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前編 第二章「アリスの旅行」
船の上2
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部屋に戻りペパーミントティーを飲ませると、少し落ち着いたのかガブリエラはすぐ夢の中へと落ちた。
顔色の悪さもなくなり、その寝顔はマシになったと言っても問題ないだろう。アリスはホッとする。
ガブリエラと一緒にいる時間こそ短いものの、幹部達とは違って気を遣う必要がない。着せ替え人形兼ペットのような立ち位置だが、それなりに大事な存在になっているのは間違いなかった。
部屋にガブリエラを置いて、アリスは出来るだけ音を立てぬように部屋を出た。船員達のあの話を聞いてしまった以上、彼女は居ても立っても居られなかったのだ。
数日とはいえ世話になる身。多少のお節介をしても怒られないだろう。
行き先は決まっていた。今は誰も居ないはずのデッキだ。
廊下は先程とは違い、静かになっていた。流石に深夜、明日に向けてどんちゃん騒ぎも終りを迎えたようだ。
みな眠りについている。
ガブリエラにも誰にもさとられぬよう、息を足音を殺して外へ出る。
廊下を抜けてデッキに出ると、デッキには居るべきではない人物が立っていた。
アリスがこの夜どこにも見かけなかった人物。船に乗ってすぐに不審に思った存在。
デッキに出ると相手も気付いたのか、意識をアリスに向けていた。アリスも気付かれたことを悟り、相手の出方を待っている。
「……客人が何の用?」
その人物は、この雄々しい船に似つかわしくない小柄の女性。船専属魔術師のリュシー・カナルだった。
振り向いたリュシーの顔は怒りに染まっていて、彼女の実行したかったことが出来なくなり、酷く憤慨している。
その怒りの原因がアリスだというのは、アリス自身の勘でしかなかった。しかしそれは当たりであった。
アリスはリュシーのやろうとしていることを、止めに来たのだから。
「船を恨んでるの?」
「そんなわけないでしょ! ……あー、いえ。ある意味では恨んでるわ」
「じゃあ――」
「この船が! 船がある限り、あの人は船乗りをやめない。それじゃ意味がないのよ」
リュシーが吐き出した言葉。
彼女が故意に船の妨害――嵐を起こしていたことだと分かる。アリスの予想は当たっていた。
初めて見た時から、ただの船の魔術師にしては魔力が尋常ではないと思っていた。だが素性を隠して専属魔術師になり、嵐を引き起こしていた力のある魔術師だと知れば納得がいく。
それならば理由は? そこだけが疑問に残る。
リュシーはアリスが問うより先に、答えをポツポツと喋りだした。彼女の前では何もかも無意味だと理解したからだ。
簡単に言えばリュシーはこの船の船長・ヘルマンに恋をしていた。あの熊男に恋する要素がどこかしらにあったのだ。
愛らしい見た目と裏腹に、この船の船員のように豪快だった彼女は、即刻告白を決行。快諾してくれると思いきや、彼の答えは――
『俺が船乗りをやめた時にゃ、付き合ってやるよ』
だった。
リュシーは絶望した。そんなこと彼が死ぬか船が死ぬかの、どちらかしかないからだ。遠回りだが、これはヘルマンがリュシーを振ったも同然だ。
だが彼女もヘルマンの人生は、船であることを理解していた。
だからせめて、そばにいたいと申し出た。そして力の有り余っていた彼女は、自分の力に見合わないこの船専属魔術師となった。
彼女には計画があった。船に乗れば、船を殺す機会があると知っていたからだ。
みなが寝静まった深夜、天候を操る魔術を組み込んでおく。
翌日は嵐に見舞われるということだ。
