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或いは誘蛾灯のような
幽現屋
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蒸し蒸しとして、じっとしていてもじっとりと汗ばんでくるような夏のある夜。
エアコンのないボロアパートに住む僕は、あまりの暑さに耐えかねて、ふらふらと街へ転び出た。
どこか適当な店で涼めたら。
そんな気持ちで歩いていたら、入ったことのない路地に目がいった。
(こんな道、あったかな……)
見覚えのない巷路の向こうの方で、微かに灯りが明滅しているのが見える。
その光に誘われるように、ふらふらとその小道へ足を踏み入れると、チカチカと点滅するスポット照明に照らされた、アンティーク調の小さな袖看板があった。
看板には『Antique Shop Yugen-ya』と、か細い筆記体で書かれていた。
蔦蔓に覆われたレンガ造りの建物の前面がショーウインドウになっていて、そこと無垢のオークドアについた格子の嵌った明かり窓から、道に朧ろな明かりが伸びている。
アンティーク調の扉には『Open』と書かれた札が掛かっていた。
「ごめんください」
僕は恐る恐る木戸を開くと、店内に向かって声をかける。
扉を開けると同時にひんやりとした空気がこちらへ漏れ出してきて、とても心地よかった。
僕は涼やかな冷気に誘われるように店内へ足を踏み入れる。
ドアを開けたときに、上部に取り付けられたドアベルが、カランカランと乾いた音を立てたこともあり、奥の方から長い黒髪の、美しい女性が顔を覗かせる。
年のころは三十路手前ぐらいだろうか。
僕より数歳程度年上に見える彼女は、落ち着いた大人の色香を感じさせる艶かしい人だった。
「はぁーい」
彼女はそう答えると、僕を認めてにっこりと微笑んだ。
清楚な白のワンピースの上に、ブラウンの胸当てエプロンを身につけた彼女は、僕をじっと見つめると、「涼しくなるアイテムをお探しですね?」と言った。
「え?」
そもそもここが何を商っている店なのかも、僕はよく分かっていない。
それなのに告げられた、彼女の半ば確信めいた物言いに、僕は思わず頓狂な声を出す。
「家、お暑いんでしょう?」
「……は、はいっ」
「それで、ここには涼みにいらっしゃった。……違いますか?」
僕の目を、吸い込まれそうに深い黒瞳で見つめると、彼女が言う。
情けないことに、全く以って、かの人の言う通り。
僕は恥ずかしくなって、思わず顔を俯けた。
しばし後――。最初に沈黙を打ち破ったのは彼女だった。
「あ、申し遅れました。私、ここの店主をしております――」
言いながら細く白い指に挟まれて差し出された名刺は手漉き和紙製……。そこに、振り仮名つきで『幽現屋 店主:久遠桜子』と記されていた。
まさか一見で入ってきたような客に名刺などを渡してくれるとは思ってもいなかった僕は、手渡された名刺にどぎまぎとしてしまう。
それに、何より彼女は美しかったから。
「あ、ぼ、僕は……笹山……、笹山康介です」
あいにく名刺は持ってきていなかったので、とりあえず名乗りだけ。
緊張して舌を噛みながらしどろもどろに自己紹介した僕に、久遠さんがくすり……と笑う。
「それで、先ほどのお話の続きなんですけれど……」
彼女はそう言って僕に背を向けると、奥の棚からアンティーク風のオイルランプを手に取った。
それは油壺の部分だけではなく、炎を覆う雫型のホヤのガラスまでもが透き通るようなマリンブルーで……。手のひらに載るほどの小型サイズながら、とても上品で存在感のある品物だった。
「これなんて如何でしょう?」
彼女が手にした、美しいテーブルランプの造形美に見惚れていた僕は、久遠さんにそう問いかけられて、ハッとする。
「え? でも……」
確か彼女は涼しくなれるグッズを勧めてくれると言っていなかったか?
