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第二話:灼熱のスポットライトと、神の逆三角形
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あの衝撃的な出会いから、数日が過ぎた。経理三課に所属する健人の日常は、これまで保たれてきた静謐を乱され、まるで穏やかな水面に巨大な石が投げ込まれたかのように、絶え間なく揺れ動く波紋の中心で翻弄されていた。彼の心は、これから訪れるであろう未知の出来事への不安と、抗いがたい運命への諦観がない交ぜになった、複雑な色合いに染まっていた。
経理三課のオフィスは、ビルの三階に位置している。その大きな窓からは、間近に迫った梅雨の気配を色濃く映した空が一望できた。空は、まるで誰かが灰色の絵の具を溶かした水で塗りつぶしたかのように、重たい乳白色の雲に隙間なく覆われている。太陽の存在はかろうじてその明るさで認識できるものの、その姿を直接目にすることはできない。湿り気をたっぷりと含んだ生ぬるい空気が、換気のために開け放たれた窓から、まるで意思を持っているかのようにぬるりと室内へ侵入してくる。その湿気は、デスクに積み上げられた書類の端を微かに波打たせ、指先にまとわりつくような不快感を与えていた。時折、気まぐれな風が吹き抜けると、オフィスの中庭に植えられた紫陽花の群れが、その重みに耐えるようにゆっくりと揺れる。青や紫、あるいは淡い桃色の花びらの上に溜まった昨夜の雨露は、陽光を浴びて輝く機会もなく、まるで宝石のようにじっとりとその場に留まっていた。そんな、色彩に溢れているはずなのにどこか活気のない風景を眺めているだけで、健人の気分もまた、空の色に引きずられるように沈んでいくのだった。
この数日間の彼の憂鬱の根源は、スーツのポケットの中で、まるで悪魔のデバイスのように時折身を震わせる、一台のスマートフォンにあった。その振動は、健人の心臓を直接掴んで揺さぶるかのような不吉な合図だった。そして、その送り主は、言うまでもなく、あの嵐のような女性、田中里奈であった。
『健人さん!いよいよですね!記念すべき第一回配信のテーマ、決めました!やっぱり原点にして頂点!シュークリームでいきましょう!』
『健人さんの十八番じゃないですか!これなら絶対バズります!私には見えます、バズの予感が!』
『タイトル案なんですけど、「神のシュークリーム降臨祭~経理部の片隅から愛を込めて~」ってどうです!?エモくないですか!?』
矢継ぎ早に、まるでマシンガンのように送り付けられてくるメッセージ。そのどれもが、現代のコミュニケーションを象徴するかのような、やたらとカラフルな絵文字で装飾され、画面の向こう側の彼女の異常なまでのハイテンションを雄弁に物語っていた。健人は、その通知が点灯するたびに、まるで条件反射のように胃のあたりがきりりと収縮するのを感じていた。もはや彼に、この無謀な計画から逃れるという選択肢は存在しなかった。あの衝撃的な出会いの日に、彼の退路は完全に断ち切られてしまっていたのだ。
そして、運命の配信前日。定時のチャイムが鳴り響き、同僚たちが解放感に満ちた表情で次々とオフィスを後にしていく中、健人は里奈によって「最終打ち合わせ」という名の、事実上の最終通告の場へと引きずり出された。場所は、会社のほど近くにある、古びた喫茶店だった。一歩足を踏み入れると、そこは昭和という時代が化石のように保存された空間だった。壁紙は長年燻され続けたタバコのヤニによって、元々の色が判別できないほどにうっすらと黄ばんでいる。客が座る椅子は、擦り切れて光沢を失ったビロード張りで、腰を下ろすたびに内部の古びたスプリングが「ギシッ」という悲鳴のような音を立てた。里奈は、テーブルの上に置かれたメニューを、まるでうちわのようにパタパタと扇ぎながら、その瞳を爛々と輝かせていた。メニューの表面には、無数の水滴がついており、彼女が動かすたびに小さな雫がテーブルに飛び散った。
「いいですか、健人さん。何事も最初が肝心です!大事なのはオープニング!ここでいかに視聴者の心をがっちり掴めるか、それが全てなんです!」
そう言って彼女が勢いよくテーブルに広げたノートには、健人が見ているだけで眩暈を引き起こしそうな、およそお菓子作りとはかけ離れた単語が、彼女の丸みを帯びた文字で所狭しと躍っていた。
「オープニング案①:ド派手な登場!スモークの中から健人さんが現れる!」
「案②:謎の仮面パティシエ!正体を隠すことでミステリアスな魅力を演出!?」
「決め台詞はこれでいきましょう!『お前の胃袋を、俺のスイーツで幸せに満たしてやろう』!きゃー!かっこいい!」
健人は、目の前で一人興奮している里奈からそっと視線を外し、自分の手元にあるアイスコーヒーのグラスを虚ろな目で見つめた。グラスの中では、すでに氷の大部分が溶けてしまい、琥珀色だった液体は薄く濁った水と化している。彼は、かろうじてその水面から言葉を絞り出した。
「…あの、田中さん。少し、よろしいでしょうか」
「はい!何ですかなんでも言ってください!」
「お菓子作り、特にシュー生地というのは、非常に繊細な作業なんです。材料の温度管理、手順の絶対的な正確さ、そして一瞬のタイミング。その全てが完璧に揃って、初めて成功する。派手な演出というのは、その…失敗の直接的な原因になりかねないのですが…」
彼の声は、自信なさげに尻すぼみになっていく。しかし、里奈はそんな健人の不安など微塵も意に介さない様子で、からりと笑ってみせた。
「大丈夫、大丈夫!そのギャップが逆に面白いんじゃないですか!プロのパティシエが、素人感満載のドタバタ配信の中で、神業スイーツを生み出す!最高にバズる構図ですよ!健人さんはお菓子作りに全集中!演出と盛り上げは、この私にぜーんぶ任せてください!」
