やがて、君と見る木漏れ日

Gaku

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第七話:それぞれの心配

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茜色の光が、窓ガラスを透過して教室の床に長い斜光の帯を描き出していた。空気中を舞う微細な埃が、その光の道筋の中で金色にきらめき、まるで時が止まったかのような、静謐な光景を作り上げている。放課後の喧騒が嘘のように遠のいた教室に残されたのは、深い、深い沈黙と、床に伸びる二つの歪な影、そして、立ち尽くす二人の男子生徒だった。

垣原瞬は、ついさっきまで前原美影が立っていた場所、そして彼女が静かに姿を消した扉の方を、魂がごっそりと抜け落ちてしまったかのように、ただぼんやりと見つめている。焦点の合わない瞳は、夕暮れの光を鈍く反射するばかりで、何の感情も映し出してはいない。彼の周りの空気は、数分前まで張り詰めていた、まるで薄いガラスのように脆く、刺々しい緊張が嘘のように凪いでいた。だが、それは台風が過ぎ去った後の、あらゆるものをなぎ倒した後の不気味な静けさであり、彼の内面では、これまで経験したことのない、巨大で、方向性を見失った感情の渦が、轟々と音を立てて巻いていた。

最初にその息苦しいまでの沈黙を破ったのは、教室の後ろ、窓際の壁に背を預け、事の成り行きを彫像のように見守っていた、木下大輝だった。

「……おい、瞬」

その声は、いつもグラウンドで響かせる快活なものとは似ても似つかぬほど低く、そして慎重な響きを持っていた。まるで、衝撃で修復不可能なほど砕け散ってしまいそうなガラス細工に、そっと指先で触れるかのような、壊れ物を扱うかのような声だった。

びくり、と瞬の肩が微かに揺れた。彼は、ゆっくりと、本当にゆっくりと、何十年も油を差されていない錆びついたブリキの人形のように、ぎこちなく首を動かし、大輝の方を向いた。ギギギ、と骨が軋む音が聞こえるような錯覚さえ覚える。

「……なんだよ」

乾ききった喉から、かろうじて絞り出した声は、紙やすりで擦ったかのようにひどく掠れていた。自分の声ではないみたいだと、どこか他人事のように思った。

「お前……大丈夫か」

「……何が」

「何が、じゃねえよ。全部だよ、ぜんぶ」

大輝は、がしがしと、まるで頭皮にこびりついた何かを無理やり剥がすかのように乱暴に自分の頭を掻きながら、瞬の隣まで、ゆっくりと歩み寄ってきた。カツ、カツ、というスニーカーの底がリノリウムの床を叩く乾いた音が、静寂の中で不自然なほど大きく響き渡る。瞬の隣に立つと、言葉を選ぶように一度、ふぅ、と長い息を吐き、埃の匂いが混じる天井を仰いだ。

「……俺、生まれて初めて見たわ。あんなの」

「……」

瞬は何も応えられない。ただ、大輝の言葉が鼓膜を震わせ、脳に届くまでの時間がやけに長く感じられた。

「なんだあれ。聖人か? それとも、俺たちの理解を超えた、新種の生命体か何かか? 『嫉妬はする、でも、行動はしない』だ? 普通、逆だろ。嫉妬したから、行動すんだろ、人間ってのは。殴るなり、奪うなり、泣き喚くなりな。それが普通だ。俺もお前も、そうやって生きてきたじゃねえか」

大輝の言葉は、一般的な感覚として、あまりにも正しく、あまりにも常識的だった。それは、これまで瞬が疑いようもなく信じてきた世界の法則そのものだった。好きだから、欲しくなる。手に入らないから、嫉妬する。嫉妬するから、何らかの行動を起こす。その単純明快な連鎖こそが、人間という生き物の本質だと思っていた。

だからこそ、瞬は何も言い返せない。彼は、大輝が明快に代弁してくれた「常識」という名の堅固な大地と、美影が静かに、しかし圧倒的な説得力をもって提示した「真理」という名の、どこまでも広がる青い空との間で、完全に座標を失った迷子になっていた。足元は崩れ、見上げる空はあまりに高く、自分という存在が、ちっぽけで、ひどく不確かで、今にも霧散してしまいそうだった。

