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第6話 転移魔法は不人気スキル? いや、見方次第で神スキルだ! 〜見方を変えることは、眠っていた力を呼び起こすことである〜
灯火の小さな光が、あの日、図書室の薄暗がりに浮かんでから、一週間が過ぎた。
それからの優の日々は、ほとんど図書室に閉じ込められるようなものだった。
朝、宿の窓から差し込む光で目を覚まし、硬いパンを水で流し込む。まだ人通りの少ない石畳の道を歩くと、靴底がこつ、こつ、と乾いた音を立てた。夜露の残った草が道端で細く揺れ、朝日を受けた露の粒が、まるで小さな火花のように瞬いている。
この世界の朝は、やけに鮮やかだった。
日本にいた頃、優は朝の光などまともに見ていなかった。スマホの画面越しに時間を確認し、眠い目をこすりながらバイト先へ向かうだけ。空の色も、風の匂いも、靴音の響きも、ただ背景として流れていった。
けれど今は違う。
石造りの街並みの隙間を抜ける風が、首筋を冷たく撫でる。遠くの市場から聞こえる荷車の軋み。焼きたてのパンの匂い。ギルドの扉を開けた瞬間に漂う、紙と木とインクの混ざった匂い。
その全部が、妙に現実味を帯びていた。
そして、その現実味の中心にいるのが――。
「遅い」
図書室の奥で、リリアナが本を片手に立っていた。
窓から斜めに差し込む午前の光が、彼女の紫色の髪の端を淡く照らしている。積み上げられた本の背表紙には埃が薄く積もり、光の筋の中で細かな粒がゆっくりと漂っていた。
「いや、まだ開始時間の五分前ですけど」
「私が待っていた時点で遅いのよ」
「理不尽すぎる……」
優は小さく息を吐き、机の前に立った。
今日は火の基礎魔法の練習だった。
リリアナは小さな黒板に、簡単な図を描いている。難しい説明は極力避けてくれるのだが、それでも彼女の説明は時々、優の頭から煙が出そうになるほど細かい。
「火の魔法は、力を押し込めばいいわけではないわ。火種を作るだけ。必要なのは、ほんの少し」
「ほんの少し」
「そう。手のひらに小さな火を灯す。それだけよ」
「なるほど」
優は右手を前に出した。
深呼吸をする。肺に入った空気が、少しだけ冷たい。手のひらの中心に意識を集める。体の奥にある何かを、細い糸のように引き寄せる感覚。
灯火の時と同じだ。
ただ、今回は光ではなく、火。
優は慎重に呟いた。
「点火」
ぼっ。
小さな炎が――灯るはずだった。
実際に起きたのは、手のひらの上で軽く弾けた火花と、鼻先をかすめる熱風だった。
「熱っ!」
優は反射的に仰け反った。
じり、と嫌な匂いがした。
焼けた草のような、焦げた髪のような、鼻の奥にへばりつく匂い。
リリアナが無言で優の顔を見た。
「……右の眉」
「え?」
「半分、ないわ」
「えええええっ!?」
優は近くの銀製の皿を掴み、自分の顔を映した。揺れる金属の表面に、情けない顔が映る。右の眉毛が、見事に途中で途切れていた。
「ちょっ、これ戻りますよね!? 眉毛って戻りますよね!?」
「時間が経てば」
「今すぐの話をしてるんですけど!」
「魔法で生やすほどの価値はないわね」
「ありますよ! 俺の顔面にとっては重大事件ですよ!」
リリアナは本当に少しだけ、口元を動かした。
笑ったのか、鼻で笑ったのか、優には判断できなかった。
「出しすぎ。力を注ぐんじゃない。差し出すの」
「その大事な表現、先に聞きたかったです」
「今、聞いたでしょう」
「眉毛を犠牲にしてですけどね!」
図書室の空気が、ほんの少し緩んだ。
窓の外で風が吹き、木の葉が乾いた音を立てて揺れた。差し込む光の筋がわずかに揺らぎ、舞っていた埃がその中で小さく回る。
だが、和やかな時間は長く続かなかった。
次は水の練習だった。
「水球。手のひらの上に水の球を作るだけ。火より安全よ」
「その言葉、信じていいんですよね?」
「火傷はしないわ」
「違う被害が出る言い方やめてもらえます?」
優は濡れてもよさそうな床の中央に立たされた。周囲の本棚には、リリアナがあらかじめ薄い光の膜を張っている。
その時点で嫌な予感しかしなかった。
「落ち着いて。水を集める。形を丸く保つ。ただそれだけ」
「水を集める。丸く保つ……」
優は手の上に意識を集中させた。
今度こそ慎重に。眉毛の悲劇を繰り返してはいけない。
体の奥の力を、細く、薄く、そっと出す。
「水球」
ざばっ。
手の上ではなかった。
優の頭の真上から、桶をひっくり返したような水が落ちてきた。
「ぶはっ!」
髪が額に張りつき、服が一瞬で重くなる。襟元から背中へ冷たい水が流れ込み、優は情けない声を漏らした。床に水が広がり、石の隙間を伝って机の足元へ流れていく。
リリアナは一歩も動いていなかった。
だが、書架だけは完璧に守られていた。光の膜に水滴が当たり、ぱらぱらと弾けて床に落ちる。
「……本は無事ね」
「俺は無事じゃないんですけど」
「本が無事なら、この図書室としては無事よ」
「俺の扱い、備品以下なんですね」
「備品は濡らさないもの」
「俺だって好きで濡れてるわけじゃない!」
ぽた、ぽた、と前髪から水滴が落ちる。
静かな図書室に、その音だけが妙にはっきり響いた。水が床に当たるたび、小さな丸い跡ができ、窓の光を受けて薄く光った。
リリアナは濡れ鼠になった優を見つめ、淡々と言った。
「形を作る前に、量を呼びすぎているわね」
「量を呼ぶっていうか、雨雲が俺だけを狙撃してきた感じなんですけど」
「比喩としては悪くないわ」
「褒められても嬉しくない!」
火で眉を失い、水で尊厳を失った。
それでも訓練は終わらなかった。
最後は風だった。
リリアナは床に広がった水を片付けると、机の上に積んでいた資料を確認した。紙の束が三つ。古い羊皮紙が二枚。厚みのある本が数冊。
優はそれを見て、嫌な汗が背中を伝うのを感じた。
「待ってください。風ですよね?」
「そうよ」
「その資料、しまった方がよくないですか?」
「微風の練習よ。紙一枚、揺れるかどうかの風で十分」
「俺の今日の実績、見てました?」
「見ていたから、必要なのよ」
「その理屈、全然わからない」
優は両手を前に出した。
もう失敗できない。少なくとも、これ以上リリアナの機嫌を損ねるわけにはいかない。
風。
そよ風。
草の先を撫でる程度。頬に触れる程度。カーテンをわずかに揺らす程度。
優は丁寧に、丁寧に力を差し出す。
「微風」
ごおおおおっ。
図書室の奥から入り口へ向かって、突風が走り抜けた。
積み上げられていた資料が一斉に舞い上がる。羊皮紙が鳥の群れのように天井近くまで跳ね、薄い紙片が白い吹雪になって光の中を乱れ飛んだ。本のページが勝手にめくれ、椅子が床を引っ掻いて嫌な音を立てる。
優の濡れた髪も、風に煽られて後ろへ持っていかれた。
「うわっ、うわわわわ!」
数秒後。
風が止んだ。
図書室は、戦場のようになっていた。
紙が床に散り、机の上のインク壺が倒れかけ、椅子が一脚横を向いている。天井の梁に引っかかった紙が、ひらひらと虚しく揺れていた。
