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終焉 再会

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信濃に遅い春のおとづれを告げる雪解けの清流が下前田の御城下を潤おす。
その水は農民町民武士に分け隔てなく祥をもたらしてくれる。
生きとし生けるものの命を育み 田畑を潤し 地面の下深くを通り温めてられて温泉となって湧き出でてくる。

下前田はそんな信濃の恵み多き中山道に近い小藩だった。
遠く上方から 尾張 岐阜 丹後越前 越後から江戸へ向かう追分。
商業 農業 湯治客で大いに賑わっていた。

御城下堀割通りに面した大店 上総屋の店表に背丈六尺は下らないマタギ姿の男が冬の間に仕留めた獣の毛皮を卸していた。

 「彦四郎さんっ今年も素晴らしい出来だねぇ 全くお前さんの毛皮ときたら雲母のような七色の艶と柔らかい肌触り、ちっとも獣臭もしやしない…見事な工芸品だよ、」


 「上総屋さん あいも変わらず口が達者ですね…大体いくらで引き取っていただけますか…」

上総屋主人はソロバンをパチパチ弾きながらマタギが持ち込んだ毛皮を一枚一枚丁寧にたしかめていった。

 「ざっと、こんなもんでどうでしょう?」
上総屋主人が見せた算盤を見て

「ほお、随分と弾んで下すってっその値で手を打ちましょう」
彦四郎は 荷物を上総屋に全て預けて 城下外れの湯治場に向かう。


マタギの男は勝手知ったる湯治場で 座敷を借り、衣服を脱ぐと手拭い片手に 湯畑に沿っていくつもある泉質の一つ 赤茶色に濁ったまるで血の池地獄を思わせる湯を溜めた風呂桶にどっぷりと肩まで浸かった。赤濁った湯で顔を拭い 手拭いを頭からかぶってドッカと桶の縁に背中を預け脚を長々と伸ばした。

厳しい冬場の猟場暮らしから解放された安堵の吐息が〝ほ~っ″と漏れる。

程よい湯温の濁り湯の中で 男は目を閉じて、一年前に起こった下前田藩の御家騒動の顛末を思い出していた。…

       …………

江戸城中奥 御座の間

「上様、加賀大聖寺藩藩主 前田利章様 白書院にて 上様拝謁の儀
お待ちでございます。」

御側御用取次 加納久通が知らせに来た。

   「おお…久通っ 参れっ」

久通は御座の間で寝間着のままくつろぐ吉宗の上座近くまでにじり寄った。


   「久通っ苦しゅうない 楽に致すが良い、…
で、前田の部屋住はどのような塩梅じゃ…?」


脇息を抱え躰を預けた自堕落な姿だが、その目は鋭く久通を射抜いている。
生半可な返答は許さぬ…と久通に無言の圧力がかかってくる。

  「ははぁっ… お姿は見目麗しく、中々の面構え。その立ち居振る舞い堂々として、御父君綱紀様以上かと…久通…拝察いたしました。かの若君様…無頼者よと前田家の厄介者扱いされし面影…久通の目には想像だにいたしかねまするな…」


久通は見たまま 感じたままを吉宗に伝えた。

「で、あるか…では もそっと白書院で待たせてみるか…化けの皮剥がれるやもしれぬでな…わははは」


「上様、猶予はなりませぬぞっ 此度は前藩主急逝にて、御養子利章様が大聖寺藩七万石をお継ぎあそばしたご報告の江戸下向が名目。白書院には老中水野忠之はじめ大老共うち揃い皆大紋の正装にて、今か今かと 上様をお待ちもうしておりまする。
水野などは上様の気まぐれに付き合う暇など毛頭無き立場、早く謁見の儀お済ませになられ、その後 ゆっくり利章様を吟味なされるが寛容!」

      ………

「壱岐助っ 表向きに参るぞっ 用意いたせっ!」

吉宗は加納久通にせっつかれて 重い腰をあげた。



加納久通:紀州藩時代からの側近中の側近
水野忠之:将軍吉宗の代になって初めての老中筆頭
壱岐助 :小笠原政登(まさなり)紀州藩時代からの吉宗小姓



江戸城表向き 白書院 
帝鑑之間で老中水野忠之等と控えていた前田利章に 上様 白書院上段之間にお出ましの知らせが来た。待つ事一刻、(2時間)

