ルグリと魔人

雨山木一

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第九章

五十九話

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「そんな……!」

 悲痛な声が聞こえたのは、見覚えのある工房でのことだった。
 あたしの記憶のなかの工房とは細部は違っているが、間取りに見覚えがある。
 もう懐かしさすら覚えてしまうキャスウェルの工房へ場面は変わっていた。

「そんな……そんな……信じられないっ」

「残念だが、娘の命の灯はもう間もなく消えてしまうようだ」

「そんなはずはない!」

 血走った眼で目の前の人物に唾を飛ばしながら激昂しているのは父さんだ。

「こんなことがあっていいはずがない!」

 その怒りを真正面から受け止めるのは、全身に厚手のローブを纏い、眉雪びせつが特徴的な老人の姿をしたアシュマンだった。
 堀の深い顔立ちに落ち込んだ眼窩から覗くアシュマン特有の翠の瞳。彼が当時のモデールを管理していたドラン様なのだろう。
 父さんは鬼気迫る表情でドラン様に詰め寄る。

「どういうことなんです! ミーシャが死にそうっていうのは!」

 父さんがテーブルに手を強く叩きつける。その衝撃で跳ねた金貨が音を立てて床に落ちた。
 金貨には、男の人が少女を抱きしめている様子が彫られていた。
 ドラン様は血走った眼の父さんの手を優しく包み込んで言う。

「落ち着きなさい。いいかい、生き物というのはあらかじめ生きていられる時間がある程度定められているものだ。その時間は事故や病によって変化する。病と共に生まれた娘には長く生きる時間は与えられていなかったのだ。そして、今その寿命は尽きようとしている。だが、これはなにも不幸なことではない。どんな生命も、死に、生まれ、そしてまた死んでいく。星の循環の運命によって定められたこの流れから逃れることできない。娘もその循環にまた還ってゆくのだ」

「そんなくだらない与太話などどうでもいい! 貴方は言ったはずだ。契約を結べばミーシャを救うこともできるかもしれないと!」

「ああ。だがこうも言ったはずだ。『しかし、それはあくまでも可能性の話にすぎない』と」

 どうやらここまで見てきた過去の記憶以外でのやり取りを指した会話のようだ。
 
「それはそうですが……。しかし……!」

「お主の娘はもうじき病の苦しみから解き放たれる。星に還り、また海を巡るのだ」

 アヌウンの世界で長く生きてきたドラン様の言葉は有無を言わせない迫力があった。
 世界の理の外に出て行くことはできない。人も植物も動物たちも、全てはその理のなかで成立している存在だ。

「ドラン様……」

 視線を落とし項垂れた父さんを見て、ドラン様はどこかほっとした顔をする。辛い現実を受け入れてくれた。そう思ったのだろう。
 しかし、次に顔をあげた父さんの表情を見て、ドラン様は苦虫を嚙み潰したような顔をする。

「ならば……新しい可能性に賭けるまでです。ドラン様、僕と新しい契約を結んで頂きたい」

「それはならん。人が一生のうちに契約できるのは一度のみだ」

 ドラン様は頭の横で羽虫を払うように手を振り、この件についてはこれ以上話すつもりはないと言外に表すようにさっと体を反転させる。
 しかし、それでも父さんは諦めずに食らいつく。

「ドラン様の危惧していることは重々承知しております。自分の望みを叶える可能性をあげるこの契約は、まさに神の御業のような奇跡です。しかし、どんな物事にも表と裏があるように、この契約にもそれなりのリスクがあるのは重々承知しています」

「お主はなにか勘違いしておらんか? 心のどこかで危険性を過少評価していないか? もしそうならば、それは大きな間違いだ。人の感情というのは、人格を構成するにあたってとても重要な要素だ。個を確定させる必須条件と言っても過言ではない。お主はそれなりのリスクとこの危険性を評価しているようだが、そんな卑小な言葉で片づけられることではないのだ」

「それは百も承知のうえです」

「いいや、お主は全くわかっておらん。よいか? 生命という存在は生まれてから死ぬ寸前まであらゆる経験をし、その時々で、己の内側から湧き出てくる感情と対面することになる。その感情には様々な色がついているのだ。喜び一つとっても、心から渇望した未来を手にしたときの喜びと、子を慈しみ、成長を喜ぶ気持ちとでは種類が異なる。感情一つとっても一辺倒ではないのだ。ときには同じ感情のなかに相反する色を見つけるときすらある。ときにはその矛盾に苦しむこともあるだろう。しかし、だからこそ、生命はあらゆる矛盾した感情に充足感を覚え生きていくことができるのだ。お主は生きてゆくために必要不可欠なものを過度に消費しようとしているのだぞ」

「そうなのかもしれません。しかし、ドラン様。僕は人として人生を全うすることよりも、ミーシャの父親として生きる道を選びたいのです」

 室内を薄く照らす蝋燭の火が、小さく音を立てて揺れる。

「親という生き物は子供が全てなのです。子供のためならば、どれだけ貧することになろうとも構わない。子供のためならば、どれだけの苦労も喜びになる。子供のためならば、親は、僕は人であることですら投げうったって構わない」

