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第三話:見せつけのワルツ
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月曜日の朝は、まるで分厚いベルベットのカーテンのように、湿り気を帯びた生温かい空気と共にやってきた。
ベッドから這い出した垣原瞬の素足がフローリングに触れると、ひんやりとする代わりに、ねっとりとした不快な感触が伝わってくる。窓の外は、梅雨入りを間近に控えた空が、薄い灰色の膜に覆われていた。それはまるで、巨大な和紙を空一面に貼り付けたかのようで、太陽の在り処は、その和紙の向こう側でぼんやりと滲んだ、頼りない光の染みとしてしか認識できない。週末に見た、突き抜けるように鮮やかな青空は、疾うの昔に見た映画のワンシーンのように、色彩も手触りも失われた遠い記憶のようだ。
瞬は、寝癖のついた頭を掻きながら、のろのろとカーテンを開けた。窓ガラスには、夜の間に凝結した水滴がびっしりと付き、外の景色を歪ませている。指でその水滴を拭うと、通学路脇に植えられた紫陽花の一群が見えた。まだ固く閉ざされた蕾は、その内に秘めた青や紫の色をひた隠しにするかのように、しかし雨を待ち望む渇望だけは隠しきれないといった風情で、重たげに膨らんでいた。その姿は、今の自分の心のようだ、と瞬は自嘲気味に思った。
彼の心もまた、この空模様と寸分違わず、晴れやかなのか、曇っているのか、自分でも判然としない靄に包まれていた。希望と不安が入り混じった、気味の悪いグラデーション。その原因は、ベッドサイドのテーブルで充電器に繋がれたままのスマートフォンにあった。
手に取ると、ひやりとした無機質な感触が指先に伝わる。ロック画面を解除すると、待ち受け画面よりも先に、昨夜から何度も何度も確認したメッセージアプリのトーク画面が表示された。前原美影からの、たった一行のメッセージ。
『昨日はすっごく楽しかったね、ありがとう!』
その言葉は、太陽のように明るく、屈託がなかった。文末には、にこやかに笑う絵文字が添えられている。その言葉の響き、その絵文字の表情に、嘘や偽りがあるようには到底思えなかった。彼女は心から、土曜日のデートを楽しんでくれたのだろう。
だが、それならば、あの夜なんのメッセージもなかったのはなぜなんだろう
まるで、自分だけが存在しないはずの幽霊を相手に、必死で剣を振り回していた道化師のようだ。観客のいない舞台で、一人息を切らし、滑稽な汗を流していただけなのではないか。そんな考えが、じわりと胸の奥に広がっていく。
制服に着替え、トーストを無理やり喉に押し込み、玄関のドアを開ける。むわりとした、土と湿気の匂いが混じり合った空気が、肺腑を満たした。アスファルトは夜露で黒く濡れ、マンホールの蓋だけが鈍い銀色に光っている。コツ、コツ、という自分のローファーの音だけが、静かな住宅街に響いていた。
学校へ向かう道すがらも、瞬の頭の中では美影のメッセージがリフレインしていた。『楽しかった』という言葉と、あの夜の沈黙。その二つの事象が、水と油のように決して交わることなく、彼の思考の中で分離し、彼を混乱させていた。
校門をくぐり、昇降口で上履きに履き替える。ざわめきが大きくなっていく。階段を上り、二階の廊下を進む。目的の教室が近づくにつれて、心臓が少しだけ速く脈打つのを感じた。引き戸に手をかけ、息を小さく吸い込む。
がらり、と少し乾いた音を立てて戸を開けると、朝のホームルーム前の、活気に満ちた喧騒が瞬を包み込んだ。机と椅子が床を擦る甲高い音、週末の出来事を報告しあう友人たちの弾んだ笑い声、開け放たれた窓から流れ込む、少しだけ土の匂いが混じった澱んだ風。蛍光灯の白い光と、窓から差し込む灰色の外光が混じり合い、教室内の空気中に舞う微細な埃をキラキラと照らし出していた。
瞬は、その喧騒の中を泳ぐようにして自分の席に向かいながら、無意識に、しかし必死に、彼女の姿を探していた。視線が教室をスキャンする。壁に貼られた習字の作品、黒板の走り書き、見慣れたクラスメイトたちの顔。そして、いた。
教室の反対側、窓際の、一番後ろから二番目の席。そこは彼女の指定席だった。前原美影は、親友の白石結衣と、一冊のファッション雑誌を机の上に広げ、身を寄せ合うようにして覗き込んでいた。ページを指さし、何かを囁き合っては、キャッキャと小鳥のさえずりのような笑い声を立てている。その姿は、昨日までの週末に、二人の間に何があったかなんて微塵も感じさせない、完璧なまでにいつも通りの日常の風景だった。風が窓から吹き込み、彼女の艶やかな黒髪を優しく揺らす。その一瞬、光の加減で髪が絹のように輝いて見えた。
その時、ふと、彼女が顔を上げた。まるで、瞬の視線に気づいたかのように。
目が、合った。
刹那、教室の喧騒が遠のいていくような錯覚に陥る。彼女の大きな瞳が、真っ直ぐに瞬を捉えた。そして、次の瞬間、美影は、ぱっと顔を輝かせた。それは、まるで雲間から太陽が差し込んだかのような、眩しいほどの笑顔だった。彼女は、小さく、しかしはっきりと手を振った。
「おはよう、瞬くん!」