リリアナは、額に手を当てて立っていた。
長い沈黙が落ちた。
それは、ただ音がないだけの沈黙ではなかった。
水滴が床に落ちる音すら遠慮しているような、紙の一枚が滑る音すら罪に感じるような、重たい沈黙だった。
「……あなた」
「はい」
「加減という言葉を知っている?」
「知識としては」
「実践して」
「努力します」
「今すぐ」
「はい」
リリアナは天井に引っかかった紙を見上げた。
そして、小さく息を吐いた。
「火は焦げる。水は降る。風は荒れる。実に分かりやすいわね」
「俺の失敗を自然災害みたいに分類しないでください」
「自然災害の方が、まだ予測できるわ」
「ひどい」
だが、その言葉とは裏腹に、リリアナの目は冷たくなかった。
優は気づかなかったが、彼女は散らばった紙ではなく、優の手元を見ていた。失敗ばかりの練習。そのすべてで、優は確かに魔法を起こしていた。初心者なら、そもそも火花すら出ない。水滴ひとつ作れず、風も動かせない者がほとんどだ。
出しすぎる。
呼びすぎる。
広がりすぎる。
それは欠点だった。だが同時に、最初から空っぽの者には起こり得ない失敗でもあった。
リリアナは胸の奥でだけ呟いた。
――力はある。ありすぎるくらいに。問題は、細い針の穴に川を流し込もうとしていること。
それを口には出さなかった。
今の優に伝えれば、調子に乗るか、怖がるか、そのどちらかだと思ったからだ。
夕方近くになり、練習はようやく終わった。
西日が図書室の窓から斜めに入り込み、床に長い影を落としている。散らばった紙は何とか元の束に戻され、本棚の光の膜も消えた。外からは、帰路につく人々の足音がかすかに聞こえる。石畳を踏む靴音が、遠くで重なり、また離れていく。
優は椅子に沈み込んだ。
眉毛は半分ない。服はまだ少し湿っている。腕はだるく、指先には細かい疲れが残っていた。
「俺、魔法向いてないんじゃないですかね」
ぽつりと漏らした言葉は、自分でも驚くほど弱かった。
リリアナは棚から一枚の大きな紙を取り出し、机に広げた。
「向いていない人間は、失敗すら起こせないわ」
「慰めですか?」
「事実よ」
紙には、魔法の種類が大きく分けて書かれていた。
火や氷、雷のように敵を攻めるもの。
盾や壁を作って身を守るもの。
傷を癒やすもの。
体や武器を強くするもの。
何かを呼び出すもの。
そして、端の方に小さくまとめられた、見つける、惑わす、移す、といった補助の魔法。
リリアナは指先で紙を軽く叩いた。
「あなたは、どれに興味がある?」
何気ない問いのようだった。
だが、彼女の瞳は静かに優を見ていた。
紫色の瞳の奥に、紙の文字よりも細かな何かを読み取ろうとする光があった。
優は表を眺めた。
火。水。風。守り。癒やし。強化。呼び出し。
どれも、この世界で生きるには必要なのだろう。強い攻撃魔法があれば、もう魔物に怯えなくて済むかもしれない。防御魔法が使えれば、三度も誰かに助けられることもなかったかもしれない。
けれど。
優の視線は、端の小さな文字で止まった。
移す魔法。
人や物を、別の場所へ移す魔法。
胸の奥が、静かに鳴った気がした。
森に落ちた夜。
見知らぬ館。
床に刻まれていた、あの不思議な模様。
そして、転移の瞬間に見た、花畑と泣いている少女の幻。
自分は、なぜここに来たのか。
誰が、何のために。
帰れるのか。
帰りたいのか。
答えは何ひとつなかった。ただ、その小さな文字だけが、優の目に焼き付いて離れなかった。
「……転移魔法」
優が呟くと、リリアナは表情を変えなかった。
ただ、指先がほんのわずかに止まった。
「ああ、あれね」
声は淡々としていた。
まるで、特に興味もない項目を読み上げるように。
「古くからある魔法よ。物や人を別の場所へ移す。ただし、使う力が大きいわりに、できることは地味。荷物を運ぶなら馬車の方が安いし、人を運ぶなら安全な街道を使えばいい。研究している者も少ない。人気はないわね」
「でも」
優は、思わず身を乗り出した。
「俺がこの世界に来たのって、たぶんそれに関係ありますよね。あの館の床にあった模様も、もしかしたら。俺、自分がなんでここにいるのか知りたいんです。そのためには、転移魔法を知らなきゃいけない気がする」
言葉にすると、胸の奥が熱くなった。
それは、強くなりたいという願いとは少し違った。
生き延びるためだけでもない。
自分の身に起きたことから、もう目を逸らしたくない。
誰にも必要とされていないと思っていた自分が、なぜこの世界へ来たのか。その理由があるなら、知りたかった。理由がないなら、ないと確かめたかった。
リリアナはしばらく黙っていた。
窓の外で、夕方の風が草を揺らしている。葉と葉が擦れる乾いた音が、開いた窓から微かに入ってきた。図書室の中には、古い紙の匂いと、冷めたインクの匂いが満ちている。
「個人的な理由ね」
「はい」
「研究の入り口としては、あまり褒められたものではないわ」
「でも、俺にとっては一番本気になれる理由です」
リリアナは目を伏せた。
その横顔に、西日の赤が淡くかかる。長い睫毛が頬に細い影を落とした。
ほんの短い沈黙の後、彼女は紙を畳んだ。
「……いいわ。好きにしなさい」
「いいんですか?」
「ただし、火も水も風も、基礎は続けること。転移魔法は、ただ力が大きければ使えるものではないわ。むしろ逆。ほんの少しのずれが、取り返しのつかない失敗になる」
リリアナの声が、少しだけ低くなった。
優は、濡れた袖を握りしめたまま頷いた。
「今のあなたでは、自分の靴を少し先へ移すのがやっとでしょうね」
「靴ですか」
「ええ。しかも、成功すればの話」
「失敗したら?」
リリアナは、畳んだ紙を机の端に置いた。
そして、優の目をまっすぐ見た。
「どこへ行ったか、誰にも分からなくなるかもしれない」
その一言だけで、図書室の空気が変わった。
さっきまでの失敗続きの笑いが、静かに遠ざかる。窓の外の足音も、人の声も、急に遠くなったように感じた。
優の背中に、冷たいものが這った。
火で眉を焦がすのとは違う。
水をかぶるのとも違う。
風で紙を散らすのとも違う。
この魔法には、笑って済ませられない何かがある。
そう、はっきりと分かった。
リリアナは席を立ち、奥の書架へ向かった。高い棚から、革表紙の古びた本を一冊抜き取る。表紙は擦り切れ、角は丸くなっていた。長い年月、誰にも開かれずにいたような本だった。
「入門書よ。今夜はこれを読みなさい」
優は両手でそれを受け取った。
本は思ったより重かった。
古い紙の匂いがした。
その重さが、これから踏み込むものの重さのように思えた。
「ありがとうございます」
「読むだけにしておきなさい。試すのは、私がいる時だけ」
「……そんなに危ないんですか」
「危ないわ」
リリアナは即答した。
その声には、先ほどまでの呆れも、からかいもなかった。
「けれど、だからこそ――あなたがそれを選んだ意味は、あるのかもしれない」
優が顔を上げた時、リリアナはもう机の上の資料へ視線を戻していた。