 父さんの声は夜が明ける間際の、全ての生き物が太陽の目覚めに息を呑む瞬間のような静けさを纏っていた。

「この気持ちは感情ではないのです。理性でもないのです。これは、ひとえに僕という人間が存在する理由なのです」

 ドラン様が静かに息を呑み、ゆっくりと口を開く。

「人はとても繊細な生き物だ。どれだけの言葉を並べても、どれだけ強固な覚悟を持っていても、些細なことで膝を折る。私は今までそんな人間を木の葉ほど見てきた。私の目から見て、お主はその人間たちと変わらないように見える」

「そうなのかもしれません」

「感情は記憶とも密接に関係しておる。感情を失う時間を早めれば、お主は遠くない未来に記憶を失い始めるだろう。それも願いに関わる記憶からな」

「それはミーシャのことを忘れてしまうということですか?」

「おそらくは……な。それでも、お主は二度目の契約を望むのか」

 父さんは一瞬だけ目を伏せ、それから力強い眼光を放つブラウンの瞳でドラン様を見つめ返した。
 それが答えだった。蝋燭の弾ける音だけが響く室内に、諦めと、安堵の溜息が流れる。

「……それもある種の人生の追及と言えるのかもしれんな」

 片手で目頭を揉む仕草をしたドラン様の顔には、いつの間にか晴れやかな微笑みが浮かんでいた。

「お主の想いを受け止めよう。私も……思うところがないわけではない。結局のところ偉そうなお題目を並べたところで、愛の前にはどんな言葉も太刀打ちすることはできないのだろう」

「無理を聞き入れてくださり、感謝します」

 父さんの感謝の言葉に、ドラン様は満足そうに頷いた。

「そうとなれば急がねばならん。今度の契約はひと手間かけなければならんからな」

「ひと手間?」

「お主の娘は生死の狭間におる。烙の半分が星に還り始めている状態だ。そこで私が烙核の海と呼ばれる場所に出向き、お主の娘の烙、わかりやすく言うと魂を引っ張りあげなければならん。二つにわかれてしまった魂を一つに戻し、そのタイミングで金貨に彫金を施す。全てが上手くいけば娘の魂を元に戻す可能性を手にすることができるはずじゃ。それから先はお主の娘の命の強さ次第だ」

「わかりました。僕はどうすれば?」

「お主には彫金の仕上げを任せたい」

「彫金、ですか。しかしそんな経験は……」

「心配するな。実際に彫金を施すのは私がやる。契約の仕上げに必要なのは、契約主の血液だ。私が娘の魂を引っ張りあげたら、合図を出す。お主はその合図を待って一滴の血を金貨に垂らせばいい」

「……その後は」

「感情の喪失の進行はそれぞれだ。どのくらいの猶予があるのかは答えられん」

「……わかりました」

 父さんの返事を聞くとドラン様はすぐに彫金の作業を始めた。刻一刻と迫る時限にドラン様は慌てることなく手慣れた手つきで作業を進めていく。
 しばらく経ってじれったさを感じた父さんが足を揺すり始めたところで、ドラン様は金貨から顔をあげた。

「よし、これでいいだろう」

 金貨には空にかかる虹に祈りを捧げる少女の絵が彫られていた。
 ドラン様は自身の指先をナイフで傷つけ、滲み出してきた血を金貨に一滴垂らすといそいそと底の浅い桐箱に収めた。

「これを持ってついてこい」

 桐箱を父さんに手渡したドラン様は、小さな手提げ布を首からかけて工房の二階に繋がる階段の前にやってきた。

「これを渡しておく」

 手提げ布からドラン様が手渡したのは、細いカチューシャ状のもので右耳にあたる部分に小さな朝顔の花の装飾がついているものだった。花の根元には短い管がついている。

「それを頭に着けて、花の根元の管を耳に入れるんだ。そうすれば離れていても私の声が聞こえる」

 ドラン様は階段の一段目に足をかけて、なにかを思い出したように引き返す。

「最後にもう一度確認じゃ。お主は本当に受け入れるのだな?」

「もう決めたことです。僕は迷いも後悔もしません」

 間髪入れずに帰ってきた返答に、ドラン様は一度大きく頷いて階段に向き合った。

「では行ってくる」

 板の軋む音が静かな工房に響き渡る。階段の続く先にはまるで光を拒絶するかのような漆黒の魔物が、口を広げているかのようだ。
 ドラン様の姿が見えなくなった途端、口を広げた闇のなかから風が渦巻くような音がし、階段の軋む音が途絶えた。
 父さんは目を閉じて、耳につけた朝顔の花の装飾品に手を添えて意識を集中している。
 どれだけの時間をそうして待っていたのだろうか。砂の巻きあがるような音が朝顔の花から聞こえてきた。

