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第4章:王女と腐敗の王国
第36話:馬車に潜む家出姫
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王城での、あの劇的な断罪劇から数日の時が流れた。 王都アステリアは、まるで長い冬の眠りから覚めたかのように、新たな時代の幕開けに沸き立っていた。腐敗の根源となっていた貴族たちが一掃されたという衝撃的なニュースは、乾いた大地に染み込む水のごとく瞬く間に民衆の間へと広まり、重く垂れ込めていた暗雲が嘘のように晴れた街には、実に久しぶりとなる活気と、人々の屈託のない明るい笑顔が戻ってきていた。
あちこちの酒場は昼夜を問わず満員御礼で、そこでは「英雄様たちに乾杯!」という威勢の良い掛け声が幾度となく響き渡っている。吟遊詩人たちは、この歴史的な出来事を新たな英雄譚として編み上げ、リュートの軽やかな音色に乗せて高らかに歌い上げていた。その詩の中で語られる俺たちの姿は、当然のことながら、現実のそれとは似ても似つかぬほど美化され、脚色され尽くした武勇伝となっている。曰く、俺は天を衝くほどの巨人で、その眼光は雷を放ち、一喝すれば山をも砕いたのだとか。全くもって、迷惑な話である。
さて、その渦中の英雄である俺たちはと言えば、王とアリシア王女から、それこそ子々孫々の代まで遊んで暮らせるほどの莫大な報酬と、心のこもった数々の感謝の言葉を賜っていた。
サラは、ずっしりと重い金貨が限界まで詰め込まれた革袋を、恍惚とした表情で何度も頬ずりしながら、「ふふ、ふふふ…。これで私の故郷に、念願のお城が建てられるわ。黄金の鯱を屋根に乗せて、蛇口をひねれば葡萄酒が出てくるのよ!」と、実に彼女らしく現実的かつ、どこか壮大にずれた夢を真顔で語っていた。その瞳は、もはや金貨の輝きそのものを映しているかのようだ。
ドルセンはと言えば、王家の宝物庫から特別に譲り受けたという、伝説級の古代魔導書に完全に心を奪われていた。分厚く、禍々しいオーラさえ放つその古文書を、彼は虫眼鏡片手に一日中読みふけっている。時折、「おお、なんと!この術式は!失われたはずの第七階梯魔法ではないか!」「この古代ルーンの配列、実に美しい…!」などと、誰に聞かせるともなく感嘆の声を上げ、その探究心は留まるところを知らない。
ハガンは、その規格外の巨体をさらに大きくするため、王城の厨房に居座り続けていた。三日三晩、腕利きの料理人たちが作り出す山海の珍味を片っ端から平らげ、その岩のような体に更なる磨きをかけた。もっとも、その大部分は脂肪という名の新たなる鎧であったが、本人は「力がみなぎる!」と至って満足げである。彼の食欲は王城の食糧庫を傾かせかけたが、王は笑ってそれを許したという。
そして神官であるセリアは、アリシア王女とすっかり意気投合していた。二人は連日のようにお茶会を開き、「これからの国の宗教政策について」「民の心を支える信仰のあり方」などといった、実に高尚で真面目なテーマについて、熱心に語り合っていた。時には、年頃の娘らしく、流行のドレスや恋の話に花を咲かせることもあったようで、その友情は日に日に深まっているように見えた。
そんな仲間たちの姿を微笑ましく眺めながら、俺はと言えば。 王都に滞在している間に、懐かしい友人たちが駆けつけてくれた。かつて同じ釜の飯を食った冒険者仲間――快活な剣士のレオと、凛々しい近衛騎士のアンナとの再会を果たしていたのだ。
「いやあ、ガク君!君こそ真の英雄だ!あの時の、君の冷静沈着な証拠の提示!そして、ふんぞり返っていた腐敗貴族どもを、たった一瞥で黙らせたあの威圧感!素晴らしかった!俺、鳥肌が立ったよ!」
「ガク!あんた、本当にすごいじゃない!あの、蛇みたいに意地悪そうな宰相が、あんたの顔を見ただけで膝から崩れ落ちるなんて!最高にスカッとしたわ!今度、その睨み方、私にも教えてちょうだい!」