二人は、どちらからともなく、黙って教室を出た。瞬が最後にもう一度振り返った教室は、夕日の最後の残光を浴びて、すべてのものが深い影を宿し、まるで古代遺跡のように静まり返っていた。

ギィ、と重い音を立てて閉じた扉が、彼らの背後で世界を二つに隔てた。

廊下は、もうほとんど人影がなく、等間隔に並んだ蛍光灯の白い光だけが、清掃員によって磨き上げられた床に冷たく反射している。その無機質な光は、人の体温を奪っていくかのようだ。コツ、コツ、コツ、コツ…。階段を下りる、二人の足音だけが、伽藍堂の校舎にやけに大きく響いていた。その規則正しいリズムが、まるで狂ってしまった自分の心臓の鼓動を、無理やり正常に戻そうとしているかのようにも聞こえた。

昇降口の鉄製の扉を押し開けると、ひやりとした、雨上がりの湿度の高い空気が、火照った肌を優しく撫でた。一瞬、息が詰まるほどの濃密な空気。雨はすっかり上がっている。見上げた西の空は、雲の切れ間から覗く太陽が最後の力を振り絞るように、燃えるようなオレンジ色と、夜の訪れを告げる深い藍色が混じり合った、劇的なグラデーションを描いていた。それは、神が巨大なキャンバスに描いた、一枚の荘厳な絵画のようだった。

広大なグラウンドは、降り続いた雨によって巨大な水鏡と化し、その息を呑むような空の色を、一滴残らず、完璧に映し込んでいる。天と地が逆転したかのような、幻想的な光景だった。

空気中には、雨に洗われた土の匂い、アスファルトの匂い、そして濡れた葉の青々しい香りが飽和するほどに満ちていた。風が吹くたびに、校庭の隅に植えられた桜の木の葉がさわさわと音を立て、雨粒がきらきらと光りながら地面に落ちていく。

世界は、こんなにも静かで、秩序があって、圧倒的に、美しい。

それなのに、自分の心の中だけが、めちゃくちゃにかき乱され、汚泥のように濁っている。

その耐え難いほどのギャップに、瞬は強烈な目眩すら覚えた。ぐらり、と視界が歪み、思わず傍らの壁に手をついた。冷たく、ざらりとしたコンクリートの感触が、かろうじて彼をこの場所に繋ぎとめていた。

「なあ、瞬」

駅までの道を、並んで歩く。会話はない。ただ、濡れたアスファルトをスニーカーが踏む、湿った音だけが続いていた。街灯が、ぽつり、またぽつりと灯り始め、水気を含んだ路面の上に、ぼんやりとした光の円をいくつも、いくつも描いていた。それはまるで、誰にも拾われることのない、無数の涙の跡のようにも見えた。

大輝が、不意に口を開いた。

「俺は、お前の気持ちも、わかるぜ。好きな女が、自分に無関心に見えたら、そりゃ不安になる。他の奴と仲良くしてたら、面白くない。確かめたくなる。当たり前だ。人間だもん」

「……」

瞬は何も言えず、ただアスファルトに描かれた光の円を踏まないように、機械的に足を動かし続ける。

「でもな、今日のお前は、やりすぎだ。あのやり方は、ただの八つ当たりだぞ。自分の不安やイライラを、一番ぶつけちゃいけねえ相手に、ナイフみたいに突き立てただけだ」

大輝は、責めているのではなかった。その声には、怒りも、軽蔑も含まれていない。ただ、事実を、ありのままに、友として告げているだけだ。だからこそ、その言葉の一つ一つが、防御のしようもなく、瞬の胸の奥深くにずぶりと突き刺さった。

「……わかってる」

やっとの思いで、そう認める。その声は、自分でも驚くほど弱々しく、消え入りそうだった。

「前原さん、泣きそうだったじゃねえか。唇、噛み締めて、目が真っ赤になって。それでも、お前のこと、一切責めなかった。それどころか、『瞬くんの気持ちもわかるよ』って、お前のこと、わかろうとしてただろ。あんな、人格否定みたいなこと言われた後で、普通、できるか? 俺なら、無理だ。百パー無理。ブチ切れて、荷物まとめて、即、別れる」

