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第四章:王都燃ゆ、過去からの咆哮
第38話:空からの援護、君のいる場所
しおりを挟む地上の戦況は、明らかに変わりつつあった。駿という予測不能な司令塔の出現によって、硬直していた王都騎士団と、一匹狼の集まりであった駿一行は、一つの巨大な生命体のような連携を見せ始めていた。個々の能力が有機的に繋がり、戦場の流れを少しずつ、しかし確実に自分たちのものへと引き寄せていく。あちこちで上がっていた悲鳴は、いつしか雄叫びへと変わり、兵士たちの瞳には疲労の色よりも、勝利への確信が強く宿り始めていた。
しかし、本当の絶望は、いつだって人の心の油断を喰らって、その姿を現すものだった。
それは、空からやってきた。
最初に気づいたのは、小夜だった。彼女は、ふと空を見上げたまま凍りつき、その小さな体がカタカタと震え始めた。
「どうした、小夜ちゃん?」
駿の声に、彼女はヤタを介さず、震える指で空を指差した。「気、が……空気が、死んでいきます」。
その言葉を合図にしたかのように、戦場の全ての音が、一瞬だけ止んだ。兵士たちの雄叫びも、魔物の呻き声も、燃え盛る建物の爆ぜる音も。まるで分厚いガラスの向こう側の出来事のように、遠く、現実感を失っていく。代わりに、全ての者の肌を、ひやりとした、粘性を帯びた空気が撫でた。呼吸が、苦しい。空気が、鉛のように重くなっていく。
ゴゴゴゴゴゴゴ……。
世界の基盤そのものが軋むような、低く、不気味な地響きが、空の彼方から響き渡る。王都で最も高い王城の尖塔。その先端が、まるで避雷針のように、空から降り注ぐ禍々しい赤黒いエネルギーを吸収し始めた。
空に、巨大な血の絵が描かれていく。
尖塔を基点として、幾何学的な紋様を持った光の線が、放射状に、そして幾重にも重なり合いながら、巨大な魔法陣を形成していく。それは、街一つを覆い尽くさんばかりの、あまりに巨大で、あまりに邪悪な紋様だった。古代のルーン文字とも、悪魔の契約印ともつかぬおびただしい数の文字が、その線上を高速で明滅している。その光は、王都全体を、まるで不吉な夕焼けのように、禍々しい赤色に染め上げた。
「儀式を、止められなかった……」
刀匠ジャクを退けた彩葉が、血の気の引いた顔で空を見上げる。地上の戦いは、彼らの真の目的を隠すための、ただの陽動に過ぎなかったのだ。
「紅い刃」の真の目的――「災厄」の召喚儀式が、ついに最終段階へと移行した。
誰もが、これから訪れるであろう絶対的な破滅を予感し、天を仰いだまま動きを止めた。それは祈りではない。ただ、あまりの絶望を前にして、魂が肉体から抜け落ちてしまったかのような、空虚な硬直だった。
魔法陣の中心。何もないはずの空間が、まるで熱せられたガラスのように、パキパキと音を立ててひび割れていく。ひびの向こう側は、光すら存在しない、絶対的な無。宇宙の闇よりも深く、濃い虚無が、そこには口を開けていた。
その虚無から、何かが「生まれ」ようとしていた。
最初に現れたのは、一本の「指」だった。
それは、ゆっくりと、まるで産道を通る赤子のように、空間の裂け目から押し出されてきた。しかし、その大きさは赤子などという生易しいものではない。指の一本が、王城の最も高い塔と同じくらいの太さを持っていた。その表面は、黒曜石のような、しかし生物的なぬめりを持った鱗に覆われ、未知の金属のような鈍い光を放っている。
やがて、五本の指が、そして掌が、腕が、空間の裂け目からぬるりと姿を現す。あまりの質量に、周囲の空間が重力で歪み、背景の雲が渦を巻いている。その腕が、ただゆっくりと動くだけで、轟々たる風圧が発生し、地上の建物の屋根瓦が紙切れのように吹き飛んでいった。
「う、そだろ……」
歴戦の猛者である龍之介ですら、その光景を前にして、乾いた声しか出せない。源もまた、自らの拳の力が、目の前の存在の前では赤子の戯れに等しいことを悟り、唇を噛み締めていた。栞は「既存のどの生物データにも該当しません……これは、この世界の理の外から来た存在です!」と、震える声で分析結果を叫ぶ。小夜は、そのあまりに巨大で邪悪な気に当てられ、意識を失いかけているのを、鈴が必死に支えていた。
