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第1章:紫の瞳の放浪者
第1話:黄金色の麦畑と、かりそめの楽園 〜「幸福」とは、「崩れることが確定している積み木」である〜
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秋の陽は、燃え尽きる寸前の蝋燭のように、世界を最も美しく、そして切なく照らし出していた。
辺境の農村「ハーベスト」。 その名の通り、収穫の最盛期を迎えたこの村は、見渡す限り黄金色の海に沈んでいるようだった。
大地を覆い尽くす麦の穂が、乾いた風に撫でられてサワサワと微かな音を立てる。 それはまるで、大地そのものが収穫の喜びと冬への安らぎを感じながら、穏やかな寝息を立てているかのようだ。
風が吹き抜けるたびに、世界は芳醇な香りに包まれる。 天日で干した藁の乾いた匂い。 各家庭のかまどから漂い出した、焼きたてのパンの香ばしさ。 そして、幾千もの命を育んできた豊かな土の湿った匂い。 それらが複雑に、しかし調和のとれたシンフォニーのように混じり合い、鼻孔をくすぐりながら通り過ぎていく。
空を見上げれば、そこには吸い込まれそうなほど高い蒼穹が広がっている。 点在するちぎれ雲は、傾きかけた夕陽を一身に浴びていた。 鮮烈な茜色から、やがて来る夜を予感させる紫がかった群青色へ。 刻一刻とグラデーションを変えていく空の色彩は、二度と同じ表情を見せない。
「美しい」という言葉だけでは、到底足りない。 この風景には、生きとし生けるものが長い冬の眠りにつく直前に放つ、切ないほどの生命の輝きが満ちていた。 永遠に続くかのような平和。 絵画のように完璧で、蜜のように甘く穏やかな黄金色の世界。
――そこに、異物が混入した。
「……む、り」
喉の奥から絞り出されたのは、言葉というよりも、空気が漏れる音に近かった。
どこまでも続く麦畑を分断する一本道。 そこを、泥のように重い足取りで歩く影があった。 陽光を拒絶するように、ボロボロのローブを頭からすっぽりと被っている。 その歩みは不規則で、幽霊のようにフラフラと揺れ、今にも糸が切れたマリオネットのように崩れ落ちそうだった。
その影の正体――メイは、自身の胃袋が奏でる悲痛なオーケストラを鼓膜の裏で聞き続けていた。 (最後に食べたのは、いつだっけ……三日前? いや、四日前の木の実? あの、口の中が痺れる渋いやつ……)
記憶が霧の中に霞む。 空腹とは、単に腹が減るという生理現象ではない。 世界から色彩が失われ、思考が粘着質な泥沼に沈み、重力という物理法則が倍加し、立っていること自体が「苦行」へと変わる現象のことだ。
メイの身体能力は、常人を遥かに凌駕している。 筋肉の密度、反射神経、動体視力。すべてが生物としての規格外だ。 だが、それは燃費が最悪であることの裏返しでもあった。 高性能なエンジンほど、膨大な燃料を必要とする。 今の彼女は、燃料計の針がゼロを振り切り、警告灯さえ点灯しなくなった墜落寸前の高級戦闘機のようなものだ。
視界が歪む。 景色が二重、三重に重なり、陽炎のように揺らめく。 その揺らめきの向こうに、村の入り口が見えた。
村長の家らしき大きな建物の前。 そこには、収穫されたばかりの干し草が、小高い山のように積まれている。 西日を浴びて輝くその黄金色の山。
今のメイの目には、それが干し草には見えなかった。 湯気を立て、甘い香りを放つ、巨大なモンブランに見えた。 あるいは、疲労困憊の体を優しく包み込んでくれる、王侯貴族のための極上の羽毛布団か。
「あ、ふとん……」
理性のヒューズが飛び、思考回路がショートした。
メイは残された全てのエネルギーを、枯れ木のような脚部に集中させた。 地面を蹴る。 土埃が舞う。
本来なら、猫のように音もなく、優雅に着地するはずだった。 しかし、極限の空腹による平衡感覚の欠如は致命的だった。 脳からの指令と、体の動きにコンマ数秒のズレが生じる。
彼女の体は制御を失い、不格好な放物線を描いた。 そして、頭から真っ逆さまに、憧れの「モンブラン」へと突っ込んだ。
ズボォォォォン!!
静寂な村に、何かが爆発したような激しい音が轟いた。 驚いた鳥たちが一斉に空へ飛び立つ。 干し草が金粉のように舞い上がり、夕陽の中でキラキラと輝きながらゆっくりと降り注ぐ。
静寂が戻った後、そこには奇妙な前衛芸術のようなオブジェが完成していた。 黄金色の山から、二本の細い足だけが垂直に突き出し、ピクリとも動かない。 それはまるで、湖面から足だけを出して殺された、ある有名な推理小説の被害者のようであり。 あまりにもシュールで、滑稽で、芸術的な「野垂れ死に」の光景だった。
数秒の空白。 世界がその光景を理解するまでのラグ。
「おお、なんと!」 「天から! 天から人が降ってきたぞ!」
村中が蜂の巣をつついたような大騒ぎになったのは、それから間もなくのことである。
村長とその家族、そして作業の手を止めた野次馬たちが、わらわらと干し草の山を取り囲んだ。 「せーの、よいしょ!」 数人の男たちが、突き出た足を持って引き抜く。
ボフッ、という音と共に、藁まみれになって出てきた物体。 男たちは息を呑んだ。 泥で汚れ、髪は乱れ、服はボロボロだ。 しかし、その顔立ちだけは、この世のものとは思えないほど整っていた。 透き通るような肌は、泥汚れさえも装飾に変えてしまうほどの輝きを放っている。
意識を取り戻したメイは、パチリと目を開けた。 視界いっぱいに、数十人の村人たちの顔がある。 至近距離で覗き込まれ、鼻息さえ感じる距離感に、メイはヒッと息を飲んだ。
(やばい、見つかった。逃げなきゃ。また石を投げられる……!)