ランプは明かりを灯すものであって、涼を求めるときに使う道具ではないような……。
「信じていただけるかどうか分からないのですけれど……」
僕の疑問をすぐに察したらしく、久遠さんが口許に淡い微笑をたたえながら口を開く。
「こちらのランプ、灯すと部屋の温度がグッと下がるんです」
一瞬、彼女の言葉の意味が理解できなくて、僕は止まってしまう。
紡がれた言葉の意味を理解してからも、頭の中は疑問符だらけで。
からかわれたのかと思って久遠さんを見つめてみたけれど、彼女は至極真面目に見えた。
「あ、あの……それはどういう?」
結局、散々考えて、僕は素直にそう聞いていた。
「百聞は一見にしかずですわ。今ここで試してご覧にいれましょう」
そう言うと、彼女は油壺をオイルで満たし、
「オイルが染み込むまでほんの少しおきます」
言って、二分ぐらい放置した。
それからホヤを外して横のシリンダーを少し回すと、オイルの染み込んだ芯を気持ち長めに出す。マッチを擦ってそこに火を灯すと、シリンダーを回して炎の調節をしてから、ホヤを元通りに戻した。
店内の照明はもともと暗めだったからか、明かりを消さなくても色付きガラスのホヤ越し、青い炎がゆらゆらと揺らめく様が良く見えた。
と、ホヤを被せて全てのセッティングが終わったと同時に、室内の温度が急激に下がり始め――。
元々エアコンが効いていたこともあって、僕はゾクリと身体を震わせると、思わず両腕を撫でさすった。二の腕には、寒さからくる鳥肌が立っていた。
「ね? 言った通りでしょう?」
僕の反応を見て満足そうに微笑むと、久遠さんはシリンダーを回して芯を慎重に引っ込める。
「余り引っ込めすぎると芯が油壺の中に落ちてしまいますのでこの作業は慎重に。それから……使用中や使用直後はホヤの部分、とても熱くなっていますので火傷しないように気をつけてくださいね」
何やら説明が既に持ち帰ること前提になっているような?
久遠さんの物言いが気になった僕だったけれど、実際はこの不思議なランプが欲しくて堪らないと思うようになっていた。
「お幾ら……なんでしょうか?」
アンティーク風で、油壺の部分には手の込んだ細工が施されている。さぞや値が張るんだろうな。
部屋にエアコンのひとつも取り付けられないような僕だ。さすがに一万円以上と言われたら手が出せない。
恐らくそれ以上の価値があるんだろうと思いながらも、聞かずにはいられなかった。
「御代は要りません。このランプが、笹山様と帰りたがっていますので」
が、僕の予想に反して、久遠さんはそう言って微笑んだ。
「……それに、だってほら、使ってしまいましたし……」
ランプを手に僕を見つめると、にっこり微笑む。
いや、そういう問題ではないだろう。
彼女の茫洋とした掴みどころのない表情を見つめて、僕は心底戸惑った。それに、ランプが、僕と帰りたがっているという台詞も気になった。
「もしも無料、では笹山様のお気が済まれないとおっしゃるのでしたら……そうですね。こちらの専用のオイルを一緒に買ってくださいな。一リットル入りで千六百円です」
彼女の手にしたボトルが、パチャリ……と小さな水音を立てる。
僕はその音に押されるように、思わず「はい」と頷いていた。
エアコンのないボロアパートに住む僕は、あまりの暑さに耐えかねて、ふらふらと街へ転び出た。
どこか適当な店で涼めたら。
そんな気持ちで歩いていたら、入ったことのない路地に目がいった。
(こんな道、あったかな……)
見覚えのない巷路の向こうの方で、微かに灯りが明滅しているのが見える。
その光に誘われるように、ふらふらとその小道へ足を踏み入れると、チカチカと点滅するスポット照明に照らされた、アンティーク調の小さな袖看板があった。
看板には『Antique Shop Yugen-ya』と、か細い筆記体で書かれていた。
蔦蔓に覆われたレンガ造りの建物の前面がショーウインドウになっていて、そこと無垢のオークドアについた格子の嵌った明かり窓から、道に朧ろな明かりが伸びている。
アンティーク調の扉には『Open』と書かれた札が掛かっていた。
「ごめんください」
僕は恐る恐る木戸を開くと、店内に向かって声をかける。
扉を開けると同時にひんやりとした空気がこちらへ漏れ出してきて、とても心地よかった。
僕は涼やかな冷気に誘われるように店内へ足を踏み入れる。
ドアを開けたときに、上部に取り付けられたドアベルが、カランカランと乾いた音を立てたこともあり、奥の方から長い黒髪の、美しい女性が顔を覗かせる。
年のころは三十路手前ぐらいだろうか。
僕より数歳程度年上に見える彼女は、落ち着いた大人の色香を感じさせる艶かしい人だった。
「はぁーい」
彼女はそう答えると、僕を認めてにっこりと微笑んだ。
清楚な白のワンピースの上に、ブラウンの胸当てエプロンを身につけた彼女は、僕をじっと見つめると、「涼しくなるアイテムをお探しですね?」と言った。
「え?」
そもそもここが何を商っている店なのかも、僕はよく分かっていない。
それなのに告げられた、彼女の半ば確信めいた物言いに、僕は思わず頓狂な声を出す。
「家、お暑いんでしょう?」
「……は、はいっ」
「それで、ここには涼みにいらっしゃった。……違いますか?」
僕の目を、吸い込まれそうに深い黒瞳で見つめると、彼女が言う。
情けないことに、全く以って、かの人の言う通り。
僕は恥ずかしくなって、思わず顔を俯けた。
しばし後――。最初に沈黙を打ち破ったのは彼女だった。
「あ、申し遅れました。私、ここの店主をしております――」
言いながら細く白い指に挟まれて差し出された名刺は手漉き和紙製……。そこに、振り仮名つきで『幽現屋 店主:久遠桜子』と記されていた。
まさか一見で入ってきたような客に名刺などを渡してくれるとは思ってもいなかった僕は、手渡された名刺にどぎまぎとしてしまう。
それに、何より彼女は美しかったから。
「あ、ぼ、僕は……笹山……、笹山康介です」
あいにく名刺は持ってきていなかったので、とりあえず名乗りだけ。
緊張して舌を噛みながらしどろもどろに自己紹介した僕に、久遠さんがくすり……と笑う。
「それで、先ほどのお話の続きなんですけれど……」
彼女はそう言って僕に背を向けると、奥の棚からアンティーク風のオイルランプを手に取った。
それは油壺の部分だけではなく、炎を覆う雫型のホヤのガラスまでもが透き通るようなマリンブルーで……。手のひらに載るほどの小型サイズながら、とても上品で存在感のある品物だった。
「これなんて如何でしょう?」
彼女が手にした、美しいテーブルランプの造形美に見惚れていた僕は、久遠さんにそう問いかけられて、ハッとする。
「え? でも……」
確か彼女は涼しくなれるグッズを勧めてくれると言っていなかったか?
