ルグリと魔人

雨山木一

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第七章

三十七話

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「嘘だよ……」

 だから、キャスウェルの裏切りの言葉を聞いても信じることができない。
 虚ろな表情で現実を受け入れられないミーシャに、キャスウェルはいたって真面目な顔で言い放つ。

「僕にも譲れないものがある。そして、どうしても手にしたい幸せがある。そのためなら僕は外道と呼ばれようが、鬼畜と蔑まれようが、どんな手段も厭わない。それが僕の覚悟だ。ミーシャちゃんとは違うんだよ」

「そんな……。あたしだって、覚悟を決めて……」

「本当にそうかい? 覚悟って言うのは頭で考えて、理解して、言動に出すだけではダメなんだよ。その一連の行動は理性によって制御されたものだ。脳が感情と行動を理性で支配しようとしている。でもそれでは足りないんだ。目の前の人物は敵だと思うだけでは足りない。言葉に出して、行動で示してもまだ足りない。では覚悟とはなにか……。ミーシャちゃんはなんだと思う?」

「そんなのわからない」

 ここ数日間の自分を振り返る。嘘偽りはなかったはずだ。本心からモデールの人間を恨み、憎み、そして自分の幸せを手に入れることだけを考えてきた。その先にある未来がどのような末路を辿るのかも理解していたはずだ。だが、それは覚悟ではないとキャスウェルは言う。
 わからない。キャスウェルの指す覚悟とは一体なんだ。

「覚悟っていうのは、理性や感情で作り出すものではないんだ。覚悟ってものはね、身を修羅に浸し、魂を作り変えることを言うんだよ。魂の形を自身で作り変え、存在自体を創造する。過去に経験してきたことや感情を切り離して捨て去り、新たな器に注ぎ込むのは欲望のみ。理性や感情が残っていれば、その先の未来を憂い、嘆き、後悔してしまう。それでは覚悟をしたことにはならない。全ての思念を捨て去り、新たな個として生まれ変わる。それが覚悟というものだよ」

 恍惚とした表情でキャスウェルは三人だけの森で演説をするように語る。その姿は自分に酔っているようにも見えたし、自分を切り捨てることへの執着に捕らわれているようにも見えた。
 ミーシャにはキャスウェルを理解できない。

「ほら、君はそうやって理性で理解しようとしている。だからダメなんだよ。僕の言葉を頭で理解しようとしているうちは、僕の立つところには永遠にたどり着けない」

 キャスウェルはミーシャを否定しつつも、その声色にはもう失望は含まれていなかった。
 生まれたばかりの赤子が言葉を理解しないことに失望する親がいないように、キャスウェルから見てミーシャはまだたどり着けない赤子なのだろう。理解できないことが理解できる。だから、期待も失望もない。
 何故ならキャスウェルから見てミーシャは覚悟を決めきれていないのだから。

「さて、そろそろいい時間だろう」

 キャスウェルはそう言うと、手にしていた眼球を宙に放り投げ、ミーシャの首根っこを掴んで引きずりながら数歩下がった。

「な、なに!? 痛いっ離して!」

「これ以上無駄な時間を使いたくはない。僕の立つ場所にたどり着けないミーシャちゃんにこれから神の始祖の真の姿を見せてあげるよ。そうすればもしかしたら僕の覚悟の一端を垣間見ることができるかもしれない。僕に幸せを与えてくれる存在。僕にかけられた呪いを解き放ってくれる存在。僕の存在理由を叶えてくれる存在。僕を、世界の軛を打ち砕く存在をね。心しろ! これから起こることは文字通り奇跡の瞬間だ。体に魂に焼きつけろ! これが全ての頂点であり、始祖であり、根源である魔人の姿だ!」

 宙を舞う眼球は放物線を描いて少年が立っていた地面に落ち、水面に沈み込むように、とぷんと音を立てて吸い込まれていった。と、同時に眼球が吸い込まれていった地面からわらわらと黒い羽虫が湧きだす。それは瞬く間に広がり、人型のような形をとった。
 全身を覆う虫によって形成された人型が、ドクンと一瞬膨張する。そして、間を置かずにもう一度同じ現象が起こる。
 人型の動きに呼応するように森全体が騒めきだした。
 木々が葉を鳴らし、姿を隠していた動物たちの絶叫に似た鳴き声が木霊する。