背筋に冷たい電流が走る。 反射的に身構え、筋肉を収縮させるメイ。 耳を塞ぎたくなるような罵声、あるいは蔑みの視線を予想して、彼女は体を硬くした。
しかし。 予想された痛みは、いつまで経ってもやってこなかった。
「な、なんとお美しい……」
沈黙を破ったのは、村長の震える声だった。 そこに込められていたのは、敵意ではなく、畏怖に近い感嘆だった。
「泥にまみれてなお、この輝き! まるで泥中の蓮の花のようだ!」 「見ろよ、あの肌の白さ! 上等な陶器みたいだぞ!」 「あんな高い空から落ちてきて無傷なんて、人間業じゃねぇ!」 「もしや……今年の豊作を祝いに、女神様が使いをよこしてくださったんじゃあるめぇか!?」
(……はい?)
メイは呆気にとられ、長い睫毛を数回瞬かせた。 村人たちの目は、恐怖で濁ってはいなかった。 むしろ、夕陽を反射して、キラキラとした尊敬と好奇心で輝いている。
田舎特有の閉鎖的なコミュニティにおいて、外部からの「異質な」来訪者は、極端な扱いを受けやすい。 「排除すべき敵」か、あるいは「崇めるべき神」か。 今回は、メイの顔面偏差値が異常値を示していたことと、空から降ってくるという登場シーンが派手すぎたことで、完全に「神」のルートに入ってしまったようだ。
「あ、あの、私はただの通りすがりの旅人で……」
メイが消え入りそうな声で否定する。 だが、その弱々しささえも、村人たちのフィルターを通せば「奥ゆかしさ」へと変換される。 彼らの妄想機関車は、もう誰にも止められない。
「旅人? いやいや、ご謙遜を! その気品、ただものではありませんぞ!」 「わかった! 隣国の姫君だ! お忍びで視察に来たにちげぇねぇ!」 「おお、なんと高貴な! 姫様! ハーベスト村へようこそ!」
一瞬にして「女神の使い」から「隣国の姫」へと設定が変更された。 歓迎ムードは最高潮に達し、拍手まで巻き起こる。
その時だ。 村長の娘――流行に敏感なお年頃の少女が、メイの顔を指差した。
「ねえ、その顔の布、どうしたの? お怪我?」
純粋な疑問。 だが、メイにとっては心臓を鷲掴みにされるような問いだった。 左目を覆う、分厚い布。 その下にある「紫の瞳」こそが、彼女が世界から拒絶され、石を投げられ続ける理由だ。 「悪魔の目」「災いの色」。 ここを見られたら終わりだ。また追われる。また痛い思いをする。
ドクン、と心臓が跳ねる。 脂汗が背中を伝う。 焦ったメイの口から飛び出したのは、あまりにも苦し紛れで、突飛すぎる言い訳だった。
「こ、これは……ファッションです!」
「……ファッション?」
時が止まる。 風の音だけが聞こえる。 メイは視線を泳がせながら、必死に言葉を継いだ。
「は、はい! 都では今、片目を隠すのが……ナウいんです! 最先端の流行なんです!」
(ナウいって何だ、私は何を言っているんだ……!) 心の中で頭を抱えるメイ。 しかし、次の瞬間、娘が空気を切り裂くような黄色い声を上げた。
「やっぱりぃぃぃ!! 私もそうじゃないかと思ってたの! なんかミステリアスで素敵だもん!」
間髪入れず、周囲の男たちも追従する。 「おお、そうなのか! さすが都、わけのわからん……いや、洗練された格好が流行るもんじゃのう!」 「眼帯がオシャレ! 新しい! 俺も明日からやろう!」 「なんと斬新な! さすが姫様だ!」
(……チョロい)
メイは安堵のあまり、膝から崩れ落ちそうになった。 この村の人々は、善良だ。 善良だが、あまりにも人を疑うことを知らなすぎる。 あるいは、単に自分たちの見たいようにしか世界を見ていないだけなのかもしれない。
「姫様、腹が減っておるのでは? さあさあ、今夜は収穫祭だ! 手伝って……いや、是非とも我々の祝いの席に!」
こうしてメイは、断る間もなく、なし崩し的に村の収穫祭に参加することになった。
祭りの準備は、戦場のような忙しさだった。 村人たちが忙しく立ち働く中、「タダ飯を食うわけにはいかない」というメイの生真面目さと、極限の空腹による判断力の低下が、新たな喜劇を生んだ。
「姫様、その麦の束を運んでくれれば……」 「はい、わかりました」