ランプは明かりを灯すものであって、涼を求めるときに使う道具ではないような……。
「信じていただけるかどうか分からないのですけれど……」
僕の疑問をすぐに察したらしく、久遠さんが口許に淡い微笑をたたえながら口を開く。
「こちらのランプ、灯すと部屋の温度がグッと下がるんです」
一瞬、彼女の言葉の意味が理解できなくて、僕は止まってしまう。
紡がれた言葉の意味を理解してからも、頭の中は疑問符だらけで。
からかわれたのかと思って久遠さんを見つめてみたけれど、彼女は至極真面目に見えた。
「あ、あの……それはどういう?」
結局、散々考えて、僕は素直にそう聞いていた。
「百聞は一見にしかずですわ。今ここで試してご覧にいれましょう」
そう言うと、彼女は油壺をオイルで満たし、
「オイルが染み込むまでほんの少しおきます」
言って、二分ぐらい放置した。
それからホヤを外して横のシリンダーを少し回すと、オイルの染み込んだ芯を気持ち長めに出す。マッチを擦ってそこに火を灯すと、シリンダーを回して炎の調節をしてから、ホヤを元通りに戻した。
店内の照明はもともと暗めだったからか、明かりを消さなくても色付きガラスのホヤ越し、青い炎がゆらゆらと揺らめく様が良く見えた。
と、ホヤを被せて全てのセッティングが終わったと同時に、室内の温度が急激に下がり始め――。
元々エアコンが効いていたこともあって、僕はゾクリと身体を震わせると、思わず両腕を撫でさすった。二の腕には、寒さからくる鳥肌が立っていた。
「ね? 言った通りでしょう?」
僕の反応を見て満足そうに微笑むと、久遠さんはシリンダーを回して芯を慎重に引っ込める。
「余り引っ込めすぎると芯が油壺の中に落ちてしまいますのでこの作業は慎重に。それから……使用中や使用直後はホヤの部分、とても熱くなっていますので火傷しないように気をつけてくださいね」
何やら説明が既に持ち帰ること前提になっているような?
久遠さんの物言いが気になった僕だったけれど、実際はこの不思議なランプが欲しくて堪らないと思うようになっていた。
「お幾ら……なんでしょうか?」
アンティーク風で、油壺の部分には手の込んだ細工が施されている。さぞや値が張るんだろうな。
部屋にエアコンのひとつも取り付けられないような僕だ。さすがに一万円以上と言われたら手が出せない。
恐らくそれ以上の価値があるんだろうと思いながらも、聞かずにはいられなかった。
「御代は要りません。このランプが、笹山様と帰りたがっていますので」
が、僕の予想に反して、久遠さんはそう言って微笑んだ。
「……それに、だってほら、使ってしまいましたし……」
ランプを手に僕を見つめると、にっこり微笑む。
いや、そういう問題ではないだろう。
彼女の茫洋とした掴みどころのない表情を見つめて、僕は心底戸惑った。それに、ランプが、僕と帰りたがっているという台詞も気になった。
「もしも無料、では笹山様のお気が済まれないとおっしゃるのでしたら……そうですね。こちらの専用のオイルを一緒に買ってくださいな。一リットル入りで千六百円です」
彼女の手にしたボトルが、パチャリ……と小さな水音を立てる。
僕はその音に押されるように、思わず「はい」と頷いていた。
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