夕日がさらに傾き、図書室の床に伸びた影が、ゆっくりと優の足元まで届いていた。
優は古びた本を胸に抱えた。
半分焦げた眉毛。まだ湿った服。疲れ切った体。
それでも、胸の奥だけは妙に熱かった。
自分がここにいる理由。
その端に、ようやく指先が触れた気がした。
宿に戻る前、優は図書室の片隅に残った。
西日はすっかり落ち、窓の外には夜が薄く広がり始めていた。街の喧騒はまだ遠くに残っている。酒場から漏れる笑い声、荷車の車輪が石畳を削る音、どこかの家の扉が閉まる鈍い音。それらは分厚い壁と本棚に吸い込まれ、図書室の奥までは、柔らかく丸まった気配だけが届いていた。
机の上には、リリアナから渡された古い本が開かれている。
紙は黄ばんでいて、端が少し波打っていた。指で触れると、乾いた葉のようにかさりと音がする。文字は細かく、ところどころインクが薄れている。優は眉間にしわを寄せながら、何度も同じ行を読み返した。
転移魔法。
対象を、別の場所へ移す魔法。
使うには、移す物の重さ、大きさ、形を正確に知る必要がある。さらに、移す先をはっきり思い描かなければならない。近ければ近いほど楽で、遠ければ遠いほど力を食う。重ければ重いほど難しく、細かな場所を狙うほど危険が増す。
優は、ゆっくり息を吐いた。
「……そりゃ、人気ないわ」
荷物を運ぶだけなら馬車でいい。人を運ぶだけなら、歩けばいい。無理に危険な魔法を使わなくても、この世界にはこの世界なりの移動手段がある。
だが、優の指は本の上で止まった。
移す。
ただ、それだけ。
その言葉の単純さが、逆に引っかかった。
火の魔法は燃やす。水の魔法は濡らす。風の魔法は動かす。どれも分かりやすい。けれど、転移魔法は違う。傷つけるとも、守るとも書かれていない。ただ場所を変えるだけ。
なら。
それを、移動のためだけに使わなければどうなる。
優の頭の中で、何かが音を立てた。
例えば、どれほど硬い鎧を着ている相手でも。どれほど大きな剣を持っている敵でも。目の前から、空の高い場所へ移してしまえばどうなる。
地面のない場所。
足場のない場所。
自分の力では戻ってこられない場所。
優の喉が、少し乾いた。
さらに考えが進む。
外から攻撃するから防がれる。盾で受けられる。鎧で止められる。壁に阻まれる。
なら、外からではなく、内側に何かを移したら。
小さな石。水。空気。
ほんのわずかなものでも、絶対に入ってはいけない場所へ置けたなら。
「……いや」
優は思わず口元を押さえた。
自分で考えておきながら、背筋が冷えた。
これは便利な思いつきではない。人を簡単に壊す発想だ。灯火で豆粒みたいな光を出して喜んでいた自分が、急にとんでもない崖の縁に立ったような気がした。
だが、同時に思ってしまった。
この魔法は、本当に不人気で終わらせていいものなのか。
優は本を閉じ、椅子から立ち上がった。
机の脚が床をこすり、静かな図書室にぎい、と音が響く。奥の机で資料を読んでいたリリアナが、視線だけを上げた。
「どうしたの」
「質問していいですか」
「内容によるわ」
優は本を抱えたまま、彼女の前まで歩いた。木の床が足の下で小さく鳴る。窓の外から入ってくる夜風が、まだ乾ききっていない優の袖を冷たく撫でた。
「転移魔法って、物を別の場所に移す魔法ですよね」
「ええ」
「じゃあ、敵を……たとえば、ものすごく強い魔物を、空のすごく高いところに移したら、どうなるんですか」
リリアナの指が止まった。
「……何?」
「倒す必要ないじゃないですか。場所を変えるだけでいい。地面のないところに移せば、それだけで――」
「待ちなさい」
声が低くなった。
優は口を閉じた。
リリアナはゆっくりと眼鏡を外した。机の上に置く音が、やけに大きく響いた。
「あなた、今、転移魔法を攻撃に使うと言ったの?」
「攻撃っていうか……相手の場所を変えるだけです」
「それを攻撃と言うのよ」
「でも、剣で斬るより安全じゃないですか? いや、安全っていうのは変ですけど、こっちは近づかなくていいし、相手の鎧とか関係ないし」
リリアナは黙った。
長い沈黙だった。
窓の外の風が、草を揺らす音だけが聞こえる。遠くの酒場の笑い声が、妙に遠く、別の世界の音のように感じられた。優の首筋に、冷や汗が滲む。言ってはいけないことを言ったのかもしれない。そんな不安が、心臓をじわじわ締めつける。
やがて、リリアナは小さく呟いた。
「……発想が、危険すぎるわ」
「すみません」
「謝る必要はない」
彼女の声は震えていた。
怒りではない。
驚きに近かった。
「ただ、信じられないだけよ。この世界の魔法使いは、長い間、転移は移動のための魔法だと思い込んできた。荷物を運ぶ。人を運ぶ。遠くへ行く。それだけだと」
「それ以外に考えなかったんですか」
「考えなかったのではなく、考えようとしなかったのかもしれないわ」
リリアナは立ち上がった。
椅子が床をこすり、薄暗い図書室に乾いた音が落ちた。
「物の見方を変えただけで、役に立たないとされていた魔法が、まったく別の顔を見せる。……面白いわね」
その目が、静かに輝いていた。
優は少しだけ後ずさった。
「リリアナさん?」
「実験するわ」
「え、今から?」
「今から」
「いや、さっき危険すぎるって言いましたよね?」
「だから、私が見るのよ」
リリアナは棚へ向かい、古い木箱を取り出した。中から白い粉の入った小瓶と、細い筆を取り出す。床に膝をつき、迷いのない手つきで円を描き始めた。
石の床の上に、白い線が滑っていく。
円。小さな印。まっすぐな線。曲がる線。
優には意味の分からない模様だったが、見ているだけで胸の奥がざわついた。どこかで見たことがあるような気がした。あの館の床。冷たい石。淡く光った模様。そこに立っていた自分。
記憶の奥で、花畑の色が一瞬だけ揺れた。
泣いている少女の横顔。
すぐに消えた。
「優」
リリアナの声で、現実に戻された。
「この石を、あの机の上に移して」
彼女は指先ほどの小石を、円の中心に置いた。
机までは、ほんの数歩。子供でも投げれば届く距離だ。
それなのに、優の手のひらは汗ばんでいた。
「失敗したら?」
「私が止める」
「止められるんですか」
「たぶん」
「アンナさんみたいな言い方やめてください」
「集中しなさい」
優は膝をつき、小石を見下ろした。
小さい。
軽い。
灰色で、角が少し欠けている。
これを、机の上へ。
場所を思い描く。机の天板。木目。さっきまで本が置かれていたあたり。そこに小石が乗るところを、はっきり想像する。
体の奥から、細い糸を伸ばす。
押し込まない。
暴れさせない。
ただ、そっと差し出す。
「……移れ」
小石が消えた。
音はなかった。
光も、煙もない。
ただ、そこにあったはずの小石が、ふっと抜け落ちるように消えた。
優は息を呑んだ。
リリアナも目を見開いていた。
二人は同時に机の上を見た。
何もなかった。
「……ないですね」
「ないわね」
「どこ行ったんですか」
「それを探すのよ」
二人は図書室中を探した。