しかし問題があるとすれば、天候を操る魔術はランクの高い魔術だ。そして彼女の所有する魔術は発動こそ可能なものの、発動後の管理は出来ないということ。
恋は盲目とはよく言ったものだ。自分だって死ぬ可能性があるというのに、彼女は恋を優先して船を破壊しようと試みている。
ところがそこでヘルマンの強運が働いたのか、今の今まで船が大破することもなく。無事に目的地についてはまた新たな仕事――ということになった。
そしていつの間にかヘルマンは「嵐を呼ぶ男」として、港から忌み嫌われるようになってしまったのだ。
「ふぅん。それでいいの?」
「……当たり前でしょ。私はあの人と恋人に――」
「ヘルマンは悲しそうだったけど」
彼にとって船は人生だ。
嵐を呼ぶ男なんて不名誉なあだ名を付けられ、客足が遠のいていくのは苦痛だろう。今の稼ぎでは、船乗りが解雇されるのも遠い未来じゃない。
それを分かっていて、彼女は自分の色恋沙汰を優先しているのか。
本当に好きなのであれば、そばで支えてやるものではないのか。
リュシーも心の奥底では理解しているのか、ぐっと唇を噛み締めた。
アリスは深追いはしなかった。勇者までの道を邪魔されなければ、彼女達は関係ないのだ。
リュシーの恋など、ヘルマンの思いなどどうでもいい。
「悪いけど――私は意思を変えない!」
リュシーは空に手を掲げる。彼女の足元には巨大な魔術陣が展開された。アリスがここに来る前にはもう魔術陣を書き終えていたのだろう。
デッキが光り輝き、空に向かって魔術が飛ばされて行こうとしている。
アリスはそれを淡々とした表情で見ていた。
そして右腕を目の前に差し出し、ぱちん、と指を鳴らした。
大層な魔術陣は、コップが割れるようにあっさりと呆気なく割れた。
リュシーは突然のことに、思考が追いついていない様子だった。空に掲げた両手はそのままで、表情も変わらないが――瞳だけは丸く驚きを隠せていない。
視線だけを動かして足元を見れば、煌々と輝いていた魔術陣は姿を見せない。空に登っていっていた魔術も途絶え、ただの真夜中のデッキがあるだけだった。
「な……なんで……」
「もういいかな?」
「何したのよ! 邪魔しないでよ!」
「……邪魔?」
これまで目立った感情を出していなかったアリスは、ここに来て少し怒りを見せた。
風がザワザワと恐怖を煽るようにざわめき、波が震えるように立つ。その怒気にリュシーの体がびくりと震える。
アリスからすればどちらが邪魔をしているのか、と問いただしたいほどだった。このまま魔術を展開されれば、アリスの「勇者への道」を邪魔しているのは誰だか明白だろう。
リュシーとヘルマン、そしてこの船のことなど、アリスにとっては心底どうでもいいことだった。
ただの足。金を払って、行きたいところに行くだけの、手段でしかない。
その中で何が起きようが起きまいが、アリスにとっては関係のないこと。
しかしアリスを邪魔するのであれば、誰であろうと容赦はしない。二度と魔術を扱えないようにしてやることだって可能だった。
だがそれをしないのは、これが魔王としての旅ではなくアリスとしての娯楽旅行だったからだ。もちろん魔王として更に自分の力を使いこなせるように、というのも旅の目的ではあるが――一番の目的はただの暇つぶしの娯楽だ。
「正直色恋だの人生だの、くだらない。どうでもいい。興味がない。……だが、私の道を遮る邪魔はお前だ。二度とその魔術を使うな。少なくとも――私の居る時間はな」
アリスにとってはただ睨みつけただけだった。
しかしそこから発せられる怒りのオーラ、常人が受ければ殺意とも取れる気配、そして何よりも彼女とリュシーとの間にある圧倒的な力の差。
それらを踏まえたアリスの睨みは、蛇に睨まれた蛙程度では済まされない。
