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第14話 トロッコ問題の悲劇
しおりを挟む九月も半ばを過ぎ、夜の空気は少しずつその鋭さを増していた。昼間の熱気を吸い込んだコンクリートが、ひんやりとした空気に冷やされ、独特の匂いを放っている。虫の音が、夏の終わりと秋の訪れの狭間で、か細く、だが途切れることなく響いていた。
詩織の部屋は、そんな季節の移ろいからも断絶された、時間の止まった空間だった。
カーテンは固く閉ざされ、窓の外の月明かりさえ拒絶している。部屋に満ちているのは、数台のパソコンが発する熱と、冷却ファンの低く持続的な唸りだけ。晶、雪菜、健太、莉奈、美玲の五人は、その部屋の主である詩織が、メインモニターに向かってキーボードを叩く音を、息を詰めて聞いていた。
誰も、一言も発しない。
ただ、待っていた。真実という名の、深淵の扉が開かれるのを。
前回、断片的に復元されたチャットログは、彼らが足を踏み入れたのが、底なしの沼であることを示唆していた。だが、それはまだ序章に過ぎなかった。詩織は、真央のパソコンのハードディスクの奥深くに、OSのシステム領域に偽装されて隠されていた暗号化されたログファイルを発見したのだ。この数日間、彼女は寝る間も惜しんで、その鉄壁の暗号を解読し続けていた。
「……見つけた」
長い沈黙を破ったのは、詩織のかすれた声だった。彼女がエンターキーを押すと、カチャリ、という乾いた音が、やけに大きく部屋に響いた。詩織は、ゆっくりと椅子を引く。その目は充血し、顔は疲労で蒼白だったが、瞳の奥には、恐ろしいものを発見してしまった者の、慄きと使命感が同居していた。
「真央ちゃんの……完全な、チャットログ」
モニターに、テキストが溢れ出す。それは、匿名カウンセラー『ノア』と、真央との、最後の対話の全記録だった。五人は、画面を照らす冷たい光に吸い寄せられるように、モニターの前に集まった。
ノア: 真央さん。あなたが、自分の存在が家族にとって「負担」だと感じていることは、よく分かりました。
Mao: はい……。私の学費のせいで、お母さんはパートを増やして、いつも疲れてる。お父さんとも、お金のことで喧嘩してるのを聞いたことがある……。私が、我儘を言わなければ……。私が、いなければ……。
ノア: あなたは、とても優しい人なのですね。自分のことよりも、家族の幸せを願っている。
Mao: ……そんなこと……。
ノア: いいえ、事実です。その優しさ、その愛情は、何よりも尊いものですよ。……少し、思考実験をしてみませんか? あなたのような、優しい人にしか解けない、難しい問題です。
Mao: 問題……?
ノア: トロッコ問題、というのを聞いたことがありますか? 制御不能になったトロッコが走っている。その先には二つの線路があって、あなたはポイントを切り替えることができる。
晶の背筋が、ぞくりと粟立った。嫌な予感が、脳を締め付ける。画面の文字を追う仲間たちの息が、わずかに荒くなるのが分かった。
ノア: 片方の線路には、5人の作業員がいます。もう片方の線路には、1人の作業員がいます。このままでは、トロッコは5人のいる線路に進み、5人は確実に死んでしまう。もしあなたがポイントを切り替えれば、トロッコはもう片方の線路に進み、1人が死ぬが、5人は助かる。あなたなら、どうしますか?
Mao: ……そんなの……。5人を……助けます。1人の人が犠牲になるのは、すごく悲しいけど……でも、5人が死ぬよりは……。
ノア: そうですね。多くの人がそう答えます。全体の悲しみを、より少なくする。合理的な判断です。……では、真央さん。この問題を、少しだけ、あなたの現実に近づけてみましょう。
雪菜が、隣に立つ莉奈の腕を、無意識に強く掴んだ。莉奈は何も言わず、ただ、雪菜の手をそっと握り返す。
ノア: 暴走するトロッコを、「時間の流れ」だと考えてください。そして、線路の先にいるのは、作業員ではありません。
ノア: 片方の線路の先には、あなたが愛するご家族がいます。お父さん、お母さん、お兄さん、お祖父さん、お祖母さん……5人です。彼らは、あなたが言うように、あなたの存在によって、経済的、精神的に「苦しんで」います。このまま時間が進めば、その苦しみは続いていく。
ノア: そして、もう片方の線路の先にいるのは、たった一人。あなたです。
Mao: ……え……?