メイは言われた通り、麦の束を持ち上げた。 一つではない。 近くにあった二十束ほどを、一度に、だ。 人間の背丈の倍はある巨大な麦の山を、まるで小枝でも拾うかのように小脇に抱える。 そして、「どこへ置けばいいですか?」と、汗ひとつかかずに涼しい顔で尋ねた。
「ひ、姫様!? 力持ちすぎませんか!?」 「あ、いえ、これは……テコの原理的な……体の使い方のコツで……」
さらに、興奮した暴れ牛が柵を破って飛び出してきた時だ。 「危ない!」「逃げろ!」 怒り狂った牛の蹄が大地を揺らす。 村人たちが蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う中、メイは逃げ遅れた子供を庇うように前に出た。
牛の突進が迫る。 鋭い角が、目前に迫ったその瞬間。 メイは無意識に、牛の眉間にデコピンを放った。
パチンッ。
乾いた音が、意外なほど大きく響き渡った。 直後、数百キロはある巨体が、見えない衝撃波を受けたように空中で静止した。 牛は白目を剥き、ゆっくりと、しかし確実に重力に従ってドサリと倒れた。
土煙が舞う中、シーンと静まり返る広場。 メイは自分の指を見て、青ざめた。 (やっちゃった……! さすがにこれは誤魔化せな……)
恐る恐る振り返ると、村人たちは口をポカンと開けて固まっている。 弁解しようと口を開きかけたメイより先に、村の長老が震える手で拝んだ。
「あ、あれは……王家に伝わる秘拳『牛殺しの指弾』……!」 「すげぇ! 姫様は武術の達人でもあったのか!」 「あんな細い腕のどこにそんな力が……いや、これが王族のオーラか!」 「よっ、姫様! 日本一! ……いや、世界一!」
ドン引きされるどころか、評価は天井知らずに上昇した。 周囲が勝手にメイを美化し、何をしても「さすが姫様」という強固なフィルターを通して解釈してしまう。 それは滑稽な光景だったが、同時にメイにとっては、生まれて初めての体験でもあった。 何をやっても肯定される。 存在を許される。 その心地よさに、メイの警戒心は少しずつ溶かされていった。
夕暮れ時、祭りの準備が一段落した頃。 村外れの古いベンチで休んでいたメイに、一人の老婆が近づいてきた。 手には、湯気の立つ木の器を持っている。
「ほれ、食いな。腹が鳴りっぱなしじゃないか」
老婆の顔は、乾燥した大地のように深い皺が刻まれていた。 だが、その瞳は沈みゆく夕陽のように穏やかで、温かかった。 差し出されたのは、野菜と肉をじっくりと煮込んだ素朴なスープ。
「……いいんですか?」 「何言ってんだい。あんた今日、誰よりも働いてたじゃないか。姫様だか何だか知らないが、腹が減ってちゃあ生きていけないよ」
メイは器を受け取った。 手のひらに伝わる熱が、冷え切っていた心の芯まで、じんわりと染み込んでいく。 震える手で、一口、口に運ぶ。
根菜の優しい甘み。 肉の濃厚な旨味。 それらが溶け出したスープが、乾いた喉を潤し、空っぽの胃袋へと落ちていく。 派手な味付けではない。けれど、今まで食べたどんな宮廷料理よりも、どんな珍味よりも美味しかった。
気がつけば、メイの目から大粒の涙がこぼれ落ちていた。 ポタポタと、スープの中に涙が落ちて波紋を作る。
「おやまあ、泣くほど腹が減ってたのかい」
老婆は優しく笑って、メイの背中をさすった。 その手はゴツゴツしていて、農作業で培われた土の匂いがした。 けれど、その無骨な感触こそが、何よりも優しかった。
「何も言わなくていい。辛いことがあったんだろう? 泣きたい時は泣けばいい」
そして、老婆は決定的な言葉を口にした。
「ここを、故郷だと思っていいんだよ。ずっとここにいればいい」
その言葉は、メイの胸の奥底に眠っていた「渇き」に火をつけた。 ずっと、居場所が欲しかった。 誰かに「いていいよ」と言って欲しかった。 今のこの温もり。村人たちの笑顔。黄金色の風景。 ここは、今まで訪れたどんな場所とも違う。
(ここなら……暮らせるかもしれない)
「期待」という名の甘い毒が、メイの全身に回っていく。 それは、砂漠で水を求めて彷徨う旅人が、蜃気楼を見て「あそこに行けば助かる」としがみつく心理に似ていた。
もし、自分の正体を隠し通せたら。 もし、このまま「姫様」という役を演じ続けられたら。 この幸せな時間が、明日も、明後日も続くのではないか?
