詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~勘違い貴族の規格外魔法譚~

Gaku

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第6章:恐怖の法国と魔の影

第54話:真実の姿を暴け

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早春の空は、まるで移ろいやすい乙女の心のように、その表情を刻一刻と変えていた。ほんの数分前まで、職人の手で丹念に磨き上げられた天青石のごとく、どこまでも深く、澄み渡っていたはずの蒼穹。それが今、どこからともなく湧き出た薄墨色の雲の群れによって、その輝きを急速に失いつつあった。太陽は、かろうじてその輪郭を保ってはいるものの、その光は頼りなく拡散し、地上に落ちる影は、輪郭がぼやけ、どこか物悲しい雰囲気を漂わせている。光と影がめまぐるしく入れ替わり、暖かさと冷たさが混在する風が吹き抜ける、まさに季節の狭間と呼ぶにふさわしい午後だった。

法国の首都サンクトゥス、その心臓部に聳え立つ大神殿アルビオン。その純白の巨躯が見下ろす巨大な石畳の広場は、今日この日、数万という信者たちが発する凄まじいまでの熱気と、敬虔な祈りの声によって、完全に埋め尽くされていた。石畳の一枚一枚に染み込んだ歴史の重みが、人々の足音と祈りの響きを吸収し、そして増幅させているかのようだった。

週に一度、日曜の午後に執り行われる、法王猊下による大法王ミサ。 それは、この国に生きる人々にとって、自身の存在意義を再確認し、魂の救済を願う、最も神聖で、そして最も重要な儀式に他ならなかった。人々は、その慈愛に満ちた法王の姿を、たとえ米粒ほどの大きさであっても一目見ようと、そして、その金言とも言うべき祝福の言葉を、渇いた魂に染み込ませようと、遥か遠方の辺境の村から、あるいは喧騒に満ちた港町から、何日もかけてこの広場へと集まってくるのだ。

広場を支配する空気は、独特の密度と熱を帯びていた。数万の人間が、ただ一つの存在に向けて放つ、純粋で、盲目的なまでの祈り。それはもはや、目には見えない巨大なエネルギーの渦となり、螺旋を描きながら天へと昇っていくかのようだ。空気中には、大神殿の内部で絶え間なく焚かれる最高級の白檀の香油が、その清らかで、どこか甘美な香りを漂わせている。そして、時折、まだ冬の気配を色濃く残した冷たい春の風が、群衆の間を吹き抜ける。その風は、人々の祈りで火照った頬を優しく撫で、同時に、広場の片隅や石畳の隙間から芽吹き始めた若草の、青々しく力強い生命の香りを、微かに運んでくるのだった。

その、張り詰めたような静寂と期待が最高潮に達した瞬間。 荘厳なパイプオルガンの音色が、大神殿の奥深くから、まるで天啓のように響き渡った。それは、地を揺るがすような重低音から、魂を震わせるような高音まで、幾重にも重なった神々しい調べ。その音の波は、大神殿の巨大なステンドグラスを震わせ、石畳を伝い、信者たちの足元から身体の芯へと、直接響き渡っていく。

その、神々の合唱とも言うべき調べに乗って、大神殿の二階部分に設けられた巨大なバルコニーに、ゆっくりと、一人の人物が姿を現した。 純白の、一点の染みすら許さない豪奢な法衣。その生地は、陽光を浴びて、それ自体が発光しているかのように柔らかく輝いている。豊かに、そして威厳たっぷりに胸元まで垂れ下がり、その編み込まれたかのように美しい白銀の髭。そして、その長い年月を物語る深い皺が刻まれた顔に浮かべられた、穏やかで、優しい笑み。それは、この世に存在する全ての慈愛を掬い上げ、凝縮したかのような、絶対的なまでの微笑みだった。 法王、その人であった。

「「「おおおおおおおおおおおおおおっっ!!!!」」」

次の瞬間、数万の信者たちから、地鳴りとも、あるいは火山が噴火する咆哮ともつかぬ、凄まじい歓声が巻き起こった。その音圧は、空気を激しく震わせ、広場にいた鳥たちが一斉に空へと逃げ惑うほどだった。人々は、そのあまりにも神々しい姿を前にして、理性の箍が外れたかのように、滂沱の涙を流し、その場に崩れるようにひれ伏し、ある者は胸の前で固く指を組み、ある者は天に向かって両手を突き上げ、狂信的なまでの祈りを捧げている。それはもはや、宗教儀式というよりも、一つの巨大な感情の爆発であった。