彼女の笑顔には、一点の曇りもなかった。悪意など、そこには欠片も存在しない。ただ、純粋な情熱と、根拠のない自信だけが太陽のように輝いている。健人は、その眩しさに目を細めながら、静かに悟った。これから自分が乗り込もうとしている船は、羅針盤もなければ海図もなく、ただ「情熱」という名の、いつ暴走するとも知れないエンジンだけを搭載して、大嵐が待ち受ける大海原へと漕ぎ出そうとしているのだ、と。彼は、喫茶店の黄ばんだ天井を静かに仰ぎ、見えない神に祈るような気持ちで、ぬるくなったアイスコーヒーを呷った。
***
そして、ついに訪れた配信当日。
終業後、健人の足取りは、まるで断頭台へ向かう罪人のように重かった。彼が向かう先は、会社の地下二階にある、今は倉庫としてしか使われていない古い会議室。そこが、記念すべき第一回配信のスタジオとして里奈が選んだ場所だった。重たい鉄の扉を開けると、ひやりとしたコンクリートの匂いと、微かなカビの匂いが混じり合った空気が彼の顔を撫でた。窓は一つもなく、外界から完全に隔絶されたその部屋の中央には、天井から一本の裸電球が頼りなくぶら下がっているだけだった。その薄暗い光が照らし出すのは、床に無造作に置かれた、何の変哲もない長机が一つ。その上には、里奈が会社の備品や自宅からかき集めてきたであろう、チープな調理器具が並べられていた。家庭用の小さなオーブンレンジ、コードが複雑に絡まり合った安物の卓上IHヒーター、そしてメーカーもバラバラの調理ボウル。まるで、子供のおままごとのセットのようだった。
「健人さん、お疲れ様です!準備は万端ですよ!」
里奈は、すでに額に玉の汗を浮かべながら、三脚にぎこちなく固定された一台のスマートフォンを誇らしげに指差した。それが、今回の記念すべき配信で使用される、たった一つのカメラだった。健人は、そのあまりにも心許ない設備を前に、深いため息を飲み込んだ。彼は、持参した大きなクーラーボックスを床に置くと、中から愛用のステンレス製ボウルや、手に馴染んだホイッパー、そして昨日、完璧な状態に仕込んでおいたクレーム・パティシエールとクラックラン生地を丁寧に取り出した。その光景は、まるで慣れない土地で、あり合わせの道具を使って野戦病院を開設する、熟練の軍医のようでもあった。
午後八時。配信開始時刻が、刻一刻と迫る。
里奈がスマートフォンの画面を数回タップすると、小さなランプが赤く灯り、全世界(というにはあまりにも大げさだが)に向けて、映像が流れ始めた。
「はーい!皆さん、こんばんはー!あなたの心をバズらせる、新感覚お料理チャンネル、『バズチャンネル』の時間がやってまいりましたー!司会進行は、私、田中里奈です!イェーイ!」
画面の向こうに、一体何人の視聴者がいるのか、健人には想像もつかなかった。ただ、彼の目の前には、誰もいない空間に向かって、一人で空回り気味にハイテンションを振りまく里奈がいるだけだ。その姿は、シュールという言葉以外に表現のしようがなかった。
「そして!今宵、この我らが『バズチャンネル』に、奇跡の天才パティシエが降臨してくださいました!そのお名前は…ムッシュ・シュクルさんでーす!どうぞー!」
里奈に肘でぐいと小突かれ、健人はびくりと肩を大きく揺らした。咄嗟に、カメラに顔が映らないよう、俯き加減になる。
「……ど、どうも。ムッシュ・シュクル…です」
彼の絞り出した声は、緊張のあまり上擦って裏返ってしまった。スマートフォンの画面に表示されるコメント欄が、早速ざわつき始めるのが見えた。
『声、ちっさwww』
『え、本当にあの伝説のムッシュ・シュクル?なんかイメージと全然違うんだけど…』
『機材、スマホ一台でやってる?潔すぎて逆に好感が持てるw』
『背景が完全に事後現場』
里奈は、そんなコメント欄のざわめきを気にする様子もなく、満面の笑みで進行を続ける。
「さて!記念すべき第一回は、ムッシュ・シュクルの代名詞とも言える、あの伝説のスイーツ!『シュー・ア・ラ・クレーム』です!先生、早速お願いします!」
「先生」という、あまりにも不慣れな呼称に、健人の背筋が再び緊張で伸びる。しかし、もう後には引けない。ここまで来たら、やるしかないのだ。彼は覚悟を決め、卓上IHヒーターの前に立った。ここからは、誰にも邪魔はさせない。自分の領域だ。
「……まず、シュー生地を作ります。材料は、水、牛乳、バター、塩、グラニュー糖、そして薄力粉と卵。非常に単純な構成ですが、一つ一つの工程に重要な意味があります」
健人の声はまだ小さく、硬かったが、その口調には確かな自信が滲み始めていた。彼の指先が、まるで長年の相棒に触れるかのように、手際よく材料を計量していく。彼は小さな鍋に水と牛乳、カットしたバター、塩、砂糖を入れ、IHヒーターのスイッチを入れた。
「ここで最も重要なポイントは、液体を完全に沸騰させることです。中途半端な温度で粉を加えると、グルテンがうまく形成されず、膨らみの悪い生地になってしまいます。沸騰したところに、あらかじめふるっておいた薄力粉を、躊躇せず一度に加えます」
健人が、白い粉を鍋に一気に投入し、木べらで混ぜようとした、まさにその時だった。
「わ、健人さん、ちょっと手元が暗いですね!これじゃあ視聴者さんに見えづらい!ライト、当てますね!」
里奈が、部屋の隅に転がっていたクリップライトを手に取り、健人の手元を照らそうと駆け寄ってきた。しかし、その伸ばされたコードが、彼女自身の足に無情にも絡みついた。
「きゃっ!」
短い悲鳴と共に、里奈の体がぐらりと傾く。彼女は体勢を崩し、咄嗟に目の前の長机に手をついた。ガタン、という大きな衝撃音を立てて、 flimsy な机が激しく揺れる。その振動で、IHヒーターの上の鍋が大きく傾き、中の沸騰した熱湯が、ちゃぷん、と危険な音を立てて跳ねた。
「危ない!」
健人は、思考よりも早く体が動いていた。反射的に鍋の取っ手を掴み、コンロから離す。コンマ数秒の判断が、大惨事を防いだ。コメント欄は、この突発的なアクシデントに一瞬にして祭り状態と化した。
