君のいない銀河で、僕は明日を繋ぎ合わせる

Gaku

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共和国編

第19話「救済と鎖」

共和国軍の反攻作戦が引き起こした余波は、遠く離れた灰色宙域の海にも確実に波及していた。
見えない戦火が正規の補給路を次々と寸断し、ブルー・アイリスの備蓄庫は底を突き始めていた。照明を落とした薄暗い格納庫では、金属の冷たさが空気の重さと入り混じり、乗組員たちの息遣いさえも削り取っていくような静かな飢餓感が漂い始めている。

そんな息の詰まるような膠着を破るように、漆黒の宇宙空間を滑り出してきたのは、またしてもあの圧倒的な白だった。

ユニオンの多機能巡洋艦『コンパッション』。
傷一つない流線型の船体は、周囲の星の光すらも拒絶するかのように、自ら完璧な純白の光を放っていた。エンジンの駆動音すらない、まるで幽霊のような接近。そのあまりにも滑らかで無機質な動きは、見つめているだけで平衡感覚を失いそうなほどの異物感を放っている。

「前回の物資──お役に立ちましたか? 今回も──無条件でお届けします」

通信用スピーカーから響くセリアの声は、鈴の音のように澄み切っていた。ノイズ一つ混じらないその完璧な音色が、ダグラスの耳の奥で冷たい警鐘を鳴らす。
ダグラスの脳裏に、カイトから報告を受けた『オルダスの手紙』の一節が蘇っていた。
『最初は無条件。二度目も無条件。三度目に──条件が付く』
ダグラスの制服の下、背筋を這うように冷たい汗が一筋こぼれ落ちた。今は、二度目だ。

搬入口の重いハッチが開かれ、純白のコンテナが次々とブルー・アイリスの薄汚れた甲板へと運び込まれていく。飢えをしのぐための食糧。それは今の彼らにとって絶対的な命綱であった。ダグラスは無言で受領のサインをしたが、セリアとの会話は極限まで切り詰めた。言葉を交わせば交わすほど、見えない真綿で首を絞められるような、得体の知れない恐怖があった。

作業の傍ら、純白の制服に身を包んだセリアが、ふと足を止め、物資の点検を手伝っていたエリアに振り返った。
「エリアさん。──もしよろしければ、ユニオンで新しい生活を始めることもできますよ」
その声には、一切の悪意も、裏の意図も感じられなかった。純度百パーセントの善意。それが何よりも恐ろしい。
「ここでは──あなたが何者でも──問われません」

その言葉が、凍りついた空気の中に落ちた。
ダグラスの呼吸が止まる。
エリアの白い手が、一瞬だけ、コンテナの縁でピタリと動きを止めた。『何者でも問われない場所』。その響きが彼女の心をどう叩いたのか、彼女の大きく澄んだ瞳の奥で、ほんのわずかだけ、水面に落ちた小石のような波紋が広がった。
しかし、瞬きを一度した次の瞬間には、エリアの顔にはいつも通りの、春の陽だまりのような穏やかな微笑みが戻っていた。
「ご厚意に感謝します。でも──私はこの艦にいます」
「もちろん。──扉はいつでも開いていますから」
セリアは完璧な角度で微笑み返し、音もなく背を向けて去っていった。

ハッチが閉まり、ユニオンの白い艦が再び宇宙の闇へと溶けていく。
エリアは一人、強化ガラスの窓辺に立ち、その白が完全に消え去った後も、見えない点を見つめ続けていた。彼女の表情は凪いでいる。だが、その背中が放つ圧倒的な孤独の気配は、誰にも触れることのできない冷たい壁のように、そこにあった。

***

同じ頃、ユニオンの統合戦艦『ハーモニー』。
無菌室のように徹底的に浄化され、塵一つ落ちていない個室のベッドで、ミナは目を閉じていた。
空調の微かな稼働音だけが、等間隔に響いている。脈拍、呼吸、脳波。すべてが最適化されたこの部屋で、彼女はひどく息苦しかった。眠れない。いや、眠るのが怖いのだ。