足が震え、その場にへたり込む。涙がこぼれて、だらしなく鼻水やよだれまで溢れてくる。
リュシーを包む寒気が、さらに彼女の震えを加速させた。
この客人に逆らってはいけない。待っている結末は、叱責などでは済まされない。リュシーの命ですらその代償には足りない。そう感じ取れるほど。
リュシーは完全に戦意喪失していた。真の恐怖を体験した彼女は、「どうして」「化け物」などとブツブツ呟いて動かなくなった。
これであればアリスのいる間は、下手なことをしないだろう。アリスはそう踏んでデッキから離れることにした。
翌朝。
当然だがアリスの深夜の行動のおかげで嵐などない。適度に風が吹き、日が照り、いい船旅日和だ。
それに不満を思っている人物がいるとすれば、ぶすくれた顔でヘルマンの隣に立つリュシーだ。嫌々というような顔をしているものの、ここでまた嵐を起こそうものならば今度こそアリスに殺されかねないと理解している。
「もう飽きましたぁ」
「ガブリエラ……。まだ掛かるからね」
「うえぇーん!」
すっかり調子を取り戻したガブリエラは、延々と続く水面に嫌気が差していたようだ。園 麻子が暮らしていた現代とは違って、この空き時間に暇をつぶす手立てがない。
ただひたすら河川を眺めるほかなかった。
しかしそれとて旅の醍醐味だろう。ガブリエラは飽きていても、アリスは飽きていない。たまに見る海洋生物を見て「あ、こいつもこの世界にいるんだ」なんて元の世界との違いを探しながら、いつまでも続くような長い河川を眺めていた。
一方、ヘルマンはリュシーを引き連れてデッキに居た。嵐の前兆もない晴天。河川の様子を確認するのは不要とも思えるほど。
航行は順調で予定通りに王国へ辿り着けるだろう、と朝方ヘルマンが言っていた。もちろんそれはこれから嵐が来なければの話だが、自然現象であろうと魔術だろうとアリスには関係のないこと。
何が来ようと彼女がいればこの船は無事なのだ。
昼間だと言うのにデッキには人が少なかった。船内やらで船員が働いているのだから、出払っていても問題はない。
ヘルマンは河川を確認しているように見えて、横に立っている小さな魔術師をチラチラと見ているではないか。
(……あー)
同じくデッキにいるはずの、アリスとガブリエラの存在には気付いていないようだった。そしてそのせいか、リュシーを見る頻度はどんどん増える。
――が、しかし。
「リュシーさーん!」
「!」
その声とともにデッキは人で溢れかえる。二人に駆け寄るのは雑用を任されていた船乗りだ。数名の男達がリュシーのもとへと駆けてくる。
河川を見つめていたリュシーは、船員の方へと振り返った。そして端から見ていたアリスは、ヘルマンが残念そうに顔を歪めるのを見逃さなかった。
次第にアリスの中で一つの確信が生まれていく。
「すみません、思ったより量が多いみたいで。手伝いお願いできますか?」
「ええ、任せ――」
「ダメだ」
ノーを出したのは意外な人物だった。リュシーの隣に立っていた大柄の男。もちろん誰がなんと言おうとヘルマン本人だった。
アリスもそのやり取りをぼんやりと眺めていた。
ヘルマンから直々に「ノー」と言われると、船員もはっきりと言うことは出来ない。「どうして」と顔に出して疑問を浮かべている。
そしてなんと言っても一番不思議に思っていたのは、リュシーだった。
ヘルマンは自分の発言にハッとする。
本来であればそういった運搬系の雑務の手伝いをするべきなのは専属魔術師の役割。人間の手で運ぶのが難しかったり、時間が掛かることを魔術で短縮したりするのが仕事だ。
だからこの場合拒否するのがおかしいというもの。その場に居た誰もが変だと思うだろう。
アリスの中の憶測は、完全に確信へと変わる。そしてあくびをしてガブリエラを引っ張る。部屋に戻ろう、そういうように。
