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ACT.1 天使 - The Angel
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救命救急室の中はまるで戦場のように、循環器と呼吸器のスペシャリストを筆頭に、数人の看護師と臨床工学技士、放射線技師や薬剤師までもがひしめき合い、おのおの心臓マッサージに徹する医師と心電図モニターを交互に確かめつつ、それぞれの持ち場を守ることに必死になっていた。
「そろそろだな」
医師が懸命に胸骨圧迫を繰り返すその部屋の外では、母親と思しき女が不安と恐怖と焦りと苛立ちを募らせ、いましがたまで神に祈りを捧げていたその口で、搬送された患者の家族のケアを担当する看護師に、思い付く限りの悪口雑言を浴びせたかと思えば、ERの壁を突き破らんばかりの勢いで蹴飛ばし、そして泣き崩れた。
緊迫感と悲壮感でひりひりする部屋の片隅に腰をおろし、チラと時計を確認する "何かを待っている黒尽くめの何か" に、ペタペタと小さな足音が近付いて来た。
「おじさん、だあれ?」
「いいかい? 一度しか言わないからよく聞いて。きみはいまからこことは別の場所に行くんだ」
「別のばしょ?」
「そう、別の場所だ。ベッドの上の "きみ" が見えるかい?」
「ええ、見えるわ。わたし、死んじゃうんでしょう?」
「そうだよ。きみは死んで、いまから別の場所に行くんだ」
「別のばしょって、てんごく?」
「そうだね、天国という場所があるなら。きみはとても良い子だったみたいだね」
「わたしが死んじゃったら、ママはどうなっちゃうの?」
黒尽くめの "何か" は残された時間が少ないことを気にしながら、目の前の小さな女の子に言った。
「詳しくはあとで話すけど、ひとつ決まりがあるんだ」
「なあに?」
「いまのきみの、一番の願いはなんだい?」
「ねがい?」
「そう、願いだ。僕はいまきみの "最期の願い" を叶えるためにここにいる。ああ、もちろん死にたくないとか、億万長者になりたいとか、そういった願いは叶えてあげられないんだ。叶えられるのは "いまのきみの状態でできること" だけ」
「……そんなふうに言われたら、ねがいなんて何もないわ」
「最期に逢いたいひとはいないかい? 最期に見たい場所とか」
「……ううん、そういうのはないけど……ママのかなしみを止めてほしい」
「やわらげることはできても、止めることはできないね。だってママはきみを心から愛してるんだから」
「じゃあ、それでもいいわ。少しでもかなしみが少なくなるように」
黒尽くめの "何か" は混み合う救命救急室をすり抜け、困り果てた顔の看護師をよそに壁を蹴り絶叫する母親の隣に立つと、その額にそうっと手のひらをかざした。泣き叫ぶ母親は、はっとしたように壁を蹴っていた足を止めると、壁に縋り付き我が子を想いながら静かに涙をこぼした。
「神さま、あの子はまだ五歳なのよ……召されるにはまだ早過ぎる……」
母親は小さな娘の鼓動がもう一度帰って来ることだけをひたすらに祈り続けた。けたたましく響くアラーム音すらかき消すほどに、ざわつき怒号すら飛び交うERの片隅から、黒尽くめの "何か" はゆっくりと小さな女の子に近寄った。
「さあ、もう時間がない」
黒尽くめの "何か" は小さな女の子に左手を差し出した。小さな女の子はその左手をぎゅうっと握り、ふたりは絶望感が限界に達しそうな部屋をすり抜け長い廊下を歩き出す。背中側からわあっとひときわ大きな声があがり、閉ざされていたERの扉が開く音が聞こえた。何度も、何度も、娘の名前を繰り返す母親の悲しい声だけが、最後まで病院の廊下に取り残されていた。
「おじさん、だあれ?」
「僕かい? 僕は天使さ」
「てんし?」
「そう、天使」
