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第20話 歪んだ教育
朝の光が差し込んでいるはずなのに、その部屋の空気は墓地のように澱んでいた。
レインバーグ侯爵家の本館、一階にある応接室。かつては華やかな談笑が響き、最高級の紅茶の香りが漂っていたその場所には、今は一人の生ける屍が座っていた。
この屋敷の名ばかりの主人、オスカーである。
彼は、華やかでゴージャスな金色を基調とした革張りのソファに深く沈み込んでいた。その顔色は土気色で頬はこけ、目は落ち窪んでいる。
自慢だったブロンドの髪は脂ぎって乱れ、着ているシャツは昨日のままで皺だらけになっていた。
テーブルの上には飲みかけのぬるい水と、かじりかけの硬い黒パンが放置されている。
「……くそっ」
乾いた唇から苦々しい思いがこぼれる。マリアとの罵り合いで一晩中、地獄だった。
『お腹すいた』と泣き叫ぶカイル。『あんたが甲斐性なしだからよ!』とヒステリーを起こして皿を割るマリア。『俺だって被害者だ!』と応戦する自分。
空腹と疲労、そして何よりプライドの崩壊が、彼らの理性を食い尽くしていた。
夜明け前、ようやくマリアとカイルが泣き疲れて眠った。その後、オスカーは泥のように眠りに落ち……そして今、最悪の目覚めを迎えたのだ。
「……マリア? カイル?」
オスカーは重い頭を上げて周囲を見渡した。二人の姿がない。朝の警備員によって本館のロックは解除されているはずだ。
まさか、愛想を尽かして出て行ったのか? 不安が胸をよぎる。
「金のない私を見捨てる気か?」
オスカーはよろめきながら立ち上がり、光の射すテラスの方へと足を向けた。
その頃。マリアとカイルは、屋敷の庭園を歩いていた。
「ママぁ、お腹すいたよぉ……」
「我慢しなさい、カイル。今、何かいい方法がないか考えてるんだから」
マリアは苛立ちを隠そうともせずに息子の手を引いていた。彼女の目つきは鋭く、獲物を探す獣のようだった。
本館の厨房にはもう何もない。だが、あの場所なら。
マリアの視線の先には、木々の向こうに佇む東の離れがあった。白壁の美しいその建物からは、朝食を作る煙が立ち上っている。
風に乗って焼きたてのベーコンと、甘いパンケーキの香りが漂ってきた。
「うわぁ、いい匂い! あっちに行こうよ!」
「あそこには、腹立たしいエリザがいるのよ」
「ママ。パンケーキが食べたい!」
「……そうね。何か食べ物をもらいましょう。むしろ、分けてもらうのは当然だわ!」
マリアの瞳に、どす黒い嫉妬の炎が宿る。私たちがこんなに惨めな思いをしているのに、あの女は品良く朝のひとときを過ごしている。
私が手に入れるはずだった幸せを、あの女が不当に独占しているのだから許されないことだ。
「あ!」
カイルが声を上げた。離れの手前、バラ園の近くにある開けた芝生の上に小さな人影があった。ノアだ。
彼は一人で木剣を振っていた。まだあどけない体つきだが、その表情は真剣そのもの。汗を拭い呼吸を整え、また剣を振る。その姿は、朝の光の中で神々しいほどに輝いて見えた。
その輝きが、マリアの神経を逆撫でした。
(なによ、あの目。……私たちの苦しみを思いもしないで幸せそうに……許せない。誰のおかげでご飯が食べられていると思ってるの?)