机の下。本棚の隙間。椅子の足元。積まれた本の影。優は床に這いつくばり、リリアナは光を浮かべて隅々まで照らした。
そして、見つかった。
リリアナの椅子の上に。
小石は、まるで最初からそこにあったかのように、椅子の座面の真ん中にちょこんと乗っていた。
「……三メートルくらいずれてますね」
「壊滅的ね」
「言い方」
「でも、移った」
リリアナの声は静かだった。
しかし、その奥に熱があった。
「初めてで、対象が動いた。普通なら、石はびくともしない。あなたは失敗したんじゃない。大きく外しただけ」
「それ、ほぼ失敗では」
「ほぼ失敗よ」
「ですよね」
優は肩を落とした。
だが、胸の奥には確かな手応えがあった。
消えた。
そして、別の場所に現れた。
それは、今までの魔法とは違う感覚だった。火が出る。水が降る。風が吹く。それらは自分から何かが外へあふれ出る感じだった。
けれど今のは違った。
世界の薄い布の端を、ほんの少しだけつまんで、ずらしたような感覚。
怖い。
けれど、知りたい。
「もう一回やっていいですか」
「次は、もっと分かりやすい対象にしましょう」
リリアナは優の足元を見た。
「右の靴」
「靴?」
「自分がよく知っている物の方が、形をつかみやすいわ。机の上に移して」
「……分かりました」
優は右足を見下ろした。
何日も歩き回って、泥と埃が染み込んだ靴。革は少し硬く、つま先には細かな傷がある。中の形も分かる。足に馴染んだ重さも、脱ぐ時の感覚も。
机の上へ。
ただ、それだけ。
優はさっきよりも慎重に、場所を思い描いた。
机の上。
机の上。
机の――。
ふっ。
右足が、急に冷えた。
「え」
靴が消えていた。
優の右足だけが、靴下のまま床に着いている。石の床の冷たさが、薄い布越しにじわりと染み込んできた。
二人は机の上を見た。
何もない。
椅子の上にもない。
本棚の隙間にもない。
床にもない。
天井にも引っかかっていない。
「……リリアナさん」
「何」
「俺の靴、どこですか」
「さあ」
「さあ!?」
リリアナは腕を組み、消えた靴があった場所をじっと見た。
「行き先を、最後まではっきり保てなかったのでしょうね。途中で思いが揺れた。だから、どこかへ飛んだ」
「どこかって、図書室の中ですか?」
「この街のどこかかもしれないわ」
「はい?」
「森の中かもしれない。川底かもしれない。大陸の反対側かもしれない」
「俺の靴、壮大な旅に出たんですか?」
「戻ってくる保証はないわ」
「靴に先を越された……」
優は右足を上げ、靴下の裏を見た。
冷たい。心も冷たい。
しかし、リリアナは笑わなかった。
彼女の表情は、急に厳しくなっていた。
「優」
呼ばれた声に、優は顔を上げた。
「今の感覚を忘れないで。行き先を定めないまま移すというのは、そういうことよ。物なら笑い話で済む。靴なら買えばいい。でも、人だったら?」
優の喉が止まった。
図書室が、急に広く、冷たく感じられた。
人だったら。
さっき自分が考えたことが、脳裏に戻ってくる。
敵を空の高い場所へ移す。内側に物を移す。防ぎようのない使い方。
強い。
便利。
だが、それは一歩間違えれば、人をどこかへ消し飛ばす力でもある。
優の背中を、冷たい汗が流れた。
今度の沈黙は、さっきまでの気まずさとは違った。冗談を挟む余地のない沈黙だった。水滴の音も、紙の擦れる音もない。ただ、自分の心臓だけが、耳の奥で嫌にはっきり鳴っている。
「この力は、使い方を間違えれば、誰かを永遠に失わせる」
リリアナは静かに言った。
「あなた自身も含めて」
「……はい」
「怖がりなさい。けれど、逃げてはいけない。怖さを知っている人間だけが、力を扱える」
優は裸足の右足を床につけた。
石の冷たさが、骨まで染みるようだった。
「忘れません」
その返事に、リリアナは小さく頷いた。
それ以上、何も言わなかった。
その深夜。
リリアナは図書室のさらに奥、自分だけが使う小さな研究室にいた。
壁一面に黒板があり、そこには細かな文字と線が隙間なく書き込まれている。机の上には、優の練習記録、力の流れを描いた紙、消えた靴についての走り書きが並んでいた。
窓から月明かりが差し込んでいる。
銀色の光は、埃っぽい部屋を静かに照らした。積まれた本の影が床に長く伸び、インク壺の縁に淡い光が宿っている。外は静かだった。昼間の喧騒が嘘のように消え、時折、夜風が窓枠をかすかに鳴らすだけだった。
リリアナは椅子に座り、今日の記録を読み返していた。
初回、石の移動に成功。ただし、狙いから大きく外れる。
二回目、靴が消失。行き先は不明。
書いてから、彼女は小さく苦笑した。
「靴を行方不明にする弟子なんて、聞いたことがないわね」
だが、笑みはすぐに消えた。
視線は、机の端に置かれた一枚の紙へ向かう。
優の力の流れを写した図。
そこに見える形は、十五年間、彼女が追い続けてきたものにあまりにも近かった。
十五年。
その時間を思うと、胸の奥が静かに軋んだ。
まだ若かった頃、リリアナには師がいた。
厳しく、偏屈で、褒めることの少ない人だった。けれど、夜遅くまで研究に付き合ってくれた。失敗して落ち込むと、何も言わず温かい茶を机に置いてくれた。誰も見向きもしない古い魔法の話を、目を輝かせて語る人だった。
ある日、その人は消えた。
光に包まれ、声を上げる間もなく。
遺体も、手がかりも、行き先も残らなかった。
ただ、焦げ跡ひとつない床と、途中で止まった研究ノートだけが残った。
それからリリアナは、ずっと探していた。
師がどこへ行ったのか。
なぜ消えたのか。
死んだのか。
それとも、どこかでまだ生きているのか。
周囲は笑った。
そんな古い魔法に意味はないと言った。消えた人間は戻らないと言った。過去にしがみつくなと言った。
研究の場を失い、資金を失い、最後に残ったのが、このギルドの図書室だった。
紙と埃と静けさに囲まれた場所。
誰にも期待されない研究を、ただ一人で続ける場所。
リリアナは新しい紙を取り出した。
月明かりの中で、ペン先にインクを含ませる。黒い雫が小さく震え、紙に触れた瞬間、細い線になった。
――佐藤優の転移は、古い転移魔法の自然な発動である可能性が高い。
――彼の力の流れを調べることで、師の消失の理由に近づける可能性がある。
そこまで書いて、ペンが止まった。
窓の外を見た。
月は静かだった。
返事をくれる人は、もういない。
それでも、リリアナは小さく呟いた。
「……十五年。やっと、手がかりが見つかったのかもしれないわ」
その声は、誰に届くこともなく、月明かりの中へ溶けていった。
けれど彼女は、初めて少しだけ思った。
消えたものは、すべて失われるとは限らない。
もしかしたら。
本当に、もしかしたら。
どこかへ行ってしまった靴のように。
あの人もまた、どこかで――まだ、待っているのかもしれない。
それからの優の日々は、ほとんど図書室に閉じ込められるようなものだった。