「上様ぁ~御成ぃ~」

白書院上段之間に小姓番頭小笠原政登を従えて入室した吉宗を中段之間脇で御側御用取次加納久通 幕府老中筆頭水野忠之が座礼し、下段之間正面で前田利章が深々と座礼して迎えた。 

吉宗が着座し
「一同 苦しゅうない 面を上げよ…」と将軍が声を発して初めて

一同が将軍に拝謁する。
それでも将軍と目を合わさぬようにするのが上位の者に対する下位の者の礼儀だった。

「その方が 前田綱紀が五男 大聖寺藩藩主 利章か?」

将軍直々に小藩の藩主に声をかける事などほぼ皆無なうえに、平伏し返事をした利章に対して 吉宗は、

「利章…もそっと近こう寄って 余に其方の面構えをみせよ」
と命令を下した。


「はっははぁっ」

利章はその場を立つと低い姿勢の摺り足で畳の縁を踏むのを避けながら中段之間下手まで吉宗に近づき 再び座して平伏す。

 
「利章っ そう固くならずとも良い。其方が五男の部屋住ならば、余は紀州の四男部屋住であった。部屋住暮らしが気楽でゆかいであったわ、のう利章っ 同じ元部屋住同士じゃ 今後は、加賀大納言殿はじめ其方とも 昵懇の間柄となろうぞ…遠慮はいらぬ」


 「畏れ多きお言葉、有り難く頂戴仕りまして、我が実父加賀大納言前田綱紀にも新しき公方様よりの有難きお言葉、加賀へ帰藩したおりには必ずや御伝え申し上げまする」


新将軍と加賀前田支藩大聖寺藩新藩主前田利章との謁見の儀は滞りなく済み、上様の退座を見送った後、老中筆頭水野忠之が座礼したまま控えている 前田利章に近づくと 、閉じた扇を利章の肩にぽんと置き、
「前田殿、お励みくだされ… …わっはっはっは …」と幕閣筆頭らしく若い小藩藩主に睨みを効かせたあと
御側御用取次加納久通の横に着座し、

「加納殿 本日はわざわざ 加賀の小藩の急な代替わりの為、上様に謁見の儀お取り継ぎ頂き誠にもって、有難う御座いました。」

水野忠之の礼の言上も謁見の儀の儀礼の締めくくりとして次第通りに行われた。

「水野…我等の間で堅苦しい挨拶など無用じゃ 早う表向きに戻り御政務に邁進するがよい 時間を取らせ申した。」

加納久通の言葉を聴いたあと 退席する水野忠之は 、



《…全く この糞忙しい時に、いくら加賀大納言の五男が支藩の藩主になったとは言え…単独で謁見するか? 何考えてんだ 新将軍はっ!…》……と、腹で思ったかどうかは定ではない。


白書院には幕閣最高役職の御側御用取次加納久通が未だ退座していない為、利章はずっと座礼したまま退席許可を待っていた。

 ツカツカツカと平伏していた利章の頭上から、
「これっ前田利章殿…もう良いから楽にせよ…今から私の後に着いて来るがよい…」

加納久通が 利章に白書院を出て後に着いてくるよう促すと、

「かしこまりました。」と答えた利章が立ち上がった。清々しい若者の透明感のある声とその見目麗しい立ち姿に、


…加賀の田舎の藩主にしておくには惜しい美しさよ、いっそのこと 殿の小姓組に取り立てたいのぉ…


加納久通は 白書院を出ると竹之廊下を通り黒書院で内政の諸事に働く幕閣を横目に若い藩主を従えて中奥へ向かう。

中奥は、将軍のプライベートスペースで出入りできるのはごく一部の限られた家臣でそれ以外の幕閣は出入り自由は黒書院迄となっていた。

二人の姿を控え之間から目撃した 留守居当番のお目見え以上の旗本は、
「加納様の中奥出入りは、解るが、後より従えし若君はどちらの藩の御方であろうか…城内でお目にかかった事なき若君であるが、…大紋に染め抜き家紋…はて 梅鉢!」

