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第22話 夫は絶望感
「旦那様、お待ちください」
制止したのは集まっていた使用人の一人、庭師の老人だった。この屋敷に四十年仕える古株だ。
「私も、あそこの生垣の手入れをしながら見ておりました」
「な、ならお前も見たろう! ノアがやったのを!」
「いいえ。ノア様は指一本触れておりません」
庭師は淡々とだが断固として告げた。
「カイル様が叫びながら突っ込んでいかれ、ノア様がそれを避けた。カイル様は勢い余って自分で転ばれたのです」
「な……?」
オスカーはその場で固まり、信じられないような顔をした。
「そ、そんな……まさか……」
「私も見ておりました」
今度は、離れの警備を担当していた騎士が歩み出た。
「マリア様が、カイル様に何かを耳打ちした後、カイル様が走り出しました。明らかに攻撃の意思を持っていました。ノア様は正当防衛……いえ、回避行動を取ったに過ぎません」
「そう、なのか?」
「あ、あの……私も見ていました。ノア様は悪くありません」
騎士の言葉にオスカーが不審そうに反応すると、ノアの様子を少し離れた場所から見守っていた侍女が控えめに話し始めた。
次々と上がる証言。誰も、マリアの味方をしない。それは単にエリザに雇われているからではない。
日頃のノアの礼儀正しさとカイルの我儘さ、そしてマリアの人間性を使用人たちは全て見ていたからだ。
「う、嘘よ! みんな口裏を合わせて! 私たちを虐める気ね!」
マリアが金切り声を上げる。しかし、その喚き声こそが彼女の言葉の信憑性をゼロにしていた。
オスカーは、呆然と立ち尽くした。視線を落とすと、そこには木剣を持って静かに佇むノアがいる。その構えには隙がなく、瞳には理性が宿っている。
「ママ痛いよぉ、パンケーキ食べたいよぉ」
一方で、地面に転がって泣き喚くカイル。
「ノア君が悪いのよ! オスカー、私を信じて!」
そして、見苦しく責任転嫁をするマリア。どう客観的に見ても、庭師たちの言っていることの方が正しい。
「……マリア」
オスカーの声が震えた。
「お前……カイルを嗾けたのか?」
「はぁ? 何言ってるのよ!」
「カイルにノアを攻撃させて、あわよくば食い物を奪おうとしたのか!? 子供を使って!」
「私はただ……」
図星を突かれたマリアが一瞬口ごもる。その一瞬の沈黙が、オスカーにとっての決定的な答えだった。
マリアへの途方もない失望が、オスカーの胸に広がった。彼はノアを睨むのをやめて力なく手を下ろした。
「……もういい。カイルを連れて戻るぞ」
「ちょっとオスカー! ノア君に謝らせないの!? カイルが怪我したのよ!」
「マリア! 恥を上塗りするな!!」
オスカーが怒鳴った。その剣幕に、マリアとカイルがビクリと震えて黙る。
「マリア……これ以上、私を惨めな気持ちにさせないでくれ……」
オスカーはカイルを抱き上げることもせず、背を向けて歩き出した。その背中は老人のように丸まっていた。
ノアは去りゆく父親の背中を見つめ、一度だけ深く息を吐いた。そして、木剣を鞘に納める。
「……皆さん、ありがとうございます」
ノアが庭師と警備員と侍女に頭を下げる。使用人たちは、慈愛に満ちた目で幼い主人を見つめ返し深く敬礼した。
「ご立派でした、ノア様」
その言葉は、もはや父親に向けられることのない真の敬意だった。
朝の騒々しい状況は収束した。しかし、この一件はオスカーの心に消せない痕跡を残した。
マリアという女の卑しさと、自分たちがこの屋敷で完全に異物であるという事実を魂の底から理解させられたのだ。
そして、その絶望感こそが次なる破滅への引き金となる。本館に戻ったオスカーは、震える手で手紙用紙を取り出した。
「姉上が手を回しているから、身内には頼れない。すがるのは……友人たちだけだ」
だが、その友人たちもまた彼を助けたことで破滅の原因となり、さらにその友人たちから恨まれる立場になることを彼はまだ知らない。
