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第6話:童謡殺人
しおりを挟む九月に入ると、空は鉛色の雲に覆われ、まるで世界から色彩が抜き取られてしまったかのように、灰色の長雨が降り続いた。秋霖、というらしい。しとしとと降り続く雨は、夏の喧騒を洗い流し、代わりに、じっとりと肌に纏わりつくような湿気と、物寂しい静寂を連れてきた。
速水探偵事務所の窓ガラスを、無数の雨粒が叩いている。その音は、まるで、時計の秒針のように、僕らの焦燥感を掻き立てていた。
「……警護は、二十四時間体制で配置した。鶴岡氏の自宅と、彼が経営する古美術店にもだ。警察の威信にかけて、第二の犯行は絶対に阻止する」
事務所のソファに深く腰掛けた斎藤さんが、疲労の滲む声で言った。彼の目の下には、僕のクマとは比べ物にならないほど、歴戦の勇士のような、濃いクマが居座っている。
僕と、神宮寺所長、そして斎藤さん。三人の男が、テーブルの上に置かれた一枚の絵――あの不気味な挑戦状――を、黙って睨みつけていた。
『かごめかごめ』に見立てた、連続殺人予告。
ひな子さんの驚異的な閃きによって、僕らは犯人の意図の入り口まではたどり着いた。しかし、その先に何が待っているのか、皆目見当がつかない。
「鶴と亀が、統べった……」
神宮寺所長が、苦々しく歌詞を口ずさむ。
「最初の被害者、相馬くんが『夜明けの**晩**』。そして、暗号が示した次のターゲットが、古美術商の**鶴**岡。歌詞の通りなら、犯人は次に、鶴岡を狙ってくるはずだ」
「だからこその、厳重警備です。今度こそ、狐の尻尾を掴んでみせますよ」
斎藤さんは、そう言って自らを鼓舞するように、ぎゅっと拳を握りしめた。
僕は、二人の会話を聞きながら、一つの疑問が頭から離れなかった。
「所長……」
「なんだね、健人くん」
「先ほど、『十年前の悪夢の亡霊』と仰いましたね。あの絵は、その事件と何か関係が?」
僕の問いに、神宮寺所長は、ふっと視線を窓の外に逸らした。雨に濡れる街並みを見つめるその横顔は、僕の知らない、深い悔恨の色に染まっていた。
「……あの時、俺は大きな過ちを犯した。一つの真実を見誤り、結果として、多くのものを失った……。まだ、断定はできん。だが、この歪んだユーモアのセンスは、あの時の……」
そこまで言って、所長は口を噤んだ。これ以上は、まだ話す時ではない、と、その背中が物語っていた。
僕らの張り詰めた予測と、警察の厳重な警備網。
それらすべてを嘲笑うかのように、事件は、僕らの思考の斜め上を行く形で、起こった。
その日の深夜。斎藤さんからの電話が、事務所の静寂を切り裂いた。
「……速水か! 至急、所長に代われ!」
その声は、前回とは比較にならないほど、混乱し、そして、打ちのめされていた。
第二の殺人は、起きた。
だが、殺害されたのは、我々がターゲットだと予測し、厳重に警護していた古美術商の鶴岡氏ではなかったのだ。
被害者は、亀山誠一。贈収賄事件などを専門に扱う、やり手の弁護士。
彼は、港区にある自身の法律事務所で、頭を鈍器で殴られ、殺害されているのが発見された。
そして、その遺体の傍らには、まるで供物のように、一つのオブジェが、静かに置かれていたという。
それは、磨き上げられた鼈甲(べっこう)で作られた、精巧な**亀の置物**だった。
「……鶴と、亀……」
受話器を置いた僕の口から、かすれた声が漏れた。
「鶴と亀が、統べった」。
犯人は、歌詞の通り、二つのシンボルを同時に狙ってきたのだ。
さらに、追い打ちをかけるように、斎藤さんは信じられない情報を付け加えた。
「……警護対象だった鶴岡氏だが、今夜、自宅前の路上で、ひき逃げ事故に遭った。命に別状はないが、現在、意識不明の重体だ」
偶然か? いや、偶然のはずがない。
犯人は、警察の警備網を意に介さず、完璧に、自らの「見立て」を遂行してみせたのだ。
その知能、その悪意、その劇場性。僕らは、得体の知れない怪物と対峙しているのだと、改めて思い知らされた。
翌日、捜査本部は、前代未聞の劇場型犯罪に、大混乱に陥っていた。
「なぜ、こんな回りくどいことを……」
「犯人の目的は、一体何なんだ」
「警察を挑発しているのか? 自己顕示欲か?」
誰もが、犯人の歪んだ心の内を測りかね、ただ右往左往するばかりだった。
僕も、そうだ。悔しくて、不甲斐なくて、やりきれない思いで、拳を握りしめることしかできなかった。
こんな時、僕の足は、自然と、あの場所へ向いていた。
カランコロン。
喫茶「月読」のドアを開けると、マスターが心配そうな顔で僕を迎えてくれた。
「速水くん、ニュースで見たよ。大変なことになったんだってな」