歪んだ論理。しかし、追い詰められたマリアにはそれが正義だった。彼女はしゃがみ込み、カイルの耳元で囁いた。
「ねえ、カイル。あの子を見て」
「うん。ノア君だ」
「あの子のせいで、カイルはパンケーキが食べられないのよ」
「えっ?」
「あの子がパパとママをいじめて、ご飯を独り占めしてるの。悪い子ね」
「……悪い子なの?」
「そうよ。だから、カイルが懲らしめてあげなさい。そうしたら、きっとパンケーキを返してくれるわ」
悪魔の囁きだった。空腹で判断力の鈍った六歳の子供に、憎悪を植え付ける行為。カイルの目に単純な怒りの色が浮かんだ。
レインバーグ侯爵家の本館、一階にある応接室。かつては華やかな談笑が響き、最高級の紅茶の香りが漂っていたその場所には、今は一人の生ける屍が座っていた。
この屋敷の名ばかりの主人、オスカーである。
彼は、華やかでゴージャスな金色を基調とした革張りのソファに深く沈み込んでいた。その顔色は土気色で頬はこけ、目は落ち窪んでいる。
自慢だったブロンドの髪は脂ぎって乱れ、着ているシャツは昨日のままで皺だらけになっていた。
テーブルの上には飲みかけのぬるい水と、かじりかけの硬い黒パンが放置されている。
「……くそっ」
乾いた唇から苦々しい思いがこぼれる。マリアとの罵り合いで一晩中、地獄だった。
『お腹すいた』と泣き叫ぶカイル。『あんたが甲斐性なしだからよ!』とヒステリーを起こして皿を割るマリア。『俺だって被害者だ!』と応戦する自分。
空腹と疲労、そして何よりプライドの崩壊が、彼らの理性を食い尽くしていた。
夜明け前、ようやくマリアとカイルが泣き疲れて眠った。その後、オスカーは泥のように眠りに落ち……そして今、最悪の目覚めを迎えたのだ。
「……マリア? カイル?」
オスカーは重い頭を上げて周囲を見渡した。二人の姿がない。朝の警備員によって本館のロックは解除されているはずだ。
まさか、愛想を尽かして出て行ったのか? 不安が胸をよぎる。
「金のない私を見捨てる気か?」
オスカーはよろめきながら立ち上がり、光の射すテラスの方へと足を向けた。
その頃。マリアとカイルは、屋敷の庭園を歩いていた。
「ママぁ、お腹すいたよぉ……」
「我慢しなさい、カイル。今、何かいい方法がないか考えてるんだから」
マリアは苛立ちを隠そうともせずに息子の手を引いていた。彼女の目つきは鋭く、獲物を探す獣のようだった。
本館の厨房にはもう何もない。だが、あの場所なら。
マリアの視線の先には、木々の向こうに佇む東の離れがあった。白壁の美しいその建物からは、朝食を作る煙が立ち上っている。
風に乗って焼きたてのベーコンと、甘いパンケーキの香りが漂ってきた。
「うわぁ、いい匂い! あっちに行こうよ!」
「あそこには、腹立たしいエリザがいるのよ」
「ママ。パンケーキが食べたい!」
「……そうね。何か食べ物をもらいましょう。むしろ、分けてもらうのは当然だわ!」
マリアの瞳に、どす黒い嫉妬の炎が宿る。私たちがこんなに惨めな思いをしているのに、あの女は品良く朝のひとときを過ごしている。
私が手に入れるはずだった幸せを、あの女が不当に独占しているのだから許されないことだ。
「あ!」
カイルが声を上げた。離れの手前、バラ園の近くにある開けた芝生の上に小さな人影があった。ノアだ。
彼は一人で木剣を振っていた。まだあどけない体つきだが、その表情は真剣そのもの。汗を拭い呼吸を整え、また剣を振る。その姿は、朝の光の中で神々しいほどに輝いて見えた。
その輝きが、マリアの神経を逆撫でした。
(なによ、あの目。……私たちの苦しみを思いもしないで幸せそうに……許せない。誰のおかげでご飯が食べられていると思ってるの?)
歪んだ論理。しかし、追い詰められたマリアにはそれが正義だった。彼女はしゃがみ込み、カイルの耳元で囁いた。
「ねえ、カイル。あの子を見て」
「うん。ノア君だ」
「あの子のせいで、カイルはパンケーキが食べられないのよ」
「えっ?」
「あの子がパパとママをいじめて、ご飯を独り占めしてるの。悪い子ね」
「……悪い子なの?」
「そうよ。だから、カイルが懲らしめてあげなさい。そうしたら、きっとパンケーキを返してくれるわ」
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