俺を救い続けた氷の女神は、過去では俺に救われる無垢な少女だった。孤独な運命から君を救うため、救世主は時を遡る。

Gaku

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第6話 転移魔法は不人気スキル? いや、見方次第で神スキルだ! 〜見方を変えることは、眠っていた力を呼び起こすことである〜

灯火の小さな光が、あの日、図書室の薄暗がりに浮かんでから、一週間が過ぎた。

 それからの優の日々は、ほとんど図書室に閉じ込められるようなものだった。

 朝、宿の窓から差し込む光で目を覚まし、硬いパンを水で流し込む。まだ人通りの少ない石畳の道を歩くと、靴底がこつ、こつ、と乾いた音を立てた。夜露の残った草が道端で細く揺れ、朝日を受けた露の粒が、まるで小さな火花のように瞬いている。

 この世界の朝は、やけに鮮やかだった。

 日本にいた頃、優は朝の光などまともに見ていなかった。スマホの画面越しに時間を確認し、眠い目をこすりながらバイト先へ向かうだけ。空の色も、風の匂いも、靴音の響きも、ただ背景として流れていった。

 けれど今は違う。

 石造りの街並みの隙間を抜ける風が、首筋を冷たく撫でる。遠くの市場から聞こえる荷車の軋み。焼きたてのパンの匂い。ギルドの扉を開けた瞬間に漂う、紙と木とインクの混ざった匂い。