その通りだ。

その通りなんだ。

瞬は、心の中で何度も、何度も、大輝の言葉を反芻する。

俺は、自分の不安を解消したいがために、自分のちっぽけなプライドを守りたいがために、彼女の心を鋭利なナイフで切りつけた。それも、一番無防備で、柔らかい部分を狙って。

それなのに、彼女は、血を流しながらも、そのナイフを握った俺の手を、震える手で、そっと包み込もうとしたのだ。その温もりを、俺は振り払おうとさえした。

『私もまだ、勉強中だけどね』

彼女の、あの少し困ったような、それでいて、どこか寂しそうな、慈愛に満ちた笑顔が、瞼の裏に焼き付いて離れない。そうだ。彼女もまた、完璧な聖人などではない。俺と同じように傷つき、悩み、迷いながらも、それでも、彼女が信じる「より良い関係」であろうと、必死に努力している、ただ一人の、健気な人間に過ぎないのだ。

その圧倒的な事実に気づいた時、瞬の胸を、後悔とも、感謝とも、あるいは畏怖ともつかない、熱く、そしてどうしようもなく切ない感情が、堰を切ったように突き上げてきた。喉の奥が詰まり、鼻の奥がツンとする。

「……俺は、最低だ」

ぽつりと、まるで息が漏れるように、そう呟いた。それは、誰に言うでもない、自分自身への紛れもない告白だった。

大輝は、何も言わなかった。ただ、何も言わずに、瞬の肩を、一度だけ、ドン、と強く叩いた。その無言の、しかし確かな重みが、友情というものが何であるかを、雄弁に物語っていた。



一方、その頃。

前原美影と親友の相田結衣は、学校の最寄り駅から一つ先の、普段は利用することのない駅で電車を降りていた。ホームに降り立った瞬間に感じる、知らない街の匂い。少しだけ、旅に出たような心細さを感じた。

駅前の、夜の帳が下り始めた人通りの少ない公園のベンチに、二人は並んで腰掛けている。錆びて少し塗装が剥げたベンチは、雨の湿気を含んでひんやりと冷たかった。公園の隅にぽつんと立つ自動販売機の、温かい色の光だけが、二人の足元をぼんやりと照らし出し、小さな光の溜まりを作っている。

すぐそばの植え込みからは、雨にたっぷりと濡れたツツジの、甘く、そして少しだけ青臭い香りが、湿った夜風に乗って漂ってきた。遠くでは、幹線道路を走る車の走行音が、絶え間なく聞こえてくる。

結衣は、さっきから、ずっと黙り込んでいる美影の横顔を、言葉にならない不安を瞳に浮かべて、じっと見つめていた。

美影は、ただ、公園の向こう側にある踏切の、点滅する二つの赤い光を、何も映さない瞳でぼんやりと眺めている。カン、カン、カン、カン、という、感情の欠片も含まない無機質な警報音が、夜の静寂に吸い込まれることなく、執拗に響き続けていた。その音が、乱れた心臓の鼓動を無理やり代弁してくれているかのようだった。

「……美影」

耐えきれないほどの沈黙に耐えかねたように、結衣が震える声で口を開いた。

「本当に、大丈夫なの? あんな、ひどい言われ方して。教室にいた時、泣きそうだったじゃない。唇、真っ白になるまで噛んでたよ」

その言葉に、美影の肩が、ほんの少しだけ、コートの下でびくりと震えた。彼女はゆっくりと瞬きをすると、自嘲するように、ふ、と白く短い息を吐いた。

「……うん。大丈夫じゃないかも」

その声は、弱々しく、しかし不思議なほど澄んでいた。

「怖かった。すごく。瞬くんが、あんなに怒ってるの、初めて見たから。私の知らない顔だった。私のこと、すごく嫌いになっちゃったんじゃないかなって思ったら、心臓が、冷たい手でぎゅーって握りつぶされるみたいになった」

その正直な、弱さを隠さない言葉に、結衣は、ほっとしたような、それでいて、もっと心配になったような、ぐちゃぐちゃに混ざり合った複雑な表情を浮かべた。

「だったら、なんで! なんで、あんなこと言ったの? なんで言い返さなかったのよ! もっと、自分の気持ち、ぶつけてよかったんだよ! 『私だって傷つくんだ』って、思いっきり怒ってよかったんだよ! 美影は悪くないじゃない!」