その声は、鈴が鳴るようにクリアで、教室のざわめきを突き抜けて瞬の耳に届いた。その声に反応して、周りにいたクラスメイト数人が、にやり、と意地の悪い笑みを浮かべながらこちらを見る。その視線が、瞬の頬にじりじりと熱を集めていくのを感じた。
「……おう」
瞬は、精一杯のぶっきらぼうさを装って短く返事をすると、逃げるように自分の席に着いた。どさりと鞄を机の横にかけ、乱暴に椅子を引く。心臓が、まだ少しだけ速く打っていた。彼女のあの笑顔は、昨夜の自分の悩みが、いかに馬鹿げたものであったかを雄弁に物語っているようだった。
その日から、奇妙で、そして瞬にとっては拷問のような一週間が始まった。
傍から見れば、彼らはごく普通の、微笑ましい恋人同士に見えただろう。
火曜日の昼休み。美影は、手作りの弁当箱を手に、「一緒に食べよ!」と当たり前のように瞬の席までやってきた。彼女の隣には結衣が、そして瞬の前の席には、親友の木下大輝が陣取る。美影が作ったという少し甘めの卵焼きを、瞬が「うまい」と呟くと、彼女は「ほんと?よかった!」と心底嬉しそうに笑った。その笑顔には、一点の曇りもなかった。
「瞬、これあげる」
大輝が、自分の弁当に入っていた唐揚げを一つ、瞬の白米の上に乗せる。
「サンキュ。お返しに、ピーマンやるよ」
「いらねえよ!」
そんな他愛のないやり取りを、美影はただニコニコと眺めている。瞬が、わざとクラスの女子委員長に「次の委員会の資料、どこだっけ?」と話しかけに行っても、彼女は全く気にする素振りを見せず、結衣と好きなアーティストの新曲について楽しそうに語らっているだけだった。窓の外では、厚い雲が少しだけ切れ、そこから漏れた陽光が校庭をまだらに照らしていた。その光景と、晴れ渡ることのない自分の心とのギャップに、瞬は目眩を覚えた。
水曜日の放課後、部活のない日には、一緒に駅まで歩いた。並んで歩く道すがら、二人の肩が時折触れ合う。その度に、瞬の心臓は小さく跳ねたが、美影は気付いているのかいないのか、いつも通りのペースで歩き続ける。商店街の喧騒、踏切の警報機のけたたましい音、すれ違う人々の話し声。そんな音に包まれながら、美影は学校での面白かった出来事や、最近見つけた可愛い雑貨屋の話を、途切れることなく続けた。
しかし、彼女は決して、二人の関係性について踏み込んだ話をしてこなかった。瞬が、考え事をして黙り込んでも、彼女は「どうしたの?」と問い詰めることもなく、ただ一人で鼻歌を歌ったり、道端で丸くなっている野良猫に「こんにちは」と話しかけたりする。その、どこまでも純粋で無邪気な振る舞いが、ナイフの切っ先のように、じりじりと瞬の心を削っていくのだった。
美影は、あまりにも「普通」すぎた。
彼女は、瞬が他の女子生徒と話していても、全く気にする素振りを見せない。瞬が、グループの中心にいる彼女ではなく、大輝との男同士の馬鹿話に夢中になっていても、ただ微笑ましそうにそれを眺めているだけだ。
彼女は、瞬に何も求めてこなかった。
「もっと一緒にいたい」とも、「もっと連絡してほしい」とも、決して言わない。寂しいとか、会いたいとか、そういった類の、恋人同士ならば当然交わされるはずの言葉を、彼女の口から聞いたことがなかった。
彼女の世界は、まるで完璧に満たされた、美しいガラスの水槽のようだった。その水槽の中には、彼女の好きなもの、楽しいこと、大切な友人たちが、完璧なバランスで配置されている。そこに、「垣原瞬」という存在が、新しい鮮やかな熱帯魚として加わったことで、水が少し華やかに揺らめきはする。水面にきらきらと光が反射し、彩りが増す。
だが、たとえ彼という魚がいなくなったとしても、その水槽の水位が、少しも減ることはないのではないか。彼女の世界の完璧なバランスが、崩れることはないのではないか。
そんな得体の知れない恐怖が、湿気のようにじわじわと瞬の心を蝕んでいた。
(俺は、本当に、彼女の『特別』なのか?)
かつての恋愛では、常に自分が世界の中心だった。彼の言葉一つで、彼女たちは空にものぼる心地になったり、地の底に突き落とされたりした。彼の行動一つで、喜びの声を上げ、あるいは声を殺して涙を流した。その依存にも似た激しい感情が、瞬の未熟な自尊心を満たし、「俺は愛されているんだ」という確かな実感を与えてくれていたのだ。鬱陶しいと感じることもあった束縛や嫉妬さえも、今思えば、それは愛情の裏返しだったのだと理解できた。
だが、美影は違う。
彼女は、瞬に依存しない。それどころか、彼女の幸福は、まるで尽きることのない泉のように、彼女自身の内側から、こんこんと湧き出しているように見えた。瞬は、その泉の水を飲むことは許されても、その泉の源になることは、決して許されないような気がした。
木曜日の昼休み。その日は朝から雨が降ったり止んだりを繰り返し、教室の中は外以上にじめついた空気に満ちていた。天井に取り付けられた送風機が、「ブォン、ブォン」と単調で気だるい音を立てながら、ぬるい風を教室に循環させている。
瞬は、雨粒に濡れた窓の外をぼんやりと眺めながら、ある一つの、破壊的な決意を固めていた。
もう、待つのはやめだ。この、生殺しのような状況には、もう耐えられない。彼女の反応を待つのではなく、こちらから仕掛けて、無理やりにでも引きずり出してやる。
