62 / 104
第61話 癒えない心の傷
「痛い、優しくして!」
一つの部屋ではマリアが喚きながら、折れた右足の骨接ぎとギプスの処置を受けていた。
骨折自体は単純なものであり、時間はかかるが完治するだろうと医師は告げた。彼女の罪の代償としては、安すぎるくらいの物理的な傷だった。
だが、隣の部屋の状況は、それとは比較にならないほど深刻だった。
ノアは、温かいお湯で泥を落とされ、清潔な寝巻きに着替えさせられていた。だが、ベッドの上で毛布に包まったまま、ガタガタと震えを止めることができずにいた。
「ノア……これを少し飲んで。体が冷え切っているわ」
エリザがベッドサイドに座り、温かいミルクの入ったカップを差し出すが、ノアは空ろな目でそれを見つめるだけだった。
ノアに物理的な外傷はなく、擦り傷程度だ。しかし、医師は首を振ってエリザに小声で告げた。
『……ひどい心的外傷(トラウマ)を受けておられます。暗闇に閉じ込められた恐怖もさることながら、最も信頼すべき父親という存在から見捨てられ、利用されたという事実が、若君の心を深く抉っているのです。……この心の傷は、薬で治るものではありません』
その言葉を聞いた時、エリザの胸は引き裂かれそうになった。
ノアは時折、ビクッと体をすくませては、「ちがうよ……ぼくは、パパの言うこと……」と夢の中で話しているかのように言葉を呟いている。
あの暗い井戸の底で、一人でどんなに恐ろしい葛藤と戦っていたのか。それを想像するだけで、エリザは自分の無力さを呪った。
「ノア……ごめんなさいね。お母様が、もっと早く見つけてあげられれば……」
エリザはカップをテーブルに置き、ノアの小さな手を両手で包み込んで、ポロポロと涙をこぼした。
「エリザ。自分を責めないでくれ」
背後から、温かく大きな手がエリザの肩を包み込んだ。レオナルドだった。
彼はノアの泥だらけの服を運び出す手伝いを終え、静かに部屋に入ってきていたのだ。
「悪いのは全て、オスカーとマリアだ。貴女は、ノアを守るために最善を尽くした」
「レオナルド様……でも、あの子の心は……」
「時間はかかる。……ですが、私たちが寄り添えば、必ず癒える日が来る」
レオナルドはエリザの隣に膝をつき、ノアのもう片方の手をそっと握った。
「ノア。君は勇敢だった。どんな騎士よりも強い心を持っている。私が保証する」
レオナルドの低く落ち着いた声が、静かな部屋に響く。
その声の波長が安心感を与えたのか、ノアの震えが少しだけ治まったように見えた。
「エリザ。私はもう、二度と貴女たちを離さない。どのような嵐が来ようとも、私が盾となり、剣となる。……共に、この子の笑顔を取り戻そう」
「……はい。はい、レオナルド様……」
エリザは涙を拭い、レオナルドの大きな手の上に自分の手を重ねた。
夫との凄惨な決別の夜。しかし、その絶望の底でエリザとレオナルド、そして傷ついたノアという三人の間に、真の家族としての深く温かい絆が確かに結ばれようとしていた。
一つの部屋ではマリアが喚きながら、折れた右足の骨接ぎとギプスの処置を受けていた。
骨折自体は単純なものであり、時間はかかるが完治するだろうと医師は告げた。彼女の罪の代償としては、安すぎるくらいの物理的な傷だった。
だが、隣の部屋の状況は、それとは比較にならないほど深刻だった。
ノアは、温かいお湯で泥を落とされ、清潔な寝巻きに着替えさせられていた。だが、ベッドの上で毛布に包まったまま、ガタガタと震えを止めることができずにいた。
「ノア……これを少し飲んで。体が冷え切っているわ」
エリザがベッドサイドに座り、温かいミルクの入ったカップを差し出すが、ノアは空ろな目でそれを見つめるだけだった。
ノアに物理的な外傷はなく、擦り傷程度だ。しかし、医師は首を振ってエリザに小声で告げた。
『……ひどい心的外傷(トラウマ)を受けておられます。暗闇に閉じ込められた恐怖もさることながら、最も信頼すべき父親という存在から見捨てられ、利用されたという事実が、若君の心を深く抉っているのです。……この心の傷は、薬で治るものではありません』
その言葉を聞いた時、エリザの胸は引き裂かれそうになった。
ノアは時折、ビクッと体をすくませては、「ちがうよ……ぼくは、パパの言うこと……」と夢の中で話しているかのように言葉を呟いている。
あの暗い井戸の底で、一人でどんなに恐ろしい葛藤と戦っていたのか。それを想像するだけで、エリザは自分の無力さを呪った。
「ノア……ごめんなさいね。お母様が、もっと早く見つけてあげられれば……」
エリザはカップをテーブルに置き、ノアの小さな手を両手で包み込んで、ポロポロと涙をこぼした。
「エリザ。自分を責めないでくれ」
背後から、温かく大きな手がエリザの肩を包み込んだ。レオナルドだった。
彼はノアの泥だらけの服を運び出す手伝いを終え、静かに部屋に入ってきていたのだ。
「悪いのは全て、オスカーとマリアだ。貴女は、ノアを守るために最善を尽くした」
「レオナルド様……でも、あの子の心は……」
「時間はかかる。……ですが、私たちが寄り添えば、必ず癒える日が来る」
レオナルドはエリザの隣に膝をつき、ノアのもう片方の手をそっと握った。
「ノア。君は勇敢だった。どんな騎士よりも強い心を持っている。私が保証する」
レオナルドの低く落ち着いた声が、静かな部屋に響く。
その声の波長が安心感を与えたのか、ノアの震えが少しだけ治まったように見えた。
「エリザ。私はもう、二度と貴女たちを離さない。どのような嵐が来ようとも、私が盾となり、剣となる。……共に、この子の笑顔を取り戻そう」
「……はい。はい、レオナルド様……」
エリザは涙を拭い、レオナルドの大きな手の上に自分の手を重ねた。
夫との凄惨な決別の夜。しかし、その絶望の底でエリザとレオナルド、そして傷ついたノアという三人の間に、真の家族としての深く温かい絆が確かに結ばれようとしていた。
あなたにおすすめの小説
「仲睦まじい夫婦」であるはずのわたしの夫は、わたしの葬儀で本性をあらわした
ぽんた
恋愛
サヤ・ラドフォード侯爵夫人が死んだ。その葬儀で、マッケイン王国でも「仲睦まじい夫婦」であるはずの彼女の夫が、妻を冒涜した。その聞くに堪えない本音。そんな夫の横には、夫が従妹だというレディが寄り添っている。サヤ・ラドフォードの棺の前で、夫とその従妹はサヤを断罪する。サヤは、ほんとうに彼らがいうような悪女だったのか?