結衣の声が、熱を帯びる。それは、心から親友を思うが故の、純粋な怒りだった。

「うん……」

美影は、膝の上で、冷たくなった自分の指をぎゅっと組み合わせた。爪が食い込んで、白い跡が残る。

「そうすることも、できたかもしれない。きっと、そっちの方が簡単だったと思う。でもね、結衣」

彼女は、ゆっくりと顔を上げ、親友の目を、まっすぐに見つめて言った。その瞳の奥には、涙の膜が張っていたが、光は少しも揺らいでいなかった。

「もし、私がそこで感情を爆発させてたら、きっと、私たちは終わってたと思う。完全に」

「……」

「私が傷ついたからって、その痛みと同じだけのナイフで、瞬くんを傷つけ返したら、もう、そこからは、どっちが相手をより深く、より致命的に傷つけられるかの、ただの殺し合いだよ。血みどろの、憎しみの連鎖。そんなの、あまりにも悲しいだけじゃない」

ゴオオオオオッ、という地響きのような轟音を立てて、最終の特急列車が、猛烈なスピードで踏切を通過していく。その圧倒的な風圧で、公園の木々が、ざわわ、と大きく悲鳴をあげて揺れた。結衣の髪が乱れ、美影のコートの裾が激しく翻る。まるで、世界そのものが、彼女の言葉の重さに呼応しているかのようだった。

電車が完全に通り過ぎ、再び踏切の警報音だけが響く静寂が戻ると、美影は続けた。

「誰かが、その連鎖を、断ち切らなくちゃいけないんだよ。たとえ、自分が少し損をしたとしても、血を流したとしてもね。じゃないと、どこまで行っても、誰も幸せになれないから」

「……美影は、それでいいの? 瞬くんが、その美影の優しさに甘えて、また同じことを繰り返したら、どうするの? 美影だけが、ずっと我慢し続けることになるんだよ?」

結衣の問いは、もっともだった。それは、愛という名の不均衡だった。

「その時は、その時かな」

美影は、少しだけ寂しそうに、しかし、ふわりと花が綻ぶように笑った。

「それにね、結衣。これは、瞬くんのためだけじゃないんだ。本当は、私の、ためでもあるんだよ」

「え?」

「私の幸せは、私の責任。誰かに、私の機嫌を取ってもらうことでしか、幸せを感じられないような人間には、なりたくないんだ。彼の言動一つで、私の世界が天国になったり地獄になったりするなんて、そんなの、あまりにも、不自由じゃない? 誰かがいないと成り立たない幸せなんて、砂の城みたいに脆すぎるよ。だから、私は、私の足で、ちゃんとこの地面に立ってたい。その上で、もし隣にいてくれるなら、瞬くんと、一緒に笑い合っていたいんだ」

その言葉は、まるで磨き上げられた鋼のように強く、そして、雨上がりの空のように、あまりにも、潔かった。

結衣は、もう、何も言えなかった。自分の心配が、いかにちっぽけで、彼女のその孤高の覚悟の前では無力であるかを、痛いほど思い知らされたからだ。それは、ただの優しさや忍耐ではない。それは、前原美影という一人の人間が、自らの幸福に対して負うと決めた、誇り高い「責任」の形だった。

「……もし、瞬くんが、美影のその気持ちを、本当に理解してくれなかったら?」

最後に、かろうじてそれだけを尋ねた。

「……そしたら、すごく悲しいけど、仕方ないよ。彼が選んだ道と、私が選んだ道が、ほんの少しだけ、違ったっていう、ただ、それだけのこと。私が、こうありたいと願って努力したこと自体は、決して間違ってないって、信じてるから」

その横顔は、街灯と自販機の頼りない光に照らされて、まるで聖母のように見えた。



その夜。

瞬は、自分の部屋の電気もつけず、勉強机の椅子に深く腰掛け、ただ、窓の外を絶え間なく流れていく車のテールランプを、ぼんやりと眺めていた。赤い光が尾を引き、闇に溶けていく。また次の赤い光が現れ、そして消えていく。その無限の繰り返しが、今の自分の思考とよく似ていると思った。

