私と子供より、夫は幼馴染とその子供のほうが大切でした。

小野 まい

文字の大きさ
2 / 15

第1話 夫の優先順位

しおりを挟む
蝋燭ろうそくの炎が、じりじりと音を立てて芯を焦がしている。屋敷の食堂にある長大なテーブルには、銀食器が整然と並べられていた。磨き上げられたカトラリーは、主の不在を嘲笑うかのように冷たい輝きを放っている。

柱時計が重々しい音を立てて、夜の十時を告げた。


「……奥様。これ以上はお体に障ります」


老執事のセバスチャンが痛ましげな表情で私、エリザベス・フォン・レインバーグに声をかけた。私はゆっくりと顔を上げる。

第七回目の結婚記念日で、今夜のために用意させた極上の鴨のコンフィは、厨房で温め直されることもなく冷え切っていることだろう。


「オスカー様は、まだ戻られないの?」 

「はっ……。先ほど、使いの者が参りました」 

「使いの者? ご本人ではなく?」


セバスチャンが言い淀む。その僅かな間の取り方で私は全てを悟った。ああ、またかと。胸の奥に鉛を流し込まれたような重苦しさが広がる。


「……マリア様が、急な発熱で倒れられたとのことで」

「発熱」


私は小さく溜息をついた。マリアは夫オスカーの幼馴染であり、一年前に離婚して出戻ってきた男爵令嬢。

そして、あろうことか夫が屋敷の近くに別邸まであてがって世話をしている可哀想なシングルマザー。

先週は「息子のカイル君が怪我をした」その前は「嵐が怖くて眠れない」そして今夜は「マリアが発熱」だ。


「……そう。それは大変ね」

私の声は、自分でも驚くほど平坦だった。普通ならここで怒るべきなのかもしれない。

皿の一枚でも割って、「私とあの女、どっちが大事なの!」と叫べば、少しは気が晴れるのだろうか。  

けれど、私は公爵家の娘として厳しく育てられた。感情を露わにして取り乱すなど矜持が許さない。

それに何より夫は「困っている友人を助ける」という、彼なりの正義を行っているつもりなのだ。そこを責めれば、私が「心の狭い冷酷な妻」になる。それが彼の理屈だった。


「使いの者は、夫がいつ戻ると?」 

「それが……マリア様の容態が落ち着くまで、ついていてやりたいと」 

「……記念日のディナーをすっぽかして?」 

「申し訳ございません」


セバスチャンが深く頭を下げる。彼が謝る必要などないのに。私はナプキンをテーブルに置いた。絹の擦れる音が、静寂に大きく響く。


「セバスチャン、主治医のスタン先生を呼んでちょうだい」 

「えっ? 奥様、お加減が……」 

「違うわ。マリア様よ。熱発で倒れられたのでしょう? 素人のオスカー様がついていたところで、何の役にも立たないわ。専門家を派遣するのが、本妻としての『務め』でしょう?」


私は立ち上がった。心配するふりをして様子を見に行く。いや、ふりではない。万が一本当に重とくなら大変だ。そう、私は正しいことをする。誰に恥じることもない正当な行いだ。

そう自分に言い聞かせなければ、惨めさで足がすくんでしまいそうだったから。

馬車の車輪が石畳を叩く音が、私の心拍数と重なる。マリアの住む別邸は、馬車で十五分ほどの距離にあった。皮肉なことに、そこはかつて私たちが新婚時代を過ごすはずだった離れだ。

「マリアには住むところがないから」と、オスカーが強引に彼女を住まわせてしまった場所。

夜気は冷たく、窓ガラスが白く曇る。隣には、急な呼び出しにも関わらず駆けつけてくれたスタン医師が控えている。彼は何も聞かず、ただ私の横顔を気遣わしげに見つめていた。



「到着いたしました」

御者の声と共に、馬車が止まる。私は窓の外を見た。

「……あら?」

違和感があった。熱を出して倒れている病人がいる家にしては、あまりにも明るい。一階の食堂からは、煌々とした明かりが漏れ、カーテンの隙間から暖かな色が溢れ出ている。

もしや、医者を呼ぶ暇もなく慌てふためいているのだろうか。

「急ぎましょう」


私はショールを羽織り直し、馬車を降りた。スタン医師も慌てて後に続く。玄関へと向かう足音が、砂利を踏みしめる。その時だった。

『あはははは! オスカーったら、やめてよぉ!』

鈴を転がすような甘ったるい笑い声。私の足が止まって心臓が嫌な音を立てて跳ねた。それは苦しむ病人の声ではなくて、とびきり楽しそうなマリアの声だ。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