「世界の支配者である魔人よ! その御身を!」

 キャスウェルの呼びかけに人型を保っていた羽虫たちが一斉に飛び立つ。大きな黒い塊となった羽虫たちはとぐろを巻くように空に舞いあがり、樹木の背を越えた辺りで一つの形を作り始めた。

「あはーっははははははははは!」

 狂ったように笑い始めたキャスウェルを横目に、空で創造を始めた羽虫たちをミーシャは戦々恐々とした面持ちで眺めた。
 次第にその形が明瞭めいりょうになっていく。創造されていく文字の読めなかったころに、母が読み聞かせてくれた物語のなかで幾度も登場してきたものだった。
 父が語り聞かせてくれた異国の伝説のなかでは、人を救うこともあれば人に仇なす存在であった。
 幼いころから何度も想像し、いつかこの目で見てみたい。そして、叶うならば言葉を交わして友達になりたいと願った存在。
 伝説とはその存在のためにある言葉。
 黒い靄のような羽虫たちが動きを止め、その形を凝縮し、一つの個となる。

「嘘でしょ……」

 それは最強のかたち

「ありえない……」

 それは全ての異形を束ねる至高の存在。
 それは世界を統べる絶対の王。
 形を成していた虫たちが弾け飛ぶ。肌がチリチリと焼けるような熱風が吹き荒れ、周囲の木々をなぎ倒した。

「ああ、なんと美しい……。これが魔人の真の姿。伝説の存在、竜」

 露になった姿を前にキャスウェルは恍惚した顔で呟く。
 背中から生える空を覆い尽くさんばかりの大きな六枚の翼は雪のように舞う鱗粉を吹き、その鱗粉が蛍のように淡い光を放ち大地に降り積もる。鱗粉の光で浮かびあがる鰐革と蛇革を合わせたような紫黒の鱗と、四肢の先から伸びる鉤爪には赤黒い染みがこびりついており、一振りすれば大地に深い永劫の傷跡を残してしまうだろう。
 喉元まで裂けた口から覗く牙は、一つひとつがミーシャの背丈ほどあり、艶のない単色の白が現実離れしている存在に艶めかしさと、生命感を与えている。

 勇敢な騎士が己の力を示すために、さらわれた姫をとり戻すために、世界を飲み込もうとする悪から人間を守るために伝説に挑むという話は数多にある。
 そういったお伽噺のなかには過去に実際にあった史実を元に作られたとされるものもあると、どこかで聞いたことがある。
 大抵どのお伽噺でも最後は竜を倒し、人間が勝利する。そして、自らが望むものを手にしてハッピーエンドで終わるものがほとんどだ。
 しかし、所詮それはお伽噺。
 実際に目の当たりにすると、人間などあまりにも矮小な存在だ。
 戦うために奮起する意思など起こらない。
 どれだけ水路を整備したところで、自然が起す氾濫は避けられないように、あまりに巨大で制御できない力を前に、人間はただ首を垂れて天災の如き暴力を甘んじて受け入れるしかない。

「ああ……なんと神々しい」

 キャスウェルは白い肌を紅潮させ、感嘆の溜息を漏らす。
 違う。あれは、そんな高尚な存在じゃない。
 竜と呼ばれた存在は大蛇のような長く大きな体を宙でうねらせ、ゆっくりと熱風でなぎ倒された木々にのしかかった。
 重さに耐えきれない木の悲鳴が聞こえる。
 ああ、とミーシャの口から溜息に近い嗚咽おえつが零れた。

「ああ。魔人よ、神の始祖よ。我が名はキャスウェル。モデールの管理を務める者です。私は貴方が此処へきてくださるのを待っておりました。豊富な水、豊かな自然、新鮮な動物の肉、そしてなにより貴方の求める思念に溢れた森の居心地はいかがでしょうか。貴方さえよければこの森にいつまでも留まってくださっても構いません。私は全力で貴方をおもてなしさせていただきます」

 竜の瞼が開かれる。顔の側面から口にかけて斜めに片側三つ、計六つある瞳に淡く灯る翠の色。それは爆散した少年と同じものだった。
 黒がアクセントとなってより翠を引き立てている瞳の美しさは、人に道を説く賢人さえも虜にして堕落させてしまうだろう。