『ディレクターさんwwwww』
『開始早々、放送事故レベル1発生』
『鍋、死守!さすがムッシュ!プロの動きだ…』
『このディレクター、絶対ポンコツだろw』
里奈は、顔をトマトのように真っ赤にして、ひたすら「すみません、すみません…」と平謝りしている。健人は、一度大きく深呼吸をして乱れた心を落ち着かせると、何事もなかったかのように作業を続けた。
「……失礼しました。粉を入れたら、一度火から外し、木べらで力強く混ぜ合わせます。生地がひとまとまりになったら、再び中火にかけ、余分な水分を飛ばしていきます。この工程を『糊化(こか)』と言います。デンプンにしっかりと火を通し、水分を十分に抱え込ませることで、焼成時に発生する水蒸気の力で力強く膨らむための、強い膜を作るんです」
健人が、鍋の底をこするように力強く生地を練っていると、鍋と木べらが擦れる「ゴシ、ゴシ」という音が、スマートフォンのマイクにやけに大きく拾われた。その音は、彼の集中力の高まりを物語っているようだった。
「鍋底に、薄い膜が張るのが目安です。こうなれば、火から下ろして次の工程に移ります」
そして、シュー生地作りにおける最大の難関、卵の投入だ。ここでの見極めが、全てを決定すると言っても過言ではない。
「熱々の生地に卵を直接入れると、卵のタンパク質が熱で固まり、ダマになってしまいます。必ず、人肌程度まで生地を冷ましてください。焦りは禁物です」
健人がボウルに移した生地を、木べらで丁寧に混ぜて冷ましていると、里奈がまたもや「良かれと思って」余計な行動に出た。
「健人さん!やっぱりお顔が暗いと!主役のオーラが伝わりません!視聴者さんに失礼ですよ!」
彼女は、今度こそ慎重な足取りで近づくと、先ほどのクリップライトを、健人の顔の真正面から、至近距離で照らしつけた。
「ぐっ…!」
網膜を直接焼き付けるような、強烈な光の暴力。健人は思わず目を細め、顔をしかめた。視界が真っ白になり、手元が全く見えない。
「田中さん、その光が…強すぎます…」
「え、そうですか?いい感じじゃないですか?後光が差してるみたいで、神々しいですよ!さすがムッシュ!」
違う、そうじゃない。健人は心の中で叫んだ。しかし、もう卵は溶きほぐしてあり、生地の温度も最適になっている。今、この作業を中断するわけにはいかない。彼は、意を決して、ぎゅっと目を閉じた。視覚という最も頼りにしていた感覚を自ら断ち、手のひらに伝わるボウルの冷たさ、木べらから伝わる生地の重みと粘り強い抵抗、そして嗅覚だけを頼りに、全神経を指先に集中させる。
「溶き卵は、必ず数回に分けて加えてください。一度に全て加えると、水分と油分が分離して、決して混ざりません。その都度、生地が完全に卵を吸収するまで、しっかりと、根気よく混ぜてください」
目をつぶったまま、健人は淡々と説明を続ける。その異様な光景に、コメント欄の流れる速度はさらに加速していく。
『瞑想クッキング?新しいジャンルきたな』
『光を克服した、闇のパティシエの誕生である…』
『なんだこれ…すごい、ヘラを持つ手に一切の迷いがないぞ』
『心眼で生地の状態を見てるのか…』
健人は、最後の卵を加え終えると、木べらで生地をゆっくりとすくい上げた。そして、眩しさに耐えながら薄目を開け、ヘラから生地が落ちる様を凝視する。
「……これです。ヘラから、生地がゆっくりと、途切れることなく落ちて、美しい逆三角形を描く。これが、最高の硬さの合図です」
強烈な逆光の中で、艶やかな光沢を放つ生地が、まるで計算され尽くしたかのように、完璧な逆三角形を描いて垂れ下がっていた。それは、もはや職人技を超えた、神業の領域だった。
生地を絞り袋に入れ、オーブンシートを敷いた天板に、等間隔に美しく絞っていく。昨日作っておいたクラックラン生地を冷凍庫から素早く取り出し、丸く抜いて、一つ一つのシュー生地の上に丁寧に乗せていく。
「オーブンは、あらかじめ200℃に予熱してあります。これで、まず15分。その後、170℃に温度を下げて、さらに20分から25分、じっくりと火を通します。そして、ここで最も重要なことを言います。焼いている間は、決して、絶対に、オーブンの扉を開けないでください。中の水蒸気が逃げ、急激に温度が下がると、膨らんだ生地は一瞬でしぼみ、二度と膨らむことはありません」
健人の言葉には、強い力が込められていた。小さな家庭用オーブンに、未来のシュークリームたちが乗った天板が静かに吸い込まれていく。あとは、焼き上がりを待つだけだ。
しかし、この配信において「何事もなく待つ」という時間が許されるはずがなかった。里奈が、この沈黙をチャンスとばかりにマイクの前に躍り出た。
「さあ、焼き上がりまでのこの時間を使って、皆さんから寄せられた質問に答えていきましょう!ムッシュ・シュクルさんへの質問コーナー!」
「え」
「早速来てます!『ムッシュ・シュクルのプライベートに迫る!好きな食べ物はなんですか?』とのことです!どうぞ!」
「え、あ、あの…好きな食べ物、ですか…」
突然の質問コーナーに、健人は完全にフリーズした。お菓子作りモードに入っていた脳が、全く別の思考を要求され、完全にショートしてしまったのだ。彼が答えに窮していると、次の、そしてこの日最大の悲劇が起きる。
里奈が、質問コーナーのカンペを壁に貼ろうとして、オーブンやIHヒーター、そしてあのクリップライトの電源が全て繋がっている延長コードのタップに、こともあろうに養生テープをベタリと貼り付けたのだ。その、スイッチ部分に。その瞬間だった。
バチッ、という短いスパーク音と共に、健人の顔を神々しく照らしていたライトと、オーブンの庫内灯、そして動作ランプが、同時に消えた。
部屋が、天井の薄暗い裸電球だけの明かりに包まれる。
「…………あ」
里奈の、絶望の色に染まった、か細い声が響いた。
「す、すみません…テープが、スイッチの上に…」