レオとアンナは、街で聞いた例の英雄譚をすっかり信じ込んでいるらしく、目をキラキラと輝かせながら俺を手放しで賞賛してくれた。 (いや、俺はただ、預かっていた帳簿を王様に渡しただけなんだけどな…) 心の中で盛大に苦笑しながらも、この温かい勘違いに満ちた再会の時間を、俺は心の底から楽しんでいた。彼らの変わらない友情が、何よりも嬉しかった。
だが、そんな平和で穏やかな祝祭の日々も、永遠に続くわけではない。 俺は、冒険者だ。根っからの放浪者であり、一つの場所に安住することはできない性分なのだ。仲間たちもまた、それぞれの目的と夢を持って旅を続けている。この心地よい安寧に浸りすぎる前に、俺たちは次へと進まねばならない。
俺たちは、王とアリシア王女に、そして再会を喜び合ったレオとアンナに別れを告げ、再び新たな冒険へと旅立つことを決意した。
***
旅立ちの日の朝。季節はすっかり冬へと移ろいでいた。 空は薄い氷の膜を張ったかのように白く、高く、そして凛と冷たく澄み渡っている。吐く息は瞬時に真っ白な塊となって空気に溶け、街の石畳には薄らと白い霜が降りて、昇り始めたばかりの朝日に照らされてキラキラと宝石のように輝いていた。
俺たちは、王都の巨大な城門の前に集まっていた。そこに見送りとして王女の姿はなかったが、それは少しも寂しいことではなかった。なぜなら、俺たちの胸には、前日の夜に彼女がかけてくれた言葉が、温かい灯火のように宿っていたからだ。
昨夜、王城で開かれたささやかな送別の宴。その席で、アリシア王女は俺たち一人一人の前に立ち、深く、深く頭を下げたのだ。
「皆さん。本当に、ありがとうございました。このご恩は、生涯、忘れることはありません」 彼女の美しい翠色の瞳は、感謝の念で潤んでいた。その声は、震えながらも、次代の女王たる者の気品と力強さを秘めていた。
「サラさん。あなたの、その何ものにも屈しない真っ直ぐな強さが、私に立ち向かう勇気をくれました。私も、あなたのように強くありたいと思います」 「セリアさん。あなたの、深く揺るぎない信仰心が、絶望に沈みそうだった私の心の支えでした。神は、あなたのような方を遣わしてくださったのですね」 「ドルセンさん、ハガンさん。あなた方のその太陽のような明るさが、この陰鬱な王城に光をもたらしてくれました。皆さんの笑い声が聞こえるだけで、どれほど心が救われたことか」
そして最後に、彼女は俺の前に立った。 「ガクさん」 その澄み切った翠色の瞳が、まっすぐに俺を射抜く。その視線に、俺は少しだけ気圧されそうになった。 「あなたの、その不思議な力と、そして何よりも、その優しい心が、この国を救ってくれたのです。ありがとう。本当に、ありがとう」
そのあまりにも真摯で、あまりにもストレートな感謝の言葉に、俺はなんだか照れくさくなってしまい、無意識に頭を掻いていた。 「いや、俺は別に大したことは…。ただ、流れでそうなっただけで」 俺がそう言いかけると、背後からサラが俺の背中を、ばしん!と遠慮なく思いっきりひっぱたいた。 「こういう時は、素直に受け取っておくものよ、この朴念仁!」 「痛ってえ!お前な、力加減ってものを…!」
俺たちのそんな、いつもと少しも変わらないやり取りを見て、アリシアは、ふふっと、固く閉じていた花の蕾が綻ぶように、愛おしそうに笑った。その笑顔は、俺たちがこの王都で見たどんな宝石よりも美しかった。
「皆さん。どうか、お気をつけて。私は明日はどうしても外せない公務があり、お見送りには行けません。けれど、またいつか、必ずこの王都へ帰ってきてください。その時は、私が女王として、皆さんを盛大にお迎えしますから」
彼女はそう言うと、気高く、そしてほんの少しだけ、寂しそうに微笑んだ。その表情に、俺たちは言葉もなく頷くことしかできなかった。
そんな昨夜の出来事を思い出しつつ、俺たちは一台の質素な荷馬車に乗り込んだ。これからまた、先の見えない長い長い旅が始まるのだ。 「ぎいぃ…」と、年季の入った車輪が重々しい音を立てて、馬車がゆっくりと動き出す。 遠ざかっていく王都の白い城壁。そして俺の脳裏には、その門の前で、いつまでも、いつまでも小さく手を振り続けているであろう、一人の美しい王女の姿が幻のように浮かんでいた。