亡き姉を演じ初恋の人の妻となった私は、その日、“私”を捨てた

榛乃
恋愛
伯爵家の令嬢・リシェルは、侯爵家のアルベルトに密かに想いを寄せていた。 けれど彼が選んだのはリシェルではなく、双子の姉・オリヴィアだった。 二人は夫婦となり、誰もが羨むような幸福な日々を過ごしていたが――それは五年ももたず、儚く終わりを迎えてしまう。 オリヴィアが心臓の病でこの世を去ったのだ。 その日を堺にアルベルトの心は壊れ、最愛の妻の幻を追い続けるようになる。 そんな彼を守るために。 そして侯爵家の未来と、両親の願いのために。 リシェルは自分を捨て、“姉のふり”をして生きる道を選ぶ。 けれど、どれほど傍にいても、どれほど尽くしても、彼の瞳に映るのはいつだって“オリヴィア”だった。 その現実が、彼女の心を静かに蝕んでゆく。 遂に限界を越えたリシェルは、自ら命を絶つことに決める。 短剣を手に、過去を振り返るリシェル。 そしていよいよ切っ先を突き刺そうとした、その瞬間――。

全てから捨てられた伯爵令嬢は。

毒島醜女
恋愛
姉ルヴィが「あんたの婚約者、寝取ったから!」と職場に押し込んできたユークレース・エーデルシュタイン。 更に職場のお局には強引にクビを言い渡されてしまう。 結婚する気がなかったとは言え、これからどうすればいいのかと途方に暮れる彼女の前に帝国人の迷子の子供が現れる。 彼を助けたことで、薄幸なユークレースの人生は大きく変わり始める。 通常の王国語は「」 帝国語=外国語は『』

巻き戻される運命 ~私は王太子妃になり誰かに突き落とされ死んだ、そうしたら何故か三歳の子どもに戻っていた~

アキナヌカ
恋愛
私(わたくし)レティ・アマンド・アルメニアはこの国の第一王子と結婚した、でも彼は私のことを愛さずに仕事だけを押しつけた。そうして私は形だけの王太子妃になり、やがて側室の誰かにバルコニーから突き落とされて死んだ。でも、気がついたら私は三歳の子どもに戻っていた。

この結婚には、意味がある?

みこと。
恋愛
公爵家に降嫁した王女アリアは、初夜に夫から「オープンマリッジ」を提案される。 婚姻関係を維持しながら、他の異性との遊戯を認めろ、という要求を、アリアはどう解釈するのか? 王宮で冷遇されていた王女アリアの、密かな目的とは。 この結婚は、アリアにとってどんな意味がある? ※他のサイトにも掲載しています。 ※他タイトル『沈黙の聖女は、ある日すべてを暴露する』も収録。←まったく別のお話です

完結 私は何を見せられているのでしょう?

音爽(ネソウ)
恋愛
「あり得ない」最初に出た言葉がそれだった

その眼差しは凍てつく刃*冷たい婚約者にウンザリしてます*

音爽(ネソウ)
恋愛
義妹に優しく、婚約者の令嬢には極寒対応。 塩対応より下があるなんて……。 この婚約は間違っている? *2021年7月完結

他の人を好きになったあなたを、私は愛することができません

天宮有
恋愛
 公爵令嬢の私シーラの婚約者レヴォク第二王子が、伯爵令嬢ソフィーを好きになった。    第三王子ゼロアから聞いていたけど、私はレヴォクを信じてしまった。  その結果レヴォクに協力した国王に冤罪をかけられて、私は婚約破棄と国外追放を言い渡されてしまう。  追放された私は他国に行き、数日後ゼロアと再会する。  ゼロアは私を追放した国王を嫌い、国を捨てたようだ。  私はゼロアと新しい生活を送って――元婚約者レヴォクは、後悔することとなる。

貴方が選んだのは全てを捧げて貴方を愛した私ではありませんでした

ましゅぺちーの
恋愛
王国の名門公爵家の出身であるエレンは幼い頃から婚約者候補である第一王子殿下に全てを捧げて生きてきた。 彼を数々の悪意から守り、彼の敵を排除した。それも全ては愛する彼のため。 しかし、王太子となった彼が最終的には選んだのはエレンではない平民の女だった。 悲しみに暮れたエレンだったが、家族や幼馴染の公爵令息に支えられて元気を取り戻していく。 その一方エレンを捨てた王太子は着々と破滅への道を進んでいた・・・

処理中です...