そう願ってしまった。 願うこと自体が、もっとも残酷な苦しみの始まりだとは知らずに。
夜が来た。 収穫祭のクライマックス。 広場の中央で大きな焚き火が焚かれ、火の粉が星空へと舞い上がる。 人々が歌い、踊り、笑い声が夜空に響く。 炎の赤と、夜の帳の群青が混ざり合う、妖しくも美しい時間帯。
メイもまた、村人たちの輪の中で手拍子をしていた。 心は満たされていた。 「明日も、畑仕事を手伝おう」「あの老婆に恩返しをしよう」。 そんな未来の計画さえ立てていた。
その時だ。
「ママー! 木から降りられないー!」
広場の端にある大きな樫の木の上で、幼い男の子が泣き叫んでいた。 祭りの興奮で高いところへ登ったはいいが、降りる足場を失ってしまったらしい。
「危ない!」
誰かが叫んだ瞬間、乾燥した枝がミシリと不吉な音を立てて折れた。 男の子の体が宙に投げ出される。 地面までは数メートル。打ち所が悪ければ命はない。
思考する時間はなかった。 打算も、保身もなかった。
メイは地面を蹴った。 矢のような速さで風を切り、子供の落下地点へと滑り込む。 両腕を突き出し、落ちてくる小さな体をしっかりと受け止める。
「……っ!」
衝撃は殺したが、その勢いでメイ自身も転がり、地面に激しく打ち付けられた。 土と草の匂いが鼻をつく。 痛みが走るが、腕の中の温もりは無事だ。
「坊主! 大丈夫か!?」 村人たちが駆け寄ってくる。 子供は無傷だった。泣きじゃくりながら、母親の腕の中へとしがみつく。
「うん、お姉ちゃんが助けてくれた……」
安堵のため息が、広場全体に広がる。 「よかった……姫様、ありがとうございます! なんとお礼を言えばいいか……お怪我は……」
村長の感謝の言葉が、途中で凍りついた。 駆け寄ろうとした村人たちの足が、見えない壁にぶつかったかのようにピタリと止まる。
焚き火の炎が、パチパチと音を立てて燃えている。 それ以外の音が、世界から完全に消滅したようだった。
メイは、痛む体を起こし、ゆっくりと顔を上げた。 地面に打ち付けられた拍子に、顔を覆っていた布が外れ、遠くの暗闇へ飛んでしまっていたことに気づかずに。
揺らめく炎の光に照らされて、露わになった左目。 それは、闇夜の中でも鮮やかに、妖しく発光するかのような、深く、美しい**「紫色の瞳」**だった。
「あ……」
メイの喉から、空気が漏れる。 自分の顔に触れ、布がないことに気づいた瞬間、血の気が引いた。
一瞬の静寂が、永遠のように感じられた。 さっきまで「姫様」と呼んで称え、笑顔を向けてくれていた村人たちの顔。 その表情が、スローモーションで歪んでいく。
尊敬、親愛、感謝。 それらが、オセロの駒が裏返るように、一瞬にして正反対の色へと塗り替わっていく。
恐怖。 嫌悪。 そして、異物を排除しようとする本能的な衝動。
「紫の……瞳だ……」
誰かが呟いたその声は、乾いた草に火がついたように、一気に群衆へ燃え広がった。
「災いを呼ぶ魔女だ!」 「騙された! 姫なんかじゃない、化け物だ!」 「子供に触るな! 呪われるぞ!」
先ほど助けた子供の親が、メイから子供をひったくるように奪い取り、後ずさりした。 その目は、汚物を見る目だった。 さっきまで「ありがとうございます」と言いかけていた口が、今は恐怖に引きつり、呪詛を吐き出そうとしている。
「いや……私は……」
メイは震える声で何かを言おうとした。 手を伸ばそうとした。 けれど、言葉は喉に詰まって出てこない。 何を言っても無駄だと、本能が悟ってしまったからだ。
カラン、と乾いた音がした。 足元に何かが転がってくる。 それは、先ほど老婆がスープを入れてくれた、あの木の器だった。
顔を上げる。 そこには、あの優しかった老婆が立っていた。 夕陽の中で「故郷だと思っていい」と微笑んでくれた老婆。 今は、鬼のような形相で、メイを睨みつけている。
「出てお行き!」
老婆の声は、スープの温かさなど微塵も残っていない、氷のように冷たく、鋭い響きだった。
「あんたみたいなのがいると、村が穢れる! 今すぐ出てお行き!」
石が飛んできた。 一つ、また一つ。 額に当たり、鋭い痛みが走る。 血が流れ、視界を赤く染める。 けれど、胸の奥を引き裂かれるような痛みに比べれば、肉体の痛みなど蚊に刺された程度にも感じられなかった。
(どうして……)
さっきまで、笑い合っていたのに。 家族だと言ってくれたのに。 ずっとここにいていいと、言ってくれたのに。
メイが見ていた「温かい村人たち」は、幻だったのか。 それとも、村人たちが見ていた「素敵な姫様」が、幻だったのか。
確かなことは一つだけ。 「期待」という幻が消えた後には、いつだって残酷な現実だけが残るということ。
人々が見ていたのは「メイ」という人間ではなかった。 彼らは「自分たちの理想」という鏡に映った幻を見て、それを愛していただけなのだ。 鏡が割れれば、愛は憎しみへと反転する。 それが、人の心の、どうしようもない「仕組み」だった。
「塩をまけ! 二度と土を踏ませるな!」 「魔女め! 呪いを持って去れ!」
罵声が雨あられのように降り注ぐ。 メイは逃げ出した。 弁解も、抵抗もせず、ただ嵐の中の小船のように翻弄され、逃げるしかなかった。
村の入り口。 夕暮れ時にはあんなにも美しく輝いていた黄金色の麦畑が、今は月明かりの下で、冷たく黒ずんで見えた。 ざわざわと揺れる穂の音が、まるでメイをあざ笑う無数の囁き声のように聞こえる。 麦の壁が、メイを拒絶するように立ちはだかっている。