 その全部が、妙に現実味を帯びていた。

 そして、その現実味の中心にいるのが――。

「遅い」

 図書室の奥で、リリアナが本を片手に立っていた。

 窓から斜めに差し込む午前の光が、彼女の紫色の髪の端を淡く照らしている。積み上げられた本の背表紙には埃が薄く積もり、光の筋の中で細かな粒がゆっくりと漂っていた。

「いや、まだ開始時間の五分前ですけど」

「私が待っていた時点で遅いのよ」

「理不尽すぎる……」

 優は小さく息を吐き、机の前に立った。

 今日は火の基礎魔法の練習だった。

 リリアナは小さな黒板に、簡単な図を描いている。難しい説明は極力避けてくれるのだが、それでも彼女の説明は時々、優の頭から煙が出そうになるほど細かい。

「火の魔法は、力を押し込めばいいわけではないわ。火種を作るだけ。必要なのは、ほんの少し」

「ほんの少し」

「そう。手のひらに小さな火を灯す。それだけよ」

「なるほど」

 優は右手を前に出した。

 深呼吸をする。肺に入った空気が、少しだけ冷たい。手のひらの中心に意識を集める。体の奥にある何かを、細い糸のように引き寄せる感覚。

 灯火の時と同じだ。

 ただ、今回は光ではなく、火。

 優は慎重に呟いた。

「点火」

 ぼっ。

 小さな炎が――灯るはずだった。

 実際に起きたのは、手のひらの上で軽く弾けた火花と、鼻先をかすめる熱風だった。

「熱っ!」

 優は反射的に仰け反った。

 じり、と嫌な匂いがした。

 焼けた草のような、焦げた髪のような、鼻の奥にへばりつく匂い。

 リリアナが無言で優の顔を見た。

「……右の眉」

「え?」

「半分、ないわ」

「えええええっ!?」

 優は近くの銀製の皿を掴み、自分の顔を映した。揺れる金属の表面に、情けない顔が映る。右の眉毛が、見事に途中で途切れていた。

「ちょっ、これ戻りますよね!? 眉毛って戻りますよね!?」

「時間が経てば」

「今すぐの話をしてるんですけど!」

「魔法で生やすほどの価値はないわね」

「ありますよ! 俺の顔面にとっては重大事件ですよ!」

 リリアナは本当に少しだけ、口元を動かした。

 笑ったのか、鼻で笑ったのか、優には判断できなかった。

「出しすぎ。力を注ぐんじゃない。差し出すの」

「その大事な表現、先に聞きたかったです」

「今、聞いたでしょう」

「眉毛を犠牲にしてですけどね!」

 図書室の空気が、ほんの少し緩んだ。

 窓の外で風が吹き、木の葉が乾いた音を立てて揺れた。差し込む光の筋がわずかに揺らぎ、舞っていた埃がその中で小さく回る。

 だが、和やかな時間は長く続かなかった。

 次は水の練習だった。

「水球。手のひらの上に水の球を作るだけ。火より安全よ」

「その言葉、信じていいんですよね?」

「火傷はしないわ」

「違う被害が出る言い方やめてもらえます?」

 優は濡れてもよさそうな床の中央に立たされた。周囲の本棚には、リリアナがあらかじめ薄い光の膜を張っている。

 その時点で嫌な予感しかしなかった。

「落ち着いて。水を集める。形を丸く保つ。ただそれだけ」

「水を集める。丸く保つ……」

 優は手の上に意識を集中させた。

 今度こそ慎重に。眉毛の悲劇を繰り返してはいけない。

 体の奥の力を、細く、薄く、そっと出す。

「水球」

 ざばっ。

 手の上ではなかった。

 優の頭の真上から、桶をひっくり返したような水が落ちてきた。

「ぶはっ!」

 髪が額に張りつき、服が一瞬で重くなる。襟元から背中へ冷たい水が流れ込み、優は情けない声を漏らした。床に水が広がり、石の隙間を伝って机の足元へ流れていく。

 リリアナは一歩も動いていなかった。

 だが、書架だけは完璧に守られていた。光の膜に水滴が当たり、ぱらぱらと弾けて床に落ちる。

「……本は無事ね」

「俺は無事じゃないんですけど」

「本が無事なら、この図書室としては無事よ」

「俺の扱い、備品以下なんですね」

「備品は濡らさないもの」

「俺だって好きで濡れてるわけじゃない!」

 ぽた、ぽた、と前髪から水滴が落ちる。

 静かな図書室に、その音だけが妙にはっきり響いた。水が床に当たるたび、小さな丸い跡ができ、窓の光を受けて薄く光った。

 リリアナは濡れ鼠になった優を見つめ、淡々と言った。

「形を作る前に、量を呼びすぎているわね」

「量を呼ぶっていうか、雨雲が俺だけを狙撃してきた感じなんですけど」

「比喩としては悪くないわ」

「褒められても嬉しくない!」

 火で眉を失い、水で尊厳を失った。

 それでも訓練は終わらなかった。

 最後は風だった。

 リリアナは床に広がった水を片付けると、机の上に積んでいた資料を確認した。紙の束が三つ。古い羊皮紙が二枚。厚みのある本が数冊。

 優はそれを見て、嫌な汗が背中を伝うのを感じた。

「待ってください。風ですよね?」

「そうよ」

「その資料、しまった方がよくないですか?」

「微風の練習よ。紙一枚、揺れるかどうかの風で十分」

「俺の今日の実績、見てました?」

「見ていたから、必要なのよ」

「その理屈、全然わからない」

 優は両手を前に出した。

 もう失敗できない。少なくとも、これ以上リリアナの機嫌を損ねるわけにはいかない。

 風。

 そよ風。

 草の先を撫でる程度。頬に触れる程度。カーテンをわずかに揺らす程度。

 優は丁寧に、丁寧に力を差し出す。

「微風」

 ごおおおおっ。

 図書室の奥から入り口へ向かって、突風が走り抜けた。

 積み上げられていた資料が一斉に舞い上がる。羊皮紙が鳥の群れのように天井近くまで跳ね、薄い紙片が白い吹雪になって光の中を乱れ飛んだ。本のページが勝手にめくれ、椅子が床を引っ掻いて嫌な音を立てる。

 優の濡れた髪も、風に煽られて後ろへ持っていかれた。

「うわっ、うわわわわ!」

 数秒後。

 風が止んだ。

 図書室は、戦場のようになっていた。

 紙が床に散り、机の上のインク壺が倒れかけ、椅子が一脚横を向いている。天井の梁に引っかかった紙が、ひらひらと虚しく揺れていた。

 リリアナは、額に手を当てて立っていた。

 長い沈黙が落ちた。

 それは、ただ音がないだけの沈黙ではなかった。

 水滴が床に落ちる音すら遠慮しているような、紙の一枚が滑る音すら罪に感じるような、重たい沈黙だった。

「……あなた」

「はい」

「加減という言葉を知っている?」

「知識としては」

「実践して」

「努力します」

「今すぐ」

「はい」

 リリアナは天井に引っかかった紙を見上げた。

 そして、小さく息を吐いた。

「火は焦げる。水は降る。風は荒れる。実に分かりやすいわね」

「俺の失敗を自然災害みたいに分類しないでください」

「自然災害の方が、まだ予測できるわ」

「ひどい」

 だが、その言葉とは裏腹に、リリアナの目は冷たくなかった。

 優は気づかなかったが、彼女は散らばった紙ではなく、優の手元を見ていた。失敗ばかりの練習。そのすべてで、優は確かに魔法を起こしていた。初心者なら、そもそも火花すら出ない。水滴ひとつ作れず、風も動かせない者がほとんどだ。

