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第九章
五十七話
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また場面は寝室に移り変わった。
寝室ではベッドに寝かされたあたしを両端から父さんと母さんが心配そうな顔をして見つめている。
母さんがベッドの脇に置かれた桶に満たされた水にタオルを浸し、きつく絞ってあたしの額にタオルを乗せた。
静まり返った部屋に、あたしの苦しそうな吐息が不規則に流れる。重く、暗澹たる空気が空間を支配していた。
父さんが深呼吸をする。そして、ゆっくりと目を開けると口を開いた。
「やっぱりドラン様を頼ろうと思う」
「それってこの前話していた森の妖精様のこと?」
「うん。もうミーシャは……きっと長くは持たない。薬も効果がないみたいだし、これ以上高価な薬を買う余裕もお金を作る時間もない。もう僕たちがミーシャにしてあげられることはこれしかないと思う」
「でも……」
「言いたいことはわかってる。でも、僕の感情を一生かけて少しとられるだけでミーシャを助けられるなら安いくらいだ」
母さんの不安そうな顔が更に悲しみによって歪んでいく。そして、堪えきれなくなったのか、母さんは俯いてしまった。髪で隠れた横顔から涙が落ちて服に染みを作る。
「命を奪われるわけじゃない。でも、もし万が一、僕になにかあったときは……そのときはミーシャのことを頼むよ」
父さんが母さんの方に手をそっと乗せる。母さんは手に頬ずりをするように顔を寄せた。
「お……と、さ」
「うん? なんだいミーシャ。お父さんはここにいるよ」
「ミーシャ……大丈夫、だよ。だか、ら……一緒にいて……」
小さいあたしは熱でうなされながらも、両親の会話を聞いていたようだった。
ぷくぷくと膨らんだ手を精一杯伸ばし、熱で潤んだ瞳で父さんを引き留めようとする。
「大丈夫さ。お父さんはいつだってミーシャと一緒だ。ちょっとだけお出かけしてくるだけだよ。だから、ミーシャはたくさん眠っていい子にしているんだよ。また元気になったら一緒に遊ぼう」
父さんの穏やかな声は、小さいあたしを安心させたようだった。
小さいあたしは「うん」と返事をすると荒い呼吸が徐々に穏やかになり、すぐに寝息立て始めた。
「それじゃあ、僕は行ってくるよ」
「今から? もうすぐ陽も落ちるし、明日になってからでも……」
「ミーシャが眠っているうちに全部すませたいんだ。明日の朝、この子の目が覚めたときに隣にいてあげたいから」
「でも、一人で夜の森にいくの?」
夜の森は完全に人の領域ではなくなる。森を知りつくしている父さんならその危険さは当然知っているはずだ。
「大丈夫。行けるところまでは馬で行くし、火を持っていくから動物たちも怖がって近づいてこないはずだ」
入職して最初の研修のときに夜行訓練のことが頭をよぎる。確かに火を焚いていれば、ある程度の身の安全は確保できる。しかし、相手がモデール狼になると話は変わる。統率のとれた彼らの連携の前には、一人の人間の持つ火などあってないようなものだ。
父さんは母さんを安心させるために嘘をついている。
「でも──」
納得できない母さんが口を開いたとき、玄関の戸が強く叩かれ、扉の向こうから気色ばんだ声が聞こえた。
「グリフィスさん! グリフィスさん! ラウルです。すみません、いらっしゃいませんか!?」
声に驚いたのか、小さいあたしが目を覚ましてぐずり始める。すぐに母さんがあやし始め、父さんは急ぎ足で玄関に向かい、扉を開ける。
扉の向こうには、額にびっしりと玉の汗を浮かべたラウルさんが荒い息のまま立っていた。
「すまないが、ミーシャの具合が悪いんだ。声を抑えてくれないか」
父さんが小声で言うと、ラウルさんははっとした表情になって口を噤む。
「すみません」
「いいんだ。あっちで話をしよう」
父さんはラウラさんを連れて家の裏の納屋まで移動した。
「ここだったら大丈夫だ」
「おやすみのところ申しわけありません。しかし、緊急事態で私たちでは対処しきれなくて」
「なにが起こった」
「密猟者です」
父さんの瞳に強い警戒の色が浮かぶ。
「今日の夕方、巡回をしていた班員が動物の血痕の痕を見つけ近辺を捜索したところ、特区ⅠとⅡの間を流れる小川のそばで複数の人間の足跡を発見したとの報告がありました。さらに荷車を使用したと思われる車輪の痕跡を発見。これらの状況証拠から考えるに、恐らく集団密猟が行われたと考えられます」
「対応は」
「勤務中の職員を緊急招集し、情報共有、武装強化し捜索を開始。敵が荷車を使用していると仮定すると、逃走経路は絞られます。二班を車輪痕の追跡、残り二班を主要街道へ向かわせています」
「非番の職員への連絡は」
