蕾の花

第一章 春の花

プリムラ

　花は蕾の間、自分がどんな花を咲かせるのか知っているのだろうか。知らないならどうして、月明かりの下で花開く瞬間を待ちわびることができるのだろう。

　花は咲いた後、枯れてしまうと知っているのだろうか。知っているならどうして、美しく咲き誇ろうと太陽を見上げることができるのだろう。

　校舎を囲むように満開に咲き誇る桜を爽やかな風がさらさらと揺らしている。男子は詰襟。女子は紺のセーラー服に紫色のスカーフ。かわいいと評判の制服に身を包んだ高校生たちは軽やかな笑い声を上げて、次々と校舎に吸い込まれていく。

　黒崎流奈くろさきるなはボロボロのローファーにくっついた桜の花びらを見つめながら通い慣れた校門を抜けた。一歩、一歩と足を前に出すたびに、花弁に茶色が吸い込まれていく。

　玄関前に張り出されたクラス替えの表から「黒崎流奈」を探し出して、ガラスの玄関に向かうと、映し出された自身の姿に陰鬱の二文字が浮かんだ。その雰囲気を作り出している主な原因は腰くらいまで伸ばしっぱなしの黒い髪。前髪も伸ばしているものだから、なおさら顔に影がかかって暗く見えてしまう。

　墓の下から出てきたかのような青白い無表情で、茶色く汚れた桜の花びらを剥ぎ取った。

　中靴に履き替えて、これから一年を過ごす教室に足を踏み入れると、つんと来るワックスの匂いが鼻腔を刺激した。

 　五列あるうちの中央の列、前から三番目の席。ちょうど真ん中の、出席番号順に指定された席にすわる。流奈の前の席にはスクールバッグが置かれているものの、誰も座っていなかった。座っていたとしても自らから話しかけることなどないのだが。

　流奈は本を読むわけでも、スマートフォンをいじるわけでもなく、机に肩肘をついてぼうっと黒板を眺め始めた。二年間同じ校舎で学んだ同級生の名前は誰一人として知らない。小学校からずっとそうで、友達なんてものはいなく、いつも誰とも話さずひっそりと過ごしてきた。むしろ流奈にとってはそんな学校生活が当たり前のものだった。

　とはいえ、入学後や新学期が始まったときは多少なりとも話しかけてくれる人たちがいた。しかし、いつの間にかどこから手に入れた情報なのか「黒崎流奈の噂」が広まり、耳に入り、話かけてくる人はいなくなる。そんなことをもう何度も繰り返して、最初から誰とも関わらないのがいいと思うようになってしまった。

　気が付くとホームルームが始まっていた。担任の先生が一段高い所から偉そうに高校生活最後の一年、受験もあるがたくさん思い出を作っていこうと、テンプレートな挨拶をしていた。続いた進路の話しも右から左へと脳内を通り抜けていく。

　一番前の席からベルトコンベアのように行事予定などの数枚のプリントが回されてきた。流奈の前の席に座っている女の子が流れをとめないように後ろを振り返る。ふと目が合い、彼女は流奈に柔らかい笑顔を向けてきた。表情を変えずにプリントを受け取る。彼女も何も言わずに教卓の方に顔を戻す。
 
　今日は始業式なので学校は午前中まで。学校が終わってから家に帰るまで何をして時間を潰そうかと考えていたら、始業式のために体育館に移動する時間になっていた。


　＊

 
　久保明日香くぼあすかは自分の席にカバンを置き、窓際で友達と集まっていた。去年も同じクラスだった辰野満里奈たつのまりなと松坂希美まつさかのぞみ。また三人、同じクラスでよかった。明日香はクラス替えの結果に感謝した。
 
　｢希美はいいなぁ。窓際の席で。あたしと明日香なんて真ん中なのに｣
　｢満里奈は一番後ろなんだからいいじゃない。どうせすぐに席替えがあるよ。それよりさ、また一年よろしくね｣
 
　席の配置に不満を言う満里奈。希美の言葉に続いて明日香も「よろしくね」と口を開こうとしたちょうどその時、がらがらと教室の扉が開いた。もうすぐホームルームが始まるなんてすっかり忘れていた。慌ててそれぞれ自分の席に戻る。担任がじろりとした視線を送って来たものの、特に咎められることはなく、新学年最初のホームルームが始まった。

　明日香は先生の退屈な挨拶を聞きながら黒板に貼られた席順表を見つめていた。満里奈は同じ列の一番後ろ。希美は少し離れて窓際の席。後ろの席には黒崎流奈という名前があった。知らない子だな。せっかく前後の席なんだから仲良くなりたいな。明日香がそんな事をぼんやりと考えていたら、一番前の席からプリントが流れてきた。

　後ろに回すために振り返る。明日香の目に、黒崎流奈は樹海に咲く一輪の花のような女の子に映った。腰まである長い黒髪に、透けるような白い肌。長い睫毛が影を落とす瞳はガラス玉のように大きい。

　その瞳と一瞬、目が合う。吸い込まれるかと思うほど黒く、暗いガラス玉が、見てはいけないものだったような気がして、慌てて笑顔を作って前に向き直った。

　始業式も終わり、終業のチャイムが鳴る。次々と帰り支度をして席を立つクラスメイトたちに倣って、明日香もバッグに筆記用具などを詰めていた。そうだ。くるりと後ろを振り返る。
 