朝、宿の窓から差し込む光で目を覚まし、硬いパンを水で流し込む。まだ人通りの少ない石畳の道を歩くと、靴底がこつ、こつ、と乾いた音を立てた。夜露の残った草が道端で細く揺れ、朝日を受けた露の粒が、まるで小さな火花のように瞬いている。
この世界の朝は、やけに鮮やかだった。
日本にいた頃、優は朝の光などまともに見ていなかった。スマホの画面越しに時間を確認し、眠い目をこすりながらバイト先へ向かうだけ。空の色も、風の匂いも、靴音の響きも、ただ背景として流れていった。
けれど今は違う。
石造りの街並みの隙間を抜ける風が、首筋を冷たく撫でる。遠くの市場から聞こえる荷車の軋み。焼きたてのパンの匂い。ギルドの扉を開けた瞬間に漂う、紙と木とインクの混ざった匂い。
その全部が、妙に現実味を帯びていた。
そして、その現実味の中心にいるのが――。
「遅い」
図書室の奥で、リリアナが本を片手に立っていた。
窓から斜めに差し込む午前の光が、彼女の紫色の髪の端を淡く照らしている。積み上げられた本の背表紙には埃が薄く積もり、光の筋の中で細かな粒がゆっくりと漂っていた。
「いや、まだ開始時間の五分前ですけど」
「私が待っていた時点で遅いのよ」
「理不尽すぎる……」
優は小さく息を吐き、机の前に立った。
今日は火の基礎魔法の練習だった。
リリアナは小さな黒板に、簡単な図を描いている。難しい説明は極力避けてくれるのだが、それでも彼女の説明は時々、優の頭から煙が出そうになるほど細かい。
「火の魔法は、力を押し込めばいいわけではないわ。火種を作るだけ。必要なのは、ほんの少し」
「ほんの少し」
「そう。手のひらに小さな火を灯す。それだけよ」
「なるほど」
優は右手を前に出した。
深呼吸をする。肺に入った空気が、少しだけ冷たい。手のひらの中心に意識を集める。体の奥にある何かを、細い糸のように引き寄せる感覚。
灯火の時と同じだ。
ただ、今回は光ではなく、火。
優は慎重に呟いた。
「点火」
ぼっ。
小さな炎が――灯るはずだった。
実際に起きたのは、手のひらの上で軽く弾けた火花と、鼻先をかすめる熱風だった。
「熱っ!」
優は反射的に仰け反った。
じり、と嫌な匂いがした。
焼けた草のような、焦げた髪のような、鼻の奥にへばりつく匂い。
リリアナが無言で優の顔を見た。
「……右の眉」
「え?」
「半分、ないわ」
「えええええっ!?」
優は近くの銀製の皿を掴み、自分の顔を映した。揺れる金属の表面に、情けない顔が映る。右の眉毛が、見事に途中で途切れていた。
「ちょっ、これ戻りますよね!? 眉毛って戻りますよね!?」
「時間が経てば」
「今すぐの話をしてるんですけど!」
「魔法で生やすほどの価値はないわね」
「ありますよ! 俺の顔面にとっては重大事件ですよ!」
リリアナは本当に少しだけ、口元を動かした。
笑ったのか、鼻で笑ったのか、優には判断できなかった。
「出しすぎ。力を注ぐんじゃない。差し出すの」
「その大事な表現、先に聞きたかったです」
「今、聞いたでしょう」
「眉毛を犠牲にしてですけどね!」
図書室の空気が、ほんの少し緩んだ。
窓の外で風が吹き、木の葉が乾いた音を立てて揺れた。差し込む光の筋がわずかに揺らぎ、舞っていた埃がその中で小さく回る。
だが、和やかな時間は長く続かなかった。
次は水の練習だった。
「水球。手のひらの上に水の球を作るだけ。火より安全よ」
「その言葉、信じていいんですよね?」
「火傷はしないわ」
「違う被害が出る言い方やめてもらえます?」
優は濡れてもよさそうな床の中央に立たされた。周囲の本棚には、リリアナがあらかじめ薄い光の膜を張っている。
その時点で嫌な予感しかしなかった。
「落ち着いて。水を集める。形を丸く保つ。ただそれだけ」
「水を集める。丸く保つ……」
優は手の上に意識を集中させた。
今度こそ慎重に。眉毛の悲劇を繰り返してはいけない。
体の奥の力を、細く、薄く、そっと出す。
「水球」
ざばっ。
手の上ではなかった。
優の頭の真上から、桶をひっくり返したような水が落ちてきた。
「ぶはっ!」
髪が額に張りつき、服が一瞬で重くなる。襟元から背中へ冷たい水が流れ込み、優は情けない声を漏らした。床に水が広がり、石の隙間を伝って机の足元へ流れていく。
リリアナは一歩も動いていなかった。
だが、書架だけは完璧に守られていた。光の膜に水滴が当たり、ぱらぱらと弾けて床に落ちる。
「……本は無事ね」
「俺は無事じゃないんですけど」
「本が無事なら、この図書室としては無事よ」
「俺の扱い、備品以下なんですね」
「備品は濡らさないもの」
「俺だって好きで濡れてるわけじゃない!」
ぽた、ぽた、と前髪から水滴が落ちる。
静かな図書室に、その音だけが妙にはっきり響いた。水が床に当たるたび、小さな丸い跡ができ、窓の光を受けて薄く光った。
リリアナは濡れ鼠になった優を見つめ、淡々と言った。
「形を作る前に、量を呼びすぎているわね」
「量を呼ぶっていうか、雨雲が俺だけを狙撃してきた感じなんですけど」
「比喩としては悪くないわ」
「褒められても嬉しくない!」
火で眉を失い、水で尊厳を失った。
それでも訓練は終わらなかった。
最後は風だった。
リリアナは床に広がった水を片付けると、机の上に積んでいた資料を確認した。紙の束が三つ。古い羊皮紙が二枚。厚みのある本が数冊。
優はそれを見て、嫌な汗が背中を伝うのを感じた。
「待ってください。風ですよね?」
「そうよ」
「その資料、しまった方がよくないですか?」
「微風の練習よ。紙一枚、揺れるかどうかの風で十分」
「俺の今日の実績、見てました?」
「見ていたから、必要なのよ」
「その理屈、全然わからない」
優は両手を前に出した。
もう失敗できない。少なくとも、これ以上リリアナの機嫌を損ねるわけにはいかない。
風。
そよ風。
草の先を撫でる程度。頬に触れる程度。カーテンをわずかに揺らす程度。
優は丁寧に、丁寧に力を差し出す。
「微風」
ごおおおおっ。
図書室の奥から入り口へ向かって、突風が走り抜けた。
積み上げられていた資料が一斉に舞い上がる。羊皮紙が鳥の群れのように天井近くまで跳ね、薄い紙片が白い吹雪になって光の中を乱れ飛んだ。本のページが勝手にめくれ、椅子が床を引っ掻いて嫌な音を立てる。
優の濡れた髪も、風に煽られて後ろへ持っていかれた。
「うわっ、うわわわわ!」
数秒後。
風が止んだ。
図書室は、戦場のようになっていた。
紙が床に散り、机の上のインク壺が倒れかけ、椅子が一脚横を向いている。天井の梁に引っかかった紙が、ひらひらと虚しく揺れていた。
リリアナは、額に手を当てて立っていた。
長い沈黙が落ちた。
それは、ただ音がないだけの沈黙ではなかった。
水滴が床に落ちる音すら遠慮しているような、紙の一枚が滑る音すら罪に感じるような、重たい沈黙だった。
「……あなた」
「はい」
「加減という言葉を知っている?」
「知識としては」
「実践して」
「努力します」
「今すぐ」
「はい」
リリアナは天井に引っかかった紙を見上げた。
そして、小さく息を吐いた。
