グリンフィアの夜

明日葉智之

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7.悪鬼

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 薄いグラスに注がれたルビー色の液体がゆらゆらと波打っている。濃く深い赤は、常に私たちを魅了してやまない。
 口にすれば、少しの毒と引き換えに心が満たされる。それはとてつもなく甘美で、体が蝕まれている事すら忘れさせてくれるものだ。

「長居をするつもりはありませんが」

 目の前に座る白髪の老紳士は、そんなことを言う私の事などお構いなしに、ワインの香りを楽しんでいた。

「騎士団長殿。ワインはお好きかね」

「酒は控えていますので……言葉遊びには期待されないで下さい」

「君は相当な堅物だな。飲んでみたまえ、個性的な味だ」

 テーブルに置かれたボトルは輸入品。文字でドラクナ共和国の品だということが分かる。

「はあ……」

 グラスに口を付けると、葡萄の甘さに紛れて、鉄と腐葉土のような香りが鼻を抜けていった。
 複雑で濃厚な味わいは、まだ残暑の残る今の季節には不釣り合い。しかし、この店の趣向によく合っている。
 一般市民には到底手の出ない高価な代物だろう。

「どうだ?美味いかね」

 ここは貴族の居住区。おまけに会員制のレストランに呼び出されたという事は、他言できない厄介な相談が待っているに違いない。相手のペースにならないように、私は言葉に皮肉と警戒の色を滲ませた。

「奇妙な味ですな。まるで甘い屍肉のようだ」

「グロテスクな味だろう」

「ええ」

「漆黒の髪に赤色の瞳。騎士団長殿のようにユニークな美酒だとは思わんかね」

「褒め言葉ではないようですが」

「私はただ評価しているのだよ。イシュマとハルマの混血である君によく似ている」

 バルハラーム卿はそう言いながらグラスを傾け、ひとしきり愛おしげに眺めると、側に置いてあったブリーフケースから書類を取り出し、私に寄越した。

「見たまえ。近日中に提出される法案だ」

「貴方が推薦されるものが案であった事など記憶にありませんな」

 バルハラーム卿が根回しをした法案はほぼ可決される。余裕たっぷりに笑う顔に寒気を覚えた。

 嫌な予感しかしない。

 ゴシック様式の部屋の造りはしっかりしていて、話す者がいないと変に静まりかえってしまう。紙をめくる音が嫌に耳障りだ。
 
 一通り書類に目を通して、私は頭を抱えた。

「いかがかな?」

 良く言って過激。普通に言えば狂っている。

「これは……イシュマの居住区の指定ですと!?」

「見ての通りだ。騎士団長殿、イシュマの囚人はあとどれくらいだね?」

 なるほど、牢獄に閉じ込められたイシュマは殆ど残っていない。その為、現在イシュマの火を喰らうグレンダ様のにえは尽きてしまっていた。

「もう殆ど残っていませんが、先日可決されたばかりの識別腕章に加えて更に居住区の指定?これではまるで……」

「選り取り見取り、選び放題だそ。お気に召さないかな?」

「グレンダ様の為とはいえ、罪のない人々に手をかけろと?反乱のきっかけになりかねません。危険過ぎます」

「綺麗事を言うほど余裕があるのかね?世論なら問題ない。多くのハルマがイシュマはこの世に存在することが罪だと思っている」

「貴方の前にいる私も半分はイシュマですが」

「なら、その半分の罪を清算してはいかがかな?私に尽くしたまえ」

「僭越ながら申し上げたい。こんな事が知れたらドラクナ共和国が黙っているとは思えません」

 もともとこのタレニア王国はよく思われていない。イシュマが統治する隣国を刺激するだけだ。
 
 目の前の老紳士は満足そうに頷いた。

「やはり騎士団長殿は他の貴族連中と違って愉快だ」

「愉快とは?」

「開戦の懸念があるのは一目瞭然。しかし、ここまできても私に歯向かうものは誰もおらん。皆が米つき虫のように頭を縦に振る。君くらいなものだよ、私に異議を唱えるのは。言っている意味が分かるかね」

「貴方はこの国の財を握っておいでだ。私もその影響下にあります」

「然り。だが、困ったことにあのアホ共は間違いにも簡単に同意してしまうのだ。だから君のようなリアリストの意見は貴重だよ」

「私の意見など……。危険な橋を渡る事には変わらないでしょう」

 本当に馬鹿げた話だ。

「王政などもはや過去の遺物だが、未だこの国では君主が民衆に与える影響力は絶大。グレンダ女王陛下の力には頼らざるを得ない。正確にはヴァルヘルム前国王が築いたカリスマだがね」