 出しすぎる。

 呼びすぎる。

 広がりすぎる。

 それは欠点だった。だが同時に、最初から空っぽの者には起こり得ない失敗でもあった。

 リリアナは胸の奥でだけ呟いた。

 ――力はある。ありすぎるくらいに。問題は、細い針の穴に川を流し込もうとしていること。

 それを口には出さなかった。

 今の優に伝えれば、調子に乗るか、怖がるか、そのどちらかだと思ったからだ。

 夕方近くになり、練習はようやく終わった。

 西日が図書室の窓から斜めに入り込み、床に長い影を落としている。散らばった紙は何とか元の束に戻され、本棚の光の膜も消えた。外からは、帰路につく人々の足音がかすかに聞こえる。石畳を踏む靴音が、遠くで重なり、また離れていく。

 優は椅子に沈み込んだ。

 眉毛は半分ない。服はまだ少し湿っている。腕はだるく、指先には細かい疲れが残っていた。

「俺、魔法向いてないんじゃないですかね」

 ぽつりと漏らした言葉は、自分でも驚くほど弱かった。

 リリアナは棚から一枚の大きな紙を取り出し、机に広げた。

「向いていない人間は、失敗すら起こせないわ」

「慰めですか?」

「事実よ」

 紙には、魔法の種類が大きく分けて書かれていた。

 火や氷、雷のように敵を攻めるもの。

 盾や壁を作って身を守るもの。

 傷を癒やすもの。

 体や武器を強くするもの。

 何かを呼び出すもの。

 そして、端の方に小さくまとめられた、見つける、惑わす、移す、といった補助の魔法。

 リリアナは指先で紙を軽く叩いた。

「あなたは、どれに興味がある?」

 何気ない問いのようだった。

 だが、彼女の瞳は静かに優を見ていた。

 紫色の瞳の奥に、紙の文字よりも細かな何かを読み取ろうとする光があった。

 優は表を眺めた。

 火。水。風。守り。癒やし。強化。呼び出し。

 どれも、この世界で生きるには必要なのだろう。強い攻撃魔法があれば、もう魔物に怯えなくて済むかもしれない。防御魔法が使えれば、三度も誰かに助けられることもなかったかもしれない。

 けれど。

 優の視線は、端の小さな文字で止まった。

 移す魔法。

 人や物を、別の場所へ移す魔法。

 胸の奥が、静かに鳴った気がした。

 森に落ちた夜。

 見知らぬ館。

 床に刻まれていた、あの不思議な模様。

 そして、転移の瞬間に見た、花畑と泣いている少女の幻。

 自分は、なぜここに来たのか。

 誰が、何のために。

 帰れるのか。

 帰りたいのか。

 答えは何ひとつなかった。ただ、その小さな文字だけが、優の目に焼き付いて離れなかった。

「……転移魔法」

 優が呟くと、リリアナは表情を変えなかった。

 ただ、指先がほんのわずかに止まった。

「ああ、あれね」

 声は淡々としていた。

 まるで、特に興味もない項目を読み上げるように。

「古くからある魔法よ。物や人を別の場所へ移す。ただし、使う力が大きいわりに、できることは地味。荷物を運ぶなら馬車の方が安いし、人を運ぶなら安全な街道を使えばいい。研究している者も少ない。人気はないわね」

「でも」

 優は、思わず身を乗り出した。

「俺がこの世界に来たのって、たぶんそれに関係ありますよね。あの館の床にあった模様も、もしかしたら。俺、自分がなんでここにいるのか知りたいんです。そのためには、転移魔法を知らなきゃいけない気がする」

