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第3話:概念戦争
しおりを挟む調和世界ユニゾンの代表、アポロンと名乗るあの美しきホログラムが、「理解不能」という言葉を残して消え去った後。秘密基地の司令室は、水を打ったような静寂に包まれていた。いや、静寂というよりは、真空に近い無音、と表現する方が正しいかもしれない。皆、息をすることさえ忘れたかのように、ただ一点、アポロンがいた空間を見つめて固まっている。
天井の非常灯が放つ、無機質な赤い光が、仲間たちの青ざめた顔を不気味に照らし出していた。外の風の音も、遠くで鳴っていたはずのサイレンの音も、何も聞こえない。まるで、世界から「音」という概念が、一時的に消去されてしまったかのようだった。
「……なんだよ、あれは」
最初に沈黙を破ったのは、剛田さんだった。彼の声は、いつものような熱血さは微塵もなく、乾いた、か細い響きをしていた。
「争いも、苦しみも、悲しみもない、完璧な世界、だと? そんなもん、本当に……」
彼の言葉は、途中で途切れた。その続きを、誰もが心の中で思い浮かべていたからだ。
―――そんなもん、本当に、理想の世界なんじゃないのか?
ユニゾンの掲げる思想。それは、一見すると、非の打ち所がないほどに完璧だった。個という幻想を捨て、全生命が単一の意識として繋がる。そこには、エゴも、嫉妬も、憎しみもない。ただ、永遠に続く、穏やかで、調和の取れた幸福だけが存在する。
その、あまりに甘美で、絶対的な「正しさ」が、僕たちの心を、内側から静かに侵食し始めていた。
「……よく分かんねえけどよ」
僕、田中太郎は、一人だけ、全く違うことを考えていた。
皆の視線が、一斉に僕に突き刺さる。
「要するに、あいつらの世界じゃ、麗華様が俺のために作ってくれた、あの奇跡の卵焼きを食って『んんんんまいっ! この一口のために俺は生まれてきた!』って感動することも、『うわ今日の麗華様、髪型変えた!? ポニーテール!? マジで女神降臨! 尊すぎて直視できねぇ!』って、心臓がバクバクすることも、全部『非効率なノイズ』ってことになるんだろ?」
僕は、憤然としながら立ち上がった。
「ふざけんじゃねえ! そんなもん、幸福でもなんでもねぇ! ただの、クソつまんねえ作業じゃねえか! 俺は認めん! 断固として、認めんぞ!」
僕の、あまりにも個人的で、あまりにもお花畑な怒りの表明。
それによって、司令室に充満していた重苦しい空気は、一瞬にして霧散した。
「……ぷっ」
リリが、こらえきれずに吹き出した。
「あはは! 太郎、マジあんた、最高なんだけど! 超シリアスな空気、一瞬でぶち壊しじゃん!」
「まあ、確かに。奴らの言う世界は、俺たちの知ってる『面白いこと』が、何一つなさそうではあるな」
凛さんも、咥えタバコを揺らしながら、ふっと口元を緩めた。
剛田さんも、僕の言葉に何かを思い出したかのように、ハッとした顔で頷く。
「そうか……そうだよな。俺が、血反吐を吐きながらベンチプレスを上げるのも、非効率な自己満足でしかない、ってことか。あいつらにとっちゃ」
白石だけは、難しい顔で、空中に浮かべた数式を睨みつけていた。
「問題は、そこだ。彼らの攻撃は、物理的なものではない。我々の『概念』そのものに干渉してくる。これは、我々が今まで経験したことのない、全く新しい戦争だ」
そう。白石の言う通りだった。
ユニゾンの艦隊は、地球の上空に静止したまま、何の物理的な攻撃も仕掛けてこなかった。ミサイルも、ビームも、何一つ飛んでこない。
だが、世界は、静かに、そして確実に、「変わって」いった。
その兆候は、まず、ごく身近なところから現れ始めた。
アジトに戻り、疲弊した頭を休めようとテレビをつけたリリが、奇妙な声を上げた。
「え、何これ。どのチャンネルも、同じ番組やってんだけど」
モニターに映し出されていたのは、難解な数式を、感情のない声で延々と解説し続ける、教育番組のようなものだった。ドラマも、バラエティも、アニメも、全てがその無機質な番組に差し替えられていた。
「音楽でも聴こ……」
剛田さんがスマホを操作するが、スピーカーから流れてきたのは、彼の好きな熱いロックミュージックではなく、ただ単調な、メトロノームのようなビート音だけだった。
「歌詞も、メロディも、全部消えてる……?」
街に出れば、その変化はさらに顕著だった。
色とりどりで、時には悪趣味なほどに自己主張をしていた看板という看板から、キャッチーなコピーや、美しいデザインが、綺麗さっぱり消え失せている。
【情熱価格! 魂を揺さぶるこの一杯!】と書かれていたはずのラーメン屋の看板は、ただ、【ラーメン:800円】という、ゴシック体の無機質な文字に変わっていた。
【この秋、最高の恋をあなたに。】というポスターが貼られていた映画館は、【映像記録の上映:1800円】という、何の情緒もない告知を出しているだけ。
街全体から、「彩り」や「遊び心」といった、非効率で、非論理的な要素が、まるで最初から存在しなかったかのように、消去されていく。
僕の脳内でも、この静かなる侵略は、確実に始まっていた。
俺の中にいる、あの冷徹な「調停者の理性」が、このユニゾンの思想に、奇妙なシンパシーを感じ始めているのだ。
`(ユニゾンの提唱する概念消去。これは、社会の安定化において極めて合理的なアプローチである。無駄な芸術や娯楽によって引き起こされる感情の浪費は、非生産的な活動を助長し、個体間の無用な衝突を生む。彼らの『調和世界』は、ある意味で完成されたシステムだ)`
(うるせぇ! 黙ってろ俺の中のインテリメガネ野郎! 麗華様が、俺のために描いてくれた、あの超絶美化された似顔絵はどうなるんだ! あれは、ルーブル美術館のモナ・リザよりも、ピカソのゲルニカよりも、遥かに価値のある、宇宙の至宝だぞ! あれが消えるなんてことになったら、俺は、俺は!)