その、常軌を逸した熱狂の渦から、まるで別の世界であるかのように、少しだけ離れた広場の片隅。巨大な噴水の、今は水が抜かれた水盤の影に隠れるようにして、俺たちという、この神聖な場所には実に場違いで、実に不謹慎極まりない一団は、その異様な光景を、どこか体温の低い、冷めた目で見つめていた。

「す、すごい……。これが、法王猊下の、ミサ……」

隣に立つエリスが、そのあまりの熱狂に、思わずといった様子で息を飲む。彼女の、透き通るような白い肌は蒼白になり、その美しいサファイアの瞳には、純粋な驚愕と、そして、人間の集団心理がもたらす狂気に対する、かすかな恐怖の色が浮かんでいた。彼女の指先が、無意識に俺の服の袖を弱々しく掴んでいるのが分かった。

「信じる、ということは……時に、これほどまでに、人を盲目にさせてしまうものなのですね」

エリスの反対側で、セリアもまた、複雑な表情を浮かべて、祈りを捧げる人々の群れを見つめていた。彼女の視線には、エリスのような恐怖はなく、むしろ、憐れみと、そして、この状況を冷静に分析しようとする知的な光が混じり合っている。彼女は、この熱狂を一つの社会現象として、冷静に観察しているようだった。

そう、俺たちは知っている。数日前、幸運にも、あるいは不運にも、この国の頂点に君臨する法王に、直接謁見する機会を得た。そして、知ってしまったのだ。あの、数万の民衆から、生きとし生ける聖人と崇められている慈愛の塊のような法王が、その美しい皮一枚を隔てた中身は、どす黒く、粘ついたヘドロのような邪悪な魔力に満ちた、おぞましい「魔族」であるという、あまりにも衝撃的な、真実を。

謁見の後、俺と、その正体を唯一見破ったソフィアは、大神殿から貸し与えられた宿舎の一室で、その戦慄すべき事実を、仲間たちに告げた。部屋の窓から差し込む夕日が、俺たちの深刻な顔をオレンジ色に染めていたのを、今でもはっきりと覚えている。 もちろん、誰もが、すぐにはその言葉を信じられなかった。信じられるはずがなかった。

「うそでしょ、ガク!?あんな、神様みたいな人が、魔族ですって!?冗談キツイわよ!」

サラが、金色の髪をわしわしとかき乱しながら、信じられない、といった顔で叫んだ。彼女の快活な表情は完全に消え失せ、瞳は大きく見開かれ、混乱の色を隠せずにいた。

「ふむ……。確かに、あの御仁から発せられておった、聖なるオーラは、ワシのこの、長年の経験から見ても、一点の曇りもない、本物としか思えんかったがのう……」

百戦錬磨の老魔導師であるドルセンでさえ、自慢の髭を扱きながら、深く腕を組んで首を傾げている。彼の魔力感知をもってしても、あの偽法王の纏うオーラは完璧に見えたのだ。それほどまでに、奴の幻術は強力で、精緻だった。

だが、その重く、疑念に満ちた場の空気を、たった一言で切り裂いたのは、やはりソフィアだった。彼女は、ティーカップを優雅な仕草でテーブルに置くと、その冷たく、そして絶対的な自信に満ちた声で、言い放った。

「ならば、その目で、確かめさせてあげればいいだけのことよ」

彼女は、くすり、と悪女のように、しかし心底楽しそうに笑みを深めた。その紫色の瞳が、これから始まる舞台の筋書きを思い描いて、妖しくきらめいている。

「あの、偽法王の、化けの皮を、最も効果的で、最も劇的な形で剥ぎ取るための、最高のシナリオを、私が、描いてあげたわ」

そして、今日。 その、ソフィアがたった一晩で描き上げた、悪魔のシナリオの幕が、今まさに、この数万の観衆の前で、上がろうとしていた。 作戦名は、「オペレーション・サンダーボルト」。 命名は、もちろん、ソフィアだ。その、若干古風で、大仰なネーミングセンスには、正直なところ、疑問を感じざるを得ないが、作戦そのものは、実に狡猾で、緻密で、そして、実に悪趣味な、完璧なものだった。

「いいこと、皆さん。私たちの目的は、ただ一つ」

作戦実行の直前、広場の喧騒に紛れながら、ソフィアが俺たちに最終確認をする。彼女の声は、周りの祈りの声に掻き消されそうなほど小さいのに、不思議と俺たちの耳にはっきりと届いた。その紫色の瞳は、最高のエンターテイメントを目前にした、才能ある演出家のように、きらきらと、期待に満ちて輝いていた。