「うそよ、てんしって、まっしろで大きなはねがあって、あたまの上にピカピカのわっかがあるんでしょう?」
「そうだね、そういう時期もあったね」
黒尽くめの天使は右手でコートの襟を直した。
「おじさんには、しろくて大きなはねもないし、ピカピカのわっかだってないわ」
ふたりは手をつなぎ病院の長い廊下を歩きながら、他愛もない話をし続けた。
「うーん、効率化っていうのかな」
「こうりつか?」
「翼がなくても飛べるし、輪っかがなくても支障がないことがわかったのさ」
「……むずかしくてよくわからないわ」
───
「ほら、見えるかい? 前のほうに光のドアがあるだろう?」
「あれがてんごくへのドアなの?」
「天国という場所があるなら、そうなるね」
ふたりは手をつないだままその光るドアを開け、誘われるように小さな女の子はドアの向こう側へと足を出した。
「またね」
小さな女の子はからだ中からまばゆい光を放つと、煌めく霧となりすうっと空気に同化して、消えた。小さな女の子は美しく儚げな輝きを帯びた、ちょうど手のひらに乗るほどの大きさの結晶となって、地面に転がった。
黒尽くめの天使はその結晶を大切そうに両手で拾い上げると、同じように美しく光を放つ結晶が規則正しく並べられている棚の、一番上の一番端にそうっと置いた。
ここ "結晶の間" にある、細く小さな木の枝を幾重にも織り込んだ、まるで鳥の巣を思わせる繊細であたたかいその棚には、結晶を傷付けることのないよう真っ白でやわらかな綿を敷き詰めた棚板が何段も用意されている。綿に抱かれ守られながら儚い光を放つ結晶たちを眺めることが、黒尽くめの天使にとってひとときの息抜きになった。
───
「よう、ルフェル。今日の仕事はそれで終いか?」
「いや、これから交通事故で死ぬ三十歳の女のところへ行かないと」
システム手帳をパラリとめくりながら、黒尽くめのルフェルは今日の予定を再確認して言った。
「そうか、おれもいまから心不全で死ぬ八十七歳の男のところへ行かなくちゃいけないんだ」
「八十七歳か……なあトビー、八十七歳で最期の願いなんて、あるのかな」
「さあな。でもそれがおれたちの "仕事" だからな」
── ルフェルは、これから事故が起こる交差点の真ん中に立っていた。
腕時計をチラと確認して、「そろそろだな」とつぶやいた。
信号は赤だった。
その信号を無視してスピードを緩めることなく交差点に突っ込んだ黄色いスポーツカーは、何も知らずに青信号をまっすぐ進んで来た赤いハッチバックの横っ腹を見るも無残に引き裂いた。重い鉄の塊がぶつかり合う激しい衝突音とガラスが割れ八方に飛び散る破砕音に続き、ドアの鉄板がちぎれ、もぎ取られて行く振動が辺りの地面を揺らした。
弾かれ制御を失った赤い車は弧を描きながら、他の数台を巻き込み道路わきの縁石に乗り上げやっと動きを止めた。歩道を行き交うひとたちの悲鳴はやまない。
騒然となる事故現場 ── 手帳に名前がないってことは、突っ込んだ張本人は生き延びるんだな。ルフェルは引き裂かれひしゃげた赤いハッチバックの中で、血にまみれ車と同じ色に染まった女のそばに立っていた。
よろり、と力なく立ち上がり、ルフェルの存在に気付いた女は、血にまみれ所々にガラスの破片が突き刺さり、引き裂かれた車体の鉄板で横腹をえぐられぐったりしている "自分" の姿を、唖然とした顔で見ている。
「あれは……わたし……よね?」
「そうだね」
「そう……で、あなたは誰? どうもわたしを助けてくれる救急隊員ではなさそうだけど」
「僕はこれからきみをある場所まで連れて行く案内人さ」
「ああ……で、わたしは天国に行けるの? 地獄に行くの?」
「まあ、そのどちらも存在していればね」
「どっちも存在してないみたいに言うのね」
「いいかい? 一度しか言わないからよく聞いて。きみはいまからこことは別の場所に行くんだ」
「天国でも、地獄でもないどこかへ、ね」