メイは涙を拭うことも忘れ、闇の中へと走り続けた。 振り返ることはできなかった。 振り返れば、そこにあったはずの「楽園」が、最初から存在しなかったことを認めてしまうことになるから。
冷たい夜風が吹き抜け、冬の足音がすぐそこまで近づいていることを告げていた。 その風は、つい数時間前まで感じていた温もりを、跡形もなく消し去っていった。
辺境の農村「ハーベスト」。 その名の通り、収穫の最盛期を迎えたこの村は、見渡す限り黄金色の海に沈んでいるようだった。
大地を覆い尽くす麦の穂が、乾いた風に撫でられてサワサワと微かな音を立てる。 それはまるで、大地そのものが収穫の喜びと冬への安らぎを感じながら、穏やかな寝息を立てているかのようだ。
風が吹き抜けるたびに、世界は芳醇な香りに包まれる。 天日で干した藁の乾いた匂い。 各家庭のかまどから漂い出した、焼きたてのパンの香ばしさ。 そして、幾千もの命を育んできた豊かな土の湿った匂い。 それらが複雑に、しかし調和のとれたシンフォニーのように混じり合い、鼻孔をくすぐりながら通り過ぎていく。
空を見上げれば、そこには吸い込まれそうなほど高い蒼穹が広がっている。 点在するちぎれ雲は、傾きかけた夕陽を一身に浴びていた。 鮮烈な茜色から、やがて来る夜を予感させる紫がかった群青色へ。 刻一刻とグラデーションを変えていく空の色彩は、二度と同じ表情を見せない。
「美しい」という言葉だけでは、到底足りない。 この風景には、生きとし生けるものが長い冬の眠りにつく直前に放つ、切ないほどの生命の輝きが満ちていた。 永遠に続くかのような平和。 絵画のように完璧で、蜜のように甘く穏やかな黄金色の世界。
――そこに、異物が混入した。
「……む、り」
喉の奥から絞り出されたのは、言葉というよりも、空気が漏れる音に近かった。
どこまでも続く麦畑を分断する一本道。 そこを、泥のように重い足取りで歩く影があった。 陽光を拒絶するように、ボロボロのローブを頭からすっぽりと被っている。 その歩みは不規則で、幽霊のようにフラフラと揺れ、今にも糸が切れたマリオネットのように崩れ落ちそうだった。
その影の正体――メイは、自身の胃袋が奏でる悲痛なオーケストラを鼓膜の裏で聞き続けていた。 (最後に食べたのは、いつだっけ……三日前? いや、四日前の木の実? あの、口の中が痺れる渋いやつ……)
記憶が霧の中に霞む。 空腹とは、単に腹が減るという生理現象ではない。 世界から色彩が失われ、思考が粘着質な泥沼に沈み、重力という物理法則が倍加し、立っていること自体が「苦行」へと変わる現象のことだ。
メイの身体能力は、常人を遥かに凌駕している。 筋肉の密度、反射神経、動体視力。すべてが生物としての規格外だ。 だが、それは燃費が最悪であることの裏返しでもあった。 高性能なエンジンほど、膨大な燃料を必要とする。 今の彼女は、燃料計の針がゼロを振り切り、警告灯さえ点灯しなくなった墜落寸前の高級戦闘機のようなものだ。
視界が歪む。 景色が二重、三重に重なり、陽炎のように揺らめく。 その揺らめきの向こうに、村の入り口が見えた。
村長の家らしき大きな建物の前。 そこには、収穫されたばかりの干し草が、小高い山のように積まれている。 西日を浴びて輝くその黄金色の山。
今のメイの目には、それが干し草には見えなかった。 湯気を立て、甘い香りを放つ、巨大なモンブランに見えた。 あるいは、疲労困憊の体を優しく包み込んでくれる、王侯貴族のための極上の羽毛布団か。
「あ、ふとん……」
理性のヒューズが飛び、思考回路がショートした。
メイは残された全てのエネルギーを、枯れ木のような脚部に集中させた。 地面を蹴る。 土埃が舞う。
本来なら、猫のように音もなく、優雅に着地するはずだった。 しかし、極限の空腹による平衡感覚の欠如は致命的だった。 脳からの指令と、体の動きにコンマ数秒のズレが生じる。
彼女の体は制御を失い、不格好な放物線を描いた。 そして、頭から真っ逆さまに、憧れの「モンブラン」へと突っ込んだ。
ズボォォォォン!!
静寂な村に、何かが爆発したような激しい音が轟いた。 驚いた鳥たちが一斉に空へ飛び立つ。 干し草が金粉のように舞い上がり、夕陽の中でキラキラと輝きながらゆっくりと降り注ぐ。
静寂が戻った後、そこには奇妙な前衛芸術のようなオブジェが完成していた。 黄金色の山から、二本の細い足だけが垂直に突き出し、ピクリとも動かない。 それはまるで、湖面から足だけを出して殺された、ある有名な推理小説の被害者のようであり。 あまりにもシュールで、滑稽で、芸術的な「野垂れ死に」の光景だった。
数秒の空白。 世界がその光景を理解するまでのラグ。
「おお、なんと!」 「天から! 天から人が降ってきたぞ!」
村中が蜂の巣をつついたような大騒ぎになったのは、それから間もなくのことである。
村長とその家族、そして作業の手を止めた野次馬たちが、わらわらと干し草の山を取り囲んだ。 「せーの、よいしょ!」 数人の男たちが、突き出た足を持って引き抜く。
ボフッ、という音と共に、藁まみれになって出てきた物体。 男たちは息を呑んだ。 泥で汚れ、髪は乱れ、服はボロボロだ。 しかし、その顔立ちだけは、この世のものとは思えないほど整っていた。 透き通るような肌は、泥汚れさえも装飾に変えてしまうほどの輝きを放っている。
意識を取り戻したメイは、パチリと目を開けた。 視界いっぱいに、数十人の村人たちの顔がある。 至近距離で覗き込まれ、鼻息さえ感じる距離感に、メイはヒッと息を飲んだ。
(やばい、見つかった。逃げなきゃ。また石を投げられる……!)
