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第70話 公爵は倒れる
その日の朝、アークライト公爵邸は、蜂の巣をつついたような騒ぎに見舞われた。
「大変だ! 氷嚢を! 誰か、すぐに王都から筆頭侍医を呼んでこい!」
「お湯が足りません! 早く厨房から運んでちょうだい!」
私が朝食の準備を確認しようと廊下へ出た時、血相を変えたメイドたちが銀の洗面器やタオルを抱えて右往左往していた。
普段は足音ひとつ立てずに歩く洗練された使用人たちが、まるでこの世の終わりのような顔をして駆け回っている。
初老の執事長でさえ、額に脂汗を浮かべてオロオロと指示を出していた。
「執事長、一体何があったのですか?」
「ア、アリーナ様! お恥ずかしい限りですが、旦那様が……クライド様がお倒れになったのです!」
執事長の言葉に、私は心臓が冷たい手で掴まれたようにドクンと跳ねた。
「義兄様が!? お怪我ですか、それとも……」
「いえ、過労による高熱のようです。今朝、執務室で倒れておられるのをメイドが発見いたしまして。意識は戻られたのですが、火のように熱く、お立ちになることもできず……」
あの氷のように冷徹で、どれほどの激務でも顔色一つ変えなかった義兄様が倒れた。
だが、無理もない。お姉様たちが引き起こした横領の穴埋め、領地派閥の収束工作に王宮への報告。義兄様はこの数週間、不眠不休で働き続けていたのだ。
長年張り詰めていた緊張の糸が、私という家政の代行者を得たことでふっと緩み、蓄積されていた疲労が一気に牙を剥いたのだろう。
「パパーッ!!」
その時、廊下の向こうからパタパタと小さな足音が響き、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしたレオが走ってきた。
彼は私のドレスにすがりつき、しゃくり上げながら叫んだ。
「叔母様ぁっ! パパが、パパが死んじゃう! お顔が真っ赤で、息がハァハァしてて……嫌だ、パパがいなくなっちゃうよぉ!」
「レオ坊ちゃま、大丈夫ですよ。落ち着いて」
私はしゃがみ込み、パニックを起こしている小さな体をぎゅっと抱きしめた。
母親に愛されなかったレオにとって、義兄様は世界を支える唯一の巨大な柱だ。その柱が崩れ落ちる姿は、彼の幼い心にどれほどの恐怖を与えたことだろう。
「お父様は死んだりしません。ただ、お仕事のしすぎで、お体が『少し休ませて』と熱を出して怒っているだけです。魔法のお薬と、美味しいご飯を食べれば、すぐに元気なパパに戻りますからね」
「ほ、ほんと……?」
「ええ、本当です。だからレオ坊ちゃまは、お父様が早く元気になるように、お部屋で『パパが元気になる絵』を描いて待っていてくれませんか? お父様、レオ坊ちゃまの絵を見たら、きっと魔法みたいに元気が湧いてきますよ」
「うんっ……僕、お絵かきする! いっぱいいっぱい描く!」
レオはようやく涙を拭い、力強く頷いてメイドと共に自分の部屋へと戻っていった。
彼を見送った後、私はパニックに陥っている執事長と使用人たちに向き直り、パンッと一つ大きく柏手を打った。
「皆様、落ち着きなさい!」
凛とした私の声に、使用人たちの動きがピタリと止まる。
「大変だ! 氷嚢を! 誰か、すぐに王都から筆頭侍医を呼んでこい!」
「お湯が足りません! 早く厨房から運んでちょうだい!」
私が朝食の準備を確認しようと廊下へ出た時、血相を変えたメイドたちが銀の洗面器やタオルを抱えて右往左往していた。
普段は足音ひとつ立てずに歩く洗練された使用人たちが、まるでこの世の終わりのような顔をして駆け回っている。
初老の執事長でさえ、額に脂汗を浮かべてオロオロと指示を出していた。
「執事長、一体何があったのですか?」
「ア、アリーナ様! お恥ずかしい限りですが、旦那様が……クライド様がお倒れになったのです!」
執事長の言葉に、私は心臓が冷たい手で掴まれたようにドクンと跳ねた。
「義兄様が!? お怪我ですか、それとも……」
「いえ、過労による高熱のようです。今朝、執務室で倒れておられるのをメイドが発見いたしまして。意識は戻られたのですが、火のように熱く、お立ちになることもできず……」
あの氷のように冷徹で、どれほどの激務でも顔色一つ変えなかった義兄様が倒れた。
だが、無理もない。お姉様たちが引き起こした横領の穴埋め、領地派閥の収束工作に王宮への報告。義兄様はこの数週間、不眠不休で働き続けていたのだ。
長年張り詰めていた緊張の糸が、私という家政の代行者を得たことでふっと緩み、蓄積されていた疲労が一気に牙を剥いたのだろう。
「パパーッ!!」
その時、廊下の向こうからパタパタと小さな足音が響き、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしたレオが走ってきた。
彼は私のドレスにすがりつき、しゃくり上げながら叫んだ。
「叔母様ぁっ! パパが、パパが死んじゃう! お顔が真っ赤で、息がハァハァしてて……嫌だ、パパがいなくなっちゃうよぉ!」
「レオ坊ちゃま、大丈夫ですよ。落ち着いて」
私はしゃがみ込み、パニックを起こしている小さな体をぎゅっと抱きしめた。
母親に愛されなかったレオにとって、義兄様は世界を支える唯一の巨大な柱だ。その柱が崩れ落ちる姿は、彼の幼い心にどれほどの恐怖を与えたことだろう。
「お父様は死んだりしません。ただ、お仕事のしすぎで、お体が『少し休ませて』と熱を出して怒っているだけです。魔法のお薬と、美味しいご飯を食べれば、すぐに元気なパパに戻りますからね」
「ほ、ほんと……?」
「ええ、本当です。だからレオ坊ちゃまは、お父様が早く元気になるように、お部屋で『パパが元気になる絵』を描いて待っていてくれませんか? お父様、レオ坊ちゃまの絵を見たら、きっと魔法みたいに元気が湧いてきますよ」
「うんっ……僕、お絵かきする! いっぱいいっぱい描く!」
レオはようやく涙を拭い、力強く頷いてメイドと共に自分の部屋へと戻っていった。
彼を見送った後、私はパニックに陥っている執事長と使用人たちに向き直り、パンッと一つ大きく柏手を打った。
「皆様、落ち着きなさい!」
凛とした私の声に、使用人たちの動きがピタリと止まる。
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