もっと直接的で、もっと強力な揺さぶりをかける。
彼女の、あの涼やかで穏やかな仮面を、この手で剥がしてやる。その仮面の下にある、嫉妬や、悲しみや、怒りといった、生々しい感情を、この目に焼き付けてやる。
「なあ、大輝」
声をかけると、隣の席で焼きそばパンの最後の一口を頬張っていた大輝が、もぐもぐと口を動かしながら気のない返事をした。
「ん?」
「ちょっと、協力しろ」
「あ? また何か企んでるのかよ」大輝は、ごくりとパンを飲み込むと、呆れたような目で瞬を見た。「いい加減にしとけって。前原さん、めちゃくちゃいい子じゃねえか。お前にはもったいないくらいだよ」
「いい子だから、確かめたいんだよ」瞬の声は、自分でも驚くほど低く、冷たかった。「あいつの、本当の気持ちを」
瞬の目は、本気だった。その瞳の奥には、冗談や気まぐれではない、追い詰められた獣のような暗い光が宿っていた。その光に、大輝は根負けしたように大きなため息をつくと、「…で、俺に何をしろってんだよ」と観念したように言った。その声には、友情と、そして憐れみが滲んでいた。
作戦は、この上なくシンプルで、そして残酷なものだった。
昼休みの、中庭。
そこは、多くの生徒が行き交う、学校という名の劇場で、最も観客の多いステージの一つだ。教室、廊下、体育館裏。様々な舞台がある中で、中庭は最も開放的で、誰の目にも触れる場所だ。
そこで、俺は、美影以外の女の子と、これ以上ないほど親密に話してみせる。
ターゲットは、二組の、確か名前は綾香という女子生徒に決めた。彼女は、以前から瞬に気があるような素振りを、あからさまに見せていた。話しかければ、喜んで相手をしてくれるだろう。彼女自身も、少し派手なグループに属しており、人目につくことには慣れているはずだ。この悪趣味な「舞台」の共演者としては、最適だった。
昼休みが始まると同時に、瞬は大輝の腕を掴み、半ば引きずるようにして教室を出た。
「おい、引っ張んなよ!」
大輝の抗議の声は、耳に入らなかった。廊下を抜け、階段を下り、昇降口から外に出る。むわり、とした湿度の高い空気が、霧のように肌を撫でた。雨は上がっていたが、分厚い雲の切れ間から差し込む太陽の光は、まるで巨大な虫眼鏡で集めたように強く、地面を白く焼き付けていた。芝生の青臭い匂いと、購買部から漂ってくるソースとパンの焼ける香ばしい匂いが、湿った空気の中で混じり合っている。
中庭には、思い思いの場所に陣取って昼食をとる生徒たちのグループが点在していた。笑い声、ボールをつく乾いた音、遠くから微かに聞こえてくる吹奏楽部の練習の音。そのすべてが、これから始まる舞台のBGMのようだった。
瞬は、視界の隅で、ターゲットの姿を確認した。美影と結衣が、いつものケヤキの木陰にレジャーシートを広げているのを。美影は水色のワンピースを着ていて、その色が灰色の風景の中でひときゆわ目立っていた。
よし、主役の観客は席に着いた。舞台は整った。
「よう、綾香。久しぶり」
狙い通り、綾香は友人たちと、美影たちのグループからほど近いベンチに腰掛けていた。瞬が声をかけると、彼女は驚いたように顔を上げ、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「あ、瞬くん!久しぶりー!てか、彼女できたって本当?」
綾香は、大きな瞳で上目遣いに瞬を見つめてくる。それは計算され尽くした、しかし男心をくすぐるのが抜群に上手い仕草だった。ふわりと、甘い香水の匂いが鼻をかすめる。
「まあな。でも、別にそれはそれ、これはこれだろ?」
瞬は、わざと周りに聞こえるような大きな声で笑い、ごく自然な動作で綾香の隣に腰掛けた。ベンチがぎしり、と小さな悲鳴を上げる。少し離れた場所に、気まずそうに立ち尽くす大輝の姿が見えた。彼は、空を見上げたり、意味もなくスマートフォンを取り出したりしている。
その瞬間から、瞬は完全に「役者」になっていた。
「なんか雰囲気変わった?髪切った?」
そう言って、綾香の茶色く染められた髪に、ごく軽く触れてみる。彼女が「えー、わかるー?」と嬉しそうに声を上げる。彼女が話す、中身のないクラスメイトのゴシップに、腹を抱えて笑ってみせる。必要以上に身を乗り出し、吐息がかかるほどの親密な距離感を演出する。
だが、その意識のすべては、ただ一点に、ただ一人に集中していた。
前原美影。
時折、彼女の方へと視線を送る。俺は、まるで舞台の上から批評家の反応を窺う三流役者のように、彼女の一挙手一投足を見逃すまいと、全身の神経を研ぎ澄ませていた。
最初の数分、美影は結衣たちと楽しそうに弁当を広げ、談笑していた。俺の存在に気づいていないのか、あるいは気づいていても気にしていないのか。瞬の心に、焦りが生まれる。
だが、やがて、こちらの存在に気づいたようだった。彼女が何かを食べる手を止め、ふと、顔を上げた。その視線が、綾香と親しげに話す俺の姿を、まっすぐに捉える。
(――来た!)
瞬の心臓が、どくん、と大きく跳ねた。全身の血が、頭に逆流するような感覚。さあ、どうする?前原美影。
顔を曇らせるか?悲しげに俯くか?それとも、怒りに任せて、この場から立ち去るか?