アリア姫は、咄嗟に王都全体を覆うほどの巨大な防御結界を展開する。しかし、その神聖な黄金色の輝きも、「災厄」の腕が放つ圧倒的な存在感の前では、まるで嵐の前の蝋燭の炎のように、か細く、頼りなく見えた。老将軍は、とうに腰が抜け、その場にへたり込んだまま、ただ「終わった……この国は、終わった」と、虚ろな声で繰り返しているだけだった。
絶望が、戦場を完全に支配した。
兵士たちは武器を取り落とし、市民たちはその場に泣き崩れる。希望の光を宿していたはずの瞳から、光が消えていく。誰もが、抗うことすら無意味な、絶対的な「死」を前に、ただその訪れを待つしかなくなっていた。
全てが終わったかと思われた。
その時だった。
夜空を切り裂いて、一本の細い光の筋が、彗星のように飛来した。
それは、絶望の闇に慣れた目には、あまりに眩しく、あまりに美しい光だった。光は、巨大な魔法陣の、複雑に絡み合った術式構造の一角に、「キンッ」という、澄んだ鈴の音のような音を立てて突き刺さった。
その一矢を皮切りに、奇跡は始まった。
一本、また一本と、無数の光の矢が、まるで天から降り注ぐ流星群のように、空を埋め尽くした。絶望の赤黒い光に染まった空を、希望の銀色の光が、縦横無尽に駆け巡る。それは、あまりに幻想的で、神話の一場面のような、圧倒的な美しさだった。
光の矢は、ただ闇雲に飛んでいるのではない。その全てが、巨大な魔法陣の、術式を繋ぐ「結節点」だけを、寸分の狂いもなく正確に撃ち抜いていた。矢が突き刺さるたびに、ガラスが砕けるような清冽な音が響き渡り、あれほど強固に見えた魔法陣の輝きが、明らかに揺らぎ、不安定になっていく。空間の裂け目から伸びていた巨大な腕の動きが、ぴたりと止まった。
「な、なんだ……?」
「天の、助けか……?」
兵士や市民たちが、その奇跡のような光景に、呆然としながらも、消えかけていた希望の光を再びその瞳に宿し始める。
仲間たちも、混乱していた。
「誰が?」「どこからだ?」
「この術式構造を完全に理解していなければ、あんな芸当は不可能だ!」
栞が驚愕の声を上げる。桔梗もまた、「これほどの長距離精密狙撃、私の知るどの忍びにも不可能だ」と、信じられないものを見る目で空を見つめていた。
しかし、駿だけは、最初から分かっていた。
彼は、仲間たちが空を見上げる中、一人だけ、別の場所を見つめていた。無数の光の矢が飛んでくる、その起点。王都で最も高く、今は打ち捨てられた、大教会の鐘楼。その屋根の、最も高い場所に。
そこに、いた。
夜の闇と、魔法陣の赤い光に照らされて、風に髪をなびかせながら、凛として立つ、一人の少女のシルエットが。
彼女が構える白銀の弓が、矢を放つたびに、星が瞬くように、優しく、しかし力強い光を放つ。その光は、まるで彼女の生命そのものを削って輝いているかのように、どこか儚げだった。
「千夏……!」
駿の口から、その名がこぼれる。
彼女は、一人で戦っていたのだ。組織の任務と、自分の良心との間で、どれほど苦しみ、葛藤したことだろう。それでも彼女は、駿たちを、この王都を、救うために来た。駿たちが、必ずこの好機を活かしてくれると、心の底から信じて。
風が、戦場の喧騒を縫って、駿の耳に声を運んできた。
それは幻聴だったかもしれない。あまりに遠く、物理的には届くはずのない距離。しかし、駿の心には、はっきりと、そして誰よりも鮮明に、その声が聞こえた。
『駿、今よ!』
懐かしい、太陽のような声。しかし、そこには以前の能天気な明るさではなく、全てを懸けた者の、切実な祈りと、揺るぎない信頼が込められていた。
「ああ、聞こえてるぜ、千夏!」
駿は、空に向かってそう叫ぶと、呆然とする仲間たちに向き直った。彼の瞳には、もはや絶望の色は微塵も残っていない。そこにあるのは、仲間への信頼と、そして、遠い空の下でたった一人で戦う少女への、絶対的な信頼だけだった。
「みんな、聞こえただろ! あいつが、俺たちの千夏が、作ってくれたんだ! たった一度の、最後のチャンスを!」
その言葉に、仲間たちの瞳にも、再び闘志の炎が燃え上がった。そうだ、俺たちは一人じゃない。遠く離れていても、同じ空の下で、同じ未来を信じて戦う仲間がいる。
駿は、空から伸びる巨大な腕を、そしてその向こう側で自分を待っているであろう、世界の歪みを、まっすぐに見据えた。
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