 「かっ加賀様か…」


 「厭まて、加賀大納言様御家紋は、たしか剣梅鉢 若君着用の大紋に染め抜かれし家紋…棒梅鉢ではなかろうか…」


「梅鉢家紋…は 加賀前田家縁である事は確か…」


黒書院控え之間で執務を行なっていた留守居当番役の大名 旗本も 二人が中奥へ向かっていく姿をみながら喧しく噂した。


中奥御座の間

「上様っ 前田利章様 お連れ申しました。」

加納久通が 御座の間下之間のピタリと閉じられた襖戸の前で着座し吉宗に直に口上した。


「孫市かっ 参れ   」

加納久通は 背後に控える前田利章に目配せし 御座の間襖戸左右で番をする坊主衆が 吉宗の合図で襖を左右に開けた。


二人は御座の間大溜で一旦上段の上様に向かい座礼し平伏すと、

「孫市っ 利章も 遠慮無用じゃっ 近こう寄らずば話ができぬではないかっ  坊主共は 有馬 、忠相 両名以外は他人払いするのじゃっ 余が許すまで中奥には誰も入れるな、大奥の煩い女共も同様に他人払いいたすのじゃっ」




江戸城内には大勢の坊主衆が 上様の身の回りから城内の清掃にいたるまで全てを行う組があった。坊主と言っても剃髪しているだけで下級武士の子息が働いていた。

「ああ、良い良い、利章 面を上げよっ」
吉宗は脇息を抱えて 利章を観察する。

「余は達って、其の方に確かめたき儀があるのだ…」
吉宗の眼光厳しくなるも 声色は穏やかで柔らかい。

…このような上様の時は用心せねばならぬ、利章…
加納久通は何故か 前田利章を愛らしく感じていた。

 「は、はぁ…何なりと お尋ねくださりませ、利章嘘偽り無く上様の御詮議お受け致しまする。」

利章か座礼したまま 吉宗の顔を見ない程度に顔を上げた。

 「うむ、良き心掛けじゃ…では 其方に尋ねる。先の幕政により領地召し上げになった奥越藩を存じておるの…」

…いきなりですかっ、殿…
加納久通は相変わらずせっかちなと、吉宗の詮議を危なっかしく見ていた。




「はっ、ははぁ…存じておりまする、10年前、まだ養父利直在位の折、我が父前田綱紀が私との縁組を申し入れたのが奥越藩でございました。」

清々しい美丈夫な表情から苦悶の表情に僅かに変化したのを吉宗は見逃さなかった。

 「であるな…して何故奥越は領地取り上げ藩主転封とあいなったか存じておるか? 其方と息女の縁組叶えば 加賀藩支藩として奥越は安泰であったやもしれぬが…」

利章はますます苦悶の表情になり、やや虚に宙をみた。
「はっ…私めも由宇姫に 奥越藩安泰の約束致したく思い、早々婚儀を挙げるべく事を進めてまいったその年の暮 姫が神隠しに会い申したと…
と、申しますのも、折悪く、我が養父前田利直その年11月に身罷り申しました。…喪が明けるまで祝い事を控えなければならぬ旨 内々に奥越藩に知らせた次第。新年忌が明けて、ようやく奥越藩からの知らせで御息女の神隠しの事を知りました。俄に信じ難く、由宇姫、よもや私めとの婚儀、躊躇したのでは…と…思い至り…
詮索せず事の成り行き見守ってまいった所存…」

利章の苦悶の表情が深くなる。

「何と、姫が其方との婚儀を躊躇したと…」
加納久通が 思わず口を挟み 吉宗から扇をぶつけられた。

「こっこれは、失態…殿っお許しあれっ…」
久通が畳に平伏した。

 …利章…ここまでは嘘偽りなき口述であるな…
吉宗の詮議は続く。

 「して 其方は物見遊山で会って以来の奥越藩の姫の消息については 婚儀を躊躇されたと考え 何の手立ても無さなんだと言うわけだな?」

「御意、騒げば 加賀前田百万石に泥を塗ったと誹りを受けるやも知れず、これは我の失態と覚悟した所存。幸いにも喪中のため婚儀の話しは一旦立ち消えとなり、先ずは私めへの藩主継承が先となりました次第。」