「火は焦げる。水は降る。風は荒れる。実に分かりやすいわね」
「俺の失敗を自然災害みたいに分類しないでください」
「自然災害の方が、まだ予測できるわ」
「ひどい」
だが、その言葉とは裏腹に、リリアナの目は冷たくなかった。
優は気づかなかったが、彼女は散らばった紙ではなく、優の手元を見ていた。失敗ばかりの練習。そのすべてで、優は確かに魔法を起こしていた。初心者なら、そもそも火花すら出ない。水滴ひとつ作れず、風も動かせない者がほとんどだ。
出しすぎる。
呼びすぎる。
広がりすぎる。
それは欠点だった。だが同時に、最初から空っぽの者には起こり得ない失敗でもあった。
リリアナは胸の奥でだけ呟いた。
――力はある。ありすぎるくらいに。問題は、細い針の穴に川を流し込もうとしていること。
それを口には出さなかった。
今の優に伝えれば、調子に乗るか、怖がるか、そのどちらかだと思ったからだ。
夕方近くになり、練習はようやく終わった。
西日が図書室の窓から斜めに入り込み、床に長い影を落としている。散らばった紙は何とか元の束に戻され、本棚の光の膜も消えた。外からは、帰路につく人々の足音がかすかに聞こえる。石畳を踏む靴音が、遠くで重なり、また離れていく。
優は椅子に沈み込んだ。
眉毛は半分ない。服はまだ少し湿っている。腕はだるく、指先には細かい疲れが残っていた。
「俺、魔法向いてないんじゃないですかね」
ぽつりと漏らした言葉は、自分でも驚くほど弱かった。
リリアナは棚から一枚の大きな紙を取り出し、机に広げた。
「向いていない人間は、失敗すら起こせないわ」
「慰めですか?」
「事実よ」
紙には、魔法の種類が大きく分けて書かれていた。
火や氷、雷のように敵を攻めるもの。
盾や壁を作って身を守るもの。
傷を癒やすもの。
体や武器を強くするもの。
何かを呼び出すもの。
そして、端の方に小さくまとめられた、見つける、惑わす、移す、といった補助の魔法。
リリアナは指先で紙を軽く叩いた。
「あなたは、どれに興味がある?」
何気ない問いのようだった。
だが、彼女の瞳は静かに優を見ていた。
紫色の瞳の奥に、紙の文字よりも細かな何かを読み取ろうとする光があった。
優は表を眺めた。
火。水。風。守り。癒やし。強化。呼び出し。
どれも、この世界で生きるには必要なのだろう。強い攻撃魔法があれば、もう魔物に怯えなくて済むかもしれない。防御魔法が使えれば、三度も誰かに助けられることもなかったかもしれない。
けれど。
優の視線は、端の小さな文字で止まった。
移す魔法。
人や物を、別の場所へ移す魔法。
胸の奥が、静かに鳴った気がした。
森に落ちた夜。
見知らぬ館。
床に刻まれていた、あの不思議な模様。
そして、転移の瞬間に見た、花畑と泣いている少女の幻。
自分は、なぜここに来たのか。
誰が、何のために。
帰れるのか。
帰りたいのか。
答えは何ひとつなかった。ただ、その小さな文字だけが、優の目に焼き付いて離れなかった。
「……転移魔法」
優が呟くと、リリアナは表情を変えなかった。
ただ、指先がほんのわずかに止まった。
「ああ、あれね」
声は淡々としていた。
まるで、特に興味もない項目を読み上げるように。
「古くからある魔法よ。物や人を別の場所へ移す。ただし、使う力が大きいわりに、できることは地味。荷物を運ぶなら馬車の方が安いし、人を運ぶなら安全な街道を使えばいい。研究している者も少ない。人気はないわね」
「でも」
優は、思わず身を乗り出した。
「俺がこの世界に来たのって、たぶんそれに関係ありますよね。あの館の床にあった模様も、もしかしたら。俺、自分がなんでここにいるのか知りたいんです。そのためには、転移魔法を知らなきゃいけない気がする」
言葉にすると、胸の奥が熱くなった。
それは、強くなりたいという願いとは少し違った。
生き延びるためだけでもない。
自分の身に起きたことから、もう目を逸らしたくない。
誰にも必要とされていないと思っていた自分が、なぜこの世界へ来たのか。その理由があるなら、知りたかった。理由がないなら、ないと確かめたかった。
リリアナはしばらく黙っていた。
窓の外で、夕方の風が草を揺らしている。葉と葉が擦れる乾いた音が、開いた窓から微かに入ってきた。図書室の中には、古い紙の匂いと、冷めたインクの匂いが満ちている。
「個人的な理由ね」
「はい」
「研究の入り口としては、あまり褒められたものではないわ」
「でも、俺にとっては一番本気になれる理由です」
リリアナは目を伏せた。
その横顔に、西日の赤が淡くかかる。長い睫毛が頬に細い影を落とした。
ほんの短い沈黙の後、彼女は紙を畳んだ。
「……いいわ。好きにしなさい」
「いいんですか?」
「ただし、火も水も風も、基礎は続けること。転移魔法は、ただ力が大きければ使えるものではないわ。むしろ逆。ほんの少しのずれが、取り返しのつかない失敗になる」
リリアナの声が、少しだけ低くなった。
優は、濡れた袖を握りしめたまま頷いた。
「今のあなたでは、自分の靴を少し先へ移すのがやっとでしょうね」
「靴ですか」
「ええ。しかも、成功すればの話」
「失敗したら?」
リリアナは、畳んだ紙を机の端に置いた。
そして、優の目をまっすぐ見た。
「どこへ行ったか、誰にも分からなくなるかもしれない」
その一言だけで、図書室の空気が変わった。
さっきまでの失敗続きの笑いが、静かに遠ざかる。窓の外の足音も、人の声も、急に遠くなったように感じた。
優の背中に、冷たいものが這った。
火で眉を焦がすのとは違う。
水をかぶるのとも違う。
風で紙を散らすのとも違う。
この魔法には、笑って済ませられない何かがある。
そう、はっきりと分かった。
リリアナは席を立ち、奥の書架へ向かった。高い棚から、革表紙の古びた本を一冊抜き取る。表紙は擦り切れ、角は丸くなっていた。長い年月、誰にも開かれずにいたような本だった。
「入門書よ。今夜はこれを読みなさい」
優は両手でそれを受け取った。
本は思ったより重かった。
古い紙の匂いがした。
その重さが、これから踏み込むものの重さのように思えた。
「ありがとうございます」
「読むだけにしておきなさい。試すのは、私がいる時だけ」
「……そんなに危ないんですか」
「危ないわ」
リリアナは即答した。
その声には、先ほどまでの呆れも、からかいもなかった。
「けれど、だからこそ――あなたがそれを選んだ意味は、あるのかもしれない」
優が顔を上げた時、リリアナはもう机の上の資料へ視線を戻していた。
夕日がさらに傾き、図書室の床に伸びた影が、ゆっくりと優の足元まで届いていた。
優は古びた本を胸に抱えた。
半分焦げた眉毛。まだ湿った服。疲れ切った体。
それでも、胸の奥だけは妙に熱かった。
自分がここにいる理由。
その端に、ようやく指先が触れた気がした。
宿に戻る前、優は図書室の片隅に残った。
西日はすっかり落ち、窓の外には夜が薄く広がり始めていた。街の喧騒はまだ遠くに残っている。酒場から漏れる笑い声、荷車の車輪が石畳を削る音、どこかの家の扉が閉まる鈍い音。それらは分厚い壁と本棚に吸い込まれ、図書室の奥までは、柔らかく丸まった気配だけが届いていた。