 言葉にすると、胸の奥が熱くなった。

 それは、強くなりたいという願いとは少し違った。

 生き延びるためだけでもない。

 自分の身に起きたことから、もう目を逸らしたくない。

 誰にも必要とされていないと思っていた自分が、なぜこの世界へ来たのか。その理由があるなら、知りたかった。理由がないなら、ないと確かめたかった。

 リリアナはしばらく黙っていた。

 窓の外で、夕方の風が草を揺らしている。葉と葉が擦れる乾いた音が、開いた窓から微かに入ってきた。図書室の中には、古い紙の匂いと、冷めたインクの匂いが満ちている。

「個人的な理由ね」

「はい」

「研究の入り口としては、あまり褒められたものではないわ」

「でも、俺にとっては一番本気になれる理由です」

 リリアナは目を伏せた。

 その横顔に、西日の赤が淡くかかる。長い睫毛が頬に細い影を落とした。

 ほんの短い沈黙の後、彼女は紙を畳んだ。

「……いいわ。好きにしなさい」

「いいんですか?」

「ただし、火も水も風も、基礎は続けること。転移魔法は、ただ力が大きければ使えるものではないわ。むしろ逆。ほんの少しのずれが、取り返しのつかない失敗になる」

 リリアナの声が、少しだけ低くなった。

 優は、濡れた袖を握りしめたまま頷いた。

「今のあなたでは、自分の靴を少し先へ移すのがやっとでしょうね」

「靴ですか」

「ええ。しかも、成功すればの話」

「失敗したら?」

 リリアナは、畳んだ紙を机の端に置いた。

 そして、優の目をまっすぐ見た。

「どこへ行ったか、誰にも分からなくなるかもしれない」

 その一言だけで、図書室の空気が変わった。

 さっきまでの失敗続きの笑いが、静かに遠ざかる。窓の外の足音も、人の声も、急に遠くなったように感じた。

 優の背中に、冷たいものが這った。

 火で眉を焦がすのとは違う。

 水をかぶるのとも違う。

 風で紙を散らすのとも違う。

 この魔法には、笑って済ませられない何かがある。

 そう、はっきりと分かった。

 リリアナは席を立ち、奥の書架へ向かった。高い棚から、革表紙の古びた本を一冊抜き取る。表紙は擦り切れ、角は丸くなっていた。長い年月、誰にも開かれずにいたような本だった。

「入門書よ。今夜はこれを読みなさい」

 優は両手でそれを受け取った。

 本は思ったより重かった。

 古い紙の匂いがした。

 その重さが、これから踏み込むものの重さのように思えた。

「ありがとうございます」

「読むだけにしておきなさい。試すのは、私がいる時だけ」

「……そんなに危ないんですか」

「危ないわ」

 リリアナは即答した。

 その声には、先ほどまでの呆れも、からかいもなかった。

「けれど、だからこそ――あなたがそれを選んだ意味は、あるのかもしれない」

 優が顔を上げた時、リリアナはもう机の上の資料へ視線を戻していた。

 夕日がさらに傾き、図書室の床に伸びた影が、ゆっくりと優の足元まで届いていた。

 優は古びた本を胸に抱えた。

 半分焦げた眉毛。まだ湿った服。疲れ切った体。

 それでも、胸の奥だけは妙に熱かった。

 自分がここにいる理由。

 その端に、ようやく指先が触れた気がした。



宿に戻る前、優は図書室の片隅に残った。

 西日はすっかり落ち、窓の外には夜が薄く広がり始めていた。街の喧騒はまだ遠くに残っている。酒場から漏れる笑い声、荷車の車輪が石畳を削る音、どこかの家の扉が閉まる鈍い音。それらは分厚い壁と本棚に吸い込まれ、図書室の奥までは、柔らかく丸まった気配だけが届いていた。

 机の上には、リリアナから渡された古い本が開かれている。

 紙は黄ばんでいて、端が少し波打っていた。指で触れると、乾いた葉のようにかさりと音がする。文字は細かく、ところどころインクが薄れている。優は眉間にしわを寄せながら、何度も同じ行を読み返した。

 転移魔法。

 対象を、別の場所へ移す魔法。

 使うには、移す物の重さ、大きさ、形を正確に知る必要がある。さらに、移す先をはっきり思い描かなければならない。近ければ近いほど楽で、遠ければ遠いほど力を食う。重ければ重いほど難しく、細かな場所を狙うほど危険が増す。