目を閉じると、色を失ったはずの記憶が、鮮烈な色彩を持って網膜の裏側に焼き付いてくる。
大学のキャンパス。赤レンガの校舎を染める、目が痛くなるほどの夕焼け。
生暖かい風が、頬を撫でる感覚。遠くで響く、運動部の掛け声。
学食のプラスチックの椅子が軋む音。
『お前、またそんな難しそうな顔してんのかよ!』
レオンの、馬鹿みたいに大きく、鼓膜を震わせる笑い声。
『ミナは真面目だから……ほら、俺のポテト、少し食べる?』
カイトの、少し困ったような、不器用で優しい照れ笑い。

「あっ……」
ミナの喉の奥から、乾いた小さな音が漏れた。
目を開ける。純白の天井。ノイズのない完璧な世界。しかし、彼女の冷たい頬を、一筋の温かい液体が伝い落ちていた。
ミナは震える指先で、自分の頬に触れた。濡れている。涙だ。

「感情はノイズ。感情はノイズ──」
彼女は、ユニオンの教義を呪文のように暗唱しようとした。しかし、唇が震え、言葉が形を成さない。
「ノイズじゃ──ない」

その言葉を口にした瞬間、ミナの心臓が早鐘のように激しく鳴り響いた。全身の毛穴が開き、得体の知れない恐怖が足元から這い上がってくる。
自分が何を言ったのか。ユニオンが与えてくれた『完璧な平穏』を、自らの言葉で否定してしまった。巨大な防波堤に、針の穴ほどの、しかし決定的な亀裂が入った瞬間だった。ミナはシーツを強く握りしめ、自らの内側に芽生えたその『感情』に、声を出さずに怯え続けた。

翌朝。
観測室のモニターの前に座るミナは、いつも通りの、氷のように冷徹な観測員に戻っていた。心拍数は正常。表情筋の動きに異常なし。昨夜の涙の痕跡は、彼女の完璧な仮面の下に完全に封じ込められていた。誰の目にも、彼女は『正しいユニオンの市民』だった。

「ミナ。──大丈夫か? 少し──顔色が悪い」
背後から、ユーリが声をかけた。彼の低い声が、無機質な部屋にわずかな振動をもたらす。
ミナはキーボードを叩く手を止めず、モニターから視線を外さずに答えた。
「データ分析で睡眠が不足しているだけです。効率は低下していません」

ユーリは、彼女の横のデスクに、湯気を立てるコーヒーの入ったマグカップを静かに置いた。
何も言わない。ただ、ユーリの視線は、ミナの横顔──とりわけ、その瞳の奥に張り付いた、微かな焦燥の影を捉えていた。
彼は無言で背を向け、観測室を出て行く。重い自動扉が閉まる瞬間、ユーリは胸の内で静かに呟いた。

(嘘だな。──俺にも分かる。あの目は──何かを思い出してる目だ)
ユーリの脳裏に、かつて喪った妻、サラの顔がよぎる。
(俺も──サラが死んだ時──あの目をしてた)
ユニオンの完璧なシステムの中で、消え去ったはずの『人間の心』が、微かに、しかし確かに脈打っている。ユーリはその事実を誰にも告げず、ただ心の奥底に沈めた。

***

帝国本星、大本営の最深部。
黒大理石が敷き詰められた円形の会議室は、分厚い壁に囲まれ、外の光を一切通さない。中央の巨大な円卓を囲むように、帝国の重鎮たちが座している。その空気は、火のついた導火線が這い回っているかのように、極限まで張り詰めていた。

「共和国の反攻作戦『リバティ・ウェイブ』に対する対応として──全軍を動員した総攻撃が必要です。一気呵成に敵の主力を叩き潰さねばなりません」
ユリウスの声が、軍靴の踵を鳴らすように鋭く響いた。彼の瞳には、野心と、勝利に対する狂気にも似た渇望が燃えている。
その言葉に対し、円卓の対極に座るゼノスが、深く、重い溜息をついた。

「総攻撃は、あまりにも消耗が大きすぎる。既に前線は疲弊しているのだ」
ゼノスの声は低く、地を這うように響き渡った。
「帝国の民を守るためには──今は防衛に徹し、戦線を再構築するべきだ」
「防衛だけでは──帝国の威信は地に墜ちます!」
ユリウスが机を強く叩いた。乾いた音が、静寂の会議室に暴力的に反響する。
「威信のために、民を死なせるというのか」