「……ええ、まあ」
僕は力なく頷くと、いつもの窓際の席に、崩れるように座った。
雨は、まだ降り続いている。窓ガラスを伝う雨粒が、まるで、泣いている誰かの涙のように見えた。
「アイスコーヒー、ですぅ」
ひな子さんが、静かにグラスを置いた。その表情は、いつもと変わらない。ぼんやりとして、掴みどころがない。だが、その変わらなさが、今の僕には、唯一の救いのように感じられた。
僕は、堰を切ったように、彼女に事件の顛末を話した。第二の殺人。亀の置物。ひき逃げされた鶴岡氏。そして、混乱する捜査本部。
「犯人は、何を考えているんでしょうね……。僕らを、世間を、ただ、楽しんで、見下してるんでしょうか。まるで、自分が神にでもなったつもりで……!」
僕が、感情的に言葉をまくし立てている間も、ひな子さんは、ただ静かに、僕の言葉を聞いていた。
やがて彼女は、目の前の、雨粒が幾筋も伝う窓ガラスに、ふぅ、と小さく息を吹きかけた。白く曇ったガラスの上に、彼女は、細い指で、何かを描き始める。
それは、四角い、手紙のマークだった。
そして、彼女は、窓の外の、灰色の空を見つめたまま、ぽつり、と呟いた。
「犯人さん……おしゃべり、したいんじゃないでしょうか」
「は……? おしゃべり?」
あまりにも意外な言葉に、僕は、間の抜けた声を出した。
「はい」
彼女は、こくん、と頷いた。
「でも、おしゃべりする相手が、どこにもいないから……。だから、こうして、一生懸命、お手紙を書いてるんだと思います」
「手紙……?」
「はい。殺人っていう、とても悲しい方法で」
彼女の言葉は、いつも通り、ファンシーで、詩的だった。
だが、その言葉が、僕の心を、強く、強く揺さぶった。
犯人が、殺人を犯してまで、伝えたいメッセージ。
ひな子さんは、続けた。その声は、いつものように穏やかで、しかし、確信に満ちていた。
「これは、挑戦状……。でも、警察や、速水さんたちへの挑戦状じゃない気がします」
「……じゃあ、誰への?」
「もっと、たった一人の……。例えば、昔の、大切なお友達に、『元気ですか?』って、お手紙を書いてるみたいに、見えます」
たった、一人への、手紙――。
その言葉が、雷となって、僕の脳天を撃ち抜いた。
そうだとしたら?
この、劇場的で、回りくどくて、不気味な見立て殺人の数々が、不特定多数への自己顕示欲の発露などではなく。
犯人と、たった一人の受信者にしか分からない、極めて個人的で、プライベートな、メッセージだとしたら?
被害者の人選。
「かごめかごめ」という、古い童謡のテーマ。
現場に残された、奇妙なオブジェ。
それら全てが、その「たった一人」の記憶を呼び覚ますための、鍵だとしたら……。
「……そういうことか」
僕は、椅子から立ち上がっていた。
「夢見さん、ありがとう。……見えてきました」
僕は、ひな子さんに力強く頷きかけると、カフェを飛び出し、雨の中を、事務所へと全力で疾走した。
事務所のドアを開けると、神宮寺所長が、書庫から持ち出してきた、分厚いファイルを、険しい顔でめくっていた。その表紙には、『10年前:資産家一家不審死事件』と書かれている。
「所長!」
僕のただならぬ様子に、所長が顔を上げる。
「健人くん、どうした」
「分かりました。犯人の目的が。これは、僕らへの挑戦状じゃない。犯人は、誰か、たった一人に向けて、メッセージを送っているんです!」
僕が、ひな子さんの推理を伝えると、神宮寺所長は、はっと目を見開き、そして、愕然とした表情で、椅子に深く沈み込んだ。
「……そうか。そうだったのか……。俺は、完全に、読み間違えていた。犯人は、俺たちを試しているんじゃない。亡霊たちと……過去と、会話しようとしているんだ……!」
所長は、そう言うと、テーブルの上の、分厚いファイルを、僕の方へ、ゆっくりと押しやった。
「健人くん。話す時が、来たようだ。この、忌まわしい『ノスタルジア事件』の根源となった、十年前の、あの事件について」
最初の被害者、郷土史家の相馬悟郎。
第二の被害者、弁護士の亀山誠一。
そして、ひき逃げに遭い、意識不明の重体となっている、古美術商の鶴岡。
「彼ら全員が……そして、この俺もが、深く関わっていた、一つの事件がある」
神宮寺所長の口から語られる、その事件の名。
それは、警察の公式記録では「一家無理心中」として処理された、ある資産家の、悲劇。
雨は、さらに勢いを増していた。
僕らの事務所の窓を叩くその音は、もはや、鎮魂歌(レクイエム)ではなかった。
それは、十年という長い眠りから覚めた、悲しい亡霊たちの、慟哭のように、僕には聞こえた。
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