 優は、ゆっくり息を吐いた。

「……そりゃ、人気ないわ」

 荷物を運ぶだけなら馬車でいい。人を運ぶだけなら、歩けばいい。無理に危険な魔法を使わなくても、この世界にはこの世界なりの移動手段がある。

 だが、優の指は本の上で止まった。

 移す。

 ただ、それだけ。

 その言葉の単純さが、逆に引っかかった。

 火の魔法は燃やす。水の魔法は濡らす。風の魔法は動かす。どれも分かりやすい。けれど、転移魔法は違う。傷つけるとも、守るとも書かれていない。ただ場所を変えるだけ。

 なら。

 それを、移動のためだけに使わなければどうなる。

 優の頭の中で、何かが音を立てた。

 例えば、どれほど硬い鎧を着ている相手でも。どれほど大きな剣を持っている敵でも。目の前から、空の高い場所へ移してしまえばどうなる。

 地面のない場所。

 足場のない場所。

 自分の力では戻ってこられない場所。

 優の喉が、少し乾いた。

 さらに考えが進む。

 外から攻撃するから防がれる。盾で受けられる。鎧で止められる。壁に阻まれる。

 なら、外からではなく、内側に何かを移したら。

 小さな石。水。空気。

 ほんのわずかなものでも、絶対に入ってはいけない場所へ置けたなら。

「……いや」

 優は思わず口元を押さえた。

 自分で考えておきながら、背筋が冷えた。

 これは便利な思いつきではない。人を簡単に壊す発想だ。灯火で豆粒みたいな光を出して喜んでいた自分が、急にとんでもない崖の縁に立ったような気がした。

 だが、同時に思ってしまった。

 この魔法は、本当に不人気で終わらせていいものなのか。

 優は本を閉じ、椅子から立ち上がった。

 机の脚が床をこすり、静かな図書室にぎい、と音が響く。奥の机で資料を読んでいたリリアナが、視線だけを上げた。

「どうしたの」

「質問していいですか」

「内容によるわ」

 優は本を抱えたまま、彼女の前まで歩いた。木の床が足の下で小さく鳴る。窓の外から入ってくる夜風が、まだ乾ききっていない優の袖を冷たく撫でた。

「転移魔法って、物を別の場所に移す魔法ですよね」

「ええ」

「じゃあ、敵を……たとえば、ものすごく強い魔物を、空のすごく高いところに移したら、どうなるんですか」

 リリアナの指が止まった。

「……何?」

「倒す必要ないじゃないですか。場所を変えるだけでいい。地面のないところに移せば、それだけで――」

「待ちなさい」

 声が低くなった。

 優は口を閉じた。

 リリアナはゆっくりと眼鏡を外した。机の上に置く音が、やけに大きく響いた。

「あなた、今、転移魔法を攻撃に使うと言ったの?」

「攻撃っていうか……相手の場所を変えるだけです」

「それを攻撃と言うのよ」

「でも、剣で斬るより安全じゃないですか? いや、安全っていうのは変ですけど、こっちは近づかなくていいし、相手の鎧とか関係ないし」

 リリアナは黙った。

 長い沈黙だった。

 窓の外の風が、草を揺らす音だけが聞こえる。遠くの酒場の笑い声が、妙に遠く、別の世界の音のように感じられた。優の首筋に、冷や汗が滲む。言ってはいけないことを言ったのかもしれない。そんな不安が、心臓をじわじわ締めつける。

 やがて、リリアナは小さく呟いた。

「……発想が、危険すぎるわ」

「すみません」

「謝る必要はない」

 彼女の声は震えていた。

 怒りではない。

 驚きに近かった。

「ただ、信じられないだけよ。この世界の魔法使いは、長い間、転移は移動のための魔法だと思い込んできた。荷物を運ぶ。人を運ぶ。遠くへ行く。それだけだと」

「それ以外に考えなかったんですか」

「考えなかったのではなく、考えようとしなかったのかもしれないわ」

 リリアナは立ち上がった。

 椅子が床をこすり、薄暗い図書室に乾いた音が落ちた。

「物の見方を変えただけで、役に立たないとされていた魔法が、まったく別の顔を見せる。……面白いわね」

 その目が、静かに輝いていた。

 優は少しだけ後ずさった。

「リリアナさん?」

「実験するわ」

「え、今から?」

「今から」

「いや、さっき危険すぎるって言いましたよね?」

「だから、私が見るのよ」

 リリアナは棚へ向かい、古い木箱を取り出した。中から白い粉の入った小瓶と、細い筆を取り出す。床に膝をつき、迷いのない手つきで円を描き始めた。

 石の床の上に、白い線が滑っていく。

 円。小さな印。まっすぐな線。曲がる線。

 優には意味の分からない模様だったが、見ているだけで胸の奥がざわついた。どこかで見たことがあるような気がした。あの館の床。冷たい石。淡く光った模様。そこに立っていた自分。