利章と由宇姫が正式な縁組前に会って既に深い仲になっていた事は御庭番衆の周到な調べで既にわかっていたが、吉宗はあえて利章を試した。


「其方が婚儀を躊躇されたと思う所以は何処にあるのだ?」
吉宗の問いは 的を得たと加納久通も詮議の成り行きを益々注視していた。

「実を申しますれば、姫とは初対面以降 幾度も会っておりました。」



利章の告白をさも興味ありげに「その返答は余の問いに答えておらぬぞ…」と利章にさらに詳しい経緯の説明を求めた。


「畏れながら、この利章 当時は大聖寺藩の伯父上の養子とは名ばかり、父上が五男の部屋住を厄介払いしたいがためと…思い込み、金沢で無頼に過ごしておりました。父上が我を落ち着かせるためと 武勇優れ今巴御前と噂されし奥越藩御息女由宇姫との縁組を強引に勧め、父への反発心から 先に 今巴御前と噂の姫を物見遊参も兼ねて見物に参ったしだい…そこでまことに豪傑烈女なれば この縁談 利章自らぶっ壊してみせようと……お恥ずかしい限り…」

柔和な表情に変化した前田利章の話しを 吉宗は愉快そうに聴いていた。

「ふむ…由宇姫と目通りして 誠に噂通りの烈女であったか?」
吉宗の脳裏には 奥越城内であった幼き由宇姫の姿が蘇る。

「それが、町娘に扮して 警護の者と往来で揉めておりました。丁度市も立っており 往来は民でごった返していると申すに 堂々と身分を明かして…町娘の化(なり)…
咄嗟に家臣を使って仲裁に入り申し、見物どころではなくなりもうした。」

利章は10年前の出来事を思い出し 笑みが溢れそうになるのを必死でこらえた。

 「ほお! それはまた愉快千万、姫が町民に扮して市中を見廻っていたと申すか?」

「見廻っていたか、ただの酔狂なのか、今となっては、利章には計りかねまするが、その場で我が身分を明かし、警護の者に姫を託し、我等は退散致しました。吾を縁組相手の前田利章と知るや 姫はかなりご機嫌を損ねられた由にて…後日松風が血を引く葦毛の駿馬を贈りご機嫌伺い致しました。」

「利章、其方由宇に惚れたか?」
またまた吉宗の的を得た問いに、利章は俯き……

「以下にも、その姿見目麗しく、また利口で欠点なき姫でありました。今まで 父上に反抗し、がん是ない行いに明け暮れた我が身が恥ずかしゅうて…姫に好かれようと、必死で奥越に通い詰めたあの頃……
……  」


 ……まるで浮世草子を聴かされているようじゃな…
加納久通は、前田利章と由宇姫の出会い場面を想像し、顔がほころんだ。


  
  …ふむ…由宇姫は見目麗しく成長しておったか…

「しかしっ利章よっ!松風の血統受け継ぐ駿馬とな! 綱紀公がよう許したな…」

  …殿っそこは違いますれば…利章の由宇姫への思いを汲んでさしあげねばっ!
久通は 無粋な吉宗を心のなかで、たしなめた。

吉宗も紀州より江戸に連れてきた 〝亘″(わたる)と名づけた栗毛の愛馬がいた。

「お恥ずかしゅうござります、その葦毛…父上の馬房より…無断で拝領つかまつりました…」
利章は 申し訳無さと 恥ずかしさで 吉宗の前で畳に平伏した。

吉宗は、肝を抜かれたように、口をポカンとあけたまま目の前に平伏した利章をみていたかと思った瞬間

「ワハハハハハハハ…アハハハ…ハ…なっ何とっ…で…あるかっ!これはしたり! 誠に愉快じゃーっ」

吉宗は扇を叩いて 利章の話しを大いに楽しんでいた。

「上様っ…お鎮まり下されっ…笑いごとではござらぬ、松風と言えば加賀藩祖前田利家公縁の名馬!前田慶次殿が拝借しなければ今頃は国中の大名が喉から手が出るほど欲しがる血統!
しかしながら、まだ前田家に松風の血筋残っていようとは、…
いやはや、… … … おっと、これはいかぬ。駿馬の話しではござらぬ、で利章様はその後 どのようにして 女武者由宇姫様とお近づきになられたのか…この加納久通も非常に興味深く、是非…拝聴つかまつりたい。」








「其方等は すでに男女の契りを確かに結んだのじゃなっ」
吉宗は 利章にその事実の可否を念を押して尋ねた。

「はい、一度限り確かに由宇姫と男女の契りを結びました。この姫を逃してはならぬと…初めて父君に感謝し、必ずや由宇を正妻として大聖寺藩に迎えることを固く誓い申しました。」