(元気でな、アリシア) 俺は心の中で、そう静かに呟いた。 (次に会う時には、きっと立派な女王様になってるんだろうな) そんな、少しばかりセンチメンタルな気分に浸っていた俺の感動を、根こそぎぶち壊す驚天動地の出来事が、そのわずか数分後に起きることになるとも知らずに。
***
馬車が王都を完全に抜け出し、どこまでも続く冬枯れの街道をゴトゴトと進み始めてから、しばらく経った頃だった。 俺は荷馬車の荷台でごろんと寝転がりながら、地図を広げてこれからの旅の計画でも立てようかと考えていた。御者台にはサラとセリアが座り、馬を操っている。ハガンは隣で早速干し肉をかじり、ドルセンは相変わらず魔導書の世界に没入している。
荷台には、俺たちの旅の荷物が無造作に積まれている。その中には、数週間はもつであろう食料の入った麻袋や、予備の分厚い毛布などが、小山のようにあった。
と、その時だった。 その、毛布の山が、もぞり、と明らかに不自然な動きを見せたのだ。
「ん?」 俺はきょとんとして、その山をじっと見つめた。 (クロか?あいつ、またそんなところに潜り込んで悪戯してるのか) 俺の相棒である黒豹のクロは、こういう狭くて暗い場所が大好きだった。きっと俺を驚かそうと息を潜めているに違いない。 俺はやれやれと呆れながら、その毛布の山に音を立てずに近づいた。
「おい、クロ。出てこい。そんなところにいたら息苦しいだろ」 俺がそう言って、ばさっ!と勢いよく毛布をめくり上げた。 そして、俺は固まった。全身の血が逆流するような感覚に襲われた。
そこにいたのは、俺の愛する黒い毛玉の相棒では、なかった。
そこにいたのは、簡素ではあるが、明らかに上質な生地で作られた平民の娘が着るような旅の服に、その高貴な体を無理やりねじ込むようにして包み込んだ、一人の少女だった。
その、月光を溶かして紡いだかのような美しい銀色の髪。 その、いかなる時も気高く澄み切り、強い意志を宿した翠色の瞳。 そして、どんなに質素な服を着ていても、隠しきれない育ちの良さが滲み出てしまっている、その優雅な立ち居振る舞いは。
「……アリシア、王女?」
俺の口から、信じられないという響きを込めた名前が、かすれた声で漏れだした。 そう、そこに隠れていたのは、昨日、俺たちに涙ながらに別れを告げたはずの、そして「今日は大事な公務があるから見送りには行けない」と言っていた、この国の第一王女、アリシア・フォン・アステリア、その人だったのである。
彼女は、俺に見つかってしまった、という少しばつの悪そうな顔をした。 そして、次の瞬間、観念したかのようにその翠色の瞳を悪戯っぽく輝かせ、子供が悪さをしてバレた時のような、開き直りの苦笑いを浮かべて言った。 「ふふっ。見つかってしまいましたか。こうなっては仕方がありませんね」
その声は、もはや王女としての威厳に満ちたものではなかった。ただひたすらに、冒険に憧れる一人の少女の、弾むような声だった。
「わたくしも、外の世界が見たいのです!」
彼女は荷台の上にすっくと立ち上がると、両手を大きく広げ、まるで民衆の前で演説でもするかのように、高らかに、そして晴れやかに宣言した。
「本物の世界を、この目で見、この肌で感じ、この鼻で匂いを嗅いで、知りたいのです! 書物の中だけの知識ではありません! ぬかるんだ道の泥の匂いも、懸命に働く人々の汗の匂いも、街角のパン屋から漂う焼きたてのパンの匂いも、森の奥深くの湿った土の匂いも、全て、全て、知りたいのです!」
そのあまりにも熱烈で、あまりにも純粋な瞳の輝きに、俺は完全に言葉を失った。
「どうか、ガクさん!」 彼女は俺の前に駆け寄ると、その華奢な両手で、俺の両手を力一杯ぎゅっと握りしめた。その手は少し冷たかったが、彼女の情熱で燃えるように熱かった。
「このまま、わたくしをあなたの旅に連れて行ってはいただけませんでしょうか!どうか、私をここから連れ去ってください!」