背筋に冷たい電流が走る。 反射的に身構え、筋肉を収縮させるメイ。 耳を塞ぎたくなるような罵声、あるいは蔑みの視線を予想して、彼女は体を硬くした。
しかし。 予想された痛みは、いつまで経ってもやってこなかった。
「な、なんとお美しい……」
沈黙を破ったのは、村長の震える声だった。 そこに込められていたのは、敵意ではなく、畏怖に近い感嘆だった。
「泥にまみれてなお、この輝き! まるで泥中の蓮の花のようだ!」 「見ろよ、あの肌の白さ! 上等な陶器みたいだぞ!」 「あんな高い空から落ちてきて無傷なんて、人間業じゃねぇ!」 「もしや……今年の豊作を祝いに、女神様が使いをよこしてくださったんじゃあるめぇか!?」
(……はい?)
メイは呆気にとられ、長い睫毛を数回瞬かせた。 村人たちの目は、恐怖で濁ってはいなかった。 むしろ、夕陽を反射して、キラキラとした尊敬と好奇心で輝いている。
田舎特有の閉鎖的なコミュニティにおいて、外部からの「異質な」来訪者は、極端な扱いを受けやすい。 「排除すべき敵」か、あるいは「崇めるべき神」か。 今回は、メイの顔面偏差値が異常値を示していたことと、空から降ってくるという登場シーンが派手すぎたことで、完全に「神」のルートに入ってしまったようだ。
「あ、あの、私はただの通りすがりの旅人で……」
メイが消え入りそうな声で否定する。 だが、その弱々しささえも、村人たちのフィルターを通せば「奥ゆかしさ」へと変換される。 彼らの妄想機関車は、もう誰にも止められない。
「旅人? いやいや、ご謙遜を! その気品、ただものではありませんぞ!」 「わかった! 隣国の姫君だ! お忍びで視察に来たにちげぇねぇ!」 「おお、なんと高貴な! 姫様! ハーベスト村へようこそ!」
一瞬にして「女神の使い」から「隣国の姫」へと設定が変更された。 歓迎ムードは最高潮に達し、拍手まで巻き起こる。
その時だ。 村長の娘――流行に敏感なお年頃の少女が、メイの顔を指差した。
「ねえ、その顔の布、どうしたの? お怪我?」
純粋な疑問。 だが、メイにとっては心臓を鷲掴みにされるような問いだった。 左目を覆う、分厚い布。 その下にある「紫の瞳」こそが、彼女が世界から拒絶され、石を投げられ続ける理由だ。 「悪魔の目」「災いの色」。 ここを見られたら終わりだ。また追われる。また痛い思いをする。
ドクン、と心臓が跳ねる。 脂汗が背中を伝う。 焦ったメイの口から飛び出したのは、あまりにも苦し紛れで、突飛すぎる言い訳だった。
「こ、これは……ファッションです!」
「……ファッション?」
時が止まる。 風の音だけが聞こえる。 メイは視線を泳がせながら、必死に言葉を継いだ。
「は、はい! 都では今、片目を隠すのが……ナウいんです! 最先端の流行なんです!」
(ナウいって何だ、私は何を言っているんだ……!) 心の中で頭を抱えるメイ。 しかし、次の瞬間、娘が空気を切り裂くような黄色い声を上げた。
「やっぱりぃぃぃ!! 私もそうじゃないかと思ってたの! なんかミステリアスで素敵だもん!」
間髪入れず、周囲の男たちも追従する。 「おお、そうなのか! さすが都、わけのわからん……いや、洗練された格好が流行るもんじゃのう!」 「眼帯がオシャレ! 新しい! 俺も明日からやろう!」 「なんと斬新な! さすが姫様だ!」
(……チョロい)
メイは安堵のあまり、膝から崩れ落ちそうになった。 この村の人々は、善良だ。 善良だが、あまりにも人を疑うことを知らなすぎる。 あるいは、単に自分たちの見たいようにしか世界を見ていないだけなのかもしれない。
「姫様、腹が減っておるのでは? さあさあ、今夜は収穫祭だ! 手伝って……いや、是非とも我々の祝いの席に!」
こうしてメイは、断る間もなく、なし崩し的に村の収穫祭に参加することになった。
祭りの準備は、戦場のような忙しさだった。 村人たちが忙しく立ち働く中、「タダ飯を食うわけにはいかない」というメイの生真面目さと、極限の空腹による判断力の低下が、新たな喜劇を生んだ。
「姫様、その麦の束を運んでくれれば……」 「はい、わかりました」