(リュシー、あんたの嵐はもうとっくに要らないのかもね)
この後の茶番が想像に容易かったアリスは、その恥ずかしい恋愛シーンを見たくないと早急に部屋に戻るのであった。
顔色の悪さもなくなり、その寝顔はマシになったと言っても問題ないだろう。アリスはホッとする。
ガブリエラと一緒にいる時間こそ短いものの、幹部達とは違って気を遣う必要がない。着せ替え人形兼ペットのような立ち位置だが、それなりに大事な存在になっているのは間違いなかった。
部屋にガブリエラを置いて、アリスは出来るだけ音を立てぬように部屋を出た。船員達のあの話を聞いてしまった以上、彼女は居ても立っても居られなかったのだ。
数日とはいえ世話になる身。多少のお節介をしても怒られないだろう。
行き先は決まっていた。今は誰も居ないはずのデッキだ。
廊下は先程とは違い、静かになっていた。流石に深夜、明日に向けてどんちゃん騒ぎも終りを迎えたようだ。
みな眠りについている。
ガブリエラにも誰にもさとられぬよう、息を足音を殺して外へ出る。
廊下を抜けてデッキに出ると、デッキには居るべきではない人物が立っていた。
アリスがこの夜どこにも見かけなかった人物。船に乗ってすぐに不審に思った存在。
デッキに出ると相手も気付いたのか、意識をアリスに向けていた。アリスも気付かれたことを悟り、相手の出方を待っている。
「……客人が何の用?」
その人物は、この雄々しい船に似つかわしくない小柄の女性。船専属魔術師のリュシー・カナルだった。
振り向いたリュシーの顔は怒りに染まっていて、彼女の実行したかったことが出来なくなり、酷く憤慨している。
その怒りの原因がアリスだというのは、アリス自身の勘でしかなかった。しかしそれは当たりであった。
アリスはリュシーのやろうとしていることを、止めに来たのだから。
「船を恨んでるの?」
「そんなわけないでしょ! ……あー、いえ。ある意味では恨んでるわ」
「じゃあ――」
「この船が! 船がある限り、あの人は船乗りをやめない。それじゃ意味がないのよ」
リュシーが吐き出した言葉。
彼女が故意に船の妨害――嵐を起こしていたことだと分かる。アリスの予想は当たっていた。
初めて見た時から、ただの船の魔術師にしては魔力が尋常ではないと思っていた。だが素性を隠して専属魔術師になり、嵐を引き起こしていた力のある魔術師だと知れば納得がいく。
それならば理由は? そこだけが疑問に残る。
リュシーはアリスが問うより先に、答えをポツポツと喋りだした。彼女の前では何もかも無意味だと理解したからだ。
簡単に言えばリュシーはこの船の船長・ヘルマンに恋をしていた。あの熊男に恋する要素がどこかしらにあったのだ。
愛らしい見た目と裏腹に、この船の船員のように豪快だった彼女は、即刻告白を決行。快諾してくれると思いきや、彼の答えは――
『俺が船乗りをやめた時にゃ、付き合ってやるよ』
だった。
リュシーは絶望した。そんなこと彼が死ぬか船が死ぬかの、どちらかしかないからだ。遠回りだが、これはヘルマンがリュシーを振ったも同然だ。
だが彼女もヘルマンの人生は、船であることを理解していた。
だからせめて、そばにいたいと申し出た。そして力の有り余っていた彼女は、自分の力に見合わないこの船専属魔術師となった。
彼女には計画があった。船に乗れば、船を殺す機会があると知っていたからだ。
みなが寝静まった深夜、天候を操る魔術を組み込んでおく。
翌日は嵐に見舞われるということだ。
しかし問題があるとすれば、天候を操る魔術はランクの高い魔術だ。そして彼女の所有する魔術は発動こそ可能なものの、発動後の管理は出来ないということ。
恋は盲目とはよく言ったものだ。自分だって死ぬ可能性があるというのに、彼女は恋を優先して船を破壊しようと試みている。