「話が早くて助かるよ。その前に、ひとつ決まりがあるんだ」
「はっ……死んでまで決まりごとに縛られるとはね」
「いまのきみの、一番の願いはなんだい?」
「……願い、ですって? この状況で?」
「そう、願いだ。僕はいまきみの "最期の願い" を叶えるためにここにいる。ああ、もちろん死にたくないとか、億万長者になりたいとか、そういった願いは叶えてあげられないんだ。叶えられるのは "いまのきみの状態でできること" だけ」
「おかしなことを言うのね。あのひしゃげた、血まみれのあの状態でできることなんて、あると思う?」
「……きみは他の人間より幾分か冷静なようだね。最期に逢いたいひとはいないかい? 最期に見たい場所とか」
「……付き合ってる恋人がいるの。その彼に逢いたいわ」
ルフェルは彼女の額に手のひらをかざした。
───
「ケイト、どうしたんだい? いつもは連絡をくれるのに」
ジェイはケイトの突然の訪問に驚きながらも「嬉しいサプライズだ」と言って玄関のドアを開け、笑顔で両腕を広げた。ひしゃげて潰れて血まみれだったケイトのからだは、少し透けているような気はするものの、外傷はまったくないと言っていいほど綺麗に修復されているようだ。
「ケイト? 何かあったのかい?」
「……ジェイ、ごめんなさい」
「一体どうしたっていうんだ、ケイト。いきなり謝られても意味がわからないよ」
「ジェイ……わたしね、どうやら死んでしまうみたいなの」
ジェイは「笑えない冗談だな」とソファに腰をおろし、ケイトに隣へ座るよう促した。首を左右に振りながらケイトはジェイに「ごめんなさい」と繰り返す。
ジェイはまったく意味がわからないといった顔で、玄関に突っ立ったままのケイトにもう一度隣へ座るよう促した。ごめんなさいと繰り返し首を左右に振り続けるだけのケイトの真意を測りかね、困り果てたジェイは玄関で立ち尽くすケイトの手を優しく取りながら、「せめて、理由を訊かせてくれないか?」と……言うはずだった。ジェイの手はするりと宙に浮き、二度とケイトの手を取ることはなかった。
どういうことだ、と戸惑うジェイに、つけっぱなしのテレビが夕方のニュースで教えてくれた。
交差点で衝突事故が……赤信号を無視して……前方不注意による……男性は病院に搬送され……いまも車に取り残されたままの女性の容態は……女性は意識がなく……ジェイは振り返り、テレビを凝視した。
事故現場でブルーシートに覆われている車。
その中に取り残されたままの女性の名は ──
「ジェイ……愛してるわ」
「……これは…現実なのか?」
「いままで優しくしてくれてありがとう、ジェイ」
「大丈夫、助かるよケイト。心を強く持って……あきらめちゃいけない!」
「ちゃんと恋を……次は、失わない恋をしてね」
「待ってくれ! ケイト、あきらめちゃ駄目だ!」
「ごめんなさい、わたし、時間がないみたいなの。ジェイ……愛し」
そう言うと、ジェイの前からふっとケイトは消えた。
───
事故現場は救急車や消防車、パトカーや野次馬でごった返していた。運転席と助手席の間で完全に潰されているケイトを救い出そうと、救急隊員が車体の切断を試みようとしているところだ。
「おかえり」
ルフェルはそう言うと「さあ、もう時間がないんだ」と左手を差し出した。涙を止められずにいるケイトは振り絞るような声でルフェルに訊ねた。
「ねえ……ジェイはこの先……どうなってしまうの?」
「さあね。生きている人間は僕の管轄外なんだ」
「酷いことを言うのね」
「酷い?」
「そうよ。最愛の恋人を残して死んでしまわなければならないわたしの気持ちがあなたにわかる!?」
「残念ながら、僕たちには人間の言う "感情" というものがないんだ」
「そう、だったらみっともなく泣き続けてるわたしの姿なんて、あなたには滑稽に映るんでしょうね」