「つまり、グレンダ様の正気を保つ為にイシュマを確保したいと?」

「加えてドラクナへの挑発だよ。一石二鳥だ」

「開戦を望まれると?」

「そうだ。ドラクナを刺激し越境させる」

「私の理解の範疇を超えている。貴方はまるで軍人だ」

「冗談を言ってくれるな。奴らは規律を崇拝する融通のきかん連中だ。矛にしかならん」

「正気ですか?」

「騎士団には開戦までの間、居住区のイシュマを管理してもらいたい」

「民主派運動を牽引しているモルバットとかいうレジスタンスの噂をご存知で?奴らにきっかけを与えるだけです」

「ならまずレジスタンスの無力化からだな」

 レジスタンスの無力化?尻尾を掴めない奴らには警察も手を焼いている。あまり仲の良く無い警察と手を組む未来を想像したら胃が痛んだ。

「想像以上に骨が折れる仕事です。貴方は私を買い被っておられる」

「買い被りなどではない。君は予想されるイシュマの反乱を押さえたまえ。さもなければグレンダ女王陛下の首が落ちることになる」

 実に笑えない話だ。

「一体何を望んでいるのですか?私には行動を起こす理由が見当たらない」

「私が何を欲すか知りたいと?」

 私が老紳士の灰色の瞳を見据えていると、コンコンと扉を叩く音が聞こえた。

「失礼致します」

「入りたまえ」

 バルハラーム卿が答えると静かに扉が開き、クロッシュに覆われた料理が運ばれてきた。
 私は眉間をつまみ佇まいを直す。

「騎士団長殿のその癖。それもイシュマの力なのだろう」

「私は混血です。幻を映す事はできませんが、心を沈める事くらいなら可能です」

「君は馬鹿正直だな」

 黒い制服に目元を隠す仮面をつけた給仕がクロッシュを外す。顔は見えないが、赤毛の女性だった。制服は薄手の皮が使われていて、体のラインに沿ってきつめに作られている。このケバケバしい服装はいかにも貴族が好みそうな見た目だ。

「本日のメインです」

「失礼、この食材は……」

 大きな皿の真ん中にある肉の塊を指して私は赤毛の給仕に尋ねた。

「羊の脳にございます。一頭から一つしか取れない希少な部位です」

 脳味噌なのは見れば分かるが、それを指摘しているわけではない。十年ほど前からこの国では動物の臓器を口にする事を法律で禁止しているのだ。
 取り繕う様子もない給仕を見て私はバルハラーム卿に視線を送る。しかし、女性の給仕を舐めるように見ていた老人は、私の事など気にしていない様子だった。

「君はあまり見かけない顔のようだが、名前は何というんだね?仮面をしていてもその美しさが透けて見えるようだ」

「ありがとうございます。もったいないお言葉ですわ」

「今度食事でもいかがかな」

 呆れた好色ジジイだ。

「申し訳ございません。この店の店員は素性を明かせない決まりになっております」

「つれない事を言ってくれるな。私は諦めが悪いぞ?」

「では、店の外でお声かけくださいませ」

 彼女は優しい微笑みでバルハラーム卿をかわして部屋を後にする。

 私は大きなため息を吐いた。
 
「バルハラーム卿。動物の臓器を食べることは法律で禁止されています」

「知っているとも。だが、ここは法の及ばぬ秘密の場所だ」

 ナイフで音もなく切り離された脳の破片を、彼は舌で押し潰すように味わう。

「さっきの続きだが……私が求めるものが知りたいと言ったな」

「ええ」

 老紳士は目尻に皺を寄せる。

「全てだよ」

「全て……とは」

「私は自分の欲に正直でね。欲しいものはなんでも手に入れたいと思っている。実際手に入れてきた。興味が尽きないし、それらはとても刺激的だ。未だ知りえぬ感覚……一つ手に入れるたびに心底満たされる」