しーん。 世界から、音が消えた。 荷馬車のゴトゴトという音も、冬の風の音も、何もかもが遠くに聞こえる。 荷馬車の御者台に座っていたサラ、ドルセン、ハガン、そしてセリアが、いつの間にか全員、荷台の方を振り返り、目の前で繰り広げられるあまりにも非現実的な光景を、口をあんぐりと開けて見つめていた。
「え?」 「は?」 「ほ?」 「おお?」
四者四様の、間の抜けた声が、静寂を破って冬の空に漏れる。 やがて、最初に我に返ったのは、この中で最も常識人であり、最も規律を重んじる神官のセリアだった。 彼女は見る見るうちに顔面蒼白になり、わなわなと震えながら、ついに絶叫した。
「あああああああああああああああああああああっっ!!!!」
その悲鳴は、静かな冬の街道に虚しく、そして長く響き渡った。
「お、王女殿下! な、何をなさっておられるのですか! もし、王家の姫君を我々が誘拐した、などということになれば! 我々はもはや国家反逆罪! 一族郎党、揃ってギロチン行きですわあああああああっ!」
セリアは完全にパニックに陥り、その場で十字を切って神に許しを請い始めている。
一方、サラは。 「ぷっ…ぶはっ! あははははははははははははは!」 彼女は腹を抱えて、馬車が揺れるほどの大爆笑をしていた。涙さえ浮かべている。 「面白い! 最高じゃないの、この展開! まさか姫様の方から家出してきてくれるなんて! ガク! あんた、本当に、とんでもないものを引き寄せる才能があるわね!」
彼女は心の底から、このカオスな状況を楽しんでいるようだった。「これで退屈しなくて済むわ!」とすら言っている。
こうして。 俺たちのパーティに、また一人。 最も高貴で、 最も世間知らずで、 そして、最も厄介なトラブルの種になりそうな、新たな仲間が、半ば強制的に加わることになってしまった。
俺は、もはや何も言う気力がなかった。 ただ、どこまでも高く澄み渡った冬の空を仰ぎ、深く、ふかーく、ため息をつくことしかできなかった。 俺の望む、平和で穏やかな、地味な冒険者ライフは、どうやら永遠に、未来永劫、訪れることはないらしい。
荷馬車は、そんな俺たちの混沌とした未来を乗せて、今日もゴトゴトと、西へ、西へと進んでいく。 その行く先に、一体どんなドタバタが待ち受けているのか。 それを考えると、俺は少しだけ、いや、かなり頭が痛くなるのだった。
あちこちの酒場は昼夜を問わず満員御礼で、そこでは「英雄様たちに乾杯!」という威勢の良い掛け声が幾度となく響き渡っている。吟遊詩人たちは、この歴史的な出来事を新たな英雄譚として編み上げ、リュートの軽やかな音色に乗せて高らかに歌い上げていた。その詩の中で語られる俺たちの姿は、当然のことながら、現実のそれとは似ても似つかぬほど美化され、脚色され尽くした武勇伝となっている。曰く、俺は天を衝くほどの巨人で、その眼光は雷を放ち、一喝すれば山をも砕いたのだとか。全くもって、迷惑な話である。
さて、その渦中の英雄である俺たちはと言えば、王とアリシア王女から、それこそ子々孫々の代まで遊んで暮らせるほどの莫大な報酬と、心のこもった数々の感謝の言葉を賜っていた。
サラは、ずっしりと重い金貨が限界まで詰め込まれた革袋を、恍惚とした表情で何度も頬ずりしながら、「ふふ、ふふふ…。これで私の故郷に、念願のお城が建てられるわ。黄金の鯱を屋根に乗せて、蛇口をひねれば葡萄酒が出てくるのよ!」と、実に彼女らしく現実的かつ、どこか壮大にずれた夢を真顔で語っていた。その瞳は、もはや金貨の輝きそのものを映しているかのようだ。
ドルセンはと言えば、王家の宝物庫から特別に譲り受けたという、伝説級の古代魔導書に完全に心を奪われていた。分厚く、禍々しいオーラさえ放つその古文書を、彼は虫眼鏡片手に一日中読みふけっている。時折、「おお、なんと!この術式は!失われたはずの第七階梯魔法ではないか!」「この古代ルーンの配列、実に美しい…!」などと、誰に聞かせるともなく感嘆の声を上げ、その探究心は留まるところを知らない。