ゼノスの眼光が、ユリウスを射抜いた。その瞬間、会議室の空気が完全に二つに割れた。
言葉の応酬は激しさを増し、会議は完全に紛糾した。それはもはや、単なる戦術の対立ではなかった。ゼノスとユリウス、二つの巨大な権力が、帝国という巨大な国家の舵取りを巡って、真正面から激突し始めたのだ。
『ブルーベル』という秘密を守るための暗闘は、いつしか帝国の戦略そのものを引き裂く、決定的な亀裂へと成長しつつあった。

***

ブルー・アイリスの厨房。
換気扇が低い唸り声を上げる中、エリアはマーサの隣で、ユニオンから受け取ったばかりの新鮮な野菜を切り分けていた。包丁がまな板を叩くトントンというリズミカルな音が、小さな空間に温かく響いている。

「私の母親もね──料理が好きでさ」
湯気の立つ鍋をかき混ぜながら、マーサが懐かしそうに目を細めた。
「どんな材料でも──美味しく作れる人だった。『腕がなくても──愛情があれば食べられる』って、よく笑ってたっけ」
エリアは手を止め、マーサの横顔を見た。
「素敵なお母さんですね」
エリアの微笑みは、どこまでも自然で、柔らかかった。
「あんたのお母さんは──どんな人だった?」

マーサの何気ない問いかけが、空気を震わせた。
その瞬間。エリアの完璧な笑顔が、まるで映像のコマが飛んだように、ほんのコンマ一秒だけ硬直した。瞳の奥に、言葉にならない暗く深い影が走り抜ける。
しかし、次の瞬間には、再び春の陽だまりのような微笑みが顔に張り付いていた。
「優しい人でした。──でも、もう──あまり覚えていません」
「そうかい」マーサは鍋から視線を外し、エリアの肩を優しく叩いた。「じゃあ、ここにいる間は──私がお母さん代わりだね」

エリアは、声を立てずに、静かに笑った。
その表情に、嘘はないように見えた。

しかし、その夜。
誰もいない暗い自室に戻ったエリアは、硬いベッドの縁に座り込み、窓の外の星一つない深い闇を見つめていた。
彼女の肩が、微かに震えている。
声は出さなかった。嗚咽さえも殺していた。ただ、彼女の大きく見開かれた瞳から、大粒の涙が次々と溢れ出し、冷たい手の甲へと落ちていく。
なぜ泣いているのか。マーサの『母親』という言葉が、なぜこれほどまでに彼女を切り裂くのか。
圧倒的な沈黙と暗闇の中、彼女の孤独な涙だけが、誰にも知られることなく、静かに静かに零れ落ち続けていた。

***

同じ夜。
艦の反対側にある薄暗い私室で、カイトは硬いベッドに胡坐をかき、手の中にある二つの紙片をじっと見つめていた。
作業灯のオレンジ色の光が、紙の表面の細かな凹凸を浮かび上がらせている。

右の手には、マーサから託された、二十年前の『リリーの手紙』。
左の手には、暗号通信で送られてきた、オルダスからの『警告の手紙』。

『帰る場所は──人がいるところにある』
紙の匂いと、丸みを帯びた文字から立ち昇る、人間の生々しい体温。

『自分の目で見て、自分の頭で考え、自分の心で決めてください』
冷たいテキストデータからプリントアウトされた、老人の血を吐くような悲痛な叫び。

カイトは、二つの紙片を胸の高さまで持ち上げた。
(この戦争の中で──人の温かさを守りながら──システムに呑まれないためには──どうしたらいいんだろう)
目を閉じると、ユニオンの完璧すぎる純白の光と、ステーションで見た難民の子供の泥だらけの手が、脳裏で激しく交錯する。

答えは、まだ出ない。
彼の未熟な頭では、世界を覆うこの巨大な三つの正義のどれが正しいのか、見当もつかなかった。
(まだ分からない。……でも──考え続ける)

カイトは目を見開き、二通の手紙を丁寧に折りたたむと、胸ポケットの一番奥深くへとしまい込んだ。布越しに伝わるその微かな重みだけが、今の彼を狂気の世界から繋ぎ止める、唯一の錨だった。
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