どんな反応でもいい。お前の感情が、俺の行動によって揺さぶられたという、確かな証拠が欲しいんだ。お前の完璧な世界に、俺という存在が、無視できないほどの波紋を広げたという証が。
美影と、目が合った。
ほんの数秒。だが、それは永遠のようにも感じられた。中庭の喧騒が、嘘のように遠ざかる。綾香の声も、友人たちの笑い声も聞こえない。ただ、ケヤキの木陰に座る彼女の姿だけが、異常なほどの解像度で目に焼き付いていた。
瞬は、息を呑んで、彼女の次のアクションを待った。唇が、かすかに動くのを待った。表情が、ほんの少しでも歪むのを待った。
その時、美影は、ふわり、と笑ったのだ。
それは、非難でも、悲しみでも、怒りでも、失望でもない。瞬が期待していた、どろりとした負の感情のどれでもなかった。
ただ、穏やかで、柔らかい、春の日差しのような微笑みだった。
そして、彼女は、小さく、ほとんど気づかれないくらいに、こくり、とこちらに会釈のような仕草をすると、まるで何もなかったかのように、すぐに結衣との会話に戻ってしまった。
その横顔は、まるで、水面に投げ込まれた小石が起こした波紋が、すうっと音もなく消えていくかのように、普段通りの完璧な穏やかさを取り戻していた。
その瞬間、瞬の中で、何かが、ぷつり、と音を立てて切れた。
なんだ、それは。
なんだ、今の反応は。
それは、まるで、親しい友人が、別の友人と楽しそうに話しているのを見かけて、「やあ、楽しんでるね!」と声をかけてきたかのような。そこに、恋人に対する独占欲や、嫉妬といった、粘着質で人間臭い感情は、一滴たりとも含まれていなかった。
これは、失敗ですらない。
俺が仕掛けた渾身の揺さぶりは、揺さぶりとしてすら認識されなかったのだ。
まるで、そこに存在しないものとして、完全に、完璧に、無視された。
「……もう、いいだろ」
背後から、大輝の声がした。その声には、同情と、そしてどうしようもないほどの呆れが混じっていた。その憐れみが、瞬の最後のプライドを粉々に打ち砕いた。
「…ああ」
瞬は、綾香に「じゃあ、またな」と、顔も見ずに適当な声をかけると、ぜんまいが切れたブリキの人形のように、力なく立ち上がった。全身から、血の気が引いていくような感覚。頭が、くらくらと揺れる。足元がおぼつかない。
俺は、一体、何をやっているんだ?
その日の午後の授業は、全く頭に入ってこなかった。教師が黒板に書き連ねる数式も、教科書に印刷された活字も、ただの意味を持たない記号の羅列にしか見えなかった。
ただ、窓の外をゆっくりと流れていく、灰色の雲を、ぼんやりと眺めていた。
自分は、まるで道化だ。彼女というたった一人の観客の気を引こうと、必死でジャグリングをしてみせる。玉を増やし、火の輪をくぐり、汗だくになって、息を切らして、最高の芸を見せようとする。だが、彼女は、そんな俺を一瞥すると、小さく拍手をして、「上手だね」とだけ言って、すぐに自分の読書に戻ってしまう。
俺が求めているのは、そんな冷静な賞賛じゃない。
俺の芸がなければ生きていけないと、俺の一挙手一投足に熱狂し、喝采を送り、有り金のすべてを投げ銭してくれる、そんな熱狂的な、唯一無二の観客なんだ。
放課後を告げるチャイムの音が、分厚い水の中にいるかのように、くぐもって遠くに聞こえた。
がやがやと、生徒たちが一斉に立ち上がり、教室を出ていく。椅子を引く音、ロッカーを乱暴に閉める金属音、廊下を走り抜けていく足音、友人たちの解放感に満ちた笑い声。その喧騒のすべてが、まるで分厚いガラスを一枚隔てた向こう側で起きている出来事のようだった。
瞬は、自分の席で、石のように動けずにいた。
やがて喧騒の波が引き、教室には夕暮れ前の静寂が訪れた。西日が、窓から斜めに差し込み、床に埃っぽい光の筋を作っている。
「瞬くん」
不意に、澄んだ声が、その静寂を破った。
顔を上げると、そこに美影が立っていた。いつの間に戻ってきたのか。彼女は、スクールバッグを肩にかけ、帰る準備を万端に整えている。逆光になった彼女の輪郭が、オレンジ色の光の中で柔らかく滲んでいた。
「お疲れ様。一緒に帰らない?」
彼女の表情は、いつもと同じ。今日の昼休みに、中庭で何があったかなんて、まるで記憶のフィルムから綺麗に切り取られてしまったかのように、穏やかで、親しげな笑みを浮かべている。
その無垢な笑顔を前にして、瞬は、喉の奥までせり上がってくる言葉の奔流を、必死で飲み込んだ。
『なんで、何も言わないんだよ』
『俺が他の女と、あんなに親しげに話してて、平気なのかよ』
『お前にとって、俺って、一体なんなんだよ』
その言葉たちは、どれもこれも、かつて、瞬の心ない一言に傷ついた元恋人の里奈が、俺に泣きながらぶつけてきた言葉と、全く同じだった。
自分が、一番軽蔑していたはずの、相手に依存し、自分の感情をぶつけることでしか愛情を確かめられない、弱い人間。
今、俺は、まさしくその人間に成り下がろうとしている。
その圧倒的な屈辱と、底なしの自己嫌悪で、声が出なかった。喉がカラカラに乾き、唇が張り付いたように動かない。
「…瞬くん?」
美影が、不思議そうに小さく首を傾げる。
その、どこまでも澄んだ瞳に見つめられていると、自分の内側で渦巻いている、嫉妬や、独占欲や、不安といった、醜く、どろりとした感情のすべてが、その湖のように静かな瞳の表面に映し出され、見透かされているようで、たまらなかった。
「……悪い。今日、用事あるから」
やっとのことで、それだけを絞り出す。声は、自分のものではないように掠れて、乾いていた。
美影は、少しだけ残念そうな顔をしたが、それもほんの一瞬のことだった。すぐに、いつもの太陽のような笑顔に戻った。
「そっか。わかった。じゃあ、また明日ね!」
彼女は、ひらりと軽く手を振ると、何の躊躇いもない軽やかな足取りで、くるりと背を向けた。
コツ、コツ、という彼女のローファーの音が、静かになり始めた廊下に響く。その音は、まるで瞬の心臓の上を歩いていくかのように、一歩一歩、重く、確実に、遠ざかっていく。