机の上には、リリアナから渡された古い本が開かれている。
紙は黄ばんでいて、端が少し波打っていた。指で触れると、乾いた葉のようにかさりと音がする。文字は細かく、ところどころインクが薄れている。優は眉間にしわを寄せながら、何度も同じ行を読み返した。
転移魔法。
対象を、別の場所へ移す魔法。
使うには、移す物の重さ、大きさ、形を正確に知る必要がある。さらに、移す先をはっきり思い描かなければならない。近ければ近いほど楽で、遠ければ遠いほど力を食う。重ければ重いほど難しく、細かな場所を狙うほど危険が増す。
優は、ゆっくり息を吐いた。
「……そりゃ、人気ないわ」
荷物を運ぶだけなら馬車でいい。人を運ぶだけなら、歩けばいい。無理に危険な魔法を使わなくても、この世界にはこの世界なりの移動手段がある。
だが、優の指は本の上で止まった。
移す。
ただ、それだけ。
その言葉の単純さが、逆に引っかかった。
火の魔法は燃やす。水の魔法は濡らす。風の魔法は動かす。どれも分かりやすい。けれど、転移魔法は違う。傷つけるとも、守るとも書かれていない。ただ場所を変えるだけ。
なら。
それを、移動のためだけに使わなければどうなる。
優の頭の中で、何かが音を立てた。
例えば、どれほど硬い鎧を着ている相手でも。どれほど大きな剣を持っている敵でも。目の前から、空の高い場所へ移してしまえばどうなる。
地面のない場所。
足場のない場所。
自分の力では戻ってこられない場所。
優の喉が、少し乾いた。
さらに考えが進む。
外から攻撃するから防がれる。盾で受けられる。鎧で止められる。壁に阻まれる。
なら、外からではなく、内側に何かを移したら。
小さな石。水。空気。
ほんのわずかなものでも、絶対に入ってはいけない場所へ置けたなら。
「……いや」
優は思わず口元を押さえた。
自分で考えておきながら、背筋が冷えた。
これは便利な思いつきではない。人を簡単に壊す発想だ。灯火で豆粒みたいな光を出して喜んでいた自分が、急にとんでもない崖の縁に立ったような気がした。
だが、同時に思ってしまった。
この魔法は、本当に不人気で終わらせていいものなのか。
優は本を閉じ、椅子から立ち上がった。
机の脚が床をこすり、静かな図書室にぎい、と音が響く。奥の机で資料を読んでいたリリアナが、視線だけを上げた。
「どうしたの」
「質問していいですか」
「内容によるわ」
優は本を抱えたまま、彼女の前まで歩いた。木の床が足の下で小さく鳴る。窓の外から入ってくる夜風が、まだ乾ききっていない優の袖を冷たく撫でた。
「転移魔法って、物を別の場所に移す魔法ですよね」
「ええ」
「じゃあ、敵を……たとえば、ものすごく強い魔物を、空のすごく高いところに移したら、どうなるんですか」
リリアナの指が止まった。
「……何?」
「倒す必要ないじゃないですか。場所を変えるだけでいい。地面のないところに移せば、それだけで――」
「待ちなさい」
声が低くなった。
優は口を閉じた。
リリアナはゆっくりと眼鏡を外した。机の上に置く音が、やけに大きく響いた。
「あなた、今、転移魔法を攻撃に使うと言ったの?」
「攻撃っていうか……相手の場所を変えるだけです」
「それを攻撃と言うのよ」
「でも、剣で斬るより安全じゃないですか? いや、安全っていうのは変ですけど、こっちは近づかなくていいし、相手の鎧とか関係ないし」
リリアナは黙った。
長い沈黙だった。
窓の外の風が、草を揺らす音だけが聞こえる。遠くの酒場の笑い声が、妙に遠く、別の世界の音のように感じられた。優の首筋に、冷や汗が滲む。言ってはいけないことを言ったのかもしれない。そんな不安が、心臓をじわじわ締めつける。
やがて、リリアナは小さく呟いた。
「……発想が、危険すぎるわ」
「すみません」
「謝る必要はない」
彼女の声は震えていた。
怒りではない。
驚きに近かった。
「ただ、信じられないだけよ。この世界の魔法使いは、長い間、転移は移動のための魔法だと思い込んできた。荷物を運ぶ。人を運ぶ。遠くへ行く。それだけだと」
「それ以外に考えなかったんですか」
「考えなかったのではなく、考えようとしなかったのかもしれないわ」
リリアナは立ち上がった。
椅子が床をこすり、薄暗い図書室に乾いた音が落ちた。
「物の見方を変えただけで、役に立たないとされていた魔法が、まったく別の顔を見せる。……面白いわね」
その目が、静かに輝いていた。
優は少しだけ後ずさった。
「リリアナさん?」
「実験するわ」
「え、今から?」
「今から」
「いや、さっき危険すぎるって言いましたよね?」
「だから、私が見るのよ」
リリアナは棚へ向かい、古い木箱を取り出した。中から白い粉の入った小瓶と、細い筆を取り出す。床に膝をつき、迷いのない手つきで円を描き始めた。
石の床の上に、白い線が滑っていく。
円。小さな印。まっすぐな線。曲がる線。
優には意味の分からない模様だったが、見ているだけで胸の奥がざわついた。どこかで見たことがあるような気がした。あの館の床。冷たい石。淡く光った模様。そこに立っていた自分。
記憶の奥で、花畑の色が一瞬だけ揺れた。
泣いている少女の横顔。
すぐに消えた。
「優」
リリアナの声で、現実に戻された。
「この石を、あの机の上に移して」
彼女は指先ほどの小石を、円の中心に置いた。
机までは、ほんの数歩。子供でも投げれば届く距離だ。
それなのに、優の手のひらは汗ばんでいた。
「失敗したら?」
「私が止める」
「止められるんですか」
「たぶん」
「アンナさんみたいな言い方やめてください」
「集中しなさい」
優は膝をつき、小石を見下ろした。
小さい。
軽い。
灰色で、角が少し欠けている。
これを、机の上へ。
場所を思い描く。机の天板。木目。さっきまで本が置かれていたあたり。そこに小石が乗るところを、はっきり想像する。
体の奥から、細い糸を伸ばす。
押し込まない。
暴れさせない。
ただ、そっと差し出す。
「……移れ」
小石が消えた。
音はなかった。
光も、煙もない。
ただ、そこにあったはずの小石が、ふっと抜け落ちるように消えた。
優は息を呑んだ。
リリアナも目を見開いていた。
二人は同時に机の上を見た。
何もなかった。
「……ないですね」
「ないわね」
「どこ行ったんですか」
「それを探すのよ」
二人は図書室中を探した。
机の下。本棚の隙間。椅子の足元。積まれた本の影。優は床に這いつくばり、リリアナは光を浮かべて隅々まで照らした。
そして、見つかった。
リリアナの椅子の上に。
小石は、まるで最初からそこにあったかのように、椅子の座面の真ん中にちょこんと乗っていた。
「……三メートルくらいずれてますね」
「壊滅的ね」
「言い方」
「でも、移った」
リリアナの声は静かだった。
しかし、その奥に熱があった。
「初めてで、対象が動いた。普通なら、石はびくともしない。あなたは失敗したんじゃない。大きく外しただけ」