「うむ、もう良かろう…の孫市…」

吉宗が加納久通に目配せすると

「誰かっある 大岡忠相を此れえっ!」
加納久通の声に呼応するかのように、

「忠相、此処に控えておりまする」
いつや知らずに 御座の間廊下に大岡忠相が控えていた。

「忠相っ苦しゅうない 入れっ」

左右に障子戸が開くと破格の待遇で 江戸南町奉行大岡越前守が下座から入室し、最下段の間で座礼した。

「忠相っ面を上げよ、」
加納久通が吉宗に代わってこの場を仕切っていく。

「さて、越前、此方に座すは、加賀前田藩支流大聖寺藩7万石藩主前田利章様である」

忠相は座したまま前田利章の方に躰の向きを変えて 再び深く座礼した。

「大岡越前守 先の奥越藩領地召し上げと、神鶴藩お家騒動、下前田藩の暗躍について 前田利章様にわかりやすく御説明申し上げろ」


御側御用取次加納久通からの指示で 忠相は一連の関連について、前田利章に丁寧に説明した。


  …………… 




  ………
「では、由宇はもうこの世には居らぬと……」

予想はしていた利章だったが ここまで明らかにされた奥越藩息女由宇姫の死に 将軍吉宗の前で泣くは武士の恥と歯を食い縛り湧き出る涙を必死で堪えるのがやっとだった。

深く座礼し頭を平伏した利章の肩が微かに震えているのをその場の吉宗はじめ、御側御用取次加納久通 南町奉行大岡越前守忠相は黙って
見守っていた。
それぞれが下前田藩江戸家老一派の悪辣非道な行いに怒りを覚え、私利私欲のツケが関係ない者の命まで奪ったこの度の騒動は極刑をもって償わせなければならないと思っていた。


「上様 もうそろそろ、姫様をお呼び申し上げてもよろしいかと…」



「姫を此れへ…」

上御錠口にて中奥小姓が待機していると、奥向きから御錠口に合図があり御錠口の戸襖を奧坊主衆が開けた。 御錠口の向こう側に吉宗側室久免の方に付き添われて座して頭を垂れていた少女の姫君がいた。
久免の方が
   
「さぁ 姫様 御父上君がお待ちあそばしておりますよ、お幸せに…おなりくださりませ」

僅かな期間奥向きで久免の方直々に吉宗より預かっていた前田利章公と亡き由宇姫の忘れ形見の姫君を御錠口より中奥小姓に委ねた。




「加納様、奥向きより駒姫さま お連れ申し上げました。」

中奥小姓が障子戸の外側から加納久通に伝えた。
「うむ、駒姫様 お通し申せ…」

中段之間の障子戸が開け放たれ御座の間庭から明るい日差しが部屋に差し込む。日差しを背に吹輪髷、総柄の茜の打ち掛け姿の姫君が吉宗の上座膝下近くまで 中奥小姓に導かれて入室してきた。

その所作も江戸城大奥で習熟し 数ヶ月前信濃の遊郭より助け出された田舎娘とは到底思えない麗しい姫姿だった。


「駒 もそっと近こう、」
吉宗は駒姫に向かって手招きした。




吉宗は 駒が江戸入りしたと知らせが入った時 行儀もわからぬ田舎娘を想像し、前田利章に見合わせる前に大名家の息女として恥ずかしくない程度の所作作法を身につけさせようと思案していた。

加納久通は、
「我が加納家でお預かり申し上げ、奥にしかと行儀作法を手解きさせますれば、是非我が加納家へ…」

有馬氏倫などは、
「上様、加納の田舎作法など、姫君様お習い遊ばせれば、加賀の京好みの誹り受けぬともかぎりますまい、ここは我有馬の奥なれば京の宮家で仕えし女子 雅な所作行儀はおほどきできますれば、是非とも…」

「両名の心意気あいわかった、しかし一度 余も会うてみたいのじゃ…まだ女童だった由宇の面影を頼りに どのように山奥で育てられたのやら、気になるところよ…余が目通りしてから決めるとしよう…」


