を隠せないクラウス。そんな彼をじっと見つめるユリカ。変な緊張感が漂っていた。
「……えっと」
 さすがに耐えられなくなったクラウスが口を開いた。
「実は彼女にお茶に誘われて、ここで二人で話していたんだ。本当にそれだけなんだ」
 自分で話して情けないとクラウスは思った。何も後ろめたいことはないのに、どうして言い訳みたいなことをしているのか、よくわからなかった。
「ふーん……そうなのね」
 そんなクラウスの言葉をどう受け取ったのか、ユリカはそれだけ呟いた。じっとクラウスを見つめる瞳は、何か言いたげではあった。
「な、何だ?」
「……別に。お話は楽しかったかしら?」
「あ、いや。まあ色々話はしたけど、別に楽しんだとかは……」
「ふーん……」
 ユリカが近寄ってくる。彼女はクラウスの顔を見た。
「彼女のキス。どうだった?」
「……は?」
 いきなり何を質問してくるのか、意味がわからなかった。どうしてユリカがそんなことを聞くのか、よくわからなかった。
「いや、どうと言われても、驚いたとしか……」
 実際いきなりのことだったので、クラウスは何も考えることができなかった。
 その答えに納得できないのか、ユリカがなおもクラウスを見つめるのだった。
「……そう、そういうことにしておきましょう」
 彼女はそう言うと、ジョルジュが座っていた席に座った。
「私も何か頼むわ。一緒にお茶してくれる?」
「あ、ああ……わかった」
 そう言ってクラウスも席に着いた。
 よくわからないまま時間が過ぎていった。正直、さっきまで起きていたことは本当の出来事なのか、クラウスは確信が持てなかった。
 だが、クラウスの頬には、エスプレッソの香りが生々しく残っていた。そのことがさきほどまでの出来事を事実だと証明していた。
 今日は厄日なのだろうかと、クラウスは黙り込むのだった。
 
 夕刻。二人は参謀本部に戻った。並んで歩く二人だが、どこかぎくしゃくした空気が漂っていた。
 二人とも黙ったままだった。だがクラウスは内心話しかけたい気持ちでいっぱいだった。
 何か話さなければとは思うのだが、しかし何を話していいのか、わからなかった。
 一方のユリカは無言のまま、並んで歩いていた。いつもなら軽口の十や二十は言っているはずなのに、ただ無言だった。それが逆にクラウスを緊張させるのだ。
 怒っているのかどうかよくわからない様子だ。それが余計にクラウスを困惑させるのだ。
 結局二人は無言のまま、参謀本部まで歩いて行った。
「失礼。クラウス殿ですね」
 その二人が参謀本部にやって来ると、二人を憲兵隊が出迎えた。
「え、ええ。そうですが、何か?」
 いつもならこんなことはあり得なかった。わざわざ憲兵隊が出迎えをしてくれることに、クラウスもユリカも首を傾げていた。
「クラビッツ少将がお二人を連れてくるようにと。来てもらえますか?」
「少将が?」
 クラビッツからの直接の呼び出し。何か進展でもあったのだろうか?
「わかりました。すぐに行きます」
 そう言って歩き出すクラウスとユリカ。その周りを憲兵隊が守るように取り囲む。彼らはそのままクラビッツの執務室まで向かった。


「失礼します」
 クラウスとユリカが執務室に入る。部屋の奥からクラビッツが二人を迎えた。いつもの物憂げな顔を見せ、二人を見た。
「来たか……君たち。外してくれないか?」
 クラビッツが憲兵たちに声をかける。それに応じるように憲兵隊は部屋の外に出て行った。
 部屋に残ったのはクラウス、ユリカ、クラビッツの三人だけ。
「少将。何かありましたでしょうか?」
 問いかけるクラウス。するとクラビッツがあるものを取り出した。
「クラウスくん。これについて説明してもらおうか」
 そう言ってクラビッツが机の上に一枚の紙を置いた。クラウスには見覚えのないものだった。
「少将、これは何でしょうか?」
 事態が呑み込めないクラウス。困惑する彼にクラビッツの冷徹な声が響いた。
 