「それ、ほぼ失敗では」
「ほぼ失敗よ」
「ですよね」
優は肩を落とした。
だが、胸の奥には確かな手応えがあった。
消えた。
そして、別の場所に現れた。
それは、今までの魔法とは違う感覚だった。火が出る。水が降る。風が吹く。それらは自分から何かが外へあふれ出る感じだった。
けれど今のは違った。
世界の薄い布の端を、ほんの少しだけつまんで、ずらしたような感覚。
怖い。
けれど、知りたい。
「もう一回やっていいですか」
「次は、もっと分かりやすい対象にしましょう」
リリアナは優の足元を見た。
「右の靴」
「靴?」
「自分がよく知っている物の方が、形をつかみやすいわ。机の上に移して」
「……分かりました」
優は右足を見下ろした。
何日も歩き回って、泥と埃が染み込んだ靴。革は少し硬く、つま先には細かな傷がある。中の形も分かる。足に馴染んだ重さも、脱ぐ時の感覚も。
机の上へ。
ただ、それだけ。
優はさっきよりも慎重に、場所を思い描いた。
机の上。
机の上。
机の――。
ふっ。
右足が、急に冷えた。
「え」
靴が消えていた。
優の右足だけが、靴下のまま床に着いている。石の床の冷たさが、薄い布越しにじわりと染み込んできた。
二人は机の上を見た。
何もない。
椅子の上にもない。
本棚の隙間にもない。
床にもない。
天井にも引っかかっていない。
「……リリアナさん」
「何」
「俺の靴、どこですか」
「さあ」
「さあ!?」
リリアナは腕を組み、消えた靴があった場所をじっと見た。
「行き先を、最後まではっきり保てなかったのでしょうね。途中で思いが揺れた。だから、どこかへ飛んだ」
「どこかって、図書室の中ですか?」
「この街のどこかかもしれないわ」
「はい?」
「森の中かもしれない。川底かもしれない。大陸の反対側かもしれない」
「俺の靴、壮大な旅に出たんですか?」
「戻ってくる保証はないわ」
「靴に先を越された……」
優は右足を上げ、靴下の裏を見た。
冷たい。心も冷たい。
しかし、リリアナは笑わなかった。
彼女の表情は、急に厳しくなっていた。
「優」
呼ばれた声に、優は顔を上げた。
「今の感覚を忘れないで。行き先を定めないまま移すというのは、そういうことよ。物なら笑い話で済む。靴なら買えばいい。でも、人だったら?」
優の喉が止まった。
図書室が、急に広く、冷たく感じられた。
人だったら。
さっき自分が考えたことが、脳裏に戻ってくる。
敵を空の高い場所へ移す。内側に物を移す。防ぎようのない使い方。
強い。
便利。
だが、それは一歩間違えれば、人をどこかへ消し飛ばす力でもある。
優の背中を、冷たい汗が流れた。
今度の沈黙は、さっきまでの気まずさとは違った。冗談を挟む余地のない沈黙だった。水滴の音も、紙の擦れる音もない。ただ、自分の心臓だけが、耳の奥で嫌にはっきり鳴っている。
「この力は、使い方を間違えれば、誰かを永遠に失わせる」
リリアナは静かに言った。
「あなた自身も含めて」
「……はい」
「怖がりなさい。けれど、逃げてはいけない。怖さを知っている人間だけが、力を扱える」
優は裸足の右足を床につけた。
石の冷たさが、骨まで染みるようだった。
「忘れません」
その返事に、リリアナは小さく頷いた。
それ以上、何も言わなかった。
その深夜。
リリアナは図書室のさらに奥、自分だけが使う小さな研究室にいた。
壁一面に黒板があり、そこには細かな文字と線が隙間なく書き込まれている。机の上には、優の練習記録、力の流れを描いた紙、消えた靴についての走り書きが並んでいた。
窓から月明かりが差し込んでいる。
銀色の光は、埃っぽい部屋を静かに照らした。積まれた本の影が床に長く伸び、インク壺の縁に淡い光が宿っている。外は静かだった。昼間の喧騒が嘘のように消え、時折、夜風が窓枠をかすかに鳴らすだけだった。
リリアナは椅子に座り、今日の記録を読み返していた。
初回、石の移動に成功。ただし、狙いから大きく外れる。
二回目、靴が消失。行き先は不明。
書いてから、彼女は小さく苦笑した。
「靴を行方不明にする弟子なんて、聞いたことがないわね」
だが、笑みはすぐに消えた。
視線は、机の端に置かれた一枚の紙へ向かう。
優の力の流れを写した図。
そこに見える形は、十五年間、彼女が追い続けてきたものにあまりにも近かった。
十五年。
その時間を思うと、胸の奥が静かに軋んだ。
まだ若かった頃、リリアナには師がいた。
厳しく、偏屈で、褒めることの少ない人だった。けれど、夜遅くまで研究に付き合ってくれた。失敗して落ち込むと、何も言わず温かい茶を机に置いてくれた。誰も見向きもしない古い魔法の話を、目を輝かせて語る人だった。
ある日、その人は消えた。
光に包まれ、声を上げる間もなく。
遺体も、手がかりも、行き先も残らなかった。
ただ、焦げ跡ひとつない床と、途中で止まった研究ノートだけが残った。
それからリリアナは、ずっと探していた。
師がどこへ行ったのか。
なぜ消えたのか。
死んだのか。
それとも、どこかでまだ生きているのか。
周囲は笑った。
そんな古い魔法に意味はないと言った。消えた人間は戻らないと言った。過去にしがみつくなと言った。
研究の場を失い、資金を失い、最後に残ったのが、このギルドの図書室だった。
紙と埃と静けさに囲まれた場所。
誰にも期待されない研究を、ただ一人で続ける場所。
リリアナは新しい紙を取り出した。
月明かりの中で、ペン先にインクを含ませる。黒い雫が小さく震え、紙に触れた瞬間、細い線になった。
――佐藤優の転移は、古い転移魔法の自然な発動である可能性が高い。
――彼の力の流れを調べることで、師の消失の理由に近づける可能性がある。
そこまで書いて、ペンが止まった。
窓の外を見た。
月は静かだった。
返事をくれる人は、もういない。
それでも、リリアナは小さく呟いた。
「……十五年。やっと、手がかりが見つかったのかもしれないわ」
その声は、誰に届くこともなく、月明かりの中へ溶けていった。
けれど彼女は、初めて少しだけ思った。
消えたものは、すべて失われるとは限らない。
もしかしたら。
本当に、もしかしたら。
どこかへ行ってしまった靴のように。
あの人もまた、どこかで――まだ、待っているのかもしれない。
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【修正可否】
悪趣味な冗談だと思った。
だが、リストに載っていた人間が、翌朝のニュースで本当に死んだ。
そして数日後。
俺は、死亡予定者リストの中に娘の名前を見つける。
【佐藤美月 十歳】
【死亡予定時刻:明日十五時四十二分】
【死亡原因:第七級異界災害による巻き込み】
【修正可否:条件付き可】
俺は英雄じゃない。
世界を救いたいわけでもない。
ただ、娘の名前を死亡欄から消したかっただけだ。
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