「僕たちと人間の歴史は、とても古くてとても長い。人間が "感情" というものを持っていることはわかってるよ」
ルフェルとケイトは手をつなぎ、事故現場を通り抜け、表通りに向かって歩き出した。ケイトは何度も、何度も振り返り、未だ車の中に取り残されたままの自分のからだと、愛しいジェイがこの先どうなってしまうのか、が心配でたまらなかった。
───
「ほら、見えるかい? 前のほうに光のドアがあるだろう?」
「あれがこの世との別れの扉ってことなの?」
「そうだね。あのドアを越えればきみはもう振り返ることもなくなるさ」
ルフェルはその光るドアを開け、大きな手のひらで優しくケイトの背を促した。
「またね」
ケイトはからだ中からまばゆい光を放つと、美しく艶めく青い結晶となって地面に転がった。
「……青い結晶」
ルフェルは大切そうにその結晶を両手で包み、結晶の棚の一番端にそうっと並べた。さっきの小さな女の子の結晶は薄桃色だった。青い結晶は心が安らかだった証だ。
「ケイトはしあわせな日々を送ってたんだな」
小さなこどもの結晶は、色付くことがあまり多くない。大抵無色透明か、色付いても薄っすらと桃色がかって見えることがほとんどだ。色付くほどの経験をしていないから、と言えばその通りなのだが、天使にとってはそのほうが好都合だった。
棚には色とりどりの結晶が並んでいる。ケイトのような青い結晶や、紫の結晶。黄や赤や緑や、中には虹色に輝く結晶もあった。結晶の管理は厳重で、いくら天使といえど勝手に持ち出すことは許されていない。ルフェルは棚の前に立ち、綿に抱かれ守られながら儚い光を放つ結晶たちを眺め、ひと息ついた……はずだったが、なぜか喩えようのない感覚に襲われ、急いでその場をあとにした。
───
今日一日の仕事を終えると、ルフェルはビルの屋上の縁に腰をおろし、夜の街をぼんやりと眺めた。
「まるでゴミ溜めのようだな」
そう言ってシステム手帳を開き、明日の予定を確かめる。
「……十八歳で、白血病か」
ルフェルは時間と場所を確認すると、システム手帳を閉じてからだを倒した。
「死ぬことも遺すことも、つらくて悲しい……か」
感情を持たないはずのルフェルは、小さくつぶやいたあと、深く長い溜息を吐いた。
「そろそろだな」
医師が懸命に胸骨圧迫を繰り返すその部屋の外では、母親と思しき女が不安と恐怖と焦りと苛立ちを募らせ、いましがたまで神に祈りを捧げていたその口で、搬送された患者の家族のケアを担当する看護師に、思い付く限りの悪口雑言を浴びせたかと思えば、ERの壁を突き破らんばかりの勢いで蹴飛ばし、そして泣き崩れた。
緊迫感と悲壮感でひりひりする部屋の片隅に腰をおろし、チラと時計を確認する "何かを待っている黒尽くめの何か" に、ペタペタと小さな足音が近付いて来た。
「おじさん、だあれ?」
「いいかい? 一度しか言わないからよく聞いて。きみはいまからこことは別の場所に行くんだ」
「別のばしょ?」
「そう、別の場所だ。ベッドの上の "きみ" が見えるかい?」
「ええ、見えるわ。わたし、死んじゃうんでしょう?」
「そうだよ。きみは死んで、いまから別の場所に行くんだ」
「別のばしょって、てんごく?」
「そうだね、天国という場所があるなら。きみはとても良い子だったみたいだね」
「わたしが死んじゃったら、ママはどうなっちゃうの?」
黒尽くめの "何か" は残された時間が少ないことを気にしながら、目の前の小さな女の子に言った。
「詳しくはあとで話すけど、ひとつ決まりがあるんだ」
「なあに?」
「いまのきみの、一番の願いはなんだい?」
「ねがい?」
「そう、願いだ。僕はいまきみの "最期の願い" を叶えるためにここにいる。ああ、もちろん死にたくないとか、億万長者になりたいとか、そういった願いは叶えてあげられないんだ。叶えられるのは "いまのきみの状態でできること" だけ」
「……そんなふうに言われたら、ねがいなんて何もないわ」
