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末路

全てが終わってから

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「もしも、俺があの時に幸せだって、俺たちは正しいんだって思えていたら。なにか変わったのかな」

お決まりのようにしてカフェラテが注がれたコーヒーカップの縁を、意味もなく撫でる。俺の前に座る青年は難しそうな顔をしながら、顎を撫でた。その様がまるでどこぞの名探偵のようで、ついつい笑ってしまう。
まるで、俺が何年経ってもだせそうにない答えをくれそうに見えたからだ。

二十年以上経っても、大学生時代から通っていたこの喫茶店は色褪せることなく、相変わらずなレトロ感を漂わせていた。店主を交代してもなお、ここのフロランタンの味は変わらない。
焼きたての香りをいつかのように楽しみながら、さくりとフォークを刺し込む。
向かい側には、まだ手のつけられていないフロランタンとコーヒーカップが同じようにして並んでいる。彼のコーヒーカップの中身は、子供らしくない苦い液体だが。

「ここの店はフロランタンがおすすめなんだ」と言うと、流れるようにして彼はフロランタンを頼んだ。それからずっと、彼の食べた瞬間の反応を待っているが、なかなかそれは訪れそうにない。

今は真剣な面持ちで考え込む彼も、きっと目を輝かせるのだろうなと思う。そして、俺の好きな満面の笑みを浮かべるんだろう。憎たらしいほどにそっくりな、アイツの笑みを。
目の前の青年は、俺と出会ったときのアイツを少し若くしたような顔だった。

もぐもぐとキャラメルで包まれたアーモンドと生地を食べる。やっぱり俺のなかでのフロランタンと言えばこの喫茶店のもので、何度か作ってみた過去の自作フロランタンは遠く及ばないものだと痛感した。

「少なくとも僕は…」

長い間沈黙を抱えていた青年が口を開く。その間に、俺のフロランタンはもう半分以上消えていた。

「シュウさんのことを、愛していたんだと思います。最初から、最後まで」

アイツによく似た顔で、彼は大切そうに言葉を紡ぐ。無責任だと切り捨ててしまえる言葉だったのに、俺はなにも言い返せずにいた。

アイツが俺のことを愛していた?
そんなわけないだろう。お互い、中途半端な関係になっていたから、俺が解放してあげたのに。

「それで、きっとシュウさんも愛していたんですよ」
「うちの父を」

一瞬だけ、世界が揺れた。
ハッと顔を上げる。彼は少し寂しそうに笑いながら、言葉を続けた。

「お互い愛し合っていたけど、うまく噛み合わなかっただけなんです。そりゃ、浮気に走るのは悪いんですけどね…」

そう頬を掻く彼をじっと見る。
この喫茶店の前で待ち合わせして初めて会ったときから、ハジメに瓜二つだと思っていた顔。よく見てみれば、笑うと少し下がる目尻だとか、そういうところは違った。
きっと彼の母親―――ハジメの妻に似た部分なんだろう。

「シュウさんが言っていた、正しい人生っていうのもあながち間違っていないとは思います」
「……」
「でも、二人の幸せ以上に大切なものなんてないとも思いますよ」

俺と別れた後、噂でハジメは結婚したと聞いた。大学時代の後輩がたまたま入社してきて、彼女の教育係になったのだと。そこから時を重ね、二人は結ばれることとなったらしい。連絡をとる手段すら捨てたから、ハジメ本人から色々聞くことはなかったが、子供も産まれてきっと正しい幸せな人生を送っているのだろうと思っていた。

実際こうして俺の目の前にいる彼は、ハジメの息子だ。
よく似ているけど、些細な相違点を俺の懐かしい記憶がやんわりと否定する。

「最期まで、父はシュウさんのことを言っていました。『お前も母さんももちろん大切だ。でも、もう一人俺には大切にしたかった人がいるんだ』って。母も知ってたみたいです」

ハジメは、病魔におかされ半年前に亡くなったのだと言う。
今はもう、ここにはいない。

「どうか、これを受け取ってもらえませんか」

この世界には、もうどこにもいないのだと言う。

彼は鞄から紙を取り出し、俯く俺に差し出した。
それは写真で、中には俺とハジメが映っていた。ケーキを前に、笑顔を浮かべる二人。幸せだと、思い合えていた二人。

震える手でそれを受け取る。ペラっと裏返すと、後ろに見なくなって久しいハジメの字が刻まれていた。
黒いマッキーらしきペンで書かれたそれが、ぼんやりと滲んでいく。

『俺もまた、ケーキを食べたい』

別に、まだハジメが好きだとか、そういう訳じゃない。
それでもどうしても、溢れてくる涙を止めることができなかった。

伝えたい言葉は、沢山溢れてくる。
でも、それを伝える相手がもういないのだ。

俺はそっと後悔を飲み込んだ。
この場には、甘いフロランタンの香りが漂うだけだった。

 
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