制止したのは集まっていた使用人の一人、庭師の老人だった。この屋敷に四十年仕える古株だ。
「私も、あそこの生垣の手入れをしながら見ておりました」
「な、ならお前も見たろう! ノアがやったのを!」
「いいえ。ノア様は指一本触れておりません」
庭師は淡々とだが断固として告げた。
「カイル様が叫びながら突っ込んでいかれ、ノア様がそれを避けた。カイル様は勢い余って自分で転ばれたのです」
「な……?」
オスカーはその場で固まり、信じられないような顔をした。
「そ、そんな……まさか……」
「私も見ておりました」
今度は、離れの警備を担当していた騎士が歩み出た。
「マリア様が、カイル様に何かを耳打ちした後、カイル様が走り出しました。明らかに攻撃の意思を持っていました。ノア様は正当防衛……いえ、回避行動を取ったに過ぎません」
「そう、なのか?」
「あ、あの……私も見ていました。ノア様は悪くありません」
騎士の言葉にオスカーが不審そうに反応すると、ノアの様子を少し離れた場所から見守っていた侍女が控えめに話し始めた。
次々と上がる証言。誰も、マリアの味方をしない。それは単にエリザに雇われているからではない。
日頃のノアの礼儀正しさとカイルの我儘さ、そしてマリアの人間性を使用人たちは全て見ていたからだ。
「う、嘘よ! みんな口裏を合わせて! 私たちを虐める気ね!」
マリアが金切り声を上げる。しかし、その喚き声こそが彼女の言葉の信憑性をゼロにしていた。
オスカーは、呆然と立ち尽くした。視線を落とすと、そこには木剣を持って静かに佇むノアがいる。その構えには隙がなく、瞳には理性が宿っている。
「ママ痛いよぉ、パンケーキ食べたいよぉ」
一方で、地面に転がって泣き喚くカイル。
「ノア君が悪いのよ! オスカー、私を信じて!」
そして、見苦しく責任転嫁をするマリア。どう客観的に見ても、庭師たちの言っていることの方が正しい。
「……マリア」
オスカーの声が震えた。
「お前……カイルを嗾けたのか?」
「はぁ? 何言ってるのよ!」
「カイルにノアを攻撃させて、あわよくば食い物を奪おうとしたのか!? 子供を使って!」
「私はただ……」
図星を突かれたマリアが一瞬口ごもる。その一瞬の沈黙が、オスカーにとっての決定的な答えだった。
マリアへの途方もない失望が、オスカーの胸に広がった。彼はノアを睨むのをやめて力なく手を下ろした。
「……もういい。カイルを連れて戻るぞ」
「ちょっとオスカー! ノア君に謝らせないの!? カイルが怪我したのよ!」
「マリア! 恥を上塗りするな!!」
オスカーが怒鳴った。その剣幕に、マリアとカイルがビクリと震えて黙る。
「マリア……これ以上、私を惨めな気持ちにさせないでくれ……」
オスカーはカイルを抱き上げることもせず、背を向けて歩き出した。その背中は老人のように丸まっていた。
ノアは去りゆく父親の背中を見つめ、一度だけ深く息を吐いた。そして、木剣を鞘に納める。
「……皆さん、ありがとうございます」
ノアが庭師と警備員と侍女に頭を下げる。使用人たちは、慈愛に満ちた目で幼い主人を見つめ返し深く敬礼した。
「ご立派でした、ノア様」
その言葉は、もはや父親に向けられることのない真の敬意だった。
朝の騒々しい状況は収束した。しかし、この一件はオスカーの心に消せない痕跡を残した。
マリアという女の卑しさと、自分たちがこの屋敷で完全に異物であるという事実を魂の底から理解させられたのだ。
そして、その絶望感こそが次なる破滅への引き金となる。本館に戻ったオスカーは、震える手で手紙用紙を取り出した。
「姉上が手を回しているから、身内には頼れない。すがるのは……友人たちだけだ」
だが、その友人たちもまた彼を助けたことで破滅の原因となり、さらにその友人たちから恨まれる立場になることを彼はまだ知らない。
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