もう、怒りも、屈辱も、彼の心にはひとかけらも残っていなかった。それらの激しい感情は、今日の出来事の衝撃によって、すべて燃え尽きてしまったかのようだ。

代わりに彼の心を支配していたのは、途方もなく、静かな感動だった。それは、寄せては返す夜の海の波のように、彼の心の岸辺を、優しく、しかし確実に洗い続けている。汚泥のように濁っていた感情は、その波にさらわれ、心の奥底には、澄み切った、静かな水面だけが広がっていた。

前原美影。

彼女は、一体、何なのだ。

彼女が教室で語った言葉は、まるで、自分が今まで一度も読んだことのない、ひどく難解な哲学書のようだった。一読しただけでは、その真意を完全に汲み取ることはできない。だが、その一文一文が、今の自分の空っぽになった心には、痛いほどに、そして、火傷しそうなほど温かく、じわりじわりと染み渡る。

『私もまだ、勉強中だけどね』

その言葉が、何度も、何度も脳内でリフレインする。

そうだ。
そうだ、そうなんだ。

彼女は、完成された聖人なんかじゃない。天から遣わされた天使でもない。
俺と同じように、日々悩み、傷つき、間違いながらも、それでも、自分の信じる道を進もうとしている、ただの、同い年の女の子なんだ。

俺は、そんな彼女に、一体何をした?

自分の未熟で、歪んだ物差しで彼女を測り、自分の身勝手で、独善的な理想を押し付け、そして、一方的に、彼女を罪人として断罪した。最低だ、という言葉すら、生ぬるい。

「……謝らなきゃ」

誰に言うでもなく、そう思った。それは思考というよりも、身体の奥深くから湧き上がってきた、本能的な衝動だった。

だが、どうやって? どんな言葉で?

「ごめん」の一言で、済まされることではない。そんな薄っぺらな言葉で、彼女の心を抉った傷が塞がるはずがない。

瞬は、机の上に無造作に置いてあったスマートフォンを、まるで未知の爆弾に触れるかのように、おそるおそる手に取った。ひんやりとしたガラスの感触が、指先に緊張を伝える。

画面を点灯させ、トークアプリを開く。

一番上に表示された、美影との、他愛のない、短いやり取りの履歴。

その一番下に表示された、入力画面のカーソルが、チカ、チカ、と、まるで彼の高鳴る心臓の鼓動に合わせて、冷酷に点滅している。

指が、動かない。まるで鉛のように重く、意思とは無関係に硬直している。

なんと打てばいい?

『今日は、ごめん』?
違う。あまりにありきたりで、心がこもっていない。

『話してくれて、ありがとう』?
それも、何か違う。感謝を伝えたいが、それだけではない。

彼は、そっと目を閉じた。暗闇の中で、今日の、彼女の表情を、声を、言葉を、一つ一つ、映画のワンシーンのように、丁寧に思い出す。唇を噛み締めた顔。潤んだ瞳。それでも、決して彼を責めなかった、あの静かな声。そして、最後に見せた、寂しげな笑顔。

そして、ゆっくりと、震える指で、文字を打ち始めた。

何度も、打っては消し、消しては、また打つ。言葉が、見つからない。自分の気持ちを正確に表す言葉が、この世界のどこにも存在しないような気さえした。

五分が、十分が、まるで永遠のように感じられた。

やがて、彼は、たった一行の、ひどく不器用なメッセージを、完成させた。

それは、謝罪でも、感謝でもない。

彼の、今の、ありのままの気持ちだった。生まれたての、名前も知らない感情の、精一杯の表明だった。

瞬は、祈るような気持ちで、深呼吸を一つして、「送信」ボタンを、強く、押した。

メッセージは、ふわりと画面から消え、静かに、夜の電波の海へと吸い込まれていく。

既読の文字は、まだ、つかない。

瞬は、ただ、その画面を、瞬きも忘れて、じっと見つめていた。

心臓の音が、うるさい。ドクン、ドクン、と、耳元で誰かが太鼓を叩いているようだ。

だが、その鼓動は、もう、昼間の教室で感じた、醜い怒りや焦燥に満ちたものではなかった。

それは、未知の世界への重い扉を、今、まさに、自分自身のこの手でノックした者の、どうしようもなく恐ろしくて、そして、どうしようもなく、胸が躍る、希望の音だった。
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