「あの偽法王が展開している、強力無比な幻術魔法。その結界に、ほんの一瞬だけ、ごく僅かな乱れを生じさせること。そうすれば、奴は数万の民衆の前で、その醜い、本来の姿を晒すことになる。これ以上ない、華々しい公開処刑よ」

「そのためにはまず、奴の意識を、完全にこちらから逸らす必要があるわ。完璧で、馬鹿馬鹿しいほどの、陽動(カオス)を作り出すのよ」

ソフィアは、にやり、と唇の端を吊り上げた。その表情は、これから起こるであろう混沌を想像して、心から楽しんでいるように見えた。彼女は、ちらりと、俺たちの隊列の中でも一際大きな二つの影に視線を送った。

「――出番よ、筋肉バカ、二人組」

「「任せておけ(ください)!」」

その言葉を、今か今かと待ちわびていたとばかりに、サラとハガンが、力強く、そしてどこか嬉しそうに頷き、前に進み出た。 二人は、熱心な信者のふりをして、人々の間を巧みにすり抜け、群衆の中へと、まるで水にインクが滲むように、ゆっくりと、しかし確実に溶け込んでいく。その背中を見送りながら、俺は一抹の不安と、そして、それ以上の期待を感じていた。

そして、ミサが、法王の祝福の言葉によって、最も神々しく、最も荘厳なクライマックスを迎えようとした、まさに、その瞬間だった。広場の全ての人間が、固唾を飲んで法王の次の言葉を待っていた、その静寂の中で。

「―――ちょっと、あんた!今、私の足、思いっきり踏んだでしょ!」

サラの、実に柄の悪い、しかし不思議なほどによく通る声が、静まり返っていたはずの広場に、不協和音のように響き渡った。 彼女が、鋭い視線で因縁をつけていた相手は、もちろん、事前に打ち合わせ済みのハガンだ。

「な、何を、言うか、この女!俺は、一歩たりとも動いておらん!そっちこそ、俺の、神聖なる祈りの空間を、そのけたたましい声で邪魔するではないか!」

ハガンもまた、負けじと、その巨躯に似合わぬ甲高い声で、大げさに言い返す。そのわざとらしい聖職者然とした口調が、妙に腹立たしい。 その、あまりにも場違いで、あまりにも唐突に始まった口論に、周りで敬虔に祈りを捧げていた信者たちが、「なんだ、なんだ?」と、怪訝な顔でざわめき始めた。さざ波のように、困惑が広がっていく。

「はあ!?あんた、今、この女って言ったわね!もう一度、言ってみなさいよ、この、脳みそまで筋肉で出来てそうな、生臭坊主!」

「な、生臭坊主だと!?神にその身を捧げ仕える、この聖職者たる私を捕まえて、なんという暴言か!万死に値するぞ!許さんぞ、この、頭の悪そうな、赤髪雌ゴリラめ!」

「誰が、雌ゴリラよおおおおおおおおおっっ!!!!」

「誰が、生臭坊主だあああああああああっっ!!!!」

ドンッ! それは、サラの拳が、ハガンの分厚い胸板を捉えた、肉のぶつかる鈍い音だった。 ガンッ! それは、ハガンの足払いが、サラの脛を硬いブーツごと打ち据えた、骨に響くような音だった。 バキッ! もはや、それは口論ではなかった。神聖なるミサの真っ最中、数万の信者と法王が見守る広場のど真ん中で、神をも恐れぬ、空前絶後の大乱闘が始まってしまったのだ。

サラの、炎を纏ったかのような拳が、ハガンの岩のような頬を的確に捉え、ごっ、と重く鈍い音を立てる。 ハガンの、丸太のような蹴りが、サラの鍛え上げられた、しかし女性らしいしなやかさを持つ脇腹を、深々と抉る。 その、常人ならば一撃で意識を失うであろう、あまりにもレベルの高い攻防。しかし、その原因は、あまりにも低俗な喧嘩。周りの信者たちは、もはや、法王のありがたい説法など、完全にそっちのけで、目の前で繰り広げられる、野蛮で、しかしどこか見応えのある見世物に、釘付けになっていた。

「「「おおおおおっ!いけー!やっちまえー!」」」

いつの間にか、周りでは、「赤髪に、銅貨一枚!」「いや、坊主の方が体格がいい!あっちに銀貨だ!」などと、不謹慎極まりない賭けまで始まっている始末だ。敬虔な祈りは、あっという間に、原始的な興奮へと姿を変えていた。 そして、その完璧なまでの陽動(カオス)に、もう一人、計算通りに油を注ぐ人物がいた。