 
「それはジョルジュから君への手紙のようだが?」
 

 体が凍り付いたような気がした。もし心臓にナイフを突き立てられたら、こんな感覚なのかもしれない。それくらいにクラビッツの一言が衝撃的だった。
「……閣下、それはどういう意味でしょうか?」
 息切れしながら問いかけるクラウス。そんな彼に容赦なく言葉を返すクラビッツ。
「質問しているのは私なのだがな。それは君の部屋で見つかったものなのだぞ」
 クラビッツの言葉をクラウスは理解できなかった。そんなもの、彼は全く心当たりがなかった。頭を警棒で叩かれている気分だった。そんな彼にクラビッツが事情を説明した。
「君たちとは別に捜査をしている部隊が、ゴミ箱に入っているのを見つけたそうだ。宛名は君宛で、寝返った時の手はずと報酬についての説明が書いてあったぞ」
「閣下。自分はそんな手紙は知りません! 何かの間違いではないのですか!」
 思わず叫ぶクラウス。実際手紙のことは初めて知ったのだ。
 潔白を主張するクラウスだが、クラビッツの冷徹さは変わらない。彼がさらに言葉を投げつけた。
「悪いが、手紙を見つけた後に君の部屋を捜索させてもらった。そうしたら、これらのものが発見された」
 そう言ってクラビッツが机の上に広げたのは、アンネル行きの切符や旅券、そして一枚のメモだった。そのメモにはこう書かれていた。


『君の答えに大きく満足している。君の働きに期待する。ジョルジュより』

 
「これは君に対して、ジョルジュから送られたものではないのか?」
 絶句するクラウス。そんな手紙、彼は知らなかった。
「閣下。私はそんなもの知りません! これはジョルジュの罠です!」
 そう。罠としか思えなかった。こんな都合よく証拠が出てくるはずがない。そもそもクラウスはその手紙に心当たりがないのだ。
 しかし、クラビッツの言葉の冷たさは変わらなかった。
「ふむ……しかし君とユリカ大尉は彼女から寝返りを提案されたのだろう? 君がそれに応じたというのではないのかね?」
「私がそれに応じたとでも? 私を疑っておいでなのですか?」
 必死に訴えるクラウス。だがどんな言葉でもってしても、クラビッツの顔色は変わらない。むしろ冷たさが増すばかりだった。
「前にも言ったはずだが、私は誰も疑っていないし、誰も信じていない。だから君が寝返りに応じたとしても、私は驚かない。あり得ない話ではないからな」
 愕然とするクラウス。人の言葉がこれほどの衝撃を持つとは、初めて思い知らされた。そんな言葉を言い放つクラビッツが、今は恐ろしかった。
 クラウスはそこで悟った。何故憲兵たちが自分たちを出迎えたのか。クラビッツがここに自分たちを連れてくるよう命じたのだ。今外で待っているのも、自分たちを逃がさないためなのだ。
「私は、国を裏切るようなことは、決して……」
 かろうじてそれだけ言えた。それをどう受け取ったのか、クラビッツは何も言わない。代わりにユリカに視線を向けた。
「ユリカ大尉は何か知っているかね?」
 クラビッツの質問がユリカに投げかけられる。クラウスの視線が彼女に注がれる。そんな彼女もクラウスに視線を向けた。
 お互いの視線が交差する。助けを求めるようなクラウスの視線に対し、ユリカはじっと観察するような瞳を向けてくる。それが逆にクラウスを緊張させた。
 しばしの沈黙の後、ユリカはクラビッツに向き直った。
「閣下。私には何も言えません。彼が寝返ったとは思ってはいませんが……それを証明する術を私は持っておりません」
「……そうか」
 ユリカの簡素な答えにクラビッツは頷くだけだった。
 それを見ていたクラウスは、何故かがっかりした気分になった。自分でもわからないが、彼女の答えに何故か気落ちする自分がいるのだった。
「まあしかし、この手紙があったのは事実だ。そうなると君を警戒しないわけにもいかない。申し訳ないが、君は自室から出さないようにしないといけない。いいか?」
 クラビッツの言葉に肩を落とすクラウス。まさか自分が容疑者扱いされるとは、思ってもいなかった。
「仕方ないわ。クラウス」
 そんな彼にユリカから声がかけられた。
「あなたの疑いを晴らすためでもあるわ。今は我慢して」
 ユリカの言葉を受け止めるクラウス。まっすぐに向けられる言葉は、クラウスを安心させるためのものだった。
 だが、いつもなら安心できるはずの彼女の言葉も、今は空しく響くだけ。今は彼女の言葉に笑う余裕もなかった。
「クラウス」
 もう一度ユリカが声をかける。ぐずる子供を言い聞かせるような言い方だった。
「……わかりました」
 クラウスもそれ以上何も言わなかった。それを受けてクラビッツが外にいる憲兵を呼び寄せた。
 憲兵がクラウスを迎える。クラウスを監視するためだ。
「こちらへ」
 事務的で無機質な言葉。憲兵がクラウスを先導するように前を歩く。
 それに続くようにクラウスも歩く。部屋から出ていく彼を、クラビッツとユリカがじっと見つめるのだった。
 そういえば、ユリカ以外の人間と一緒に歩くのは久しぶりだ。クラウスはそんなことをぼんやりとした頭で考えていた。
 
 