電源が、落ちた。オーブンの中で、今まさに水蒸気の力で膨らもうとしていた、健人の魂の結晶とも言えるシュー生地たちの運命は。
健人は、無言だった。言葉を失っていた。ただ、真っ暗になったオーブンの小さな窓を、全ての希望を失った罪人のような、絶望的な表情で見つめていた。
コメント欄は、もはや祭りではなく、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
『あああああああ終わったあああああああ』
『伝説の放送事故、ここに爆誕』
『ディレクター、君は一体何をしに来たんだ…』
『シュークリーム、無念』
里奈が半泣きになりながらスイッチを入れ直すと、幸いにも電源はすぐに復旧した。しかし、一度止まってしまったオーブン。上昇していた温度は確実に下がり、庫内の蒸気圧も変化してしまったはずだ。健人は、もはやこれまで、と静かに天を仰いだ。
やがて、無情にも焼き上がりを告げる軽快なタイマーの音が、静まり返った地下室に響き渡った。
里奈は「本当に、本当に、本当に申し訳ありません…」と、今にも泣き出しそうな顔で縮こまっている。健人は、ゆっくりと、まるで殉教者のような足取りでオーブンに近づいた。これから目の当たりにするであろう、無残に潰れた生地の残骸を覚悟し、処刑台の扉を開けるような心地で、オーブンの扉に手をかける。
扉が開く。
その瞬間、バターと小麦粉が焼けた、甘く香ばしい、至福の香りが爆発するように部屋中に溢れ出した。
そして、そこにいたのは。
天板の上で、一つとして欠けることなく、完璧に膨らみ上がった、美しい黄金色のシューたちだった。表面に乗せたクラックランは芸術的にひび割れ、まるで乾いた大地のよう。奇跡だった。信じられない光景だった。電源が落ちたあのわずかな数秒間が、逆に完璧な蒸らし時間になったとでもいうのだろうか。科学では説明できない何かが、そこでは起きていた。
コメント欄が、今度こそ、本当の意味での熱狂に包まれた。
『うおおおおおおお!生きてる!生きてるぞ!』
『奇跡のシュークリーム!伝説の回だ!』
『#電源落ちの奇跡』
そのハッシュタグは、瞬く間にSNSのトレンドを駆け上がっていった。
健人は、まだ熱を帯びたシュー生地の一つを、まるで宝物に触れるかのようにそっと手に取り、横半分にスライスした。中には、理想的で美しい空洞が広がっていた。そこに、完璧に冷やしておいた、バニラビーンズの黒い粒が浮かぶ滑らかなクレーム・パティシエールを、たっぷりと絞り入れる。
そして、それを無言で、全ての元凶である里奈に差し出した。
里奈は、涙で潤んだ目でそれを受け取ると、おそるおそる、小さな口で一口かじった。
サクッ、と小気味良いクラックランの音が、マイクにクリアに拾われた。
次の瞬間、彼女の目が、信じられないものを見たかのように大きく見開かれる。
「……おい…しい……」
サクサクと香ばしいのに、儚く崩れる皮。ふんわりと軽く、卵の優しい風味が広がる生地。そして、口の中いっぱいに溢れ出す、なめらかで、バニラの芳醇な香りが鼻を抜ける、濃厚でありながら後味は驚くほどすっきりとしたクリーム。それら全てが、口の中で完璧なハーモニーを奏でていた。
里奈は、言葉を忘れ、ただ夢中でシュークリームを頬張った。その、何の計算も演出もない、心の底からの純粋な「美味しい」という表情が、三脚の上のスマートフォンカメラに、完璧に捉えられていた。
健人は、その顔を見て、ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ、口元を緩めた。
こうして、数々の大事故と、万に一つの奇跡、そして最高の笑顔と共に、伝説として語り継がれることになる第一回配信は、その幕を閉じたのであった。
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**《ムッシュ・シュクル流:シュー・ア・ラ・クレーム完璧レシピ②》**
**【材料:シュー生地(約10個分)】**
* 水:60g
* 牛乳:60g
* 無塩バター:50g
* グラニュー糖:4g
* 塩:ひとつまみ(約1g)
* 薄力粉:70g
* 全卵:2~3個(約120g~130g) ※生地の状態で調整
**【材料:クレーム・パティシエール】**
* 牛乳:250cc
* バニラビーンズ:1/2本(またはバニラエッセンス少々)
* 卵黄:3個分
* グラニュー糖:60g
* 薄力粉:20g
* 無塩バター:10g
**【作り方:シュー生地】**
1. 鍋に水、牛乳、バター、グラニュー糖、塩を入れ中火にかける。バターが完全に溶け、液体全体が沸騰したら一度火から下ろす。
2. ふるった薄力粉を一度に加え、木べらで手早く混ぜ合わせる。粉気がなくなり、生地がひとまとまりになったら、再び中火にかける。
3. 木べらで絶えず生地を練りながら、1~2分加熱し、水分を飛ばす(糊化)。鍋底に薄い膜が張るのが目安。
4. 生地をボウルに移し、人肌程度(約60℃)になるまで木べらで混ぜて冷ます。
5. 溶きほぐした全卵を、3~4回に分けて加え、その都度完全に混ぜ合わせる。卵の量は生地の硬さを見ながら調整する。
6. 木べらで生地をすくい上げた時、生地がなめらかに垂れ、ヘラに「逆三角形」の形で残るようになれば完成。
7. 直径1cm程度の丸口金をつけた絞り袋に生地を入れ、オーブンシートを敷いた天板に直径4cm程度の大きさに絞る。
8. 冷凍しておいたクラックラン生地を直径3cmの丸型で抜き、絞ったシュー生地の上に乗せる。
9. 200℃に予熱したオーブンで15分焼き、その後170℃に温度を下げて20~25分、全体にしっかりと焼き色がつくまで焼く。焼いている最中は絶対にオーブンを開けないこと。
10. 焼きあがったら、ケーキクーラーなどの上で冷ます。
