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第四章 冬の花
アングレカム
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幼い子供がいる家庭の朝は慌ただしい。松阪希美は朝食を食べた後、弟妹達の朝の支度の手伝いをしていた。弟妹達、とはいえ、妹の奏美はもう小学校三年生。そこまで手がかかることはもうない。問題は双子の弟たちの方だ。
小学校一年生のやんちゃな男の子が二人もいたら、慌ただしいどころの騒ぎではない。ご飯を食べていたら、付けていたテレビの女性アナウンサーに夢中になって食べ物をこぼす。着替えをしたら突然、新聞を丸めてチャンバラごっこを始める。何事もなくてきぱきと学校へ行く準備をしてくれたことはまだ一度もなかった。
「ほら、学校遅れちゃうから。歯磨いて着替えて」
この日もいつものように次はこれ、その次はこれ、と希美が弟たちに指示を出している。
えー、と返事が返ってきた。希美の頭の中ではこのえー、は「めんどくさい」という意味に変換される。めんどくさいじゃないよ、心の中で悪態をつきながらも、表面上は穏やかな笑顔を浮かべたまま弟たちの行動を促した。
小学校一年生、七歳。これからもっと姉や母が小言を言っても聞かなくなってくる年頃だろう。父ががつんと言ってくれたらいいのだが、あいにく父は毎朝早く職場に行き、帰りも遅いため希美以外の子供たちが起きてる時間に顔を合わせることは少ない。
希美が弟たちと奮闘している間、母、美智子は洗濯やら掃除やらいろいろと家事を済ませている。もちろん希美にまかせっきりというわけではないが、後にパートへ行かなければならないし、そこまで手が回らないというのが実情だ。
これが松坂家の日常。最近は奏美も希美の真似をして弟たちに小言を言うようになった。まだまだ舌ったらずで迫力は全くないが。
「ほら、そろそろ行くよ。忘れものない?」
「だいじょうぶー」
希美の母親のような声に返事をする幼い声は三つきれいに重なっていた。双子はもちろん奏美も息ぴったりだ。こういう時に、血のつながりというものを強く実感してしまう。
小学校と高校は反対方向。母の「いってらっしゃい」を聞きながら玄関を抜け、仲良く手をつないだ弟妹達を見送った。
「車に気を付けてねー」
はーい、また重なる間延びしたかわいらしい三つの返事。小さな背中が角を曲がって見えなくなると、くるりと体の向きを変え足を動かし始めた。今日はいつもよりも朝の太陽が白く、まだ夜の国にさえ届くのではないかというほど光が広がって見えた。光の中を駆け抜ける冷たい風が、希美の頬を滑って冬を感じさせた。
「のぞみー! おはよ!」
シャアッという軽快な車輪の音が希美の横で止まる。希美の後ろから自転車に乗った満里奈が現れた。冷たい空気を全て吹き飛ばしてしまうような、曇りのない笑顔を浮かべた満里奈は、朝でも冬でも変わらず元気だ。
「もう冬なのかなー、最近自転車だと寒くって」
自転車から降りた満里奈は片手で自転車を押しながら、開いたもう片方の手を口元に当てて、はぁと息を吹きかけた。
「あっという間にマフラーとか必要になっちゃうね」
「ほんと、あっという間だねぇ」
なんでもないありきたりな話。こんなふうに制服に身をつつんで友達と歩くことは、あと何回できるのだろう。三年の三学期はほとんど登校日がないし、きっともう数えるほどしかないだろう。希美も満里奈の真似をして、両手に息を吹きかけてみる。温かい、湿った空気が手に絡みつく。
「そういえば、推薦の結果いつだっけ?」
「んー……、もう少しで出るんじゃないかな、たしか」
「覚えてないの?」
「だって、日にち覚えてたらその日までそわそわして過ごさないといけないから」