 腰を折りながら召使のように首を垂れるキャスウェルの姿からは、先ほどの狂気さはない。
 まさに主に仕える奴隷。そこに自身の意思はなく、あるのは仕えるべき主への忠誠のみ。だが、ミーシャは見逃さなかった。声色は冷静を装っている。しかし、更に増した翠の瞳の煌めき、そして耳まで裂けそうなほど吊りあがった口元を。
 ミーシャたちを見おろす竜はわずかな動きも見せない。その黒と翠の併存へいぞんする瞳でただ一点を見つめ続けている。
 その視線の先にいるミーシャは金縛りにあったかのように体を動かせないでいた。

「余興、と言ってはなんですが、今日は貴方様にお送りしたいものあります。御覧ください。醜い人間です。欲と願望に塗れた人間の男と女です。男は筋肉が固く、女はまだ子供で脂肪もあまりついてはいませんが、その代わり有り余る願いをその胸に携えています。貴方様はこのように強い願いと醜い魂を宿した人間が好物だと聞き及んでおります。まずはお近づきの証にこちらの人間を進呈させていただければと」

 キャスウェルは竜を前にへたり込んでいたミーシャの首を後ろから掴んで無理やり立たせると、勢いよく突き飛ばした。
 ミーシャはキャスウェルの企みをようやく理解した。
 そういうことだったのか。この瞬間のために、ミーシャとグリフィスは用意されたのだ。
 神に祈りや願いを捧げるために贄が必要になるというのは、お伽噺や物語ではよくある話だ。
 キャスウェルは自身の幸せのためにミーシャとラウルを生贄にした。
 あの日、キャスウェルが口にした言葉が蘇る。

『彼らは自分の天秤に乗せたのさ。幸せという名の角砂糖を。そして、掴みとった。自分の幸せを。でも、その代わり誰かが幸せになれなかった。その誰かは誰だと思う?』

 誰かとはミーシャのことだった。監督署の人間が幸せを手にしたときも、キャスウェルが今まさに幸せに手を伸ばそうとしているこの瞬間も。
 
「……幸せになれないのは、あたしだけ……?」

 いつだって不幸になるのは、あたしだけ。
 竜の動く気配がした。ゴリゴリと不快な音を立てながら首が伸びてきて、ミーシャの体ほどもある牙が覗く口が頭上で止まる。ぐい、と口で頭を押された。抵抗する気力もなくミーシャはその場に仰向けに倒れる。
 ああ。これで終わりなんだ。結局モデールの人間にもキャスウェルにも利用されて、その結末が竜に食べられて終わる。
 なにも叶えられなかった。父さんを連れ帰ることも、家族三人でもう一度暮らすという夢も。全部全部、夢物語で終わってしまった。
 もう流れる涙もない。絶望の底に沈むと人間案外穏やかな気持ちになるものなんだ、とミーシャは他人事のように思った。
 
「さようなら……お父さん、お母さん。なにもできない娘でごめんなさい……」

 竜の口が開かれる。あれだけ大きな牙だ。死ぬときは痛みを感じる暇もなく逝けるだろう。それだけが唯一の救いだ。
 これだけ苦しい思いをしてきたんだ。最後くらい痛みもなく死ねることを嬉しいと感じてしまっても、誰も文句を言わないはずだ。
 
「ふふふ。さようならミーシャちゃん。僕の幸せの糧になってくれてありがとうね」

 竜の牙が勢いよく迫る。あと数舜すれば命が終わる。最後に瞳を閉じて思い浮かべたのは、冬の深い雪に覆われた夜、具の少ないシチューを食べた記憶。
 父さんも母さんもあたしも皆笑顔だった。味は薄いし、具もジャガイモと人参だけの質素なものだったけど、それでもシチューは本当に美味しかった。
 きっと家族が揃っていたからだ。どれだけ寒くとも、どれだけ貧しくとも、心は常に満たされていた。
 ああ、幼いころは幸せだった。幸せに満ち溢れていた。死ぬ間際にそのことを思い出せてよかった。
 体を暖かいものが包み込む。どこからともなく懐かしい香りがした。
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