「最期に逢いたいひとはいないかい? 最期に見たい場所とか」
「……ううん、そういうのはないけど……ママのかなしみを止めてほしい」
「やわらげることはできても、止めることはできないね。だってママはきみを心から愛してるんだから」
「じゃあ、それでもいいわ。少しでもかなしみが少なくなるように」
黒尽くめの "何か" は混み合う救命救急室をすり抜け、困り果てた顔の看護師をよそに壁を蹴り絶叫する母親の隣に立つと、その額にそうっと手のひらをかざした。泣き叫ぶ母親は、はっとしたように壁を蹴っていた足を止めると、壁に縋り付き我が子を想いながら静かに涙をこぼした。
「神さま、あの子はまだ五歳なのよ……召されるにはまだ早過ぎる……」
母親は小さな娘の鼓動がもう一度帰って来ることだけをひたすらに祈り続けた。けたたましく響くアラーム音すらかき消すほどに、ざわつき怒号すら飛び交うERの片隅から、黒尽くめの "何か" はゆっくりと小さな女の子に近寄った。
「さあ、もう時間がない」
黒尽くめの "何か" は小さな女の子に左手を差し出した。小さな女の子はその左手をぎゅうっと握り、ふたりは絶望感が限界に達しそうな部屋をすり抜け長い廊下を歩き出す。背中側からわあっとひときわ大きな声があがり、閉ざされていたERの扉が開く音が聞こえた。何度も、何度も、娘の名前を繰り返す母親の悲しい声だけが、最後まで病院の廊下に取り残されていた。
「おじさん、だあれ?」
「僕かい? 僕は天使さ」
「てんし?」
「そう、天使」
「うそよ、てんしって、まっしろで大きなはねがあって、あたまの上にピカピカのわっかがあるんでしょう?」
「そうだね、そういう時期もあったね」
黒尽くめの天使は右手でコートの襟を直した。
「おじさんには、しろくて大きなはねもないし、ピカピカのわっかだってないわ」
ふたりは手をつなぎ病院の長い廊下を歩きながら、他愛もない話をし続けた。
「うーん、効率化っていうのかな」
「こうりつか?」
「翼がなくても飛べるし、輪っかがなくても支障がないことがわかったのさ」
「……むずかしくてよくわからないわ」
───
「ほら、見えるかい? 前のほうに光のドアがあるだろう?」
「あれがてんごくへのドアなの?」
「天国という場所があるなら、そうなるね」
ふたりは手をつないだままその光るドアを開け、誘われるように小さな女の子はドアの向こう側へと足を出した。
「またね」
小さな女の子はからだ中からまばゆい光を放つと、煌めく霧となりすうっと空気に同化して、消えた。小さな女の子は美しく儚げな輝きを帯びた、ちょうど手のひらに乗るほどの大きさの結晶となって、地面に転がった。
黒尽くめの天使はその結晶を大切そうに両手で拾い上げると、同じように美しく光を放つ結晶が規則正しく並べられている棚の、一番上の一番端にそうっと置いた。
ここ "結晶の間" にある、細く小さな木の枝を幾重にも織り込んだ、まるで鳥の巣を思わせる繊細であたたかいその棚には、結晶を傷付けることのないよう真っ白でやわらかな綿を敷き詰めた棚板が何段も用意されている。綿に抱かれ守られながら儚い光を放つ結晶たちを眺めることが、黒尽くめの天使にとってひとときの息抜きになった。
───
「よう、ルフェル。今日の仕事はそれで終いか?」
「いや、これから交通事故で死ぬ三十歳の女のところへ行かないと」
システム手帳をパラリとめくりながら、黒尽くめのルフェルは今日の予定を再確認して言った。
「そうか、おれもいまから心不全で死ぬ八十七歳の男のところへ行かなくちゃいけないんだ」
「八十七歳か……なあトビー、八十七歳で最期の願いなんて、あるのかな」
「さあな。でもそれがおれたちの "仕事" だからな」
── ルフェルは、これから事故が起こる交差点の真ん中に立っていた。
腕時計をチラと確認して、「そろそろだな」とつぶやいた。
信号は赤だった。