 バルハラーム卿は下卑た自分の趣向をわざと仄めかす。積み上げたものが壊れてしまう事をも厭わない、人間の絶対的な自信。

「キリのない話ですな」

 何を言い出すのか気が気ではない。喉が渇いて私はワインを口に運ぶ。

「ああ。いくら喰らえど腹は満たされないのだよ。このままでは自分の腹ワタにすら手を出してしまいそうだ……私にとってこの国は狭すぎるな」

「その話は、場所を選ばれた方がよいかと」

「かまわん」

 額にうっすらと汗がにじみ、頭の中では警笛が鳴っている。しかし、彼を前に私は聞かずにはいられなかった。

「他国を……占領でもする気でしょうか?」

 この問いに対し、老人の答えは予想の斜め上を行った。

「世界の覇権だよ」

 覇権。つまり世界に喧嘩を売りたいと?グレンダ様が正気であれば、君主として戦争なぞ望むはずもない。しかし、イシュマの火が見せる幻は強力だ。一度魅入られてしまえば抜け出すことはできない。その弱みをバルハラーム卿に握られていた事に気がつかなかった自分のなんと愚かな事だろうか。いっそこの老人をここで始末してしまうか……。

「我が国、タレニアは大国です。焦らずともいずれは世界の中心となり得ましょう」

「騎士団長殿は何も知らぬようだ」

「は?」

「大きな思い違いをしているようだが、放っておいてもいずれ戦争は起こるのだよ。イシュティア合衆国の事を知っているかね?」

「同盟国が何か?」

「イシュティアが開発していた航空機を覚えているだろう」

「航空機……鉄の塊が空を飛ぶという代物ですな。タレニアも出資していたと記憶しています。完成したら新しい産業になりうると謳われている」

「ふむ。だが実際はそんな悠長な話ではない」

「どういう事でしょうか」

「諜報によると航空機は既に開発済だ。しかもイシュティアは秘密裏にそれらを軍事利用するつもりでいる」

「馬鹿な……西のイシュティア合衆国と東のドラクナ共和国に包囲されていると?」

「然り」

 実際に航空機を見ていない事には信じがたい話だが、調べればすぐに分かる事だ。嘘ではないのだろう。

「軍事利用されるとして、撃ち落とせば済む話では?」

「遥か頭上を移動する的に大砲の弾が届くとは思えんな」

「飛ぶ前に叩けばいい話です」

「同盟国を攻撃すればそれこそ世界を敵に回してしまう。君らしからぬ判断だな」

「ドラクナの挑発が最善というわけですか」

「そうだとも。我が国タレニアは正当防衛を皮切りに攻撃をしかける。先んじて動く必要があるのだよ。もう一度言おう。君は開戦まで首都グリンフィアの反乱を押さえたまえ」

「バルハラーム卿。貴方の先見の明がどれほど優れていようとも、今の私には判断致しかねます」

 ため息を堪えて私は続ける。

「ですが……どちらにせよモルバットの尻尾は掴まねばなりませんな」

「それでかまわん。事が動き出してしまえば嫌でも分かるだろう。イシュティアとタレニアは歴史を辿れば、美しい関係ではない。ヴァルヘルム前国王が築いた同盟も、結局はお茶を濁したにすぎん」

「……身に余る話ですな」

「興味があるのであれば空席を用意してもいい」

「遠慮させていただきます」

 バルハラーム卿は愉快そうに笑った。その顔に私は不覚にも安堵してしまう。

「騎士団長殿、一つ助言をしよう。レジスタンスを探すなら建設業の人間を洗ってみてはいかがかな?」

「建設業ですか」

「兵器工場を増やし、イシュマ用の居住区にも手を入れるのだ。地の利を奪われては叶わんだろう」

「なるほど。ハズレであってほしいものですな」

「もう一つ、さっきの美しい給仕の素性も調べたまえ。この店ではイシュマの給仕を付けるように言ってあるのでね」

「承知いたしました」

 人の生き血を啜る吸血鬼のごとき老人を前に逃げ道が見つからない。彼は私利私欲に塗れ、狡猾なのに人を引きつける力がある。それに驚くほどスマートだ。
 私の君主に対する忠誠が音を立てて崩れ落ちていく。どれだけ手を尽くそうとも、有りもしない希望を求め、池に放り込まれた虫のようにもがき続けるのだろう。
 途方にくれても仕方がない。とにかく、戦争が始まってしまえば私の役割は終わる。それまでの辛抱だ。

「期待しているよ。騎士団長殿。私たちは同じ杯を交わしたのだ」

 その一言に私は「しまった!」と我に返る。

 垣間見えた安堵の先には底知れぬ深淵が広がっていた。


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