たしかにそうだけれど、発表日がいつか覚えていない受験生なんて初めて聞いた。なんだかおかしくて希美が赤ん坊のように無邪気に笑うと、満里奈が不服そうな声を出した。
「なんで笑うのさぁ」
「ごめんごめん、満里奈らしいなって」
いつまでも、こんな時間が続けばいいと思った。
満里奈について駐輪場に入る。めったに雪の降らない地域では、冬でも自転車の数はあまり変わらない。よく手を寒さで真っ赤にしてまで自転車に乗れるなと、希美は毎年この時期は感心していた。
靴を履き替えていると、明日香と流奈の靴箱にまだ中靴が入ったままなことに気が付いた。まだホームルームが始まるまで時間があるのだから不思議なことではない。それなのに、希美はなんとなく嫌な予感がした。
「あれ、明日香と流奈、まだ来てないね。明日香、最近は早く来て勉強してたのにめずらしいね」
流奈は遅刻や欠席はしないが日によってはホームルームぎりぎりに来る。まだ来ていないのは特別めずらしいことではないが明日香まで来ていない。何かあったのではないかという予感が胸の中で膨らんでいく。昨夜、気になる出来事があったのも気がかりな原因になっていた。
昨日の夜、アルバイト中に容子が買い物に来た。だいたい仕事帰りに寄るのに、希美のバイトが終わるくらいのぎりぎりの遅い時間だった。スーツではなく私服で、三人分のスイーツと、女性用の下着が一つ。絆創膏や卵なども買っていった。急に知り合いが泊まりに来たとかそういうことなのだろうかと思ったが、なんとなく、これは本当に感覚的なものだが、違和感を感じて不安な気持ちで昨日のバイトを終えた。
遅い時間にお母さんが買い物に来るなんてめずらしいね、そう明日香に連絡してみようかとも思ったがやめた。なんだかいま連絡するのは違うような気がして。
それぞれ自分の席にカバンを置いた時に明日香が教室に入ってきた。騒がしい教室に足を踏み入れる明日香の表情は、いつもより影がかかっているように見えた。
「あー明日香、おはよう。寝坊でもしたの?」
なんとなく雰囲気がいつもと違うと、満里奈もわかっているだろう。それでも極端に心配したりせず、いつも通りの明るい声を出している。
「う、うん。ちょっとね」
なにかあったの、さらりと聞いてしまおうと口を開いた時、ホームルーム開始のチャイムが鳴り響いた。慌てて自分の席に着くのと同時に教室に入ってくる担任教師。
最近の朝のホームルームの話題は進路についてだった。最近というより夏休みが明けてからは毎日だった。担任の声だけが流れるその教室に、流奈の姿はない。
例え家庭から学校に連絡をしていようと、高校生にもなればわざわざホームルームで「だれだれさんはこういう理由でお休みです」なんて報告はしない。なにかあったのだろうか。保健室に行くことすら嫌がるような子が、学校を休むだろうか。希美の手のひらにじっとりと汗が滲んでいる。いや、でももし、昨日の三人目が流奈だったのなら、むしろ安全な場所にいるのでは。
ちらりと満里奈を見ると似たような事を考えているのか、不安そうに眉間にしわを寄せて、空いた流奈の席を見つめていた。
「それじゃ、一限目の準備に入っていいぞー」
担任の声でホームルームが終わる。一時限目が始まる間の十分間、希美はそのすきを狙って明日香の席へ行った。満里奈も遅れてやってくる。
「ねぇ明日香、昨日さ、明日香のお母さんがうちのコンビニに買い物しに来たんだけど、なんか様子変だった気がして……」
「流奈に何かあったの?」
満里奈が希美の濁してしまってセリフを勢いに任せて言う。流奈が学校に来ていない、という今判明した事実しか知らない満里奈は一番不安だろう。
「うん……、実はね、昨日から流奈はうちにいるんだ。今はお母さんと一緒にいるよ」