一人、教室に残された瞬は、夕日で燃えるようなオレンジ色に染まった机に、崩れるように突っ伏した。
もう、わからない。
何もかも。
この胸を締め付ける、息苦しいほどの感情が、恋と呼べるものなのかどうかすら。
ただ一つだけ確かなのは、前原美影という存在が、俺が今まで必死に築き上げてきたちっぽけなプライドも、陳腐な恋愛のセオリーも、そのすべてを無慈悲に、そして容赦なく破壊していく、巨大な嵐のようなものである、ということだけだった。そして自分は、その嵐の中で、なすすべもなく立ち尽くす、ただの無力な人間でしかないのだ、と。
ベッドから這い出した垣原瞬の素足がフローリングに触れると、ひんやりとする代わりに、ねっとりとした不快な感触が伝わってくる。窓の外は、梅雨入りを間近に控えた空が、薄い灰色の膜に覆われていた。それはまるで、巨大な和紙を空一面に貼り付けたかのようで、太陽の在り処は、その和紙の向こう側でぼんやりと滲んだ、頼りない光の染みとしてしか認識できない。週末に見た、突き抜けるように鮮やかな青空は、疾うの昔に見た映画のワンシーンのように、色彩も手触りも失われた遠い記憶のようだ。
瞬は、寝癖のついた頭を掻きながら、のろのろとカーテンを開けた。窓ガラスには、夜の間に凝結した水滴がびっしりと付き、外の景色を歪ませている。指でその水滴を拭うと、通学路脇に植えられた紫陽花の一群が見えた。まだ固く閉ざされた蕾は、その内に秘めた青や紫の色をひた隠しにするかのように、しかし雨を待ち望む渇望だけは隠しきれないといった風情で、重たげに膨らんでいた。その姿は、今の自分の心のようだ、と瞬は自嘲気味に思った。
彼の心もまた、この空模様と寸分違わず、晴れやかなのか、曇っているのか、自分でも判然としない靄に包まれていた。希望と不安が入り混じった、気味の悪いグラデーション。その原因は、ベッドサイドのテーブルで充電器に繋がれたままのスマートフォンにあった。
手に取ると、ひやりとした無機質な感触が指先に伝わる。ロック画面を解除すると、待ち受け画面よりも先に、昨夜から何度も何度も確認したメッセージアプリのトーク画面が表示された。前原美影からの、たった一行のメッセージ。
『昨日はすっごく楽しかったね、ありがとう!』
その言葉は、太陽のように明るく、屈託がなかった。文末には、にこやかに笑う絵文字が添えられている。その言葉の響き、その絵文字の表情に、嘘や偽りがあるようには到底思えなかった。彼女は心から、土曜日のデートを楽しんでくれたのだろう。
だが、それならば、あの夜なんのメッセージもなかったのはなぜなんだろう
まるで、自分だけが存在しないはずの幽霊を相手に、必死で剣を振り回していた道化師のようだ。観客のいない舞台で、一人息を切らし、滑稽な汗を流していただけなのではないか。そんな考えが、じわりと胸の奥に広がっていく。
制服に着替え、トーストを無理やり喉に押し込み、玄関のドアを開ける。むわりとした、土と湿気の匂いが混じり合った空気が、肺腑を満たした。アスファルトは夜露で黒く濡れ、マンホールの蓋だけが鈍い銀色に光っている。コツ、コツ、という自分のローファーの音だけが、静かな住宅街に響いていた。
学校へ向かう道すがらも、瞬の頭の中では美影のメッセージがリフレインしていた。『楽しかった』という言葉と、あの夜の沈黙。その二つの事象が、水と油のように決して交わることなく、彼の思考の中で分離し、彼を混乱させていた。
校門をくぐり、昇降口で上履きに履き替える。ざわめきが大きくなっていく。階段を上り、二階の廊下を進む。目的の教室が近づくにつれて、心臓が少しだけ速く脈打つのを感じた。引き戸に手をかけ、息を小さく吸い込む。
がらり、と少し乾いた音を立てて戸を開けると、朝のホームルーム前の、活気に満ちた喧騒が瞬を包み込んだ。机と椅子が床を擦る甲高い音、週末の出来事を報告しあう友人たちの弾んだ笑い声、開け放たれた窓から流れ込む、少しだけ土の匂いが混じった澱んだ風。蛍光灯の白い光と、窓から差し込む灰色の外光が混じり合い、教室内の空気中に舞う微細な埃をキラキラと照らし出していた。
瞬は、その喧騒の中を泳ぐようにして自分の席に向かいながら、無意識に、しかし必死に、彼女の姿を探していた。視線が教室をスキャンする。壁に貼られた習字の作品、黒板の走り書き、見慣れたクラスメイトたちの顔。そして、いた。
教室の反対側、窓際の、一番後ろから二番目の席。そこは彼女の指定席だった。前原美影は、親友の白石結衣と、一冊のファッション雑誌を机の上に広げ、身を寄せ合うようにして覗き込んでいた。ページを指さし、何かを囁き合っては、キャッキャと小鳥のさえずりのような笑い声を立てている。その姿は、昨日までの週末に、二人の間に何があったかなんて微塵も感じさせない、完璧なまでにいつも通りの日常の風景だった。風が窓から吹き込み、彼女の艶やかな黒髪を優しく揺らす。その一瞬、光の加減で髪が絹のように輝いて見えた。
その時、ふと、彼女が顔を上げた。まるで、瞬の視線に気づいたかのように。
目が、合った。
刹那、教室の喧騒が遠のいていくような錯覚に陥る。彼女の大きな瞳が、真っ直ぐに瞬を捉えた。そして、次の瞬間、美影は、ぱっと顔を輝かせた。それは、まるで雲間から太陽が差し込んだかのような、眩しいほどの笑顔だった。彼女は、小さく、しかしはっきりと手を振った。
「おはよう、瞬くん!」
その声は、鈴が鳴るようにクリアで、教室のざわめきを突き抜けて瞬の耳に届いた。その声に反応して、周りにいたクラスメイト数人が、にやり、と意地の悪い笑みを浮かべながらこちらを見る。その視線が、瞬の頬にじりじりと熱を集めていくのを感じた。
「……おう」
瞬は、精一杯のぶっきらぼうさを装って短く返事をすると、逃げるように自分の席に着いた。どさりと鞄を机の横にかけ、乱暴に椅子を引く。心臓が、まだ少しだけ速く打っていた。彼女のあの笑顔は、昨夜の自分の悩みが、いかに馬鹿げたものであったかを雄弁に物語っているようだった。
その日から、奇妙で、そして瞬にとっては拷問のような一週間が始まった。