**【作り方:仕上げ】**
1. 完全に冷めたシュー生地を横半分に切るか、底に穴を開ける。
2. 裏ごししてなめらかにしたクレーム・パティシエールを、絞り袋などを使い、たっぷりと中に詰める。お好みで泡立てた生クリームを加えても良い。
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経理三課のオフィスは、ビルの三階に位置している。その大きな窓からは、間近に迫った梅雨の気配を色濃く映した空が一望できた。空は、まるで誰かが灰色の絵の具を溶かした水で塗りつぶしたかのように、重たい乳白色の雲に隙間なく覆われている。太陽の存在はかろうじてその明るさで認識できるものの、その姿を直接目にすることはできない。湿り気をたっぷりと含んだ生ぬるい空気が、換気のために開け放たれた窓から、まるで意思を持っているかのようにぬるりと室内へ侵入してくる。その湿気は、デスクに積み上げられた書類の端を微かに波打たせ、指先にまとわりつくような不快感を与えていた。時折、気まぐれな風が吹き抜けると、オフィスの中庭に植えられた紫陽花の群れが、その重みに耐えるようにゆっくりと揺れる。青や紫、あるいは淡い桃色の花びらの上に溜まった昨夜の雨露は、陽光を浴びて輝く機会もなく、まるで宝石のようにじっとりとその場に留まっていた。そんな、色彩に溢れているはずなのにどこか活気のない風景を眺めているだけで、健人の気分もまた、空の色に引きずられるように沈んでいくのだった。
この数日間の彼の憂鬱の根源は、スーツのポケットの中で、まるで悪魔のデバイスのように時折身を震わせる、一台のスマートフォンにあった。その振動は、健人の心臓を直接掴んで揺さぶるかのような不吉な合図だった。そして、その送り主は、言うまでもなく、あの嵐のような女性、田中里奈であった。
『健人さん!いよいよですね!記念すべき第一回配信のテーマ、決めました!やっぱり原点にして頂点!シュークリームでいきましょう!』
『健人さんの十八番じゃないですか!これなら絶対バズります!私には見えます、バズの予感が!』
『タイトル案なんですけど、「神のシュークリーム降臨祭~経理部の片隅から愛を込めて~」ってどうです!?エモくないですか!?』
矢継ぎ早に、まるでマシンガンのように送り付けられてくるメッセージ。そのどれもが、現代のコミュニケーションを象徴するかのような、やたらとカラフルな絵文字で装飾され、画面の向こう側の彼女の異常なまでのハイテンションを雄弁に物語っていた。健人は、その通知が点灯するたびに、まるで条件反射のように胃のあたりがきりりと収縮するのを感じていた。もはや彼に、この無謀な計画から逃れるという選択肢は存在しなかった。あの衝撃的な出会いの日に、彼の退路は完全に断ち切られてしまっていたのだ。
そして、運命の配信前日。定時のチャイムが鳴り響き、同僚たちが解放感に満ちた表情で次々とオフィスを後にしていく中、健人は里奈によって「最終打ち合わせ」という名の、事実上の最終通告の場へと引きずり出された。場所は、会社のほど近くにある、古びた喫茶店だった。一歩足を踏み入れると、そこは昭和という時代が化石のように保存された空間だった。壁紙は長年燻され続けたタバコのヤニによって、元々の色が判別できないほどにうっすらと黄ばんでいる。客が座る椅子は、擦り切れて光沢を失ったビロード張りで、腰を下ろすたびに内部の古びたスプリングが「ギシッ」という悲鳴のような音を立てた。里奈は、テーブルの上に置かれたメニューを、まるでうちわのようにパタパタと扇ぎながら、その瞳を爛々と輝かせていた。メニューの表面には、無数の水滴がついており、彼女が動かすたびに小さな雫がテーブルに飛び散った。
「いいですか、健人さん。何事も最初が肝心です!大事なのはオープニング!ここでいかに視聴者の心をがっちり掴めるか、それが全てなんです!」
そう言って彼女が勢いよくテーブルに広げたノートには、健人が見ているだけで眩暈を引き起こしそうな、およそお菓子作りとはかけ離れた単語が、彼女の丸みを帯びた文字で所狭しと躍っていた。
「オープニング案①:ド派手な登場!スモークの中から健人さんが現れる!」
「案②:謎の仮面パティシエ!正体を隠すことでミステリアスな魅力を演出!?」
「決め台詞はこれでいきましょう!『お前の胃袋を、俺のスイーツで幸せに満たしてやろう』!きゃー!かっこいい!」
健人は、目の前で一人興奮している里奈からそっと視線を外し、自分の手元にあるアイスコーヒーのグラスを虚ろな目で見つめた。グラスの中では、すでに氷の大部分が溶けてしまい、琥珀色だった液体は薄く濁った水と化している。彼は、かろうじてその水面から言葉を絞り出した。
「…あの、田中さん。少し、よろしいでしょうか」
「はい!何ですかなんでも言ってください!」
「お菓子作り、特にシュー生地というのは、非常に繊細な作業なんです。材料の温度管理、手順の絶対的な正確さ、そして一瞬のタイミング。その全てが完璧に揃って、初めて成功する。派手な演出というのは、その…失敗の直接的な原因になりかねないのですが…」
彼の声は、自信なさげに尻すぼみになっていく。しかし、里奈はそんな健人の不安など微塵も意に介さない様子で、からりと笑ってみせた。
「大丈夫、大丈夫!そのギャップが逆に面白いんじゃないですか!プロのパティシエが、素人感満載のドタバタ配信の中で、神業スイーツを生み出す!最高にバズる構図ですよ!健人さんはお菓子作りに全集中!演出と盛り上げは、この私にぜーんぶ任せてください!」
彼女の笑顔には、一点の曇りもなかった。悪意など、そこには欠片も存在しない。ただ、純粋な情熱と、根拠のない自信だけが太陽のように輝いている。健人は、その眩しさに目を細めながら、静かに悟った。これから自分が乗り込もうとしている船は、羅針盤もなければ海図もなく、ただ「情熱」という名の、いつ暴走するとも知れないエンジンだけを搭載して、大嵐が待ち受ける大海原へと漕ぎ出そうとしているのだ、と。彼は、喫茶店の黄ばんだ天井を静かに仰ぎ、見えない神に祈るような気持ちで、ぬるくなったアイスコーヒーを呷った。