ハガンは、その規格外の巨体をさらに大きくするため、王城の厨房に居座り続けていた。三日三晩、腕利きの料理人たちが作り出す山海の珍味を片っ端から平らげ、その岩のような体に更なる磨きをかけた。もっとも、その大部分は脂肪という名の新たなる鎧であったが、本人は「力がみなぎる!」と至って満足げである。彼の食欲は王城の食糧庫を傾かせかけたが、王は笑ってそれを許したという。
そして神官であるセリアは、アリシア王女とすっかり意気投合していた。二人は連日のようにお茶会を開き、「これからの国の宗教政策について」「民の心を支える信仰のあり方」などといった、実に高尚で真面目なテーマについて、熱心に語り合っていた。時には、年頃の娘らしく、流行のドレスや恋の話に花を咲かせることもあったようで、その友情は日に日に深まっているように見えた。
そんな仲間たちの姿を微笑ましく眺めながら、俺はと言えば。 王都に滞在している間に、懐かしい友人たちが駆けつけてくれた。かつて同じ釜の飯を食った冒険者仲間――快活な剣士のレオと、凛々しい近衛騎士のアンナとの再会を果たしていたのだ。
「いやあ、ガク君!君こそ真の英雄だ!あの時の、君の冷静沈着な証拠の提示!そして、ふんぞり返っていた腐敗貴族どもを、たった一瞥で黙らせたあの威圧感!素晴らしかった!俺、鳥肌が立ったよ!」
「ガク!あんた、本当にすごいじゃない!あの、蛇みたいに意地悪そうな宰相が、あんたの顔を見ただけで膝から崩れ落ちるなんて!最高にスカッとしたわ!今度、その睨み方、私にも教えてちょうだい!」
レオとアンナは、街で聞いた例の英雄譚をすっかり信じ込んでいるらしく、目をキラキラと輝かせながら俺を手放しで賞賛してくれた。 (いや、俺はただ、預かっていた帳簿を王様に渡しただけなんだけどな…) 心の中で盛大に苦笑しながらも、この温かい勘違いに満ちた再会の時間を、俺は心の底から楽しんでいた。彼らの変わらない友情が、何よりも嬉しかった。
だが、そんな平和で穏やかな祝祭の日々も、永遠に続くわけではない。 俺は、冒険者だ。根っからの放浪者であり、一つの場所に安住することはできない性分なのだ。仲間たちもまた、それぞれの目的と夢を持って旅を続けている。この心地よい安寧に浸りすぎる前に、俺たちは次へと進まねばならない。
俺たちは、王とアリシア王女に、そして再会を喜び合ったレオとアンナに別れを告げ、再び新たな冒険へと旅立つことを決意した。
***
旅立ちの日の朝。季節はすっかり冬へと移ろいでいた。 空は薄い氷の膜を張ったかのように白く、高く、そして凛と冷たく澄み渡っている。吐く息は瞬時に真っ白な塊となって空気に溶け、街の石畳には薄らと白い霜が降りて、昇り始めたばかりの朝日に照らされてキラキラと宝石のように輝いていた。
俺たちは、王都の巨大な城門の前に集まっていた。そこに見送りとして王女の姿はなかったが、それは少しも寂しいことではなかった。なぜなら、俺たちの胸には、前日の夜に彼女がかけてくれた言葉が、温かい灯火のように宿っていたからだ。
昨夜、王城で開かれたささやかな送別の宴。その席で、アリシア王女は俺たち一人一人の前に立ち、深く、深く頭を下げたのだ。
「皆さん。本当に、ありがとうございました。このご恩は、生涯、忘れることはありません」 彼女の美しい翠色の瞳は、感謝の念で潤んでいた。その声は、震えながらも、次代の女王たる者の気品と力強さを秘めていた。
「サラさん。あなたの、その何ものにも屈しない真っ直ぐな強さが、私に立ち向かう勇気をくれました。私も、あなたのように強くありたいと思います」 「セリアさん。あなたの、深く揺るぎない信仰心が、絶望に沈みそうだった私の心の支えでした。神は、あなたのような方を遣わしてくださったのですね」 「ドルセンさん、ハガンさん。あなた方のその太陽のような明るさが、この陰鬱な王城に光をもたらしてくれました。皆さんの笑い声が聞こえるだけで、どれほど心が救われたことか」