 記憶の奥で、花畑の色が一瞬だけ揺れた。

 泣いている少女の横顔。

 すぐに消えた。

「優」

 リリアナの声で、現実に戻された。

「この石を、あの机の上に移して」

 彼女は指先ほどの小石を、円の中心に置いた。

 机までは、ほんの数歩。子供でも投げれば届く距離だ。

 それなのに、優の手のひらは汗ばんでいた。

「失敗したら?」

「私が止める」

「止められるんですか」

「たぶん」

「アンナさんみたいな言い方やめてください」

「集中しなさい」

 優は膝をつき、小石を見下ろした。

 小さい。

 軽い。

 灰色で、角が少し欠けている。

 これを、机の上へ。

 場所を思い描く。机の天板。木目。さっきまで本が置かれていたあたり。そこに小石が乗るところを、はっきり想像する。

 体の奥から、細い糸を伸ばす。

 押し込まない。

 暴れさせない。

 ただ、そっと差し出す。

「……移れ」

 小石が消えた。

 音はなかった。

 光も、煙もない。

 ただ、そこにあったはずの小石が、ふっと抜け落ちるように消えた。

 優は息を呑んだ。

 リリアナも目を見開いていた。

 二人は同時に机の上を見た。

 何もなかった。

「……ないですね」

「ないわね」

「どこ行ったんですか」

「それを探すのよ」

 二人は図書室中を探した。

 机の下。本棚の隙間。椅子の足元。積まれた本の影。優は床に這いつくばり、リリアナは光を浮かべて隅々まで照らした。

 そして、見つかった。

 リリアナの椅子の上に。

 小石は、まるで最初からそこにあったかのように、椅子の座面の真ん中にちょこんと乗っていた。

「……三メートルくらいずれてますね」

「壊滅的ね」

「言い方」

「でも、移った」

 リリアナの声は静かだった。

 しかし、その奥に熱があった。

「初めてで、対象が動いた。普通なら、石はびくともしない。あなたは失敗したんじゃない。大きく外しただけ」

「それ、ほぼ失敗では」

「ほぼ失敗よ」

「ですよね」

 優は肩を落とした。

 だが、胸の奥には確かな手応えがあった。

 消えた。

 そして、別の場所に現れた。

 それは、今までの魔法とは違う感覚だった。火が出る。水が降る。風が吹く。それらは自分から何かが外へあふれ出る感じだった。

 けれど今のは違った。

 世界の薄い布の端を、ほんの少しだけつまんで、ずらしたような感覚。

 怖い。

 けれど、知りたい。

「もう一回やっていいですか」

「次は、もっと分かりやすい対象にしましょう」

 リリアナは優の足元を見た。

「右の靴」

「靴?」

「自分がよく知っている物の方が、形をつかみやすいわ。机の上に移して」

「……分かりました」

 優は右足を見下ろした。

 何日も歩き回って、泥と埃が染み込んだ靴。革は少し硬く、つま先には細かな傷がある。中の形も分かる。足に馴染んだ重さも、脱ぐ時の感覚も。

 机の上へ。

 ただ、それだけ。

 優はさっきよりも慎重に、場所を思い描いた。

 机の上。

 机の上。

 机の――。

 ふっ。

 右足が、急に冷えた。

「え」

 靴が消えていた。

 優の右足だけが、靴下のまま床に着いている。石の床の冷たさが、薄い布越しにじわりと染み込んできた。

 二人は机の上を見た。

 何もない。

 椅子の上にもない。

 本棚の隙間にもない。

 床にもない。

 天井にも引っかかっていない。

「……リリアナさん」

「何」

「俺の靴、どこですか」

「さあ」

「さあ!?」

 リリアナは腕を組み、消えた靴があった場所をじっと見た。

「行き先を、最後まではっきり保てなかったのでしょうね。途中で思いが揺れた。だから、どこかへ飛んだ」

「どこかって、図書室の中ですか?」

「この街のどこかかもしれないわ」

「はい?」

「森の中かもしれない。川底かもしれない。大陸の反対側かもしれない」

「俺の靴、壮大な旅に出たんですか?」

「戻ってくる保証はないわ」

「靴に先を越された……」

 優は右足を上げ、靴下の裏を見た。

 冷たい。心も冷たい。

 しかし、リリアナは笑わなかった。

 彼女の表情は、急に厳しくなっていた。

「優」

 呼ばれた声に、優は顔を上げた。

「今の感覚を忘れないで。行き先を定めないまま移すというのは、そういうことよ。物なら笑い話で済む。靴なら買えばいい。でも、人だったら?」

 優の喉が止まった。

 図書室が、急に広く、冷たく感じられた。

 人だったら。

 さっき自分が考えたことが、脳裏に戻ってくる。

 敵を空の高い場所へ移す。内側に物を移す。防ぎようのない使い方。

 強い。

 便利。

 だが、それは一歩間違えれば、人をどこかへ消し飛ばす力でもある。

 優の背中を、冷たい汗が流れた。

 今度の沈黙は、さっきまでの気まずさとは違った。冗談を挟む余地のない沈黙だった。水滴の音も、紙の擦れる音もない。ただ、自分の心臓だけが、耳の奥で嫌にはっきり鳴っている。