メイは言われた通り、麦の束を持ち上げた。 一つではない。 近くにあった二十束ほどを、一度に、だ。 人間の背丈の倍はある巨大な麦の山を、まるで小枝でも拾うかのように小脇に抱える。 そして、「どこへ置けばいいですか?」と、汗ひとつかかずに涼しい顔で尋ねた。
「ひ、姫様!? 力持ちすぎませんか!?」 「あ、いえ、これは……テコの原理的な……体の使い方のコツで……」
さらに、興奮した暴れ牛が柵を破って飛び出してきた時だ。 「危ない!」「逃げろ!」 怒り狂った牛の蹄が大地を揺らす。 村人たちが蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う中、メイは逃げ遅れた子供を庇うように前に出た。
牛の突進が迫る。 鋭い角が、目前に迫ったその瞬間。 メイは無意識に、牛の眉間にデコピンを放った。
パチンッ。
乾いた音が、意外なほど大きく響き渡った。 直後、数百キロはある巨体が、見えない衝撃波を受けたように空中で静止した。 牛は白目を剥き、ゆっくりと、しかし確実に重力に従ってドサリと倒れた。
土煙が舞う中、シーンと静まり返る広場。 メイは自分の指を見て、青ざめた。 (やっちゃった……! さすがにこれは誤魔化せな……)
恐る恐る振り返ると、村人たちは口をポカンと開けて固まっている。 弁解しようと口を開きかけたメイより先に、村の長老が震える手で拝んだ。
「あ、あれは……王家に伝わる秘拳『牛殺しの指弾』……!」 「すげぇ! 姫様は武術の達人でもあったのか!」 「あんな細い腕のどこにそんな力が……いや、これが王族のオーラか!」 「よっ、姫様! 日本一! ……いや、世界一!」
ドン引きされるどころか、評価は天井知らずに上昇した。 周囲が勝手にメイを美化し、何をしても「さすが姫様」という強固なフィルターを通して解釈してしまう。 それは滑稽な光景だったが、同時にメイにとっては、生まれて初めての体験でもあった。 何をやっても肯定される。 存在を許される。 その心地よさに、メイの警戒心は少しずつ溶かされていった。
夕暮れ時、祭りの準備が一段落した頃。 村外れの古いベンチで休んでいたメイに、一人の老婆が近づいてきた。 手には、湯気の立つ木の器を持っている。
「ほれ、食いな。腹が鳴りっぱなしじゃないか」
老婆の顔は、乾燥した大地のように深い皺が刻まれていた。 だが、その瞳は沈みゆく夕陽のように穏やかで、温かかった。 差し出されたのは、野菜と肉をじっくりと煮込んだ素朴なスープ。
「……いいんですか?」 「何言ってんだい。あんた今日、誰よりも働いてたじゃないか。姫様だか何だか知らないが、腹が減ってちゃあ生きていけないよ」
メイは器を受け取った。 手のひらに伝わる熱が、冷え切っていた心の芯まで、じんわりと染み込んでいく。 震える手で、一口、口に運ぶ。
根菜の優しい甘み。 肉の濃厚な旨味。 それらが溶け出したスープが、乾いた喉を潤し、空っぽの胃袋へと落ちていく。 派手な味付けではない。けれど、今まで食べたどんな宮廷料理よりも、どんな珍味よりも美味しかった。
気がつけば、メイの目から大粒の涙がこぼれ落ちていた。 ポタポタと、スープの中に涙が落ちて波紋を作る。
「おやまあ、泣くほど腹が減ってたのかい」
老婆は優しく笑って、メイの背中をさすった。 その手はゴツゴツしていて、農作業で培われた土の匂いがした。 けれど、その無骨な感触こそが、何よりも優しかった。
「何も言わなくていい。辛いことがあったんだろう? 泣きたい時は泣けばいい」
そして、老婆は決定的な言葉を口にした。
「ここを、故郷だと思っていいんだよ。ずっとここにいればいい」
その言葉は、メイの胸の奥底に眠っていた「渇き」に火をつけた。 ずっと、居場所が欲しかった。 誰かに「いていいよ」と言って欲しかった。 今のこの温もり。村人たちの笑顔。黄金色の風景。 ここは、今まで訪れたどんな場所とも違う。
(ここなら……暮らせるかもしれない)
「期待」という名の甘い毒が、メイの全身に回っていく。 それは、砂漠で水を求めて彷徨う旅人が、蜃気楼を見て「あそこに行けば助かる」としがみつく心理に似ていた。
もし、自分の正体を隠し通せたら。 もし、このまま「姫様」という役を演じ続けられたら。 この幸せな時間が、明日も、明後日も続くのではないか?