「現在事務の面々が走ってます。数が集まり次第、順次捜索へと向かわせます」
「うん。それでいい」
「それと……」
淀むことなく報告を続けていたラウルさんの口が止まる。
「どうした?」
「密猟者の痕跡を発見したのはトーラスだったのですが……報告を同行者に任せると、先行して追跡を始めてしまったそうです」
「馬鹿な!」
これまで落ち着いた表情で報告を聞いていた父さんの顔に始めて焦りの色が浮かぶ。語気を強めてラウルさんへ詰め寄る。
「何故一人で行かせたんだ! 同行者は止めなかったのか?」
「当然止めようとしたそうです。しかし、制止も聞かずに独断専行してしまったと」
「なにをやっているんだあいつは……!」
モデール森林監督署では密猟者を発見、または、密猟の痕跡を発見した際には必ず報告を優先するよう義務づけられている。
これは広大な土地のモデールで捜索する際、職員の連携を強める狙いがあるのだが、もう一つ職員の安全を確保するという狙いもある。
身を隠すことに最適な森では、待ち伏せに対応することは不可能だ。仮に密猟者の痕跡を発見し、すぐに捜索を始めた場合、密猟者は証拠隠滅と事件の発見を遅らせるために保護官を攻撃してくる可能性がある。
過去にそのような事例があり、そのときは保護官二名が死亡している。
反省として、保護官は迅速な情報共有と身の安全を守るために、まず監督署に引き返し判断を仰ぐようにと決められていた。
だから、トーラスさんの行動は規律違反にあたってしまう。
「私の教育不足が原因です。トーラスのことは私が責任を持ちます」
ラウルさんは思い詰めたような顔で苦しそうに言葉を零す。
「なにを言っているんだ。お前たち部下の管理は僕の仕事だ。業務で発生した事象も僕の責任の元に対処する。今からトーラスを追う。一緒にきてほしい」
「……はい」
父さんはラウルさんの返事を聞くと、踵を返して家に戻っていった。
「こんなときにすまない。森で重大な問題が起きた。これから僕はモデールに行かなければならない」
「いいの。ミーシャはあたしが見ているから大丈夫。気をつけていってらっしゃい」
母さんは一瞬だけ不安そうな顔をしたものの、すぐに笑みを浮かべて頷いた。
「ごめんなミーシャ。もう少しだけ我慢していてくれ。お父さんは大切な仲間を助けに行かなきゃならないんだ」
母さんの腕に抱かれた小さいあたしは、熱で焦点の合わない目で父さんを見つめ返す。
「いっ……らっしゃ」
「うん。愛しているよミーシャ」
父さんは小さいあたしの頬にキスをすると、母さんに目配せをしてから家を出て行った。
また場面は寝室に移り変わった。
寝室ではベッドに寝かされたあたしを両端から父さんと母さんが心配そうな顔をして見つめている。
母さんがベッドの脇に置かれた桶に満たされた水にタオルを浸し、きつく絞ってあたしの額にタオルを乗せた。
静まり返った部屋に、あたしの苦しそうな吐息が不規則に流れる。重く、暗澹たる空気が空間を支配していた。
父さんが深呼吸をする。そして、ゆっくりと目を開けると口を開いた。
「やっぱりドラン様を頼ろうと思う」
「それってこの前話していた森の妖精様のこと?」
「うん。もうミーシャは……きっと長くは持たない。薬も効果がないみたいだし、これ以上高価な薬を買う余裕もお金を作る時間もない。もう僕たちがミーシャにしてあげられることはこれしかないと思う」
「でも……」
「言いたいことはわかってる。でも、僕の感情を一生かけて少しとられるだけでミーシャを助けられるなら安いくらいだ」
母さんの不安そうな顔が更に悲しみによって歪んでいく。そして、堪えきれなくなったのか、母さんは俯いてしまった。髪で隠れた横顔から涙が落ちて服に染みを作る。
「命を奪われるわけじゃない。でも、もし万が一、僕になにかあったときは……そのときはミーシャのことを頼むよ」
父さんが母さんの方に手をそっと乗せる。母さんは手に頬ずりをするように顔を寄せた。
「お……と、さ」
「うん? なんだいミーシャ。お父さんはここにいるよ」
「ミーシャ……大丈夫、だよ。だか、ら……一緒にいて……」
小さいあたしは熱でうなされながらも、両親の会話を聞いていたようだった。
ぷくぷくと膨らんだ手を精一杯伸ばし、熱で潤んだ瞳で父さんを引き留めようとする。
「大丈夫さ。お父さんはいつだってミーシャと一緒だ。ちょっとだけお出かけしてくるだけだよ。だから、ミーシャはたくさん眠っていい子にしているんだよ。また元気になったら一緒に遊ぼう」
父さんの穏やかな声は、小さいあたしを安心させたようだった。
小さいあたしは「うん」と返事をすると荒い呼吸が徐々に穏やかになり、すぐに寝息立て始めた。
「それじゃあ、僕は行ってくるよ」
「今から? もうすぐ陽も落ちるし、明日になってからでも……」