「この力は、使い方を間違えれば、誰かを永遠に失わせる」

 リリアナは静かに言った。

「あなた自身も含めて」

「……はい」

「怖がりなさい。けれど、逃げてはいけない。怖さを知っている人間だけが、力を扱える」

 優は裸足の右足を床につけた。

 石の冷たさが、骨まで染みるようだった。

「忘れません」

 その返事に、リリアナは小さく頷いた。

 それ以上、何も言わなかった。

 その深夜。

 リリアナは図書室のさらに奥、自分だけが使う小さな研究室にいた。

 壁一面に黒板があり、そこには細かな文字と線が隙間なく書き込まれている。机の上には、優の練習記録、力の流れを描いた紙、消えた靴についての走り書きが並んでいた。

 窓から月明かりが差し込んでいる。

 銀色の光は、埃っぽい部屋を静かに照らした。積まれた本の影が床に長く伸び、インク壺の縁に淡い光が宿っている。外は静かだった。昼間の喧騒が嘘のように消え、時折、夜風が窓枠をかすかに鳴らすだけだった。

 リリアナは椅子に座り、今日の記録を読み返していた。

 初回、石の移動に成功。ただし、狙いから大きく外れる。

 二回目、靴が消失。行き先は不明。

 書いてから、彼女は小さく苦笑した。

「靴を行方不明にする弟子なんて、聞いたことがないわね」

 だが、笑みはすぐに消えた。

 視線は、机の端に置かれた一枚の紙へ向かう。

 優の力の流れを写した図。

 そこに見える形は、十五年間、彼女が追い続けてきたものにあまりにも近かった。

 十五年。

 その時間を思うと、胸の奥が静かに軋んだ。

 まだ若かった頃、リリアナには師がいた。

 厳しく、偏屈で、褒めることの少ない人だった。けれど、夜遅くまで研究に付き合ってくれた。失敗して落ち込むと、何も言わず温かい茶を机に置いてくれた。誰も見向きもしない古い魔法の話を、目を輝かせて語る人だった。

 ある日、その人は消えた。

 光に包まれ、声を上げる間もなく。

 遺体も、手がかりも、行き先も残らなかった。

 ただ、焦げ跡ひとつない床と、途中で止まった研究ノートだけが残った。

 それからリリアナは、ずっと探していた。

 師がどこへ行ったのか。

 なぜ消えたのか。

 死んだのか。

 それとも、どこかでまだ生きているのか。

 周囲は笑った。

 そんな古い魔法に意味はないと言った。消えた人間は戻らないと言った。過去にしがみつくなと言った。

 研究の場を失い、資金を失い、最後に残ったのが、このギルドの図書室だった。

 紙と埃と静けさに囲まれた場所。

 誰にも期待されない研究を、ただ一人で続ける場所。

 リリアナは新しい紙を取り出した。

 月明かりの中で、ペン先にインクを含ませる。黒い雫が小さく震え、紙に触れた瞬間、細い線になった。

 ――佐藤優の転移は、古い転移魔法の自然な発動である可能性が高い。

 ――彼の力の流れを調べることで、師の消失の理由に近づける可能性がある。

 そこまで書いて、ペンが止まった。

 窓の外を見た。

 月は静かだった。

 返事をくれる人は、もういない。

 それでも、リリアナは小さく呟いた。

「……十五年。やっと、手がかりが見つかったのかもしれないわ」

 その声は、誰に届くこともなく、月明かりの中へ溶けていった。

 けれど彼女は、初めて少しだけ思った。

 消えたものは、すべて失われるとは限らない。

 もしかしたら。

 本当に、もしかしたら。

 どこかへ行ってしまった靴のように。

 あの人もまた、どこかで――まだ、待っているのかもしれない。
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侯爵家に嫁いで五年。ルチアは夫エミルの領地会計・社交・使用人管理を全て一人で担ってきた。だがエミルはいつも幼馴染のアリーチェを優先する。「アリーチェは体が弱いんだ、お前とは違う」——その言葉を百回聞いた日、ルチアは微笑んで離縁届に署名した。「ええ、私は丈夫ですから。どうぞ幼馴染様をお大事に」。翌朝、エミルが目にしたのは——税務報告の締切、領民からの陳情の山、そして紅茶の淹れ方すら知らない自分。三ヶ月後、かつて「地味な妻」と呼ばれたルチアは、辺境伯の財務顧問として辣腕を振るっていた。