***
そして、ついに訪れた配信当日。
終業後、健人の足取りは、まるで断頭台へ向かう罪人のように重かった。彼が向かう先は、会社の地下二階にある、今は倉庫としてしか使われていない古い会議室。そこが、記念すべき第一回配信のスタジオとして里奈が選んだ場所だった。重たい鉄の扉を開けると、ひやりとしたコンクリートの匂いと、微かなカビの匂いが混じり合った空気が彼の顔を撫でた。窓は一つもなく、外界から完全に隔絶されたその部屋の中央には、天井から一本の裸電球が頼りなくぶら下がっているだけだった。その薄暗い光が照らし出すのは、床に無造作に置かれた、何の変哲もない長机が一つ。その上には、里奈が会社の備品や自宅からかき集めてきたであろう、チープな調理器具が並べられていた。家庭用の小さなオーブンレンジ、コードが複雑に絡まり合った安物の卓上IHヒーター、そしてメーカーもバラバラの調理ボウル。まるで、子供のおままごとのセットのようだった。
「健人さん、お疲れ様です!準備は万端ですよ!」
里奈は、すでに額に玉の汗を浮かべながら、三脚にぎこちなく固定された一台のスマートフォンを誇らしげに指差した。それが、今回の記念すべき配信で使用される、たった一つのカメラだった。健人は、そのあまりにも心許ない設備を前に、深いため息を飲み込んだ。彼は、持参した大きなクーラーボックスを床に置くと、中から愛用のステンレス製ボウルや、手に馴染んだホイッパー、そして昨日、完璧な状態に仕込んでおいたクレーム・パティシエールとクラックラン生地を丁寧に取り出した。その光景は、まるで慣れない土地で、あり合わせの道具を使って野戦病院を開設する、熟練の軍医のようでもあった。
午後八時。配信開始時刻が、刻一刻と迫る。
里奈がスマートフォンの画面を数回タップすると、小さなランプが赤く灯り、全世界(というにはあまりにも大げさだが)に向けて、映像が流れ始めた。
「はーい!皆さん、こんばんはー!あなたの心をバズらせる、新感覚お料理チャンネル、『バズチャンネル』の時間がやってまいりましたー!司会進行は、私、田中里奈です!イェーイ!」
画面の向こうに、一体何人の視聴者がいるのか、健人には想像もつかなかった。ただ、彼の目の前には、誰もいない空間に向かって、一人で空回り気味にハイテンションを振りまく里奈がいるだけだ。その姿は、シュールという言葉以外に表現のしようがなかった。
「そして!今宵、この我らが『バズチャンネル』に、奇跡の天才パティシエが降臨してくださいました!そのお名前は…ムッシュ・シュクルさんでーす!どうぞー!」
里奈に肘でぐいと小突かれ、健人はびくりと肩を大きく揺らした。咄嗟に、カメラに顔が映らないよう、俯き加減になる。
「……ど、どうも。ムッシュ・シュクル…です」
彼の絞り出した声は、緊張のあまり上擦って裏返ってしまった。スマートフォンの画面に表示されるコメント欄が、早速ざわつき始めるのが見えた。
『声、ちっさwww』
『え、本当にあの伝説のムッシュ・シュクル?なんかイメージと全然違うんだけど…』
『機材、スマホ一台でやってる?潔すぎて逆に好感が持てるw』
『背景が完全に事後現場』
里奈は、そんなコメント欄のざわめきを気にする様子もなく、満面の笑みで進行を続ける。
「さて!記念すべき第一回は、ムッシュ・シュクルの代名詞とも言える、あの伝説のスイーツ!『シュー・ア・ラ・クレーム』です!先生、早速お願いします!」
「先生」という、あまりにも不慣れな呼称に、健人の背筋が再び緊張で伸びる。しかし、もう後には引けない。ここまで来たら、やるしかないのだ。彼は覚悟を決め、卓上IHヒーターの前に立った。ここからは、誰にも邪魔はさせない。自分の領域だ。
「……まず、シュー生地を作ります。材料は、水、牛乳、バター、塩、グラニュー糖、そして薄力粉と卵。非常に単純な構成ですが、一つ一つの工程に重要な意味があります」
健人の声はまだ小さく、硬かったが、その口調には確かな自信が滲み始めていた。彼の指先が、まるで長年の相棒に触れるかのように、手際よく材料を計量していく。彼は小さな鍋に水と牛乳、カットしたバター、塩、砂糖を入れ、IHヒーターのスイッチを入れた。
「ここで最も重要なポイントは、液体を完全に沸騰させることです。中途半端な温度で粉を加えると、グルテンがうまく形成されず、膨らみの悪い生地になってしまいます。沸騰したところに、あらかじめふるっておいた薄力粉を、躊躇せず一度に加えます」
健人が、白い粉を鍋に一気に投入し、木べらで混ぜようとした、まさにその時だった。
「わ、健人さん、ちょっと手元が暗いですね!これじゃあ視聴者さんに見えづらい!ライト、当てますね!」
里奈が、部屋の隅に転がっていたクリップライトを手に取り、健人の手元を照らそうと駆け寄ってきた。しかし、その伸ばされたコードが、彼女自身の足に無情にも絡みついた。
「きゃっ!」
短い悲鳴と共に、里奈の体がぐらりと傾く。彼女は体勢を崩し、咄嗟に目の前の長机に手をついた。ガタン、という大きな衝撃音を立てて、 flimsy な机が激しく揺れる。その振動で、IHヒーターの上の鍋が大きく傾き、中の沸騰した熱湯が、ちゃぷん、と危険な音を立てて跳ねた。
「危ない!」
健人は、思考よりも早く体が動いていた。反射的に鍋の取っ手を掴み、コンロから離す。コンマ数秒の判断が、大惨事を防いだ。コメント欄は、この突発的なアクシデントに一瞬にして祭り状態と化した。
『ディレクターさんwwwww』
『開始早々、放送事故レベル1発生』
『鍋、死守!さすがムッシュ!プロの動きだ…』
『このディレクター、絶対ポンコツだろw』
里奈は、顔をトマトのように真っ赤にして、ひたすら「すみません、すみません…」と平謝りしている。健人は、一度大きく深呼吸をして乱れた心を落ち着かせると、何事もなかったかのように作業を続けた。