 自室に引きこもるクラウス。部屋の外では憲兵が立っていた。監視とはいえ、さすがに部屋の中にまでは入ってこない。囚人というわけでもないので、最低限の自由は保障されていた。
 不便なのはトイレに行く時に一緒に付いて来ることくらいで、それ以外は自由に過ごしていた
 元々部屋で本ばかり読んでいた人間なのだ。部屋で岩のように固まっているのは慣れていた。
 しかし、慣れてはいても気分が晴れることはない。自分が疑われているという状況に気分がよくなるはずもなかった。
 クラウスは考える。これは確実にジョルジュの罠だ。おそらく自分が外出している間に、参謀本部にいる協力者にやらせたのだろう。それくらいのことはできるはずだ。今日自分に会いに来たのも、その協力者から聞いたのだ。
 そこでふと考える。一体協力者は何者なのだろうか?
 よく考えると、ジョルジュは自分やユリカの行動を把握しているような素振りを見せている。それはおそらく、参謀本部に潜ませた協力者からの報告で、自分たちの行動を把握しているのだ。
 問題は、その協力者は誰なのかということだった。
 そもそもジョルジュと会ったのは喫茶店だったり、予定外の行動だったり、事前に知ることのできない行動だった。それでも彼女は自分たちに会いに来た。
 その協力者はどうやって自分たちの行動を知ることができたのだろうか? もしやどこかで自分たちを監視しているのだろうか?
 いや、それだけでは自分たちの行動を知ることは出来ない。外出することまではわかっても、モンデリーズに行くことまではわかるはずがない。
 それでも、彼女はモンデリーズでクラウスたちを待ち受けていた。最初からそこに来ることがわかっていたからだ。
 では、その協力者とは何者なのか? 自分たちの周りにそんな人物がいるだろうか?
 クラウスは考えてみたが、思い当たる人物はいない。周りにいる人たちの中で、ジョルジュと接触するような人物はいなかった。
 しかし、それは確実にいるはずなのだ。クラウスにも気付けない、亡霊のような人物が。
「くそ……!」
 わからない。つい舌打ちするクラウス。考えれば考えるだけ、わからないことだらけだった。
 クラウスは改めて、ジョルジュという少女の恐ろしさを思い知るクラウス。ここまで彼はジョルジュの掌で踊らされていた。
 ここまで彼女の計画通りなのかと思うと、寒気すら感じた。
 このままでいいのだろうか? このままここで一人じっとしていて大丈夫だろうか? ユリカは疑いを晴らすためだと言っていたが、ここにいて疑いが晴れるのだろうか?
 焦りと緊張がクラウスを襲う。
 その時、外で誰かが話す声が聞こえてきた。誰だろうと思っていると、ドアを開いてユリカが入ってきた。
「気分はどうかしら?」
 ユリカはその手に紅茶ポットと、二人分のカップを持っていた。
「疑われるなんて初めての経験だから、新鮮な気分だよ」
「そう。今後に活かすといいわ」
 いつもの軽口の応酬。だがその軽口にはいつもの活気はなかった。
 席に座るユリカ。机を挟んで向かい合う二人。会話はなく、重い空気が漂う。
 ユリカがカップに紅茶を入れる。それをクラウスに差し出す。
「どうぞ」
「……ありがとう」
 差し出された紅茶を受け取るクラウス。一口飲んでみるが、正直味は感じなかった。じっくり味わう余裕すらないのだ。
「少将は何と言っている?」
 クラウスが口を開く。その問いかけにユリカは肩をすくめる。
「特に何も。私にはこれまで通り調査をするようにって。あなたのことは……疑いが晴れるまでこのままだって」
「そうか……」
 クラビッツらしい簡素な言葉だった。彼にとってはクラウスのことも、驚くに値しないことなのだろう。そう思うと、寂しい気分になった。
「あの手紙、君はどう思う?」
 クラウスが問いかける。彼を陥れるために出された、ジョルジュからの手紙。あまりに手際のいい罠にクラウスもどうにかなりそうだった。
「やはり、これは罠だと思うか?」
 なおも問いかけるクラウス。しかし、ユリカからは答えが返ってこなかった。
 怪訝に思ったクラウスが彼女を見た。そのユリカは、どこか冷めた目でクラウスを見ていた。
「……えっと、どうした?」
「いえ、別に」
 何だろう。いつもと違って冷めた言葉だった。どこか怒りすら入り混じっていそうな言葉だった。
 さすがにクラウスも不審に思う。何故彼女はこんな顔をしているのか?
「……どうしたんだ?」
 恐る恐る訊いてみるクラウス。そんな彼にユリカの冷めた視線が突き刺さる。
「別に。ジョルジュとは色々と楽しんでいたんだなって、思っただけよ」