       ……………




駒姫が吉宗の手招きに従って上段之間 近くまで進み正座し両手の三つ指を軽く畳に添えて、吉宗に挨拶する。

その所作に非の打ち所がない事に、加納久通は …ホッと胸を撫で下ろし、大岡忠相は目を細め笑みを浮かべて見つめている。


一人前田利章が中段之間を不思議な感覚で見守っていた。


「利章っ 姫に見覚えないか?」

駒は下段之間中央で座して自分に視線を向ける見目麗しい若君をチラッチラッと見た。

  ……何方のお殿様?彦四郎さんが一番とと丸さんが二番に麗しかったけど、この若君様の美しさは…
 そんな年頃の娘らしい事を思ってしまった駒は頬を染めた。



「畏れながら、姫君様のお顔…我が亡き〝妻〟と面影が重なりもうした。なれど、それは私め、今生では由宇に逢えぬ事への強い思い込みの成せるせいかと…お恥ずかしい限り…」

利章は再び畳に平伏した。

「利章っ苦しゅうない 面を上げてしかと駒を見よっ……」
吉宗も、久通、忠相も駒が紛れもない実娘である事を利章自身に気づいて欲しいと考えての遠回しな演出だった。

 「…もしや、……まこと由宇が…!」

駒は吉宗達が何の話しをしているのか、皆目分からず、ただその場で大人達のやり取りを見守るしかなかった。


「駒姫…姫は今年もう11の誕生を迎えるのぉ…」
吉宗は諭すように 駒に語りかける。

「はい、父母と別れて四年の年月、皆さま方のおかげで駒は今、生き延びさせて頂いておりまする。水埜彦四郎様はじめ、神鶴藩の元浪士の方々が何度もあった命の危機を救ってくださいました。また引き取られし廓でも神鶴藩元御女中萩様に行儀作法女子の嗜みをお教え頂いたおかげで今の駒が公方様お膝元にて恥ずかしゅうなく過ごさせ頂いております。」

駒は知らずうちに彦四郎や萩 とと丸 仁吉 助蔵 桃吾らによって守られ 武家の娘としての最低限の作法教養を悪環境のなかで身につけていった。

吉宗と対面前は 山奥に隠れ住んでいたと聴いて 武家の女子の作法教養嗜み再教育しなければ 前田利章と対面させられないだろうと 吉宗はじめこの件に関わる幕閣は考えていた。

しかし、駒と最初に会った大岡越前守が必要無しと判断。次に江戸城に入り加納久通 有馬氏倫 小笠原政登達もその嫋やかで美しい姿形を観て さすが加賀百万石の血筋と納得して吉宗との目通りを推挙した。






吉宗は政の場で女子供に会う事は叶わぬと、お忍びで加納久通が駒姫と目通り出来る席を設けた。場所は有馬氏倫の江戸役宅だった。
氏倫は〝我が奥は宮家に使えていた御殿女中〟が常日頃の口癖でそれ程までに自慢したいのならばと、
〝自慢の奥方がどう上様をもてなすのか見ものよ〟
久通はわざわざ底意地の悪い案を奏上した。

この時代、元禄の頃に比べれば武家も庶民も格段に質素な暮らしに戻りつつあったが、それでも、将軍が江戸城を出て家臣の屋敷に来ることがどれほど名誉な事か、将軍を迎えるべくわざわざ屋敷を立て直す等、大きな借財をしてでも対面を保つ事に腐心しなければ成らず、本音は将軍の御成は大迷惑だったかもしれない。  


「孫市め…旨いところを掻っ攫いよって 失敗許されぬ姫様との対面の場を吾に押し付けるとはっ!…己れ見ておれっ」

氏倫は御成御門を急遽江戸の宮大工を召集し突貫で造築し、大広間の車寄せの屋根も、彫物師を集めて飾り破風を造らせ現行の破風の上から見栄えよく貼り付けさせるなど 上様に喜ばれる設えを急ぎ用意した。