そして最後に、彼女は俺の前に立った。 「ガクさん」 その澄み切った翠色の瞳が、まっすぐに俺を射抜く。その視線に、俺は少しだけ気圧されそうになった。 「あなたの、その不思議な力と、そして何よりも、その優しい心が、この国を救ってくれたのです。ありがとう。本当に、ありがとう」
そのあまりにも真摯で、あまりにもストレートな感謝の言葉に、俺はなんだか照れくさくなってしまい、無意識に頭を掻いていた。 「いや、俺は別に大したことは…。ただ、流れでそうなっただけで」 俺がそう言いかけると、背後からサラが俺の背中を、ばしん!と遠慮なく思いっきりひっぱたいた。 「こういう時は、素直に受け取っておくものよ、この朴念仁!」 「痛ってえ!お前な、力加減ってものを…!」
俺たちのそんな、いつもと少しも変わらないやり取りを見て、アリシアは、ふふっと、固く閉じていた花の蕾が綻ぶように、愛おしそうに笑った。その笑顔は、俺たちがこの王都で見たどんな宝石よりも美しかった。
「皆さん。どうか、お気をつけて。私は明日はどうしても外せない公務があり、お見送りには行けません。けれど、またいつか、必ずこの王都へ帰ってきてください。その時は、私が女王として、皆さんを盛大にお迎えしますから」
彼女はそう言うと、気高く、そしてほんの少しだけ、寂しそうに微笑んだ。その表情に、俺たちは言葉もなく頷くことしかできなかった。
そんな昨夜の出来事を思い出しつつ、俺たちは一台の質素な荷馬車に乗り込んだ。これからまた、先の見えない長い長い旅が始まるのだ。 「ぎいぃ…」と、年季の入った車輪が重々しい音を立てて、馬車がゆっくりと動き出す。 遠ざかっていく王都の白い城壁。そして俺の脳裏には、その門の前で、いつまでも、いつまでも小さく手を振り続けているであろう、一人の美しい王女の姿が幻のように浮かんでいた。
(元気でな、アリシア) 俺は心の中で、そう静かに呟いた。 (次に会う時には、きっと立派な女王様になってるんだろうな) そんな、少しばかりセンチメンタルな気分に浸っていた俺の感動を、根こそぎぶち壊す驚天動地の出来事が、そのわずか数分後に起きることになるとも知らずに。
***
馬車が王都を完全に抜け出し、どこまでも続く冬枯れの街道をゴトゴトと進み始めてから、しばらく経った頃だった。 俺は荷馬車の荷台でごろんと寝転がりながら、地図を広げてこれからの旅の計画でも立てようかと考えていた。御者台にはサラとセリアが座り、馬を操っている。ハガンは隣で早速干し肉をかじり、ドルセンは相変わらず魔導書の世界に没入している。
荷台には、俺たちの旅の荷物が無造作に積まれている。その中には、数週間はもつであろう食料の入った麻袋や、予備の分厚い毛布などが、小山のようにあった。
と、その時だった。 その、毛布の山が、もぞり、と明らかに不自然な動きを見せたのだ。
「ん?」 俺はきょとんとして、その山をじっと見つめた。 (クロか?あいつ、またそんなところに潜り込んで悪戯してるのか) 俺の相棒である黒豹のクロは、こういう狭くて暗い場所が大好きだった。きっと俺を驚かそうと息を潜めているに違いない。 俺はやれやれと呆れながら、その毛布の山に音を立てずに近づいた。
「おい、クロ。出てこい。そんなところにいたら息苦しいだろ」 俺がそう言って、ばさっ!と勢いよく毛布をめくり上げた。 そして、俺は固まった。全身の血が逆流するような感覚に襲われた。
そこにいたのは、俺の愛する黒い毛玉の相棒では、なかった。
そこにいたのは、簡素ではあるが、明らかに上質な生地で作られた平民の娘が着るような旅の服に、その高貴な体を無理やりねじ込むようにして包み込んだ、一人の少女だった。
その、月光を溶かして紡いだかのような美しい銀色の髪。 その、いかなる時も気高く澄み切り、強い意志を宿した翠色の瞳。 そして、どんなに質素な服を着ていても、隠しきれない育ちの良さが滲み出てしまっている、その優雅な立ち居振る舞いは。
「……アリシア、王女?」
俺の口から、信じられないという響きを込めた名前が、かすれた声で漏れだした。 そう、そこに隠れていたのは、昨日、俺たちに涙ながらに別れを告げたはずの、そして「今日は大事な公務があるから見送りには行けない」と言っていた、この国の第一王女、アリシア・フォン・アステリア、その人だったのである。
