地上の愛

槙野 シオ

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ACT.16 果ての森 - The Forest of Oblivion

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少しやつれたように見えるものの、ルフェルはしっかりとした足取りで水晶の間のシルフィに歩み寄った。

フィオナとディオナとモーリアに深々と頭を下げると、床に散らかる水晶の破片に目をやり、もう一度神々に頭を下げた。




「……パパ…?」
「やあ、シルフィ。随分と大きくなったね。こうして見るとノエルにそっくりだ」

ルフェルは笑顔でそう言いながら、シルフィを抱き上げた。

「パパ……!」

ルフェルにしがみ付き泣き出すシルフィ。

「どうやら僕にもきみにも、お仕置きが待ってるみたいだよ」

そう言うとルフェルはシルフィの頬に優しくキスをした。

「パパ……ごめんなさい……」
「なぜシルフィが謝るんだい?」
「わたしが産まれなければ、パパとママはきっといまもしあわせに暮らしていたのに……」
「きみがいてくれたから、僕たちはしあわせだったんだよ」
「でも……わたしは魔物で……ひとも……天使もたくさん殺してしまった」
「……シルフィ、僕のお願いを聞いてくれるかい?」

きみは魔物なんかじゃない。与えられた特別な力の使い方を間違えてしまっただけなんだ。いまだって、僕とノエルのために怒ってくれたんだろう? 確かにやり方を褒めてはあげられないけれど、きみを動かしたのは優しさじゃないか。僕はそのきみの優しさを誇りに思うよ。何があっても、きみは僕とノエルの愛しくて大切な娘だ。だからね、シルフィ。

「いけないことはいけないことだ、とちゃんとわかってくれるかな」
「わたしのしたことは……いつか赦されること?」
「赦されるさ」
「ほんとう?」
「本当だよ、僕の可愛いシルフィ」
「ちゃんと、つぐなえる?」
「償えるさ。そのためにいまからお仕置きを受けに行くんだから」
「よか……った……」

ルフェルの腕の中で、シルフィは四歳だった頃の大きさに戻り、ルフェルのあたたかさに安心して泣きながら、そのまま眠りに落ちた。


───


「本当にそれでよいのか、ルフェル」

フィオナはいま一度確かめた。

「おまえの罪はもうあってないようなものだ。産まれ落ちた小さき者がネフィリムでさえなければ、子を成したことすらおまえはとがめられることもなかった。過去を捨てこのままエデンに残ると言えば、やり直すこともできる」
「愛する娘が果ての森でさまよう日々を、わたしは毎日心配することでしょう。そうなれば神々に仕えることも、天使をべることも、まるで疎かになることは火を見るより明らか」
「……やはりどうあっても、己に罰を与えたいのだな」
「わたしの最大の罪は……天使に産まれたことだ」

フィオナはルフェルの揺るがない思いを確かめると、もう何も言うまい、という顔でその場をあとにした。わざわざ自分から果ての森へ行くことを願い出たのだ。まだ幼い我が子を想えばこそ、たとえそれがどれほど意味のないことであろうとも、同じ場所にいることが我が子への罪滅ぼし……いや、愛なのだろう。


「さあ行こうか、シルフィ。入口までは僕が抱いててあげるから」

そう言うと、ディオナたちに別れを告げ、ふたりは果ての森へと向かった。

シルフィ……早く、なるべく早くすべてを忘れるんだよ……そうすればきみは結晶となって、しあわせな人生を産まれ直すことができるのだから……


───


通常二百年から三百年の寿命を持つ天使の記憶力は人間ほど曖昧なものではなく、百年や二百年そこらの過去の話であれば鮮明に覚えていることがほとんどだ。ましてや永遠の命を持って産まれた特級の熾天使セラフであるルフェルが記憶を失う、などということはあり得ない。

そこで、魂が封印されている水晶の浄化を止めれば、少なくとも魂には感情が積み重なり苦しみや悲しみ、寂しさや恐れといった感情がはっきりと感じ取れるようになり、そういった負の感情から逃れたいという望みによって、過去の出来事に蓋をするようになるのではないか、とルフェルは水晶の女神モーリアに浄化を止めるよう願い出た。