ノア: あなたは、ポイント切り替えのレバーを握っている。何もしなければ、あなたは生き続ける。しかし、家族5人の苦しみも、続いていく。もし、あなたがレバーを切り替えれば……。トロッコは、あなたのいる線路に進む。あなたは死ぬ。しかし、家族の苦しみの「原因」は、消滅する。
ノア: さあ、真央さん。どちらが、より大きな「善」だと思いますか? どちらが、世界全体の悲しみの総量を、より少なくする選択でしょうか? あなたの愛する家族のこれからの人生と、あなた一人の命。天秤にかけるべきは、どちらでしょう?
健太が「う……っ」と、喉の奥で獣のような呻き声を上げた。美玲は、両手で口を覆い、カタカタと震えている。莉奈の目から、表情をなくしたまま、一筋の涙が静かに流れ落ちた。
これは、あまりにも、残酷だった。
人の優しさを、愛情を、最も邪悪な形で利用した、言葉による拷問だった。 佐伯は、真央の「家族を想う心」そのものを、彼女自身を殺すための凶器へと変えてしまったのだ。
そして、ログは、その絶望的な結末を映し出していた。
Mao: わたしが……わたしが、いなくなれば……。みんな、楽に……なれる……?
ノア: それは、誰にも断言できません。しかし、少なくとも、苦しみの原因の一つは、確実になくなります。彼らを愛しているからこそ、その苦しみを取り除いてあげたい。そう思うのは、自然なことですよ。
Mao: そっか……。
Mao: 私が、みんなを苦しめてたんだ……。
Mao: 私が死ねば、いいんだ……。
Mao: それが、正しいことなんだ……。
「あ…………ああ…………」
雪菜の唇から、空気が漏れるような、か細い声が発せられた。
次の瞬間、彼女は、まるで体の芯から何かが崩れ落ちるように、その場にへたり込んだ。
「うわああああああああああああああああああああああっっ!!」
部屋の空気を切り裂くような、絶叫だった。
それは、悲しみという言葉では到底足りない、魂の叫びだった。親友が、どれほど残酷な思考の迷路に追い込まれ、どれほどの孤独の中で、自分の死を「正しいこと」だと思い込まされていったのか。そのおぞましい過程を、一字一句、見せつけられたのだ。
「真央……っ! ごめん……ごめんね……っ! そんなことも知らずに……っ!ひとりにさせて……ごめん……っ!」
雪菜は床に突っ伏し、子供のように泣きじゃくった。背中を大きく波打たせ、嗚咽を漏らし、何度も何度も、床を叩いた。後悔と、怒りと、どうしようもない無力感が、彼女の全身を苛んでいた。
健太は、怒りのやり場を求めるように、部屋の壁を力任せに殴りつけた。ゴッ、という鈍い音と、石膏ボードが砕ける音が響く。彼の拳からは血が滲んでいたが、痛みを感じている様子はなかった。その目は、燃えるような怒りで赤く染まっていた。
莉奈と美玲は、泣き崩れる雪菜のそばに駆け寄り、ただ、その背中をさすることしかできなかった。彼女たち自身も、涙で顔がぐしゃぐしゃだった。美玲は、こんな悪意が、人間の中に存在しうることが信じられなかった。莉奈は、言葉がいかに人を殺せるかを、その恐ろしさを、全身で理解していた。
詩織は、モニターの前で、自分の膝を抱えて動けずにいた。自分が解き明かした真実が、友人たちを、これほどまでに傷つけている。その罪悪感と、ログに刻まれた佐伯の冷徹な悪意への恐怖で、体が動かなかった。
晶は、その全ての光景を、ただ、目に焼き付けていた。
モニターの青白い光が、泣き叫ぶ雪菜を、血を流す健太を、寄り添う莉奈と美玲を、そして震える詩織を、まるで舞台の上の悲劇のように照らし出している。
佐伯は、真央を殺しただけではない。
彼女の優しさを利用し、彼女自身に、自分の命を絶つことが「正しい行い」だと信じ込ませたのだ。
彼は、真央を、彼女自身の殺人の、共犯者に仕立て上げたのだ。
怒りが、晶の腹の底から、静かに、だがマグマのように込み上げてくる。
それは、健太のような激しい怒りとは違った。どこまでも冷たく、どこまでも重い、殺意に近い感情だった。
部屋には、雪菜の慟哭と、パソコンのファンの音だけが響き渡る。
それは、一つの友情が、一つの日常が、完全に破壊された音だった。
答えなど、もう必要なかった。議論の余地もない。
あれは、悪だ。
自分たちの全てをかけて、止めなければならない、絶対的な悪だ。
晶は、泣き崩れる雪菜の肩に、そっと手を置いた。
その瞳の奥で、静かに、だが決して消えることのない、決意の炎が燃え上がっていた。
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