一旦口を閉じて、もう一度意を決したように口を開く。明日香の口から語られる昨晩の事件。希美と満里奈の手は話が進むごとに冷えていった。
「流奈はこの先どうなるの?」
希美の声が震えている。
「わかんない、でもお母さんがきっと何とかしてくれるよ」
三人の間に流れた沈黙をチャイムの音が断ち切った。
小学校一年生のやんちゃな男の子が二人もいたら、慌ただしいどころの騒ぎではない。ご飯を食べていたら、付けていたテレビの女性アナウンサーに夢中になって食べ物をこぼす。着替えをしたら突然、新聞を丸めてチャンバラごっこを始める。何事もなくてきぱきと学校へ行く準備をしてくれたことはまだ一度もなかった。
「ほら、学校遅れちゃうから。歯磨いて着替えて」
この日もいつものように次はこれ、その次はこれ、と希美が弟たちに指示を出している。
えー、と返事が返ってきた。希美の頭の中ではこのえー、は「めんどくさい」という意味に変換される。めんどくさいじゃないよ、心の中で悪態をつきながらも、表面上は穏やかな笑顔を浮かべたまま弟たちの行動を促した。
小学校一年生、七歳。これからもっと姉や母が小言を言っても聞かなくなってくる年頃だろう。父ががつんと言ってくれたらいいのだが、あいにく父は毎朝早く職場に行き、帰りも遅いため希美以外の子供たちが起きてる時間に顔を合わせることは少ない。
希美が弟たちと奮闘している間、母、美智子は洗濯やら掃除やらいろいろと家事を済ませている。もちろん希美にまかせっきりというわけではないが、後にパートへ行かなければならないし、そこまで手が回らないというのが実情だ。
これが松坂家の日常。最近は奏美も希美の真似をして弟たちに小言を言うようになった。まだまだ舌ったらずで迫力は全くないが。
「ほら、そろそろ行くよ。忘れものない?」
「だいじょうぶー」
希美の母親のような声に返事をする幼い声は三つきれいに重なっていた。双子はもちろん奏美も息ぴったりだ。こういう時に、血のつながりというものを強く実感してしまう。
小学校と高校は反対方向。母の「いってらっしゃい」を聞きながら玄関を抜け、仲良く手をつないだ弟妹達を見送った。
「車に気を付けてねー」
はーい、また重なる間延びしたかわいらしい三つの返事。小さな背中が角を曲がって見えなくなると、くるりと体の向きを変え足を動かし始めた。今日はいつもよりも朝の太陽が白く、まだ夜の国にさえ届くのではないかというほど光が広がって見えた。光の中を駆け抜ける冷たい風が、希美の頬を滑って冬を感じさせた。
「のぞみー! おはよ!」
シャアッという軽快な車輪の音が希美の横で止まる。希美の後ろから自転車に乗った満里奈が現れた。冷たい空気を全て吹き飛ばしてしまうような、曇りのない笑顔を浮かべた満里奈は、朝でも冬でも変わらず元気だ。
「もう冬なのかなー、最近自転車だと寒くって」
自転車から降りた満里奈は片手で自転車を押しながら、開いたもう片方の手を口元に当てて、はぁと息を吹きかけた。
「あっという間にマフラーとか必要になっちゃうね」
「ほんと、あっという間だねぇ」
なんでもないありきたりな話。こんなふうに制服に身をつつんで友達と歩くことは、あと何回できるのだろう。三年の三学期はほとんど登校日がないし、きっともう数えるほどしかないだろう。希美も満里奈の真似をして、両手に息を吹きかけてみる。温かい、湿った空気が手に絡みつく。
「そういえば、推薦の結果いつだっけ?」
「んー……、もう少しで出るんじゃないかな、たしか」
「覚えてないの?」
「だって、日にち覚えてたらその日までそわそわして過ごさないといけないから」
たしかにそうだけれど、発表日がいつか覚えていない受験生なんて初めて聞いた。なんだかおかしくて希美が赤ん坊のように無邪気に笑うと、満里奈が不服そうな声を出した。
「なんで笑うのさぁ」