モーリアから話を聞き、それを誰よりも咎めたのはフィオナだった。ルフェルは罪を犯しはしたが贖罪は終わっているのだと。愛しい我が子を手に掛けた、それ以上の苦しみなどあろうはずもないと。果ての森に行くことすら本来必要のないことなのだと。その上なお苦しみや悲しみ、寂しさや恐れを与えなくてはならないほどルフェルが何をしたのかと。

「フィオナ、あなたの気持ちはよくわかるのだけど」

ディオナは、珍しく怒りを露わにするフィオナに言う。

「忘れてしまったほうが……ルフェルのためじゃないのかしら」

ルフェルはこの先も永遠の命を生きて行かなくてはいけないのよ。もう二度と人間に恋をすることなどないでしょう。ノエルとの愛しくしあわせな日々を胸に生きるならそれでもいいの。でもね。

罪と引き換えに守った愛しいノエルを……愛する我が子の手で葬られ目の前で失ったことも、その愛するシルフィのしあわせを奪ったことも、ルフェルは何ひとつ褪せることのない記憶として胸に生き続けることになるのよ。それはルフェルにとってしあわせなことなのかしら。

「ならば! いますぐ水晶を純化してルフェルの記憶を消してしまえばよいではないか!」
「そうね、記憶を消すことなど造作もないことだわ。でも、それをルフェルが望むかしら」
「果ての森へ行くことですらわたしの本意ではないのだ。贖罪は済んだ。だがルフェルが愛しい娘と同じ境遇に身を置きたいと願うからこそそれを認めたのだ。これ以上の苦しみを与えるためではない!」
「ルフェルは天使ではなく……人間として罪を償いたいのよ。いますぐ記憶を消して楽になることも、果ての森でただ時間を浪費することも、きっと彼は望んでいないわ」


「……神とは……なんと無力なのだろうな」

フィオナは悲しみに顔を曇らせ、あの日……神々に永遠の忠誠を誓う儀式の中、幼いルフェルがその透き通る眼差しでフィオナを見上げ「あらん限りの愛を捧げ、揺るぎない忠義を尽くすことをお約束いたします」と言ったその姿を思い出していた。

ルフェル……何もできないわたしを赦してくれ……


───


果ての森の中では一緒にいられない。すぐに離ればなれになってしまう。その前に、この愛らしいシルフィを忘れてしまう前に、よく目に焼き付けておこう。ノエルのことも、シルフィのことも、僕は果ての森できっと忘れてしまうだろう。でも、愛してるよ。誰よりも、何よりもふたりを愛してるよ。

「またね」

そうしてルフェルとシルフィは果ての森の中へと踏み込み、あっという間に目の前には別々の道が広がった。


エデンには、また穏やかな日々が戻って来た。

しかし神々は二度とこのようなことが起こらぬよう、悲しい命が産まれぬよう、いっそう掟に過敏になった。天使が地上で感情を持たぬよう水晶の浄化を強化し、あやまって恋に落ちた天使には、厳罰が科されることとなった。


あの愛しいノエルのことを忘れるために掛かる時間はどれくらいだろう。百年か、二百年か。水晶の浄化を止めてくれるよう頼んではみたものの、人間のように記憶を失って行くことはきっとできない。どれだけの時間を果ての森で過ごせば、その孤独に耐えられなくなり救いを求めるようになるのだろうか。

ルフェルは膝を抱え、目を閉じて、毎日ノエルとシルフィのことを想った。

愛してる、愛してる……

きっと僕はきみたちふたりを……あのしあわせだった日々を忘れられないままだろう……


───


ルフェルの前にディオナが現れたのは、ふたりが果ての森に踏み込んでから三百年程経った頃だった。

「久しぶりね、ルフェル」
「ディオナは変わらず美しいままですね」
「もう罰を与えるには充分過ぎる時間を過ごしたでしょう?あなたを迎えに来たわ」
「迎えに? なぜ……?」
「あなたの水晶が元に戻った、とモーリアから知らせが入ったの」
「……水晶が?」
「そう、あのひび割れて欠けていた水晶が、この三百年を掛けて元に戻ったのよ」