「……失礼しました。粉を入れたら、一度火から外し、木べらで力強く混ぜ合わせます。生地がひとまとまりになったら、再び中火にかけ、余分な水分を飛ばしていきます。この工程を『糊化(こか)』と言います。デンプンにしっかりと火を通し、水分を十分に抱え込ませることで、焼成時に発生する水蒸気の力で力強く膨らむための、強い膜を作るんです」
健人が、鍋の底をこするように力強く生地を練っていると、鍋と木べらが擦れる「ゴシ、ゴシ」という音が、スマートフォンのマイクにやけに大きく拾われた。その音は、彼の集中力の高まりを物語っているようだった。
「鍋底に、薄い膜が張るのが目安です。こうなれば、火から下ろして次の工程に移ります」
そして、シュー生地作りにおける最大の難関、卵の投入だ。ここでの見極めが、全てを決定すると言っても過言ではない。
「熱々の生地に卵を直接入れると、卵のタンパク質が熱で固まり、ダマになってしまいます。必ず、人肌程度まで生地を冷ましてください。焦りは禁物です」
健人がボウルに移した生地を、木べらで丁寧に混ぜて冷ましていると、里奈がまたもや「良かれと思って」余計な行動に出た。
「健人さん!やっぱりお顔が暗いと!主役のオーラが伝わりません!視聴者さんに失礼ですよ!」
彼女は、今度こそ慎重な足取りで近づくと、先ほどのクリップライトを、健人の顔の真正面から、至近距離で照らしつけた。
「ぐっ…!」
網膜を直接焼き付けるような、強烈な光の暴力。健人は思わず目を細め、顔をしかめた。視界が真っ白になり、手元が全く見えない。
「田中さん、その光が…強すぎます…」
「え、そうですか?いい感じじゃないですか?後光が差してるみたいで、神々しいですよ!さすがムッシュ!」
違う、そうじゃない。健人は心の中で叫んだ。しかし、もう卵は溶きほぐしてあり、生地の温度も最適になっている。今、この作業を中断するわけにはいかない。彼は、意を決して、ぎゅっと目を閉じた。視覚という最も頼りにしていた感覚を自ら断ち、手のひらに伝わるボウルの冷たさ、木べらから伝わる生地の重みと粘り強い抵抗、そして嗅覚だけを頼りに、全神経を指先に集中させる。
「溶き卵は、必ず数回に分けて加えてください。一度に全て加えると、水分と油分が分離して、決して混ざりません。その都度、生地が完全に卵を吸収するまで、しっかりと、根気よく混ぜてください」
目をつぶったまま、健人は淡々と説明を続ける。その異様な光景に、コメント欄の流れる速度はさらに加速していく。
『瞑想クッキング?新しいジャンルきたな』
『光を克服した、闇のパティシエの誕生である…』
『なんだこれ…すごい、ヘラを持つ手に一切の迷いがないぞ』
『心眼で生地の状態を見てるのか…』
健人は、最後の卵を加え終えると、木べらで生地をゆっくりとすくい上げた。そして、眩しさに耐えながら薄目を開け、ヘラから生地が落ちる様を凝視する。
「……これです。ヘラから、生地がゆっくりと、途切れることなく落ちて、美しい逆三角形を描く。これが、最高の硬さの合図です」
強烈な逆光の中で、艶やかな光沢を放つ生地が、まるで計算され尽くしたかのように、完璧な逆三角形を描いて垂れ下がっていた。それは、もはや職人技を超えた、神業の領域だった。
生地を絞り袋に入れ、オーブンシートを敷いた天板に、等間隔に美しく絞っていく。昨日作っておいたクラックラン生地を冷凍庫から素早く取り出し、丸く抜いて、一つ一つのシュー生地の上に丁寧に乗せていく。
「オーブンは、あらかじめ200℃に予熱してあります。これで、まず15分。その後、170℃に温度を下げて、さらに20分から25分、じっくりと火を通します。そして、ここで最も重要なことを言います。焼いている間は、決して、絶対に、オーブンの扉を開けないでください。中の水蒸気が逃げ、急激に温度が下がると、膨らんだ生地は一瞬でしぼみ、二度と膨らむことはありません」
健人の言葉には、強い力が込められていた。小さな家庭用オーブンに、未来のシュークリームたちが乗った天板が静かに吸い込まれていく。あとは、焼き上がりを待つだけだ。
しかし、この配信において「何事もなく待つ」という時間が許されるはずがなかった。里奈が、この沈黙をチャンスとばかりにマイクの前に躍り出た。
「さあ、焼き上がりまでのこの時間を使って、皆さんから寄せられた質問に答えていきましょう!ムッシュ・シュクルさんへの質問コーナー!」
「え」
「早速来てます!『ムッシュ・シュクルのプライベートに迫る!好きな食べ物はなんですか?』とのことです!どうぞ!」
「え、あ、あの…好きな食べ物、ですか…」
突然の質問コーナーに、健人は完全にフリーズした。お菓子作りモードに入っていた脳が、全く別の思考を要求され、完全にショートしてしまったのだ。彼が答えに窮していると、次の、そしてこの日最大の悲劇が起きる。
里奈が、質問コーナーのカンペを壁に貼ろうとして、オーブンやIHヒーター、そしてあのクリップライトの電源が全て繋がっている延長コードのタップに、こともあろうに養生テープをベタリと貼り付けたのだ。その、スイッチ部分に。その瞬間だった。
バチッ、という短いスパーク音と共に、健人の顔を神々しく照らしていたライトと、オーブンの庫内灯、そして動作ランプが、同時に消えた。
部屋が、天井の薄暗い裸電球だけの明かりに包まれる。
「…………あ」
里奈の、絶望の色に染まった、か細い声が響いた。
「す、すみません…テープが、スイッチの上に…」
電源が、落ちた。オーブンの中で、今まさに水蒸気の力で膨らもうとしていた、健人の魂の結晶とも言えるシュー生地たちの運命は。
健人は、無言だった。言葉を失っていた。ただ、真っ暗になったオーブンの小さな窓を、全ての希望を失った罪人のような、絶望的な表情で見つめていた。