傍から見れば、彼らはごく普通の、微笑ましい恋人同士に見えただろう。
火曜日の昼休み。美影は、手作りの弁当箱を手に、「一緒に食べよ!」と当たり前のように瞬の席までやってきた。彼女の隣には結衣が、そして瞬の前の席には、親友の木下大輝が陣取る。美影が作ったという少し甘めの卵焼きを、瞬が「うまい」と呟くと、彼女は「ほんと?よかった!」と心底嬉しそうに笑った。その笑顔には、一点の曇りもなかった。
「瞬、これあげる」
大輝が、自分の弁当に入っていた唐揚げを一つ、瞬の白米の上に乗せる。
「サンキュ。お返しに、ピーマンやるよ」
「いらねえよ!」
そんな他愛のないやり取りを、美影はただニコニコと眺めている。瞬が、わざとクラスの女子委員長に「次の委員会の資料、どこだっけ?」と話しかけに行っても、彼女は全く気にする素振りを見せず、結衣と好きなアーティストの新曲について楽しそうに語らっているだけだった。窓の外では、厚い雲が少しだけ切れ、そこから漏れた陽光が校庭をまだらに照らしていた。その光景と、晴れ渡ることのない自分の心とのギャップに、瞬は目眩を覚えた。
水曜日の放課後、部活のない日には、一緒に駅まで歩いた。並んで歩く道すがら、二人の肩が時折触れ合う。その度に、瞬の心臓は小さく跳ねたが、美影は気付いているのかいないのか、いつも通りのペースで歩き続ける。商店街の喧騒、踏切の警報機のけたたましい音、すれ違う人々の話し声。そんな音に包まれながら、美影は学校での面白かった出来事や、最近見つけた可愛い雑貨屋の話を、途切れることなく続けた。
しかし、彼女は決して、二人の関係性について踏み込んだ話をしてこなかった。瞬が、考え事をして黙り込んでも、彼女は「どうしたの?」と問い詰めることもなく、ただ一人で鼻歌を歌ったり、道端で丸くなっている野良猫に「こんにちは」と話しかけたりする。その、どこまでも純粋で無邪気な振る舞いが、ナイフの切っ先のように、じりじりと瞬の心を削っていくのだった。
美影は、あまりにも「普通」すぎた。
彼女は、瞬が他の女子生徒と話していても、全く気にする素振りを見せない。瞬が、グループの中心にいる彼女ではなく、大輝との男同士の馬鹿話に夢中になっていても、ただ微笑ましそうにそれを眺めているだけだ。
彼女は、瞬に何も求めてこなかった。
「もっと一緒にいたい」とも、「もっと連絡してほしい」とも、決して言わない。寂しいとか、会いたいとか、そういった類の、恋人同士ならば当然交わされるはずの言葉を、彼女の口から聞いたことがなかった。
彼女の世界は、まるで完璧に満たされた、美しいガラスの水槽のようだった。その水槽の中には、彼女の好きなもの、楽しいこと、大切な友人たちが、完璧なバランスで配置されている。そこに、「垣原瞬」という存在が、新しい鮮やかな熱帯魚として加わったことで、水が少し華やかに揺らめきはする。水面にきらきらと光が反射し、彩りが増す。
だが、たとえ彼という魚がいなくなったとしても、その水槽の水位が、少しも減ることはないのではないか。彼女の世界の完璧なバランスが、崩れることはないのではないか。
そんな得体の知れない恐怖が、湿気のようにじわじわと瞬の心を蝕んでいた。
(俺は、本当に、彼女の『特別』なのか?)
かつての恋愛では、常に自分が世界の中心だった。彼の言葉一つで、彼女たちは空にものぼる心地になったり、地の底に突き落とされたりした。彼の行動一つで、喜びの声を上げ、あるいは声を殺して涙を流した。その依存にも似た激しい感情が、瞬の未熟な自尊心を満たし、「俺は愛されているんだ」という確かな実感を与えてくれていたのだ。鬱陶しいと感じることもあった束縛や嫉妬さえも、今思えば、それは愛情の裏返しだったのだと理解できた。
だが、美影は違う。
彼女は、瞬に依存しない。それどころか、彼女の幸福は、まるで尽きることのない泉のように、彼女自身の内側から、こんこんと湧き出しているように見えた。瞬は、その泉の水を飲むことは許されても、その泉の源になることは、決して許されないような気がした。
木曜日の昼休み。その日は朝から雨が降ったり止んだりを繰り返し、教室の中は外以上にじめついた空気に満ちていた。天井に取り付けられた送風機が、「ブォン、ブォン」と単調で気だるい音を立てながら、ぬるい風を教室に循環させている。
瞬は、雨粒に濡れた窓の外をぼんやりと眺めながら、ある一つの、破壊的な決意を固めていた。
もう、待つのはやめだ。この、生殺しのような状況には、もう耐えられない。彼女の反応を待つのではなく、こちらから仕掛けて、無理やりにでも引きずり出してやる。
もっと直接的で、もっと強力な揺さぶりをかける。
彼女の、あの涼やかで穏やかな仮面を、この手で剥がしてやる。その仮面の下にある、嫉妬や、悲しみや、怒りといった、生々しい感情を、この目に焼き付けてやる。
「なあ、大輝」
声をかけると、隣の席で焼きそばパンの最後の一口を頬張っていた大輝が、もぐもぐと口を動かしながら気のない返事をした。
「ん?」
「ちょっと、協力しろ」
「あ? また何か企んでるのかよ」大輝は、ごくりとパンを飲み込むと、呆れたような目で瞬を見た。「いい加減にしとけって。前原さん、めちゃくちゃいい子じゃねえか。お前にはもったいないくらいだよ」
「いい子だから、確かめたいんだよ」瞬の声は、自分でも驚くほど低く、冷たかった。「あいつの、本当の気持ちを」
瞬の目は、本気だった。その瞳の奥には、冗談や気まぐれではない、追い詰められた獣のような暗い光が宿っていた。その光に、大輝は根負けしたように大きなため息をつくと、「…で、俺に何をしろってんだよ」と観念したように言った。その声には、友情と、そして憐れみが滲んでいた。
作戦は、この上なくシンプルで、そして残酷なものだった。
昼休みの、中庭。
そこは、多くの生徒が行き交う、学校という名の劇場で、最も観客の多いステージの一つだ。教室、廊下、体育館裏。様々な舞台がある中で、中庭は最も開放的で、誰の目にも触れる場所だ。
そこで、俺は、美影以外の女の子と、これ以上ないほど親密に話してみせる。