`(感情的な反発。理解不能。だが、君の精神的安定を維持するためには、現時点での反論は得策ではないと判断。引き続き、観測を継続する)`
僕の、内なる戦い。
それは、仲間たちが直面している、世界の変容よりも、もっと深刻な問題なのかもしれなかった。
「……俺の、俺の漫画が」
アジトに戻った剛田さんが、本棚の前で、呆然と立ち尽くしていた。
その手には、一冊の漫画本が握られている。彼が、子供の頃から、それこそページが擦り切れるほど読み込んできた、熱血ボクシング漫画。かつて、そこには、汗と涙と友情の、熱い物語が描かれていたはずだった。
だが、今、彼の手にあるそれは、ただの「運動教本」に変わっていた。
キャラクターの熱いセリフは、全て【効果的なパンチの打ち方】という解説文に。ライバルとの死闘は、【適切なフットワークと体重移動】の図解に。主人公が、涙ながらに勝利を掴む感動的なラストシーンは、【試合後のクールダウンと栄養補給の重要性】という、味気ない章で締めくくられている。
「なんでだよ……なんで、こんなことに……」
彼の、アイデンティティの一部だった物語が、消えた。彼の怒りは、燃え盛る炎のように激しい。だが、その怒りをぶつけるべき、殴るべき敵の姿は、どこにもなかった。ただ、圧倒的な無力感が、彼の大きな身体を支配していた。
「……うそ。うそでしょ」
リリの、震える声が聞こえた。
彼女は、自分のスマホを握りしめ、その画面を、信じられないものを見るかのように見つめている。
そこにあったはずの、友達との思い出の写真。海で撮った、キラキラした笑顔。文化祭で、みんなで泣きながら撮った、エモい一枚。それら全てから、色と、光と、そして「感情」が抜き取られていた。
ただ、【被写体:複数名。場所:海岸。日時:2025年8月15日】という、無機質なデータだけが、そこに残されていた。
彼女が好きだった、ポップで、キュートな音楽も、全てが単調なビート音に変わっている。
「こんなの……マジで、つまんない世界じゃん……」
スマホを握りしめたまま、彼女の瞳から、大粒の涙が、ぽろぽろと零れ落ちた。
白石は、黙ってアジトを飛び出すと、街の図書館へと向かっていた。
彼もまた、自らのアイデンティティが、静かに消し去られていくのを、感じていたからだ。
図書館の、広大な書架。そこには、まだ、たくさんの本が並んでいた。歴史書、科学書、哲学書。論理的で、実用的な知識の集合体。
だが、あるべきはずの棚が、ごっそりと、空っぽになっていた。
文学の棚だ。
シェイクスピアも、ドストエフスキーも、夏目漱石も、村上春樹も。人類が、数千年かけて紡いできた、ありとあらゆる「物語」が、一冊残らず、消え失せていた。
「『非論理的で、存在価値のないフィクション』として、消去された、か」
白石は、空っぽの棚を前に、乾いた笑みを浮かべた。
彼の知性の源であり、人間の複雑さや、愚かさ、そして美しさを教えてくれた、愛すべき物語たち。その全てが、今、この世界から、完全に失われた。彼の、絶対的な知性ですら、この静かなる侵略の前では、あまりに無力だった。
そして、その概念戦争の、最も静かで、最も残酷な戦場は、僕の女神の部屋で、始まろうとしていた。
麗華は、自室で、呆然と立ち尽くしていた。
壁に飾ってあった、僕がクレーンゲームで取ってあげた、あの犬のぬいぐるみ。それは、いつの間にか、ただの綿の塊に変わっていた。僕がプレゼントした時の、彼女の嬉しそうな笑顔も、僕のドヤ顔も、そのぬいぐるみが持っていたはずの「思い出」という名の付加価値は、全て消え去っている。
二人で撮った写真も、色褪せ、ただの記録媒体に変わっていた。
彼女が、僕を想うたびに、胸の奥で温かく灯っていた、あの甘くて、切ない感情。それも、少しずつ、その輪郭を失っていくのが分かった。
胸に、ぽっかりと穴が空いたような、喪失感。
その、瞬間だった。
彼女の目の前の空間が、淡く光り、あの、美しきユニゾンの使徒、アポロンが、再びホログラムとして姿を現した。
「―――白鳥麗華。君の中に残された、最後の、そして、最大のバグを、これより消去する」
アポロンは、いつもと変わらぬ、感情のない声で告げた。