人間になりたいと願ったせいで、その思いがあまりにも強かったせいで、ひび割れてしまったルフェルの水晶が元に戻った。これは、ルフェルが天使としての記憶や自覚や力を完全に取り戻したためだろう、と神々は判断した。

「そもそも、どのタイミングで連れ戻すべきか随分と悩んだのよ」
「浄化もせず放置した水晶が、元に戻った、と……」
「……浄化されていないにも関わらず、あなたの水晶はまるで淀むことを知らず、それどころか日々輝きを増して行くようだったわ。半分近くを失っていた水晶がきれいに元に戻るなんて、モーリアでさえ驚いていたのよ」
「ふふっ……やはりわたしはどうあっても天使のままらしい」
「この三百年で随分とエデンも変わってしまったから、いきなり大天使長としての職務は荷が重いと思うの」
「馬鹿な……わたしは咎人とがびととして果ての森で長き時間を過ごした身。天使長にすら相応しい立場ではない」
「ルフェル……あなたは罪によって果ての森に送られたわけじゃないのよ」
「ええ、わたしの罪がこんなに軽くないことを、わたし自身が一番よくわかっています」
「あなたはまだ……自分を赦せてはいないの?」
「いいえ、ただ……思い出そうとすると肝心な部分からすうっと消えて行くような……罪を犯したという事実だけが鮮明に残っていて、何を赦せばいいのか正直わからないのですが」
「そう……職務はあなたに任せるわ。戻って労務長に掛け合いなさい」
「わかりました」


「ディオナ」
「なに?」

シルフィの魂は何年で結晶化されたのだろうか……きっとまだ小さかったから、そんなに長い時間は掛からなかったと思うけれど……

「いいえ、何でもありません」

ルフェルは言葉を飲み込んだ。訊いたところでもう何もしてやれることなどないのだから。

その様子に気付いたディオナはルフェルに優しく言った。

「シルフィは……覚えているわね?」
「……」
「あの小さなシルフィがすべてを忘れて結晶化されるまでに百五十年という長い時間が掛かったわ」

百五十年……なんて気の遠くなる時間をさまよっていたのだ……記憶を携えたまま……そんなに果てしない時間をたったひとり、あの暗い森の中で過ごしたというのか……

「それは美しく、透明な光を放つ結晶になったのよ」
「その子は……その魂はちゃんと産まれ直すことができたのですか」
「いいえ……まだ……でもあの優しい子の魂ですもの、きっといつか結晶の器を見つけることができるはずよ」
「そうなれば……いいですね」


やはりルフェルは……何ひとつ記憶を失ってはいない。ディオナはルフェルの言葉で確信した。


───


三百年ぶりの地上は……何もかもが変わり果てていた。

ここはどこだ? 道をせわしなく走っている鉄の塊は一体何なんだ? あの美しかった森は、畑は、小川は、風車は、どこに消えてしまったんだ?

ルフェルが選んだ職務は "魂の案内" だった。下級三隊第八級の大天使アークたちの仕事だ。それにしてもこんなに地上が変わり果ててしまったのでは、まったく動くことなどできやしない。すると、困ったな、と動けずにいるルフェルの後ろから声がした。

「よう、あんたが一度堕天したルフェルか?」
「……正しくは堕天に "失敗した" ルフェルだよ。きみは?」
「おれはトビー。この辺の縄張りをあんたと分けてくれ、ってエデンから伝令が来たんだ」
「ああ、そうだったのか。よろしく、トビー」
「しかし、特級の熾天使で大天使長なんてすげえ立場、よく捨てようなんて思ったな」
「まさか、立場を捨てることが目的だったわけじゃないさ」
「まあ、そうか。しかしあんた、こうして見るとそんな畏れ多い天使だったとは思えねえな」
「どういう意味だい?」
「エデン史上最凶に残忍で冷酷で絶対に怒らせちゃいけねえやつが帰って来る、って評判だったからな」
「……なるほどね、実際に逢ってみてどうかな」
「紅い瞳がクールで親しみやすそうなきれいなお兄ちゃん、って感じだな」
「それは最高の褒め言葉だ」