「やれやれ。近頃の、若いもんは、血の気が多くて、いかんなあ」

バルガスだった。 彼は、どこから出したのか、安物の酒瓶を片手に、酔っぱらいのふりをして、その喧嘩の輪の中に、ふらふらとした足取りで割って入ると、実に絶妙なタイミングで、的確な野次を飛ばし始めたのだ。

「おい、そこの姉ちゃん!もっと、腰を入れねえか!そんな、猫パンチじゃ、あの筋肉ダルマには効かねえぞ!」

「坊主!お前もだ!もっと、こう、フェイントを使わねえか!ただ、猪のように突っ込むだけじゃ、芸がねえぜ!」

その、まるで長年、二人の戦いを見てきたかのような、実に的確で、そして、実に人の神経を逆撫でする解説に、サラとハガンの怒りは、さらに爆発的にヒートアップする。

「「うるさいわね(ぞ)、この、エロ親父いいいいいいいっっ!!!!」」

二人の、燃え盛る怒りの矛先は、完全に、共通の敵であるバルガスへと向かい、事態は、一対一の喧嘩から、三つ巴の大乱闘へと、さらに混沌の度合いを増して発展していった。

広場は、完全にパニックと、熱狂と、野次と怒号が入り乱れる、巨大な坩堝(るつぼ)と化していた。その喧騒は、大神殿のバルコニーに立つ、偽法王の耳にも、はっきりと届いていた。その、常に慈愛に満ちた微笑みを浮かべていたはずの仮面の奥で、彼の眉が、ほんの一瞬、ぴくりと不快そうにひそめられたのを、俺は見逃さなかった。 (よし。かかった) 俺の隣で、ソフィアが、舞台の成功を確信した演出家のように、満足げに頷く。

「今よ、ガク。やりなさい」

俺は、こくり、と静かに頷いた。 そして、ゆっくりと息を吸い込み、両手の指先に、全ての意識を集中させる。 俺が、脳裏にイメージするのは、一筋の、極細の、光の針。 属性は、聖。奴の邪悪な魔力に対して、最も効果的な属性。しかし、その量は、誰にも、そして奴自身にさえも気づかれないほど、ごく微量に、極限まで調整された、魔力の針。 かつて訪れたドワーフの都で、伝説の職人であるバルドール爺さんから譲り受けた、魔力制御の腕輪が、今、その真価を発揮していた。俺の腕で、鈍い銀色の光を放つその腕輪が、俺の、常に荒れ狂う暴れ馬のような膨大な魔力を、まるで熟練の騎手が、優しく、しかし確実に手綱を握るかのように、完璧にコントロールしていく。指先に集まる聖なる力が、これまで感じたことがないほど、従順で、精密なものに変わっていくのが分かった。

俺は、その、目には見えない、不可視の光の針を、一切の詠唱も、一切の予備動作もなく、ただ、意識の投射だけで、偽法王の、その、聖域とも言える足元へと、撃ち込んだ。

シュンッ。 風を切る音もなく。 閃光が走ることもなく。 ただ、一筋の、純粋な聖なる力が、数万の民衆が巻き起こす狂騒の渦を、音もなく飛び越え、偽法王の、その、完璧なる聖域を、侵した。

その、瞬間だった。 バルコニーに立つ、偽法王の、その神々しい、聖人の姿が、ぴくん、と、まるで感電したかのように、奇妙に痙攣した。 それは、本当に、些細な、ごく僅かな変化だった。 周りの、喧嘩に夢中になっている者も、遠くで祈りを続けている者も、誰もが気づかないほどの、ほんの、一瞬の違和感。 だが、その、あまりにも小さな綻びは、奴にとって、致命的だった。

純粋な聖なる力に、直接、その魔力の核を、ほんの僅かに揺さぶられた、偽法王。 彼は、その、完璧なまでに維持していたはずの、強力無比な幻術魔法に、ほんの、コンマ一秒にも満たない、しかし確実な亀裂を、生じさせてしまったのだ。