　｢私、久保明日香っていうの。一年よろしくね。黒崎さん｣
 
　比較的涼し気な顔立ちの明日香がにっこりと優しく、人懐っこい笑顔を浮かべる。バッグにプリントをしまっていた流奈はぴたりと手を止めて目を合わせたが、言葉を発することはなく、また手を動かし始めた。もう少し愛想よくしてくれてもいいじゃない。明日香のこめかみがほんの少しだけ動いたところで、満里奈と希美が席に集まってきた。
 
　｢明日香と希美はこの後どうするの？　あたし、今日部活ないから勝手にひとりで練習しちゃおうかなって。グラウンドひとり締め！」
 
　始業式の日は全ての部活が休み。陸上部の満里奈はこんな日でもよく一人で練習していた。

「わたしも一緒に行って見てようかな。希美はバイト？」
「今日はバイト休みだから私も行くよ」

　コンビニでアルバイトをしている希美も今日はゆっくり遊べるらしい。それから三人で教室を出るまで、流奈は帰ることもなく自分の席に座ったままだった。
 

　＊


　明日香と希美はお昼ご飯を買うため、一旦学校から出てコンビニに向かった。三人分の昼食を買い、グラウンドに行くと、満里奈がウォーミングアップも兼ねてゆっくりとグラウンドを走っていた。
 
　｢満里奈ー！　お昼ご飯食べないのー？」

　綿菓子のような雲が浮かんでいる澄んだ空。その空に明日香の声が吸い込まれていく。

　｢終わったらたべるー！｣

　満里奈が振り向いて片手を大きく振ると、いつも綺麗に結わえているポニーテールがその名の通りゆらゆらとしっぽのように揺れた。
 
「なら先に食べちゃお」
「そうだね。たぶんずっと練習するだろうし、帰りに渡そうか」　

　希美の提案に明日香も賛同し、校庭の隅に置かれたベンチに腰掛けて昼食を食べ始めた。春の少しだけ冷たい風が心地よく制服を通り抜け、肌を滑っていく。

「外で食べるご飯ってなんでこんなにおいしいんだろうね」

　もぐもぐとパンを頬張りながら言う希美が、そういえばと、言葉を続けた。
 
　｢明日香。さっき後ろの席の子と話してたよね｣

　パンの塊が、喉を通って胃に落ちていく。急に強く吹いた風に、ミディアムボブがぶわっと流された。
 
　｢うん。話したけど、どうして？｣

　手櫛で髪を整えながら聞くと、希美が少しだけ重たそうに唇を動かした。

　｢黒崎さん、一年の時同じクラスだったんだけど、変な噂があってさ。親に殴られているって。中学の時にあの子の体がアザだらけなの見た子がいるらしいんだ。どこまで尾ひれがついている噂なのかは分からないけどね｣
 
　特殊な環境にありそうな人物に関わりたくない。三年にもなれば誰かしら話せる人がいたりするものだが、なるほど、クラスメイトが誰も彼女に話しかけなかった理由はそれか。噂話に疎く、そのことを知らなかった明日香は先ほど流奈に話しかける人がいなかった理由に合点がいった。
 
　｢たしかに黒崎さん、体育の時は絶対トイレで着替えるし、去年の修学旅行は参加しなかったらしいよ｣
　｢ふうん、まぁでもわたしは仲良くなりたいな。せっかく前後の席なんだし。そんなの黒崎さんが悪いわけじゃないんだし｣
「明日香って意外とやさしいよね」
「意外とってなによ」

　希美の脇を小突く。ごめーんと軽い謝罪がコロコロとした笑い声と共に出てきた。そこからは流奈の話題が出ることはなく、快晴の下に青春の二文字が流れていた。
 

　＊


　辰野満里奈は部室で汗を拭き、制服に着替えていた。制汗剤の爽やかな香りと冷たさがほどよく日に焼けた肌に染み込んでいく。部活がない日でもたまらなく走りたくて、校庭で練習することは多い。

　時間が合えば明日香と希美がベンチでタイムを測ったり応援したりしてくれる。こんな日がもっとたくさんあればいいのに。満里奈が白いスポーツバッグを肩にかけた時、ぐう、とおなかが鳴った。

　練習中は空腹など感じないのに、終わったとたんに空腹が襲ってくる。帰るときに余りのパンを分けてもらおう。そう考えながら廊下を歩いていると、一人の生徒が玄関から出て行く背中が見えた。始業式の夕方に生徒が残っていることなんて珍しい。見たことがあるような後ろ姿は夕暮れのオレンジの中に消えて行った。
 
　｢おまたせ！　ねぇ、今通った子、見たことある気がしたんだけど誰かわかった？」
　｢いまスマホばっかり見てたから気が付かなかったなぁ。あ、満里奈。これお昼のパン。お腹すいたでしょ｣

　見ていないのなら仕方がない。満里奈の意識はすぐに希美から手渡されたコンビニ袋の中身に移っていた。家に帰ればすぐに夕食の時間だが、目先の空腹には勝てず袋から菓子パンを一つ取り出して封を切った。

「二人はもう進路決めた？」

　そう聞いて菓子パンを口いっぱいに入れる。

「わたしは学校まではまだ決めてないけど心理学科のあるところがいいな」
「私は変わらず就職だよ。このままコンビニの社員試験受けようと思ってる。満里奈は？」

　明日香は進学。希美は就職。

「あたしはまだ決めきれてないよ。でももし夏の公式大会で全国まで行けたら体育大のスポーツ推薦目指そうかなって」

　高校三年生。今後の人生を大きく左右する一年。たくさん遊んで、悩んで過ごす最後の青春の日々が幕を開けた。