そう願ってしまった。 願うこと自体が、もっとも残酷な苦しみの始まりだとは知らずに。
夜が来た。 収穫祭のクライマックス。 広場の中央で大きな焚き火が焚かれ、火の粉が星空へと舞い上がる。 人々が歌い、踊り、笑い声が夜空に響く。 炎の赤と、夜の帳の群青が混ざり合う、妖しくも美しい時間帯。
メイもまた、村人たちの輪の中で手拍子をしていた。 心は満たされていた。 「明日も、畑仕事を手伝おう」「あの老婆に恩返しをしよう」。 そんな未来の計画さえ立てていた。
その時だ。
「ママー! 木から降りられないー!」
広場の端にある大きな樫の木の上で、幼い男の子が泣き叫んでいた。 祭りの興奮で高いところへ登ったはいいが、降りる足場を失ってしまったらしい。
「危ない!」
誰かが叫んだ瞬間、乾燥した枝がミシリと不吉な音を立てて折れた。 男の子の体が宙に投げ出される。 地面までは数メートル。打ち所が悪ければ命はない。
思考する時間はなかった。 打算も、保身もなかった。
メイは地面を蹴った。 矢のような速さで風を切り、子供の落下地点へと滑り込む。 両腕を突き出し、落ちてくる小さな体をしっかりと受け止める。
「……っ!」
衝撃は殺したが、その勢いでメイ自身も転がり、地面に激しく打ち付けられた。 土と草の匂いが鼻をつく。 痛みが走るが、腕の中の温もりは無事だ。
「坊主! 大丈夫か!?」 村人たちが駆け寄ってくる。 子供は無傷だった。泣きじゃくりながら、母親の腕の中へとしがみつく。
「うん、お姉ちゃんが助けてくれた……」
安堵のため息が、広場全体に広がる。 「よかった……姫様、ありがとうございます! なんとお礼を言えばいいか……お怪我は……」
村長の感謝の言葉が、途中で凍りついた。 駆け寄ろうとした村人たちの足が、見えない壁にぶつかったかのようにピタリと止まる。
焚き火の炎が、パチパチと音を立てて燃えている。 それ以外の音が、世界から完全に消滅したようだった。
メイは、痛む体を起こし、ゆっくりと顔を上げた。 地面に打ち付けられた拍子に、顔を覆っていた布が外れ、遠くの暗闇へ飛んでしまっていたことに気づかずに。
揺らめく炎の光に照らされて、露わになった左目。 それは、闇夜の中でも鮮やかに、妖しく発光するかのような、深く、美しい**「紫色の瞳」**だった。
「あ……」
メイの喉から、空気が漏れる。 自分の顔に触れ、布がないことに気づいた瞬間、血の気が引いた。
一瞬の静寂が、永遠のように感じられた。 さっきまで「姫様」と呼んで称え、笑顔を向けてくれていた村人たちの顔。 その表情が、スローモーションで歪んでいく。
尊敬、親愛、感謝。 それらが、オセロの駒が裏返るように、一瞬にして正反対の色へと塗り替わっていく。
恐怖。 嫌悪。 そして、異物を排除しようとする本能的な衝動。
「紫の……瞳だ……」
誰かが呟いたその声は、乾いた草に火がついたように、一気に群衆へ燃え広がった。
「災いを呼ぶ魔女だ!」 「騙された! 姫なんかじゃない、化け物だ!」 「子供に触るな! 呪われるぞ!」
先ほど助けた子供の親が、メイから子供をひったくるように奪い取り、後ずさりした。 その目は、汚物を見る目だった。 さっきまで「ありがとうございます」と言いかけていた口が、今は恐怖に引きつり、呪詛を吐き出そうとしている。
「いや……私は……」
メイは震える声で何かを言おうとした。 手を伸ばそうとした。 けれど、言葉は喉に詰まって出てこない。 何を言っても無駄だと、本能が悟ってしまったからだ。
カラン、と乾いた音がした。 足元に何かが転がってくる。 それは、先ほど老婆がスープを入れてくれた、あの木の器だった。
顔を上げる。 そこには、あの優しかった老婆が立っていた。 夕陽の中で「故郷だと思っていい」と微笑んでくれた老婆。 今は、鬼のような形相で、メイを睨みつけている。
「出てお行き!」
老婆の声は、スープの温かさなど微塵も残っていない、氷のように冷たく、鋭い響きだった。
「あんたみたいなのがいると、村が穢れる! 今すぐ出てお行き!」
石が飛んできた。 一つ、また一つ。 額に当たり、鋭い痛みが走る。 血が流れ、視界を赤く染める。 けれど、胸の奥を引き裂かれるような痛みに比べれば、肉体の痛みなど蚊に刺された程度にも感じられなかった。
(どうして……)
さっきまで、笑い合っていたのに。 家族だと言ってくれたのに。 ずっとここにいていいと、言ってくれたのに。
メイが見ていた「温かい村人たち」は、幻だったのか。 それとも、村人たちが見ていた「素敵な姫様」が、幻だったのか。
確かなことは一つだけ。 「期待」という幻が消えた後には、いつだって残酷な現実だけが残るということ。
人々が見ていたのは「メイ」という人間ではなかった。 彼らは「自分たちの理想」という鏡に映った幻を見て、それを愛していただけなのだ。 鏡が割れれば、愛は憎しみへと反転する。 それが、人の心の、どうしようもない「仕組み」だった。
「塩をまけ! 二度と土を踏ませるな!」 「魔女め! 呪いを持って去れ!」
罵声が雨あられのように降り注ぐ。 メイは逃げ出した。 弁解も、抵抗もせず、ただ嵐の中の小船のように翻弄され、逃げるしかなかった。
村の入り口。 夕暮れ時にはあんなにも美しく輝いていた黄金色の麦畑が、今は月明かりの下で、冷たく黒ずんで見えた。 ざわざわと揺れる穂の音が、まるでメイをあざ笑う無数の囁き声のように聞こえる。 麦の壁が、メイを拒絶するように立ちはだかっている。
メイは涙を拭うことも忘れ、闇の中へと走り続けた。 振り返ることはできなかった。 振り返れば、そこにあったはずの「楽園」が、最初から存在しなかったことを認めてしまうことになるから。
冷たい夜風が吹き抜け、冬の足音がすぐそこまで近づいていることを告げていた。 その風は、つい数時間前まで感じていた温もりを、跡形もなく消し去っていった。
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