死亡予定者リストに娘の名前があったので、俺は世界を書き換えることにした

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給料が減った。 
家族には言えなかった。
 だから俺は、深夜のデータ入力バイトを始めた。 仕事内容は、送られてくる名前や数字を入力するだけ。 
在宅可。 未経験歓迎。 高報酬。
 怪しいとは思った。
 けれど、住宅ローンも、子供の習い事も、妻がスーパーで黙って棚に戻した牛肉も、俺には見なかったことにできなかった。 ある夜、入力画面に奇妙な項目が現れる。 【死亡予定時刻】
 【死亡原因】 
【修正可否】 悪趣味な冗談だと思った。
 だが、リストに載っていた人間が、翌朝のニュースで本当に死んだ。 そして数日後。
 俺は、死亡予定者リストの中に娘の名前を見つける。 【佐藤美月 十歳】
 【死亡予定時刻:明日十五時四十二分】
 【死亡原因:第七級異界災害による巻き込み】
 【修正可否:条件付き可】 俺は英雄じゃない。
 世界を救いたいわけでもない。 
ただ、娘の名前を死亡欄から消したかっただけだ。 これは、会社で無能扱いされていた四十二歳の社畜が、深夜バイトで手に入れた《修正入力》の力で、死亡予定者リストを書き換えていく物語。

私はダンジョンの中に部屋を所有しており、今はそこに住んでいます。仲間に裏切られた後、ゼロからやり直しています。

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レオは「月のダンジョン」を攻略したパーティーのエリート弓使いだった。名声、強い仲間、そして守ると誓った恋人、アンナ。しかし、一杯のジュースと「可愛い」笑顔が、彼の栄光を灰に変えた。身に覚えのない罪を着せられ、信頼していた仲間に全てを奪われたレオは、雨の中に放り出される。唯一の逃げ場は、旅が始まったあの場所――月のダンジョンの深淵だった。

減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる

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会社で減給を告げられた佐藤誠司、四十二歳。
妻と二人の子どもを養うため、彼は深夜のデータ入力バイトを始める。 仕事内容は、地下施設のログを確認し、異常値を修正するだけ。
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「お前の泥だらけの手で触るな、気持ち悪い」と追放された令嬢——王宮の食器が一枚も焼けなくなった

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「お前の泥だらけの手で触るな、気持ち悪い」——王宮御用達の食器を焼く伯爵令嬢エルザは、婚約者の第二王子に手の荒れを嗤われて追放された。十二歳から十年間、王宮の全ての食器を手ずから焼いてきた。彼女の食器は特殊な土と焼成技術で魔力を通し、毒に触れると色が変わる。料理の温度も保つ。追放から三ヶ月後、晩餐会で新しい食器を使ったところ、毒が検知されず隣国の大使が倒れた。外交問題に発展する中、第二王子が「食器くらい誰でも焼ける」と窯に立った結果、出来上がったのは歪んだ灰色の皿だった。

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「お遊戯で子を育てるな」と追放された宮廷養育係——前世の保育士が作った遊びの教育を、王立学院が丸ごと導入した

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「子供に歌を教え、絵を描かせ、庭で走り回らせる——それが教育だと? ふざけるな」 侯爵令嬢マリカは婚約者にそう嘲笑され、宮廷養育係の職を解かれた。 前世で保育士だった彼女が行っていたのは、遊びに見せかけた発達支援プログラム。数を数える鬼ごっこ、言葉を覚える歌遊び、協調性を育む共同制作——子供たちは「楽しい」と笑いながら、同年代の二年先を進んでいた。 マリカが去り、旧来の家庭教師が戻った途端、子供たちは勉強を拒否し始めた。 王立学院の入学試験で辺境の子供たちが首席を独占したとき——「お遊戯」の本当の意味が明かされる。

魔王を倒した勇者を迫害した人間様方の末路はなかなか悲惨なようです。

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勇者ロキは長い冒険の末魔王を討伐する。 だが、人間の王エスカダルはそんな英雄であるロキをなぜか認めず、 ロキに身の覚えのない罪をなすりつけて投獄してしまう。 国民たちもその罪を信じ勇者を迫害した。 そして、処刑場される間際、勇者は驚きの発言をするのだった。