「ミーシャが眠っているうちに全部すませたいんだ。明日の朝、この子の目が覚めたときに隣にいてあげたいから」
「でも、一人で夜の森にいくの?」
夜の森は完全に人の領域ではなくなる。森を知りつくしている父さんならその危険さは当然知っているはずだ。
「大丈夫。行けるところまでは馬で行くし、火を持っていくから動物たちも怖がって近づいてこないはずだ」
入職して最初の研修のときに夜行訓練のことが頭をよぎる。確かに火を焚いていれば、ある程度の身の安全は確保できる。しかし、相手がモデール狼になると話は変わる。統率のとれた彼らの連携の前には、一人の人間の持つ火などあってないようなものだ。
父さんは母さんを安心させるために嘘をついている。
「でも──」
納得できない母さんが口を開いたとき、玄関の戸が強く叩かれ、扉の向こうから気色ばんだ声が聞こえた。
「グリフィスさん! グリフィスさん! ラウルです。すみません、いらっしゃいませんか!?」
声に驚いたのか、小さいあたしが目を覚ましてぐずり始める。すぐに母さんがあやし始め、父さんは急ぎ足で玄関に向かい、扉を開ける。
扉の向こうには、額にびっしりと玉の汗を浮かべたラウルさんが荒い息のまま立っていた。
「すまないが、ミーシャの具合が悪いんだ。声を抑えてくれないか」
父さんが小声で言うと、ラウルさんははっとした表情になって口を噤む。
「すみません」
「いいんだ。あっちで話をしよう」
父さんはラウラさんを連れて家の裏の納屋まで移動した。
「ここだったら大丈夫だ」
「おやすみのところ申しわけありません。しかし、緊急事態で私たちでは対処しきれなくて」
「なにが起こった」
「密猟者です」
父さんの瞳に強い警戒の色が浮かぶ。
「今日の夕方、巡回をしていた班員が動物の血痕の痕を見つけ近辺を捜索したところ、特区ⅠとⅡの間を流れる小川のそばで複数の人間の足跡を発見したとの報告がありました。さらに荷車を使用したと思われる車輪の痕跡を発見。これらの状況証拠から考えるに、恐らく集団密猟が行われたと考えられます」
「対応は」
「勤務中の職員を緊急招集し、情報共有、武装強化し捜索を開始。敵が荷車を使用していると仮定すると、逃走経路は絞られます。二班を車輪痕の追跡、残り二班を主要街道へ向かわせています」
「非番の職員への連絡は」
「現在事務の面々が走ってます。数が集まり次第、順次捜索へと向かわせます」
「うん。それでいい」
「それと……」
淀むことなく報告を続けていたラウルさんの口が止まる。
「どうした?」
「密猟者の痕跡を発見したのはトーラスだったのですが……報告を同行者に任せると、先行して追跡を始めてしまったそうです」
「馬鹿な!」
これまで落ち着いた表情で報告を聞いていた父さんの顔に始めて焦りの色が浮かぶ。語気を強めてラウルさんへ詰め寄る。
「何故一人で行かせたんだ! 同行者は止めなかったのか?」
「当然止めようとしたそうです。しかし、制止も聞かずに独断専行してしまったと」
「なにをやっているんだあいつは……!」
モデール森林監督署では密猟者を発見、または、密猟の痕跡を発見した際には必ず報告を優先するよう義務づけられている。
これは広大な土地のモデールで捜索する際、職員の連携を強める狙いがあるのだが、もう一つ職員の安全を確保するという狙いもある。
身を隠すことに最適な森では、待ち伏せに対応することは不可能だ。仮に密猟者の痕跡を発見し、すぐに捜索を始めた場合、密猟者は証拠隠滅と事件の発見を遅らせるために保護官を攻撃してくる可能性がある。
過去にそのような事例があり、そのときは保護官二名が死亡している。
反省として、保護官は迅速な情報共有と身の安全を守るために、まず監督署に引き返し判断を仰ぐようにと決められていた。
だから、トーラスさんの行動は規律違反にあたってしまう。
「私の教育不足が原因です。トーラスのことは私が責任を持ちます」
ラウルさんは思い詰めたような顔で苦しそうに言葉を零す。
「なにを言っているんだ。お前たち部下の管理は僕の仕事だ。業務で発生した事象も僕の責任の元に対処する。今からトーラスを追う。一緒にきてほしい」
「……はい」
父さんはラウルさんの返事を聞くと、踵を返して家に戻っていった。
「こんなときにすまない。森で重大な問題が起きた。これから僕はモデールに行かなければならない」
「いいの。ミーシャはあたしが見ているから大丈夫。気をつけていってらっしゃい」
母さんは一瞬だけ不安そうな顔をしたものの、すぐに笑みを浮かべて頷いた。
「ごめんなミーシャ。もう少しだけ我慢していてくれ。お父さんは大切な仲間を助けに行かなきゃならないんだ」
母さんの腕に抱かれた小さいあたしは、熱で焦点の合わない目で父さんを見つめ返す。
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