ルフェルはふふっ、と笑った。


しかし不思議な違和感の正体に、ルフェルは最初気が付かなかった。何かが足りないような……ああ、トビーには翼がないんだ。

「ひとつ訊いていいかい?トビー」
「どうした?」
「なぜきみには、翼が生えてないんだ?」

その瞬間、トビーは噴き出した。

「翼って、そりゃ何百年前の話だよ!」

ルフェルが果ての森にいた三百年で、本当に世の中は変わってしまったようだった。

人間は徐々に天使や神を信じなくなり、祈りの声も減り続けた。そうなると、翼の生えた天使はまるで物の怪のように扱われるようになり、困り果てた神々は天使に翼がなくても飛べるように、と考えた。新しく生まれる天使には元々翼が生えないように、すでに翼のある天使からは翼を抜き取り見た目を変えたのだ、とトビーは言った。

「上級三隊の天使以外にはもう翼はないんだ」
「そういうことだったのか……まさか、物の怪扱いとはね」
「おれは産まれた時から生えてなかったんだけどな」
「じゃあ僕より、間違いなく三百歳は年下ってことだね」

ルフェルはクスリと笑って言った。

魂が結晶化するための "評価の間" での査定がなくなった、という話もトビーから聞いた。

これは、神々の存在を信じなくなった人間に、最早慈悲は必要ないだろう、という神々の判断だという。光のドアを抜ければ自然と結晶化する魂。悪い行いをして来た者は "黒い結晶" となり、産まれ変わりに使われることはなくなったそうだ。


───


それからルフェルはトビーにいろいろなことを教わった。地図のおかげで道に迷うこともなくなり仕事は順調だった。

「しかし……やっぱりこのせわしなさは疲れるな……」

ルフェルは久しぶりに海に来た。

三百年も果ての森をさまよっていたのだ。すでに "初めて見る" と言ってもいいほどだった。


「本当に久々だな……」

波打ち際に立つと、足の裏で砂が動く。波が寄せては引き、同時に砂もルフェルの足をくすぐる。やっぱり海は不思議だ。しばらくその感触に浸っていると、遠くから何かが近付いて来る気配を感じた。

砂浜をよたよたと歩み進んでくる "何か" に、ルフェルは目を凝らした。ルフェルの視力がきちんと "何か" の正体を捉える位置まで進んで来るのを待って、そしてルフェルは驚いた。

怪我をした動物かと思っていたそれは、小さなこどもだった。

こんな陽も暮れた海に小さなこどもがひとりで?親は一体何をしているんだ?心配になり、よたよたと歩いてルフェルの後ろを通り過ぎて行こうとするこどもに声を掛けた。

「ちょっと待って」

こどもはよたよたと砂に足を取られながらそれでも進んで行こうとする。

「ちょっと待って」

今度はこどもの肩に手を置いた。

すると遠くから、こどもを呼ぶ声が砂浜に響き渡った。

「ノエルー! あまり遠くへ行くと迷子になるわよー!」

その声に振り向いて、こどもは声のするほうへよたよたと走って行った。




── ルフェルの瞳から涙があふれた。

ああ……今度はしあわせな家に産まれたんだね……

「ノエル……」

ルフェルはそうつぶやくと、両手でぎゅうっと自分を抱き締めた。


───


「そろそろだな」

ルフェルは腕時計をチラと確認して、病室に入って行った。

「いいかい? 一度しか言わないからよく聞いて。きみはいまからこことは別の場所に行くんだ」




今日もルフェルは魂を案内し、結晶を眺めては産まれ変わる魂に思いを馳せる。
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