 そんなことを言うユリカ。さすがにその一言にはクラウスも黙っていられなかった。
「おい。それはどういう意味だ?」
「だってそうでしょう? 今日はジョルジュと一緒にお茶をしていたみたいだし。それもお洒落なカフェテラスで二人きりだし」
 今日の昼の出来事を言っているのだろう。ユリカのちくちくした言葉にクラウスも反論する。
「いや、それはたまたま彼女から声をかけられて、お茶をしようと連れて行かれただけだ。別に変なことはないぞ」
「ふーん……でも、断らなかったのよね?」
「いや、それは仕方ないだろう。断ったら何があるか、わからなかったんだ」
 反論を繰り返すクラウスだが、そんな彼にユリカは責めるような視線を向けてくる。その視線が冷たく、鋭く、クラウスに突き刺さる。
「そう……それでほっぺにキスまでしてもらったわけね。私の知らない間にずいぶん仲良くなったみたいね」
 脳に冷水をかけられた気分だった。とても寒々しい言葉がクラウスにぶつけられた。ユリカからは冷たい視線が向けられる。まるで煉獄の炎すら凍り付きそうな視線だった。
「いや、あれは不意打ちだったんだ。君も見ていただろう。いきなりだったんだ」
「そう。つまりいきなりキスをされるほど、彼女に気を許していたってことね」
 ユリカが責め立てる。静かに、じわじわと包囲してくるように、クラウスの言葉を一つ一つ反証してくる。
 いや、確かに彼女に不意打ちを許してしまったことは事実だ。だが気を許していたことなどない。今もジョルジュは彼にとっては敵なのだ。それでも、確かにユリカから見れば気を許していたように見えたとしても仕方のない事だった。
「まあ、仕方ないわよね。ジョルジュは私から見ても可愛い女の子だものね。あなたがなびいてしまったとしても、仕方ないわよね」
「そんなこと、あるわけないだろう!」
 今までクラウスはグラーセンのために、まだ見ぬ帝国のために走り続けてきた。命の危険を感じることもあった。そんな彼と共にユリカは一緒に走ってくれた。一番近くでクラウスを見てきた。
 そんな彼女から投げかけられる言葉。一緒に歩いてくれた彼女が信じてくれないというのか? 
「私が祖国を裏切るなんて、あるわけないだろう!」
 一緒に戦ってきた仲間。その仲間からの冷たい言葉にクラウスは耐えられなくなった。叫んでいなかったら、泣いていたかもしれない。
 そんな彼を見つめながら、ユリカが言った。
「そうね……あなたは祖国を裏切ったりはしないわよね」
 その時、ユリカが見せたのは、悲しそうな顔だった。
 どうしてそんな顔をするのか。その顔にクラウスが思わずたじろいだ。
 その彼女を前にして、クラウスはそれ以上何も言い返せなかった。彼女の悲しそうな顔を見て、罪悪感で押しつぶされそうだった。
 黙り込むクラウス。そんな彼を前にユリカが席を立った。
「しばらく部屋で引きこもっていなさい。疑いが晴れるまでここにいなさい」
 彼女はそう言って、部屋から出て行こうと歩き出す。背中を向けるユリカ。クラウスはその背中に向けて声をかける。
「君は、私を疑っているのか……?」
 弱い問いかけだった。その問いかけにユリカが振り向いた。
「……さあ? わからないけど、怒ってはいるわ」
「……?」
 変な言い方だった。疑っていないけど怒っている。一体どういう意味なのか、クラウスはよくわからなかった。
「それって、どういう意味だ?」
 質問を返すクラウス。それに対しユリカは呆れたような顔をした。
「自分で考えなさい」
 彼女はそれだけ答えて、部屋から出て行った。最後にクラウスが見たのは、彼女の無機質な瞳だった。
 後に残されたクラウスは、ただただ呆然とするしかなかった。何故自分は、こんなことを言われないといけないのか? 何故ユリカはあんな視線を自分に向けてくるのか?
 情けなく思った。彼女にあんな言葉をぶつけられるとは、思ってもいなかった。誰かの言葉で辛くなったのは、初めてだった。
 今まで一緒に歩いてきた彼女にあんな風に言われるというのは、あまりに辛かった。
 だけど、何より辛かったのは、ユリカが悲しそうな顔を見せたことだった。
 どうして悲しそうな顔をしているのか? どうしてクラウスを寂しそうな顔で見ていたのか?
 どうしてあんな顔をしていたのか。それがわからないことも、彼は辛かった。
 自分が彼女にあんな顔をさせてしまったのではないか? そう思うとクラウスはとにかく泣きたくなった。あまりに情けなくて。
 クラウスはそのまま、悲しみの渦に沈み込むように眠るのだった。
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