コメント欄は、もはや祭りではなく、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
『あああああああ終わったあああああああ』
『伝説の放送事故、ここに爆誕』
『ディレクター、君は一体何をしに来たんだ…』
『シュークリーム、無念』
里奈が半泣きになりながらスイッチを入れ直すと、幸いにも電源はすぐに復旧した。しかし、一度止まってしまったオーブン。上昇していた温度は確実に下がり、庫内の蒸気圧も変化してしまったはずだ。健人は、もはやこれまで、と静かに天を仰いだ。
やがて、無情にも焼き上がりを告げる軽快なタイマーの音が、静まり返った地下室に響き渡った。
里奈は「本当に、本当に、本当に申し訳ありません…」と、今にも泣き出しそうな顔で縮こまっている。健人は、ゆっくりと、まるで殉教者のような足取りでオーブンに近づいた。これから目の当たりにするであろう、無残に潰れた生地の残骸を覚悟し、処刑台の扉を開けるような心地で、オーブンの扉に手をかける。
扉が開く。
その瞬間、バターと小麦粉が焼けた、甘く香ばしい、至福の香りが爆発するように部屋中に溢れ出した。
そして、そこにいたのは。
天板の上で、一つとして欠けることなく、完璧に膨らみ上がった、美しい黄金色のシューたちだった。表面に乗せたクラックランは芸術的にひび割れ、まるで乾いた大地のよう。奇跡だった。信じられない光景だった。電源が落ちたあのわずかな数秒間が、逆に完璧な蒸らし時間になったとでもいうのだろうか。科学では説明できない何かが、そこでは起きていた。
コメント欄が、今度こそ、本当の意味での熱狂に包まれた。
『うおおおおおおお!生きてる!生きてるぞ!』
『奇跡のシュークリーム!伝説の回だ!』
『#電源落ちの奇跡』
そのハッシュタグは、瞬く間にSNSのトレンドを駆け上がっていった。
健人は、まだ熱を帯びたシュー生地の一つを、まるで宝物に触れるかのようにそっと手に取り、横半分にスライスした。中には、理想的で美しい空洞が広がっていた。そこに、完璧に冷やしておいた、バニラビーンズの黒い粒が浮かぶ滑らかなクレーム・パティシエールを、たっぷりと絞り入れる。
そして、それを無言で、全ての元凶である里奈に差し出した。
里奈は、涙で潤んだ目でそれを受け取ると、おそるおそる、小さな口で一口かじった。
サクッ、と小気味良いクラックランの音が、マイクにクリアに拾われた。
次の瞬間、彼女の目が、信じられないものを見たかのように大きく見開かれる。
「……おい…しい……」
サクサクと香ばしいのに、儚く崩れる皮。ふんわりと軽く、卵の優しい風味が広がる生地。そして、口の中いっぱいに溢れ出す、なめらかで、バニラの芳醇な香りが鼻を抜ける、濃厚でありながら後味は驚くほどすっきりとしたクリーム。それら全てが、口の中で完璧なハーモニーを奏でていた。
里奈は、言葉を忘れ、ただ夢中でシュークリームを頬張った。その、何の計算も演出もない、心の底からの純粋な「美味しい」という表情が、三脚の上のスマートフォンカメラに、完璧に捉えられていた。
健人は、その顔を見て、ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ、口元を緩めた。
こうして、数々の大事故と、万に一つの奇跡、そして最高の笑顔と共に、伝説として語り継がれることになる第一回配信は、その幕を閉じたのであった。
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**《ムッシュ・シュクル流:シュー・ア・ラ・クレーム完璧レシピ②》**
**【材料:シュー生地(約10個分)】**
* 水:60g
* 牛乳:60g
* 無塩バター:50g
* グラニュー糖:4g
* 塩:ひとつまみ(約1g)
* 薄力粉:70g
* 全卵:2~3個(約120g~130g) ※生地の状態で調整
**【材料:クレーム・パティシエール】**
* 牛乳:250cc
* バニラビーンズ:1/2本(またはバニラエッセンス少々)
* 卵黄:3個分
* グラニュー糖:60g
* 薄力粉:20g
* 無塩バター:10g
**【作り方:シュー生地】**
1. 鍋に水、牛乳、バター、グラニュー糖、塩を入れ中火にかける。バターが完全に溶け、液体全体が沸騰したら一度火から下ろす。
2. ふるった薄力粉を一度に加え、木べらで手早く混ぜ合わせる。粉気がなくなり、生地がひとまとまりになったら、再び中火にかける。
3. 木べらで絶えず生地を練りながら、1~2分加熱し、水分を飛ばす(糊化)。鍋底に薄い膜が張るのが目安。
4. 生地をボウルに移し、人肌程度(約60℃)になるまで木べらで混ぜて冷ます。
5. 溶きほぐした全卵を、3~4回に分けて加え、その都度完全に混ぜ合わせる。卵の量は生地の硬さを見ながら調整する。
6. 木べらで生地をすくい上げた時、生地がなめらかに垂れ、ヘラに「逆三角形」の形で残るようになれば完成。
7. 直径1cm程度の丸口金をつけた絞り袋に生地を入れ、オーブンシートを敷いた天板に直径4cm程度の大きさに絞る。
8. 冷凍しておいたクラックラン生地を直径3cmの丸型で抜き、絞ったシュー生地の上に乗せる。
9. 200℃に予熱したオーブンで15分焼き、その後170℃に温度を下げて20~25分、全体にしっかりと焼き色がつくまで焼く。焼いている最中は絶対にオーブンを開けないこと。
10. 焼きあがったら、ケーキクーラーなどの上で冷ます。
**【作り方:仕上げ】**
1. 完全に冷めたシュー生地を横半分に切るか、底に穴を開ける。
2. 裏ごししてなめらかにしたクレーム・パティシエールを、絞り袋などを使い、たっぷりと中に詰める。お好みで泡立てた生クリームを加えても良い。
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