その信号を無視してスピードを緩めることなく交差点に突っ込んだ黄色いスポーツカーは、何も知らずに青信号をまっすぐ進んで来た赤いハッチバックの横っ腹を見るも無残に引き裂いた。重い鉄の塊がぶつかり合う激しい衝突音とガラスが割れ八方に飛び散る破砕音に続き、ドアの鉄板がちぎれ、もぎ取られて行く振動が辺りの地面を揺らした。
弾かれ制御を失った赤い車は弧を描きながら、他の数台を巻き込み道路わきの縁石に乗り上げやっと動きを止めた。歩道を行き交うひとたちの悲鳴はやまない。
騒然となる事故現場 ── 手帳に名前がないってことは、突っ込んだ張本人は生き延びるんだな。ルフェルは引き裂かれひしゃげた赤いハッチバックの中で、血にまみれ車と同じ色に染まった女のそばに立っていた。
よろり、と力なく立ち上がり、ルフェルの存在に気付いた女は、血にまみれ所々にガラスの破片が突き刺さり、引き裂かれた車体の鉄板で横腹をえぐられぐったりしている "自分" の姿を、唖然とした顔で見ている。
「あれは……わたし……よね?」
「そうだね」
「そう……で、あなたは誰? どうもわたしを助けてくれる救急隊員ではなさそうだけど」
「僕はこれからきみをある場所まで連れて行く案内人さ」
「ああ……で、わたしは天国に行けるの? 地獄に行くの?」
「まあ、そのどちらも存在していればね」
「どっちも存在してないみたいに言うのね」
「いいかい? 一度しか言わないからよく聞いて。きみはいまからこことは別の場所に行くんだ」
「天国でも、地獄でもないどこかへ、ね」
「話が早くて助かるよ。その前に、ひとつ決まりがあるんだ」
「はっ……死んでまで決まりごとに縛られるとはね」
「いまのきみの、一番の願いはなんだい?」
「……願い、ですって? この状況で?」
「そう、願いだ。僕はいまきみの "最期の願い" を叶えるためにここにいる。ああ、もちろん死にたくないとか、億万長者になりたいとか、そういった願いは叶えてあげられないんだ。叶えられるのは "いまのきみの状態でできること" だけ」
「おかしなことを言うのね。あのひしゃげた、血まみれのあの状態でできることなんて、あると思う?」
「……きみは他の人間より幾分か冷静なようだね。最期に逢いたいひとはいないかい? 最期に見たい場所とか」
「……付き合ってる恋人がいるの。その彼に逢いたいわ」
ルフェルは彼女の額に手のひらをかざした。
───
「ケイト、どうしたんだい? いつもは連絡をくれるのに」
ジェイはケイトの突然の訪問に驚きながらも「嬉しいサプライズだ」と言って玄関のドアを開け、笑顔で両腕を広げた。ひしゃげて潰れて血まみれだったケイトのからだは、少し透けているような気はするものの、外傷はまったくないと言っていいほど綺麗に修復されているようだ。
「ケイト? 何かあったのかい?」
「……ジェイ、ごめんなさい」
「一体どうしたっていうんだ、ケイト。いきなり謝られても意味がわからないよ」
「ジェイ……わたしね、どうやら死んでしまうみたいなの」
ジェイは「笑えない冗談だな」とソファに腰をおろし、ケイトに隣へ座るよう促した。首を左右に振りながらケイトはジェイに「ごめんなさい」と繰り返す。
ジェイはまったく意味がわからないといった顔で、玄関に突っ立ったままのケイトにもう一度隣へ座るよう促した。ごめんなさいと繰り返し首を左右に振り続けるだけのケイトの真意を測りかね、困り果てたジェイは玄関で立ち尽くすケイトの手を優しく取りながら、「せめて、理由を訊かせてくれないか?」と……言うはずだった。ジェイの手はするりと宙に浮き、二度とケイトの手を取ることはなかった。
どういうことだ、と戸惑うジェイに、つけっぱなしのテレビが夕方のニュースで教えてくれた。
交差点で衝突事故が……赤信号を無視して……前方不注意による……男性は病院に搬送され……いまも車に取り残されたままの女性の容態は……女性は意識がなく……ジェイは振り返り、テレビを凝視した。