「ごめんごめん、満里奈らしいなって」
いつまでも、こんな時間が続けばいいと思った。
満里奈について駐輪場に入る。めったに雪の降らない地域では、冬でも自転車の数はあまり変わらない。よく手を寒さで真っ赤にしてまで自転車に乗れるなと、希美は毎年この時期は感心していた。
靴を履き替えていると、明日香と流奈の靴箱にまだ中靴が入ったままなことに気が付いた。まだホームルームが始まるまで時間があるのだから不思議なことではない。それなのに、希美はなんとなく嫌な予感がした。
「あれ、明日香と流奈、まだ来てないね。明日香、最近は早く来て勉強してたのにめずらしいね」
流奈は遅刻や欠席はしないが日によってはホームルームぎりぎりに来る。まだ来ていないのは特別めずらしいことではないが明日香まで来ていない。何かあったのではないかという予感が胸の中で膨らんでいく。昨夜、気になる出来事があったのも気がかりな原因になっていた。
昨日の夜、アルバイト中に容子が買い物に来た。だいたい仕事帰りに寄るのに、希美のバイトが終わるくらいのぎりぎりの遅い時間だった。スーツではなく私服で、三人分のスイーツと、女性用の下着が一つ。絆創膏や卵なども買っていった。急に知り合いが泊まりに来たとかそういうことなのだろうかと思ったが、なんとなく、これは本当に感覚的なものだが、違和感を感じて不安な気持ちで昨日のバイトを終えた。
遅い時間にお母さんが買い物に来るなんてめずらしいね、そう明日香に連絡してみようかとも思ったがやめた。なんだかいま連絡するのは違うような気がして。
それぞれ自分の席にカバンを置いた時に明日香が教室に入ってきた。騒がしい教室に足を踏み入れる明日香の表情は、いつもより影がかかっているように見えた。
「あー明日香、おはよう。寝坊でもしたの?」
なんとなく雰囲気がいつもと違うと、満里奈もわかっているだろう。それでも極端に心配したりせず、いつも通りの明るい声を出している。
「う、うん。ちょっとね」
なにかあったの、さらりと聞いてしまおうと口を開いた時、ホームルーム開始のチャイムが鳴り響いた。慌てて自分の席に着くのと同時に教室に入ってくる担任教師。
最近の朝のホームルームの話題は進路についてだった。最近というより夏休みが明けてからは毎日だった。担任の声だけが流れるその教室に、流奈の姿はない。
例え家庭から学校に連絡をしていようと、高校生にもなればわざわざホームルームで「だれだれさんはこういう理由でお休みです」なんて報告はしない。なにかあったのだろうか。保健室に行くことすら嫌がるような子が、学校を休むだろうか。希美の手のひらにじっとりと汗が滲んでいる。いや、でももし、昨日の三人目が流奈だったのなら、むしろ安全な場所にいるのでは。
ちらりと満里奈を見ると似たような事を考えているのか、不安そうに眉間にしわを寄せて、空いた流奈の席を見つめていた。
「それじゃ、一限目の準備に入っていいぞー」
担任の声でホームルームが終わる。一時限目が始まる間の十分間、希美はそのすきを狙って明日香の席へ行った。満里奈も遅れてやってくる。
「ねぇ明日香、昨日さ、明日香のお母さんがうちのコンビニに買い物しに来たんだけど、なんか様子変だった気がして……」
「流奈に何かあったの?」
満里奈が希美の濁してしまってセリフを勢いに任せて言う。流奈が学校に来ていない、という今判明した事実しか知らない満里奈は一番不安だろう。
「うん……、実はね、昨日から流奈はうちにいるんだ。今はお母さんと一緒にいるよ」
一旦口を閉じて、もう一度意を決したように口を開く。明日香の口から語られる昨晩の事件。希美と満里奈の手は話が進むごとに冷えていった。
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