彼は、その白く、細い指を、ゆっくりと麗華に向ける。
「君が、『愛』と呼称する、その概念。それは、個体間の非効率な執着であり、論理的矛盾を生み出す、宇宙における、最も悪質なノイズだ」
「そのバグが、特異点・田中太郎という混沌を、さらに増長させている。よって、この世界を真の調和に導くため、君の中から、その概念を、完全に、消去する」
その言葉と同時に、麗華の胸に、激しい痛みが走った。
心臓を、直接、冷たい手で鷲掴みにされたかのような、息の詰まる苦しさ。
頭の中から、僕との思い出が、急速に、色を失っていく。
初めて会った日のこと。命を共有すると知った時のこと。二人で戦ったこと。彼が、不器用な優しさで、笑わせてくれたこと。
それら全てが、「ただの過去の出来事」という、無味乾燥なデータへと、書き換えられていく。
僕への、愛しいという気持ち。守りたいという気持ち。会いたいという気持ち。
それら全てが、消えていく。
怖い。
嫌だ。
忘れたくない。
なのに、心が、言うことを聞かない。
「太郎、君」
彼女の唇から、か細い声が、こぼれ落ちた。
その、瞬間だった。
「―――麗華様から、離れろぉぉぉおおおおおおっ!!」
部屋のドアが、弾け飛ぶかのような勢いで開き、僕が、文字通り、転がり込んできた。
僕の脳内でもまた、最後の戦いが繰り広げられていた。
`(彼の言う通りだ。愛というバグの消去は、彼女を苦しみから解放する、最も合理的な救済措置である。抵抗は、無意味だ)`
(うるせえ! うるせえ! うるせえ! 俺の、俺の麗華様から、あの最高の笑顔と、ドキドキと、尊さを、奪うってのか! そんなこと、俺が、この俺が、絶対に許すかぁっ!)
僕の、お花畑な魂が、冷徹な理性を、完全に、凌駕した。
「うるせぇぇぇえええええええええッ!!!」
僕の、魂からの絶叫。
それは、アポロンという、完璧な論理の体現者に向けられた、究極の非論理。
「麗華様の愛が、バグな訳ねぇだろ!」
「ごちゃごちゃ理屈並べてんじゃねえ! それは!」
僕は、アポロンと麗華様の間に、仁王立ちになった。
そして、この宇宙における、唯一無二の真実を、宣言した。
「―――それは、俺の宇宙の、絶対法則なんだよッ!!」
僕の身体から、凄まじいエネルギーが、純粋な「想い」のエネルギーが、奔流となって溢れ出した。
それは、虹色に輝く、混沌の光。
アポロンが放っていた、麗華を蝕む、冷たい秩序の光と、僕の混沌の光が、激突する。
空間が、悲鳴を上げた。
アポロンの、常に完璧だったホログラムの姿に、初めて、バチバチ、と激しいノイズが走った。
「……エラー。計測不能。理解不能な、エネルギー干渉。なんだ、これは……混沌。純粋な、混沌そのものだと……?」
彼の、完璧な論理システムが、僕という、たった一つの、あまりにも巨大な「バグ」によって、初めて、意味のある損傷を受けた瞬間だった。
僕の宣言により、麗華の心から消えかけていた、僕への想いが、再び、色鮮やかに、その輝きを取り戻していく。
アポロンは、ホログラムの姿を保てなくなったのか、「混沌サンプル……特異点・田中太郎。君は、やはり、宇宙の調和を乱す、危険なウイルスだ」という言葉を残して、その姿を掻き消した。
後に残されたのは、静寂と、荒い息をつく僕と、そして、涙を流しながらも、その瞳に、確かな「愛」の光を取り戻した、麗華様の姿だけだった。
彼女は、ふらつく足で僕に駆け寄ると、その胸に、顔をうずめた。
「ありがとう……太郎君……怖かった……」
「もう、大丈夫だ。麗華様の愛は、俺が、絶対に守るから」
僕は、彼女の華奢な身体を、強く、強く、抱きしめた。
しかし、僕の脳内では、沈黙を保っていたはずの「調停者の理性」が、静かに、しかし確実に、新たな分析を開始していたのを、僕はまだ、知らなかった。
`(彼の『愛』という非論理的な概念が、ユニゾンの論理を上回った。これは、新たな物理法則の『創発』の兆候か……? 観測を継続する)`
僕たちの、静かで、しかし、世界の運命を賭けた概念戦争は、まだ、始まったばかりだった。
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