事故現場でブルーシートに覆われている車。
その中に取り残されたままの女性の名は ──
「ジェイ……愛してるわ」
「……これは…現実なのか?」
「いままで優しくしてくれてありがとう、ジェイ」
「大丈夫、助かるよケイト。心を強く持って……あきらめちゃいけない!」
「ちゃんと恋を……次は、失わない恋をしてね」
「待ってくれ! ケイト、あきらめちゃ駄目だ!」
「ごめんなさい、わたし、時間がないみたいなの。ジェイ……愛し」
そう言うと、ジェイの前からふっとケイトは消えた。
───
事故現場は救急車や消防車、パトカーや野次馬でごった返していた。運転席と助手席の間で完全に潰されているケイトを救い出そうと、救急隊員が車体の切断を試みようとしているところだ。
「おかえり」
ルフェルはそう言うと「さあ、もう時間がないんだ」と左手を差し出した。涙を止められずにいるケイトは振り絞るような声でルフェルに訊ねた。
「ねえ……ジェイはこの先……どうなってしまうの?」
「さあね。生きている人間は僕の管轄外なんだ」
「酷いことを言うのね」
「酷い?」
「そうよ。最愛の恋人を残して死んでしまわなければならないわたしの気持ちがあなたにわかる!?」
「残念ながら、僕たちには人間の言う "感情" というものがないんだ」
「そう、だったらみっともなく泣き続けてるわたしの姿なんて、あなたには滑稽に映るんでしょうね」
「僕たちと人間の歴史は、とても古くてとても長い。人間が "感情" というものを持っていることはわかってるよ」
ルフェルとケイトは手をつなぎ、事故現場を通り抜け、表通りに向かって歩き出した。ケイトは何度も、何度も振り返り、未だ車の中に取り残されたままの自分のからだと、愛しいジェイがこの先どうなってしまうのか、が心配でたまらなかった。
───
「ほら、見えるかい? 前のほうに光のドアがあるだろう?」
「あれがこの世との別れの扉ってことなの?」
「そうだね。あのドアを越えればきみはもう振り返ることもなくなるさ」
ルフェルはその光るドアを開け、大きな手のひらで優しくケイトの背を促した。
「またね」
ケイトはからだ中からまばゆい光を放つと、美しく艶めく青い結晶となって地面に転がった。
「……青い結晶」
ルフェルは大切そうにその結晶を両手で包み、結晶の棚の一番端にそうっと並べた。さっきの小さな女の子の結晶は薄桃色だった。青い結晶は心が安らかだった証だ。
「ケイトはしあわせな日々を送ってたんだな」
小さなこどもの結晶は、色付くことがあまり多くない。大抵無色透明か、色付いても薄っすらと桃色がかって見えることがほとんどだ。色付くほどの経験をしていないから、と言えばその通りなのだが、天使にとってはそのほうが好都合だった。
棚には色とりどりの結晶が並んでいる。ケイトのような青い結晶や、紫の結晶。黄や赤や緑や、中には虹色に輝く結晶もあった。結晶の管理は厳重で、いくら天使といえど勝手に持ち出すことは許されていない。ルフェルは棚の前に立ち、綿に抱かれ守られながら儚い光を放つ結晶たちを眺め、ひと息ついた……はずだったが、なぜか喩えようのない感覚に襲われ、急いでその場をあとにした。
───
今日一日の仕事を終えると、ルフェルはビルの屋上の縁に腰をおろし、夜の街をぼんやりと眺めた。
「まるでゴミ溜めのようだな」
そう言ってシステム手帳を開き、明日の予定を確かめる。
「……十八歳で、白血病か」
ルフェルは時間と場所を確認すると、システム手帳を閉じてからだを倒した。
「死ぬことも遺すことも、つらくて悲しい……か」
感情を持たないはずのルフェルは、小さくつぶやいたあと、深く長い溜息を吐いた。
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