ターゲットは、二組の、確か名前は綾香という女子生徒に決めた。彼女は、以前から瞬に気があるような素振りを、あからさまに見せていた。話しかければ、喜んで相手をしてくれるだろう。彼女自身も、少し派手なグループに属しており、人目につくことには慣れているはずだ。この悪趣味な「舞台」の共演者としては、最適だった。
昼休みが始まると同時に、瞬は大輝の腕を掴み、半ば引きずるようにして教室を出た。
「おい、引っ張んなよ!」
大輝の抗議の声は、耳に入らなかった。廊下を抜け、階段を下り、昇降口から外に出る。むわり、とした湿度の高い空気が、霧のように肌を撫でた。雨は上がっていたが、分厚い雲の切れ間から差し込む太陽の光は、まるで巨大な虫眼鏡で集めたように強く、地面を白く焼き付けていた。芝生の青臭い匂いと、購買部から漂ってくるソースとパンの焼ける香ばしい匂いが、湿った空気の中で混じり合っている。
中庭には、思い思いの場所に陣取って昼食をとる生徒たちのグループが点在していた。笑い声、ボールをつく乾いた音、遠くから微かに聞こえてくる吹奏楽部の練習の音。そのすべてが、これから始まる舞台のBGMのようだった。
瞬は、視界の隅で、ターゲットの姿を確認した。美影と結衣が、いつものケヤキの木陰にレジャーシートを広げているのを。美影は水色のワンピースを着ていて、その色が灰色の風景の中でひときゆわ目立っていた。
よし、主役の観客は席に着いた。舞台は整った。
「よう、綾香。久しぶり」
狙い通り、綾香は友人たちと、美影たちのグループからほど近いベンチに腰掛けていた。瞬が声をかけると、彼女は驚いたように顔を上げ、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「あ、瞬くん!久しぶりー!てか、彼女できたって本当?」
綾香は、大きな瞳で上目遣いに瞬を見つめてくる。それは計算され尽くした、しかし男心をくすぐるのが抜群に上手い仕草だった。ふわりと、甘い香水の匂いが鼻をかすめる。
「まあな。でも、別にそれはそれ、これはこれだろ?」
瞬は、わざと周りに聞こえるような大きな声で笑い、ごく自然な動作で綾香の隣に腰掛けた。ベンチがぎしり、と小さな悲鳴を上げる。少し離れた場所に、気まずそうに立ち尽くす大輝の姿が見えた。彼は、空を見上げたり、意味もなくスマートフォンを取り出したりしている。
その瞬間から、瞬は完全に「役者」になっていた。
「なんか雰囲気変わった?髪切った?」
そう言って、綾香の茶色く染められた髪に、ごく軽く触れてみる。彼女が「えー、わかるー?」と嬉しそうに声を上げる。彼女が話す、中身のないクラスメイトのゴシップに、腹を抱えて笑ってみせる。必要以上に身を乗り出し、吐息がかかるほどの親密な距離感を演出する。
だが、その意識のすべては、ただ一点に、ただ一人に集中していた。
前原美影。
時折、彼女の方へと視線を送る。俺は、まるで舞台の上から批評家の反応を窺う三流役者のように、彼女の一挙手一投足を見逃すまいと、全身の神経を研ぎ澄ませていた。
最初の数分、美影は結衣たちと楽しそうに弁当を広げ、談笑していた。俺の存在に気づいていないのか、あるいは気づいていても気にしていないのか。瞬の心に、焦りが生まれる。
だが、やがて、こちらの存在に気づいたようだった。彼女が何かを食べる手を止め、ふと、顔を上げた。その視線が、綾香と親しげに話す俺の姿を、まっすぐに捉える。
(――来た!)
瞬の心臓が、どくん、と大きく跳ねた。全身の血が、頭に逆流するような感覚。さあ、どうする?前原美影。
顔を曇らせるか?悲しげに俯くか?それとも、怒りに任せて、この場から立ち去るか?
どんな反応でもいい。お前の感情が、俺の行動によって揺さぶられたという、確かな証拠が欲しいんだ。お前の完璧な世界に、俺という存在が、無視できないほどの波紋を広げたという証が。
美影と、目が合った。
ほんの数秒。だが、それは永遠のようにも感じられた。中庭の喧騒が、嘘のように遠ざかる。綾香の声も、友人たちの笑い声も聞こえない。ただ、ケヤキの木陰に座る彼女の姿だけが、異常なほどの解像度で目に焼き付いていた。
瞬は、息を呑んで、彼女の次のアクションを待った。唇が、かすかに動くのを待った。表情が、ほんの少しでも歪むのを待った。
その時、美影は、ふわり、と笑ったのだ。
それは、非難でも、悲しみでも、怒りでも、失望でもない。瞬が期待していた、どろりとした負の感情のどれでもなかった。
ただ、穏やかで、柔らかい、春の日差しのような微笑みだった。
そして、彼女は、小さく、ほとんど気づかれないくらいに、こくり、とこちらに会釈のような仕草をすると、まるで何もなかったかのように、すぐに結衣との会話に戻ってしまった。
その横顔は、まるで、水面に投げ込まれた小石が起こした波紋が、すうっと音もなく消えていくかのように、普段通りの完璧な穏やかさを取り戻していた。
その瞬間、瞬の中で、何かが、ぷつり、と音を立てて切れた。
なんだ、それは。
なんだ、今の反応は。
それは、まるで、親しい友人が、別の友人と楽しそうに話しているのを見かけて、「やあ、楽しんでるね!」と声をかけてきたかのような。そこに、恋人に対する独占欲や、嫉妬といった、粘着質で人間臭い感情は、一滴たりとも含まれていなかった。
これは、失敗ですらない。
俺が仕掛けた渾身の揺さぶりは、揺さぶりとしてすら認識されなかったのだ。
まるで、そこに存在しないものとして、完全に、完璧に、無視された。
「……もう、いいだろ」
背後から、大輝の声がした。その声には、同情と、そしてどうしようもないほどの呆れが混じっていた。その憐れみが、瞬の最後のプライドを粉々に打ち砕いた。
「…ああ」
瞬は、綾香に「じゃあ、またな」と、顔も見ずに適当な声をかけると、ぜんまいが切れたブリキの人形のように、力なく立ち上がった。全身から、血の気が引いていくような感覚。頭が、くらくらと揺れる。足元がおぼつかない。
俺は、一体、何をやっているんだ?
