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第16話 息子と母の絆
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私の心の中で最後の一つ、重い鎖が音を立てて砕け散った。
子供から父親を奪う罪悪感。心の中でモヤモヤしていた唯一の理由が今、消滅した。私が奪うのではなく息子自身が「いらない」と言ったのだ。
私は立ち上がり、オスカーを見据えた。彼は顔面蒼白で、パクパクと口を開閉させている。
何が起きたのか理解できていない。いや、自分が捨てられたという事実を理解したくないのだ。
「……聞きましたね、オスカー」
私の声は驚くほど冷静だった。
「これが答えです。貴方は今夜、妻だけでなく、息子も失いました」
「ま、待て……エリザ、違うんだ、俺はただ教育のために……」
「教育? ええ、素晴らしい教育でしたわ。反面教師としての役割を、完璧に果たされましたもの」
私はノアの手を引いた。温かい小さな手。この手を守るためなら、私は悪魔に魂を売ってもいいと思っていたが、その必要はなさそうだ。この子はもう自分で歩ける。
「セバスチャン」
「はっ」
影のように控えていた執事が、一歩前に出る。彼の目にも、うっすらと涙が浮かんでいるように見えた。
「私とノアは、今夜から東の離れに移ります。この本館は、旦那様とマリア様たちに差し上げますわ」
「かしこまりました。すぐに準備を」
「なっ、待て! 離れに移るだと!? そんなことをしたら世間体が……!」
オスカーが慌てて叫ぶ。この期に及んで、まだ世間体などと言っているのか。
「世間体?」
私は肩越しに彼を振り返り優雅に微笑んだ。
「ご心配なく。じきに『元・夫』になられる方と一つ屋根の下に住む方が、よほど世間体が悪うございますから」
私はオスカーの返事を待たず、ノアと共に階段を上った。
「どういうこと? 離婚? じゃあ私が侯爵夫人? やったー!」
背後でマリアが的外れな歓声を上げた。
「マリア黙れ!」
その後、オスカーがマリアを怒鳴り散らす声が聞こえた。
泥船が沈んでいく音がする。けれど、もう私たちがそれに巻き込まれることはない。
その夜、東の離れの寝室で私はノアと並んでベッドに入った。質素だが静かで清潔な部屋。雨音だけが優しく響いている。
「……お母様」
「なあに?」
「僕、悪い子かな。お父様のこと、捨てちゃった」
ノアが布団から顔だけを出して尋ねる。私は彼のさらさらの髪を撫でた。
「いいえ。それは『勇気』っていうのよ。ノアは誰よりも賢くて、強い子よ。あなたを大切にしない人を、大切にする必要なんてないの」
「そっか……。勇気、か」
ノアは安心したように目を閉じた。やがて、規則正しい寝息が聞こえ始める。
私はサイドテーブルの引き出しから、一通の手紙を取り出した。レオナルド様から渡されたものだ。
表書きには『離婚協議書』、そして『慰謝料請求書』だ。中身はすでに完成している。あとは私のサインと、最後の引き金を引くだけ。
窓の外を見ると、雨雲の切れ間から月が顔を覗かせていた。明日は晴れるだろう。そして明日は、レオナルド様による経済封鎖が実行される日だ。
お金も名誉も家族も失ったオスカーが、どこまで墜ちていくのか。それを高みから見物させてもらおう。
「おやすみなさい、ノア。……そしてさようなら、オスカー」
私は手紙を胸に抱き、深く満ち足りた眠りについた。
子供から父親を奪う罪悪感。心の中でモヤモヤしていた唯一の理由が今、消滅した。私が奪うのではなく息子自身が「いらない」と言ったのだ。
私は立ち上がり、オスカーを見据えた。彼は顔面蒼白で、パクパクと口を開閉させている。
何が起きたのか理解できていない。いや、自分が捨てられたという事実を理解したくないのだ。
「……聞きましたね、オスカー」
私の声は驚くほど冷静だった。
「これが答えです。貴方は今夜、妻だけでなく、息子も失いました」
「ま、待て……エリザ、違うんだ、俺はただ教育のために……」
「教育? ええ、素晴らしい教育でしたわ。反面教師としての役割を、完璧に果たされましたもの」
私はノアの手を引いた。温かい小さな手。この手を守るためなら、私は悪魔に魂を売ってもいいと思っていたが、その必要はなさそうだ。この子はもう自分で歩ける。
「セバスチャン」
「はっ」
影のように控えていた執事が、一歩前に出る。彼の目にも、うっすらと涙が浮かんでいるように見えた。
「私とノアは、今夜から東の離れに移ります。この本館は、旦那様とマリア様たちに差し上げますわ」
「かしこまりました。すぐに準備を」
「なっ、待て! 離れに移るだと!? そんなことをしたら世間体が……!」
オスカーが慌てて叫ぶ。この期に及んで、まだ世間体などと言っているのか。
「世間体?」
私は肩越しに彼を振り返り優雅に微笑んだ。
「ご心配なく。じきに『元・夫』になられる方と一つ屋根の下に住む方が、よほど世間体が悪うございますから」
私はオスカーの返事を待たず、ノアと共に階段を上った。
「どういうこと? 離婚? じゃあ私が侯爵夫人? やったー!」
背後でマリアが的外れな歓声を上げた。
「マリア黙れ!」
その後、オスカーがマリアを怒鳴り散らす声が聞こえた。
泥船が沈んでいく音がする。けれど、もう私たちがそれに巻き込まれることはない。
その夜、東の離れの寝室で私はノアと並んでベッドに入った。質素だが静かで清潔な部屋。雨音だけが優しく響いている。
「……お母様」
「なあに?」
「僕、悪い子かな。お父様のこと、捨てちゃった」
ノアが布団から顔だけを出して尋ねる。私は彼のさらさらの髪を撫でた。
「いいえ。それは『勇気』っていうのよ。ノアは誰よりも賢くて、強い子よ。あなたを大切にしない人を、大切にする必要なんてないの」
「そっか……。勇気、か」
ノアは安心したように目を閉じた。やがて、規則正しい寝息が聞こえ始める。
私はサイドテーブルの引き出しから、一通の手紙を取り出した。レオナルド様から渡されたものだ。
表書きには『離婚協議書』、そして『慰謝料請求書』だ。中身はすでに完成している。あとは私のサインと、最後の引き金を引くだけ。
窓の外を見ると、雨雲の切れ間から月が顔を覗かせていた。明日は晴れるだろう。そして明日は、レオナルド様による経済封鎖が実行される日だ。
お金も名誉も家族も失ったオスカーが、どこまで墜ちていくのか。それを高みから見物させてもらおう。
「おやすみなさい、ノア。……そしてさようなら、オスカー」
私は手紙を胸に抱き、深く満ち足りた眠りについた。
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