やがて吉宗は念願の駒姫と対面する日を迎える。

有馬氏倫の屋敷では、奥越藩息女の忘れ形見 駒と吉宗の対面前に下前田藩後落胤池田龍之介君こと元神鶴藩士水埜彦四郎との拝謁を吉宗が求めた。

全て吉宗自らが内々に詮議すると御側御用取次加納久通や有馬氏倫の反対を押し切っての事だった。


新しく築営した有馬屋敷の御成御門が一度だけ開門した。この後幕末迄開門した記録は無い。

吉宗を乗せた〝乗物籠〟が大広間の車寄せに到着した。

有馬氏倫 奥方 以下お目見えのお許しが出た配下数人が警護もかねて大広間車寄せで地べたに平伏し 乗物よりお出ましになる吉宗を出迎えた。

「四郎右衛門っ 苦しゅうない…面を上げよーほれ見てみよ 紀州に帰ったかと思わせる顔触れ、今日は無礼公で、おおいに語ろぞっ」

加納久通、大岡越前守、小笠原政登 等紀州時代の側近中の側近が吉宗に同行して来た。
吉宗は上機嫌で有馬屋敷表玄関より 大広間に入った。

大広間から廊下を通り吉宗は上上段之間へ座した。
上上段之間は屋敷主が座す上段之間の左の一段高い所に設けられていた。有馬屋敷の主有馬氏倫は大名格ではない為上段之間を挟んで中段之間で吉宗を見上げる形で出迎えていた。

「有馬っ今日は無礼公で良い。水埜彦四郎を之に連れて参れ」


「御意っ 上様……下前田藩池田龍之介様を之へお連れ申せっ」

有馬家家臣の案内で 客間より水埜彦四郎が中段之間に参じた。
座る位置により 上上段之間の吉宗から彦四郎の姿が見えない。

「上様、池田龍之介様(水埜彦四郎)まかり越しましてございまする」
有馬氏倫の声はするが 彦四郎の姿を確かめたい吉宗は
「水埜彦四郎っ近こう寄れ 、余も上段に移るゆえな…」

吉宗は上上段之間を降り 上段之間違棚を背に正面をみた。

中段之間最下手中央に平伏す男を見て、
「其の方が水埜彦四郎であるか、下前田藩池田龍之介であるな」

吉宗は男に言葉をかけた。

「はっはぁ…元神鶴藩江戸詰家老水埜彦四郎にございまする。」


「其の方、己の自出について知っておろうの?正直に申せ 余が直々に詮議いたした上で、改めて沙汰を下す。」

吉宗が直々詮議すると言ってしまった以上この場に同席している幕閣御側御用取次加納久通も、同職有馬氏倫 小姓組番頭小笠原政登、大岡越前守の誰もが手出し口出し出来なくなってしまった。水埜彦四郎が居ることで城中御座之間でのうちうちの話し合いでは無くなってしまったからだ。


同席の四名は心中穏やかでは無くなった。

「さて、これから其の方は、水埜の性を名乗り続けるのか、下前田の正式な家督継承者として池田龍之介を名乗るのか?」

「畏れながら、御詮議の途中なれば、私めの望み云う立場には在らずと考えまする。故に公方様の御髄に 従わせていただきまする」

「そうか、神妙な心掛けである。では、呼び名として彦四郎と呼ぶ、さて、彦四郎…其の方先ずは、よくぞ亡き猿渡頼母之正と力合わせ、由宇姫、駒姫を守ってくれた。礼をもうす。返す返す由宇が落命した事が口惜しい。由宇姫が命何故に狙われていたのか、其の方達の今までの行状も含め嘘偽りなくこの場で述べよ」

吉宗は御庭番衆が細かく細部まで集めた情報、神鶴藩下屋敷で謹慎中の彦四郎の同輩の詮議での情報 下前田江戸家老岩井弾膳の供述 唐丸籠にて護送されてきた於勢の方、神鶴藩国家老国部伊織の供述を全て吟味した上での当事者 彦四郎の供述を聴く必要があった。

彦四郎は神鶴藩騒動から今までのいきさつ、自分や仲間が関わってきた事柄や自分達が集めた情報と証拠、協力してくれた商人などを上様の質問に沿って告白していった。
御庭番衆と江戸表に入り、神鶴藩下屋敷で行動を共にしてきた同士とお互いの無事をめでたこと、そして、藩主安藤直胤の上屋敷での自刃、片岡魚丸の連座を知り

「片岡を江戸へ遣わしたのはこの私っ…殿の自刃を知った時連座できればと口惜しゅう御座りました。しかし、殿の乱心が事実無根である事、…下前田藩家老岩井弾膳 神鶴藩家老国部伊織 この両名の私腹を肥やさんとする悪辣非道の数々、これを償わせずには、殿の下には参れぬと皆にきつく申しおくった所存…」


御庭番衆が吉宗に奏上した情報は、当事者である水埜彦四郎が話した内容とほぼ相違がない事が、わかった。


奥越藩 神鶴藩の騒動の元は、鬼怒ケ沢の砂金から始まった。




  





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