彼女は、俺に見つかってしまった、という少しばつの悪そうな顔をした。 そして、次の瞬間、観念したかのようにその翠色の瞳を悪戯っぽく輝かせ、子供が悪さをしてバレた時のような、開き直りの苦笑いを浮かべて言った。 「ふふっ。見つかってしまいましたか。こうなっては仕方がありませんね」
その声は、もはや王女としての威厳に満ちたものではなかった。ただひたすらに、冒険に憧れる一人の少女の、弾むような声だった。
「わたくしも、外の世界が見たいのです!」
彼女は荷台の上にすっくと立ち上がると、両手を大きく広げ、まるで民衆の前で演説でもするかのように、高らかに、そして晴れやかに宣言した。
「本物の世界を、この目で見、この肌で感じ、この鼻で匂いを嗅いで、知りたいのです! 書物の中だけの知識ではありません! ぬかるんだ道の泥の匂いも、懸命に働く人々の汗の匂いも、街角のパン屋から漂う焼きたてのパンの匂いも、森の奥深くの湿った土の匂いも、全て、全て、知りたいのです!」
そのあまりにも熱烈で、あまりにも純粋な瞳の輝きに、俺は完全に言葉を失った。
「どうか、ガクさん!」 彼女は俺の前に駆け寄ると、その華奢な両手で、俺の両手を力一杯ぎゅっと握りしめた。その手は少し冷たかったが、彼女の情熱で燃えるように熱かった。
「このまま、わたくしをあなたの旅に連れて行ってはいただけませんでしょうか!どうか、私をここから連れ去ってください!」
しーん。 世界から、音が消えた。 荷馬車のゴトゴトという音も、冬の風の音も、何もかもが遠くに聞こえる。 荷馬車の御者台に座っていたサラ、ドルセン、ハガン、そしてセリアが、いつの間にか全員、荷台の方を振り返り、目の前で繰り広げられるあまりにも非現実的な光景を、口をあんぐりと開けて見つめていた。
「え?」 「は?」 「ほ?」 「おお?」
四者四様の、間の抜けた声が、静寂を破って冬の空に漏れる。 やがて、最初に我に返ったのは、この中で最も常識人であり、最も規律を重んじる神官のセリアだった。 彼女は見る見るうちに顔面蒼白になり、わなわなと震えながら、ついに絶叫した。
「あああああああああああああああああああああっっ!!!!」
その悲鳴は、静かな冬の街道に虚しく、そして長く響き渡った。
「お、王女殿下! な、何をなさっておられるのですか! もし、王家の姫君を我々が誘拐した、などということになれば! 我々はもはや国家反逆罪! 一族郎党、揃ってギロチン行きですわあああああああっ!」
セリアは完全にパニックに陥り、その場で十字を切って神に許しを請い始めている。
一方、サラは。 「ぷっ…ぶはっ! あははははははははははははは!」 彼女は腹を抱えて、馬車が揺れるほどの大爆笑をしていた。涙さえ浮かべている。 「面白い! 最高じゃないの、この展開! まさか姫様の方から家出してきてくれるなんて! ガク! あんた、本当に、とんでもないものを引き寄せる才能があるわね!」
彼女は心の底から、このカオスな状況を楽しんでいるようだった。「これで退屈しなくて済むわ!」とすら言っている。
こうして。 俺たちのパーティに、また一人。 最も高貴で、 最も世間知らずで、 そして、最も厄介なトラブルの種になりそうな、新たな仲間が、半ば強制的に加わることになってしまった。
俺は、もはや何も言う気力がなかった。 ただ、どこまでも高く澄み渡った冬の空を仰ぎ、深く、ふかーく、ため息をつくことしかできなかった。 俺の望む、平和で穏やかな、地味な冒険者ライフは、どうやら永遠に、未来永劫、訪れることはないらしい。
荷馬車は、そんな俺たちの混沌とした未来を乗せて、今日もゴトゴトと、西へ、西へと進んでいく。 その行く先に、一体どんなドタバタが待ち受けているのか。 それを考えると、俺は少しだけ、いや、かなり頭が痛くなるのだった。
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