その日の午後の授業は、全く頭に入ってこなかった。教師が黒板に書き連ねる数式も、教科書に印刷された活字も、ただの意味を持たない記号の羅列にしか見えなかった。
ただ、窓の外をゆっくりと流れていく、灰色の雲を、ぼんやりと眺めていた。
自分は、まるで道化だ。彼女というたった一人の観客の気を引こうと、必死でジャグリングをしてみせる。玉を増やし、火の輪をくぐり、汗だくになって、息を切らして、最高の芸を見せようとする。だが、彼女は、そんな俺を一瞥すると、小さく拍手をして、「上手だね」とだけ言って、すぐに自分の読書に戻ってしまう。
俺が求めているのは、そんな冷静な賞賛じゃない。
俺の芸がなければ生きていけないと、俺の一挙手一投足に熱狂し、喝采を送り、有り金のすべてを投げ銭してくれる、そんな熱狂的な、唯一無二の観客なんだ。
放課後を告げるチャイムの音が、分厚い水の中にいるかのように、くぐもって遠くに聞こえた。
がやがやと、生徒たちが一斉に立ち上がり、教室を出ていく。椅子を引く音、ロッカーを乱暴に閉める金属音、廊下を走り抜けていく足音、友人たちの解放感に満ちた笑い声。その喧騒のすべてが、まるで分厚いガラスを一枚隔てた向こう側で起きている出来事のようだった。
瞬は、自分の席で、石のように動けずにいた。
やがて喧騒の波が引き、教室には夕暮れ前の静寂が訪れた。西日が、窓から斜めに差し込み、床に埃っぽい光の筋を作っている。
「瞬くん」
不意に、澄んだ声が、その静寂を破った。
顔を上げると、そこに美影が立っていた。いつの間に戻ってきたのか。彼女は、スクールバッグを肩にかけ、帰る準備を万端に整えている。逆光になった彼女の輪郭が、オレンジ色の光の中で柔らかく滲んでいた。
「お疲れ様。一緒に帰らない?」
彼女の表情は、いつもと同じ。今日の昼休みに、中庭で何があったかなんて、まるで記憶のフィルムから綺麗に切り取られてしまったかのように、穏やかで、親しげな笑みを浮かべている。
その無垢な笑顔を前にして、瞬は、喉の奥までせり上がってくる言葉の奔流を、必死で飲み込んだ。
『なんで、何も言わないんだよ』
『俺が他の女と、あんなに親しげに話してて、平気なのかよ』
『お前にとって、俺って、一体なんなんだよ』
その言葉たちは、どれもこれも、かつて、瞬の心ない一言に傷ついた元恋人の里奈が、俺に泣きながらぶつけてきた言葉と、全く同じだった。
自分が、一番軽蔑していたはずの、相手に依存し、自分の感情をぶつけることでしか愛情を確かめられない、弱い人間。
今、俺は、まさしくその人間に成り下がろうとしている。
その圧倒的な屈辱と、底なしの自己嫌悪で、声が出なかった。喉がカラカラに乾き、唇が張り付いたように動かない。
「…瞬くん?」
美影が、不思議そうに小さく首を傾げる。
その、どこまでも澄んだ瞳に見つめられていると、自分の内側で渦巻いている、嫉妬や、独占欲や、不安といった、醜く、どろりとした感情のすべてが、その湖のように静かな瞳の表面に映し出され、見透かされているようで、たまらなかった。
「……悪い。今日、用事あるから」
やっとのことで、それだけを絞り出す。声は、自分のものではないように掠れて、乾いていた。
美影は、少しだけ残念そうな顔をしたが、それもほんの一瞬のことだった。すぐに、いつもの太陽のような笑顔に戻った。
「そっか。わかった。じゃあ、また明日ね!」
彼女は、ひらりと軽く手を振ると、何の躊躇いもない軽やかな足取りで、くるりと背を向けた。
コツ、コツ、という彼女のローファーの音が、静かになり始めた廊下に響く。その音は、まるで瞬の心臓の上を歩いていくかのように、一歩一歩、重く、確実に、遠ざかっていく。
一人、教室に残された瞬は、夕日で燃えるようなオレンジ色に染まった机に、崩れるように突っ伏した。
もう、わからない。
何もかも。
この胸を締め付ける、息苦しいほどの感情が、恋と呼べるものなのかどうかすら。
ただ一つだけ確かなのは、前原美影という存在が、俺が今まで必死に築き上げてきたちっぽけなプライドも、陳腐な恋愛のセオリーも、そのすべてを無慈悲に、そして容赦なく破壊していく、巨大な嵐のようなものである、ということだけだった。そして自分は、その嵐の中で、なすすべもなく立ち尽くす、ただの無力な人間でしかないのだ、と。
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