ところがそこでヘルマンの強運が働いたのか、今の今まで船が大破することもなく。無事に目的地についてはまた新たな仕事――ということになった。
そしていつの間にかヘルマンは「嵐を呼ぶ男」として、港から忌み嫌われるようになってしまったのだ。
「ふぅん。それでいいの?」
「……当たり前でしょ。私はあの人と恋人に――」
「ヘルマンは悲しそうだったけど」
彼にとって船は人生だ。
嵐を呼ぶ男なんて不名誉なあだ名を付けられ、客足が遠のいていくのは苦痛だろう。今の稼ぎでは、船乗りが解雇されるのも遠い未来じゃない。
それを分かっていて、彼女は自分の色恋沙汰を優先しているのか。
本当に好きなのであれば、そばで支えてやるものではないのか。
リュシーも心の奥底では理解しているのか、ぐっと唇を噛み締めた。
アリスは深追いはしなかった。勇者までの道を邪魔されなければ、彼女達は関係ないのだ。
リュシーの恋など、ヘルマンの思いなどどうでもいい。
「悪いけど――私は意思を変えない!」
リュシーは空に手を掲げる。彼女の足元には巨大な魔術陣が展開された。アリスがここに来る前にはもう魔術陣を書き終えていたのだろう。
デッキが光り輝き、空に向かって魔術が飛ばされて行こうとしている。
アリスはそれを淡々とした表情で見ていた。
そして右腕を目の前に差し出し、ぱちん、と指を鳴らした。
大層な魔術陣は、コップが割れるようにあっさりと呆気なく割れた。
リュシーは突然のことに、思考が追いついていない様子だった。空に掲げた両手はそのままで、表情も変わらないが――瞳だけは丸く驚きを隠せていない。
視線だけを動かして足元を見れば、煌々と輝いていた魔術陣は姿を見せない。空に登っていっていた魔術も途絶え、ただの真夜中のデッキがあるだけだった。
「な……なんで……」
「もういいかな?」
「何したのよ! 邪魔しないでよ!」
「……邪魔?」
これまで目立った感情を出していなかったアリスは、ここに来て少し怒りを見せた。
風がザワザワと恐怖を煽るようにざわめき、波が震えるように立つ。その怒気にリュシーの体がびくりと震える。
アリスからすればどちらが邪魔をしているのか、と問いただしたいほどだった。このまま魔術を展開されれば、アリスの「勇者への道」を邪魔しているのは誰だか明白だろう。
リュシーとヘルマン、そしてこの船のことなど、アリスにとっては心底どうでもいいことだった。
ただの足。金を払って、行きたいところに行くだけの、手段でしかない。
その中で何が起きようが起きまいが、アリスにとっては関係のないこと。
しかしアリスを邪魔するのであれば、誰であろうと容赦はしない。二度と魔術を扱えないようにしてやることだって可能だった。
だがそれをしないのは、これが魔王としての旅ではなくアリスとしての娯楽旅行だったからだ。もちろん魔王として更に自分の力を使いこなせるように、というのも旅の目的ではあるが――一番の目的はただの暇つぶしの娯楽だ。
「正直色恋だの人生だの、くだらない。どうでもいい。興味がない。……だが、私の道を遮る邪魔はお前だ。二度とその魔術を使うな。少なくとも――私の居る時間はな」
アリスにとってはただ睨みつけただけだった。
しかしそこから発せられる怒りのオーラ、常人が受ければ殺意とも取れる気配、そして何よりも彼女とリュシーとの間にある圧倒的な力の差。
それらを踏まえたアリスの睨みは、蛇に睨まれた蛙程度では済まされない。
足が震え、その場にへたり込む。涙がこぼれて、だらしなく鼻水やよだれまで溢れてくる。
リュシーを包む寒気が、さらに彼女の震えを加速させた。
この客人に逆らってはいけない。待っている結末は、叱責などでは済まされない。リュシーの命ですらその代償には足りない。そう感じ取れるほど。