「―――あ?」

誰かが、呆けたような声を、上げた。 最初にその異変に気づいたのは、法王の立つバルコニーの一番近くで、ひれ伏していた、最も敬虔な信者の一人だった。

「法王猊下の、お顔が……?」

その、呟きともつかぬ言葉を皮切りに、まるで水面に投げ込まれた小石が波紋を広げるように、連鎖反応が起きた。 法王の、その、慈愛に満ちた、聖人の顔。 その、陶器のように滑らかだったはずの肌に、まるで、長い年月を経た古い土壁が、その表面から剥がれ落ちるかのように、ぱり、ぱりと、微細な亀裂が走り始めたのだ。 そして、その光で出来た仮面の亀裂の、奥から。 決して、見えてはいけない、ものが、覗いていた。 夜の闇を凝縮したかのような、漆黒の、硬質な鱗に覆われた肌。 そして、その隙間から爛々と、地獄の業火のように赤く輝く、爬虫類の、縦に裂けた、瞳孔。

「ひ」 「ひいっ」 「ひいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっっ!!!!」

広場にいた、数万の信者たちから、時間差で、この世のものとは思えないほどの、甲高い絶叫が、次々と巻き起こった。それは、歓声とは全く質の異なる、魂の底からの恐怖と拒絶の叫びだった。

「ば、化け物……!」 「法王様が、化け物に!」

偽法王は、自らの致命的な失態に気づき、その赤い瞳を驚愕に見開きながら、慌てて幻術をかけ直そうとする。 だが、もう、遅かった。 一度、決壊を始めた巨大なダムを、人の手で止めることができないように。 一度、人々の心に深く刻まれた疑念と恐怖を、言葉で抑えることは、もう、できない。 人々の、恐怖と、パニック。その負の感情の巨大な波動が、彼の幻術魔法の維持に不可欠な、精神の集中力を、さらに乱していく。

やがて。 その、聖人の仮面は、ガラス細工が砕け散るように、完全に、剥がれ落ちた。

後に、残されたのは。 天を衝くほどの、巨大で、禍々しくねじくれた、黒い山羊のような角。 夜空を覆い尽くさんばかりの、蝙蝠(こうもり)のような、不気味な皮膜の翼。 全身を、黒曜石のように硬く、ぬらりと光る、漆黒の鱗が覆っている。 そして、大きく裂けたその口からは、マグマのように燃え盛る、灼熱の炎の息が、ゴオオオ、と音を立てて漏れ出ていた。 それは、まさしく、神話や伝承に語られる、地獄の底から這い出てきた悪魔。 人知を超えた、圧倒的な力を持つ、上級魔族の、真の姿だった。

「「「「「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっ!!!!」」」」」

広場は、完全に、阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。 人々は、信じていたものが、最もおぞましいものへと変貌した絶望と恐怖に、我先にと逃げ惑い、将棋倒しになり、泣き叫んでいる。祈りの言葉は、断末魔の悲鳴へと変わった。

正体を現した上級魔族は、その燃えるような赤い瞳に、純粋な、そして底なしの怒りと、殺意を宿らせていた。

「おのれ、人間どもが……。我が、長年の、完璧な計画を……!」

その、地獄の底から直接響いてくるような、重く、邪悪な声が、広場全体に響き渡った。

「皆殺しにしてくれるわ……!」

そう、彼が、その、薙刀のように鋭く伸びた巨大な爪を、無力な民衆に向かって振り上げた、その瞬間。 俺は、静かに、一歩、前に出た。

「――そこまでだ、化け物」

俺の、その、喧騒の中では掻き消されてしまいそうなほど静かな、しかし、絶対的な威圧感を込めた声に、上級魔族が、その巨大な頭をぎろり、と、こちらに向けた。その赤い瞳が、初めて俺の存在を正確に捉えた。

「貴様か。貴様が、やったのか、小僧」 「さあ、どうだろうな」

俺は、奴の殺意を真っ向から受け止めながら、にやり、と笑ってみせた。

「だが、一つだけ、言っておく」

俺は、右手を、すっ、と、その巨大な魔族に向けた。その指先に、再び、聖なる力が、静かに集まり始める。

「俺の、仲間と、この国の人々に、手出しは、させない」

俺たちの、本当の戦いが、今、始まる。 偽りの神が、その権威と共に消え去った、この混沌の広場で。 本物の悪魔と、一人の、規格外の少年との、壮絶な戦いの幕が、今、静かに、しかし確実に、切って落とされたのだ。 その激しい戦いの結末を、そして、その先に待ち受ける、この国を揺るがす真実を、この時の、泣き叫ぶ人々の、誰もが、まだ、知る由もなかった。 今はただ、数万の人々の絶叫と、一体の悪魔の咆哮だけが、気まぐれな早春の空に、虚しく、響き渡っていた。
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