「この声が聞こえているか」

 ドラン様の声だ。即座に父さんが返答する。

「聞こえています、ドラン様。そちらは大丈夫ですか?」

「まあ聞こえていなくとも一方的に話し続けるから聞き逃すなよ」

「……? どういう意味ですかドラン様。僕の声が聞こえていないのですか?」

「全く……ケチって粗悪な素材を使ったことが裏目に出たか。まあよい。今お主の娘の烙を見つけた。これからそちらに送る」

「わかりました!」

 会話が成立しないことに不安顔だった父さんだが、あたしの烙を見つけたという言葉に顔色が一変する。

「灰の海に揺蕩いしアシュの種。金色の対価を渇望する土くれの民。樹の切先から零れる豊穣の雫をマトリアの名において捧げる」

 室内に木霊するドラン様の声に呼応するように、階段の先で口を開けた闇から眩い光がほとばしる。
 水中に差し込む太陽光のような光は徐々に強さを増し、轟々と唸る突風が室内を駆け巡り始める。

「我が名はドラン。アシュの木に根差す烙の守護者」

 灯してあったランプの火が風で掻き消え視界が暗闇に飲まれた直後、淡い翠の光りが陽炎のように周囲を揺らめかせながら床から立ちのぼり始める。

「魔の竜に迷いし烙の欠片を依り代の元へ還したまえ」

 ドラン様の声色が一段低くなる。その声は大地を揺らし、床から立ちのぼっていた翠の光りの糸が、爆発するかのように強く発光した。
 視界が完全に光に飲まれる。
 強い光は人間の感覚を奪ってしまうようだった。大声で叫んだような気もする。手を伸ばしたような気もする。しゃがみ込み、早くこの時間が終わればいいと願ったような気もする。
 ただ記憶を覗き見しているだけだというのに、こちらにも影響を与えてくる力の奔流にあたしは飲まれていた。
 水に溶けだす絵具のように、あたしの意思が希薄になりかけた瞬間、どこか遠くの方でなにかの振動を感じた。

 ──グルラァアアアアアアアアアアアアアア

 それは確かに魔人の竜の咆哮だった。そして、その咆哮が轟いた瞬間、全てを飲み込んでいた光は弾かれるようにかき消えてしまった。

「う……今のは……」

 父さんは片膝をつけた状態で頭を押さえていた。どうやら父さんも強い光によって感覚を奪われていたらしい。しばらく目を瞬かせたり、手の感触を確かめるようにしていた。

「……どうやら上手くいったようじゃ」

「ドラン様!」

「もし儂の声が聞こえているのならば、今すぐ娘の元へ向かえ。そして、そばにいてやるんじゃ。子供は親が近くにいるだけで安心するものだからな」

「ありがとうございました……!」

 父さんは階段の先に深く頭をさげると、体を引きずりながら工房を後にした。

 ◇◇◇

「はあ……はあ……」

 夜の静かな森に荒い息遣いが響く。足どりは重く、さきほどから少し進んでは休みを繰り返している。
 父さんの体力はすでに限界を迎えていた。
 
「ミーシャ……クレア……」

 喘ぐような呼吸に混じってあたしと母さんの名前が何度も聞こえてくる。
 家族の元へ帰りたい、その想いと精神力だけで棒になった足を動かしている。だが、とうとう震える膝が体重を支えられなくなり、父さんはその場に前のめりに倒れ込んでしまった。

「ぐ……」

 父さんは起きあがろうと腕に力を込めるものの、限界を超えた体はどこにも力が入らないようだった。

「待って、ろ。父さん……は……必ず」

 意識も朦朧としているのか、目の焦点も危うい。過去の光景とわかっていても駆け寄って助け起こしたくなる。
 しかし、それは叶わぬ願いだ。

「ミーシャ……クレア……」

 最後にあたしと母さんの名を呼んで、父さんは意識を手放した。
 
「まさかこんなすぐにチャンスがやってくるなんてね」

 朝露で湿った地面を踏みしめる音に混じって覚えのある声が近くの木の影から聞こえてきた。
 現れたのは白いローブ姿でフードを被ったキャスウェルと一頭の狼だった。

「ここまで上手くいくと逆に怖いくらいだ」

 狼には見覚えがある。以前、夜の森でキャスウェルと出会ったときに一緒にいた大きな狼だった。
 まだこのときは目が見えているのか、瞳には濁りはなく、綺麗なマリンブルーの瞳が倒れている父さんを見つめている。

「この人間はどうした方がいいだろうか」

 うつ伏せに倒れる父さんの体をキャスウェルが足で仰向きに起こす。血の通っていない冷酷な眼が品定めをするように見おろす。

「……そうだ。しばらくこいつを僕の元においてやろう。管理者としての仕事をこなしながら計画を進めるのは中々骨が折れそうだからね。手駒兼お世話さんとして仕えて貰うのが一番じゃないか」

 冷酷な瞳に邪悪な喜びの色がありありと浮かぶ。兇に満ちた笑みのまま、キャスウェルは振り返る。

「どう思う? 君も賛成してくれるだろう」

 狼は父さんの手の匂いをしばらく嗅ぐと小さく鼻を鳴らした。

「そうかい。じゃあ、こいつを連れて帰ろう。の工房へ……」

 狼が父さんの首元の服を咥えてキャスウェルと共に薄い朝靄のなか消えていく。
 あたしはただその後ろ姿を見送ることしかできなかった。

 第九章 了
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