リュシーは完全に戦意喪失していた。真の恐怖を体験した彼女は、「どうして」「化け物」などとブツブツ呟いて動かなくなった。
これであればアリスのいる間は、下手なことをしないだろう。アリスはそう踏んでデッキから離れることにした。
翌朝。
当然だがアリスの深夜の行動のおかげで嵐などない。適度に風が吹き、日が照り、いい船旅日和だ。
それに不満を思っている人物がいるとすれば、ぶすくれた顔でヘルマンの隣に立つリュシーだ。嫌々というような顔をしているものの、ここでまた嵐を起こそうものならば今度こそアリスに殺されかねないと理解している。
「もう飽きましたぁ」
「ガブリエラ……。まだ掛かるからね」
「うえぇーん!」
すっかり調子を取り戻したガブリエラは、延々と続く水面に嫌気が差していたようだ。園 麻子が暮らしていた現代とは違って、この空き時間に暇をつぶす手立てがない。
ただひたすら河川を眺めるほかなかった。
しかしそれとて旅の醍醐味だろう。ガブリエラは飽きていても、アリスは飽きていない。たまに見る海洋生物を見て「あ、こいつもこの世界にいるんだ」なんて元の世界との違いを探しながら、いつまでも続くような長い河川を眺めていた。
一方、ヘルマンはリュシーを引き連れてデッキに居た。嵐の前兆もない晴天。河川の様子を確認するのは不要とも思えるほど。
航行は順調で予定通りに王国へ辿り着けるだろう、と朝方ヘルマンが言っていた。もちろんそれはこれから嵐が来なければの話だが、自然現象であろうと魔術だろうとアリスには関係のないこと。
何が来ようと彼女がいればこの船は無事なのだ。
昼間だと言うのにデッキには人が少なかった。船内やらで船員が働いているのだから、出払っていても問題はない。
ヘルマンは河川を確認しているように見えて、横に立っている小さな魔術師をチラチラと見ているではないか。
(……あー)
同じくデッキにいるはずの、アリスとガブリエラの存在には気付いていないようだった。そしてそのせいか、リュシーを見る頻度はどんどん増える。
――が、しかし。
「リュシーさーん!」
「!」
その声とともにデッキは人で溢れかえる。二人に駆け寄るのは雑用を任されていた船乗りだ。数名の男達がリュシーのもとへと駆けてくる。
河川を見つめていたリュシーは、船員の方へと振り返った。そして端から見ていたアリスは、ヘルマンが残念そうに顔を歪めるのを見逃さなかった。
次第にアリスの中で一つの確信が生まれていく。
「すみません、思ったより量が多いみたいで。手伝いお願いできますか?」
「ええ、任せ――」
「ダメだ」
ノーを出したのは意外な人物だった。リュシーの隣に立っていた大柄の男。もちろん誰がなんと言おうとヘルマン本人だった。
アリスもそのやり取りをぼんやりと眺めていた。
ヘルマンから直々に「ノー」と言われると、船員もはっきりと言うことは出来ない。「どうして」と顔に出して疑問を浮かべている。
そしてなんと言っても一番不思議に思っていたのは、リュシーだった。
ヘルマンは自分の発言にハッとする。
本来であればそういった運搬系の雑務の手伝いをするべきなのは専属魔術師の役割。人間の手で運ぶのが難しかったり、時間が掛かることを魔術で短縮したりするのが仕事だ。
だからこの場合拒否するのがおかしいというもの。その場に居た誰もが変だと思うだろう。
アリスの中の憶測は、完全に確信へと変わる。そしてあくびをしてガブリエラを引っ張る。部屋に戻ろう、そういうように。
(リュシー、あんたの嵐はもうとっくに要らないのかもね)
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