※ハッピーエンド確約。ざまぁあり。ご都合主義のゆるゆる設定はご容赦願います。
結婚式の翌朝、夫に「皇太子の愛人だろう」と捨てられました――ですが私は、亡き国王の娘です
柴田はつみ
恋愛
母の遺した薬草店を守りながら、慎ましく暮らしていたアンリ。
そんな彼女に求婚してきたのは、国内でも名高い騎士にして公爵家当主、アルファだった。
真っすぐな想いを向けられ、彼を信じて結婚したアンリ。
けれど幸せなはずの結婚式の翌朝、夫は冷たく言い放つ。
「君を愛していると本気で思っていたのかい? 」
彼はアンリが第一皇太子と深い仲にあり、自分との結婚は身を隠すための偽装だと誤解していたのだ。
アンリは実は、亡き国王の婚外子。
皇太子にとっては、隠して守らなければならない妹だったのである。
婚約破棄された悪役令嬢ですが、面倒なので全部放置します
かきんとう
恋愛
王都の大広間に、どよめきが広がった。
天井から吊るされた巨大なシャンデリアが、何百もの蝋燭の光を反射し、きらきらと輝いている。その光の中心に立つ私は、妙に他人事のような気分で、その場の空気を眺めていた。
「エレノア・フォン・リーベルト! 私は貴様との婚約をここに破棄する!」
高らかに宣言したのは、第一王子であり私の婚約者でもあったアルベルト殿下だった。
周囲の貴族たちが一斉に息を呑み、次の瞬間には小声のざわめきが連鎖のように広がっていく。
――ああ、ついに来たのね。
【完結】あなたの隣に私は必要ですか?
らんか
恋愛
政略結婚にて、3年前より婚約し、学園卒業と共に嫁ぐ予定であったアリーシア。
しかし、諸事情により結婚式は延期され、次の結婚式の日取りさえなかなか決められない状況であった。
そんなアリーシアの婚約者ルートヴィッヒは、護衛対象である第三王女ミーアの傍を片時も離れようとしない。
月1回の婚約者同士のお茶会もすぐに切り上げてしまい、夜会へのエスコートすらしてもらった事がない。
そんな状況で、アリーシアは思う。
私はあなたの隣に必要でしょうか? あなたが求めているのは別の人ではないのでしょうかと。
* 短編です。
ご感想欄は都合により、閉じさせて頂きます。
片思いの貴方に何度も告白したけど断られ続けてきた
アリス
恋愛
幼馴染で学生の頃から、ずっと好きだった人。
高校生くらいから何十回も告白した。
全て「好きなの」
「ごめん、断る」
その繰り返しだった。
だけど彼は優しいから、時々、ご飯を食べに行ったり、デートはしてくれる。
紛らわしいと思う。
彼に好きな人がいるわけではない。
まだそれなら諦めがつく。
彼はカイル=クレシア23歳
イケメンでモテる。
私はアリア=ナターシャ20歳
普通で人には可愛い方だと言われた。
そんなある日
私が20歳になった時だった。
両親が見合い話を持ってきた。
最後の告白をしようと思った。
ダメなら見合いをすると言った。
その見合い相手に溺愛される。
必要とされなくても、私はここにいます
あう
恋愛
辺境公爵カーネル・クリスのもとへ嫁ぐことになったフィレ・バーナード。
けれど彼女は、理想の妻になろうとも、誰かの上に立とうともしなかった。
口出ししない。
判断を奪わない。
必要以上に関わらない。
ただ静かに、そこにいるだけ。
そんな彼女の在り方は、少しずつ屋敷の空気を変えていく。
張りつめていた人々の距離はやわらぎ、日々の営みは穏やかに整いはじめる。
何かを勝ち取る物語ではない。
誰かを打ち負かす物語でもない。
それでも確かに、彼女がいることで守られていくものがある。
これは、
声高に愛を叫ばなくても伝わる想いと、
何も奪わないからこそ育っていく信頼を描く、
静かでやさしい結婚生活の物語。
悪役令嬢にされたので婚約破棄を受け入れたら、なぜか全員困っています
かきんとう
恋愛
王城の大広間は、いつも以上に華やいでいた。
磨き上げられた床は燭台の光を反射し、色とりどりのドレスが揺れるたびに、まるで花畑が動いているかのように見える。貴族たちの笑い声、楽団の優雅な旋律、そして、ひそやかな噂話が、空気を満たしていた。
その中心に、私は立っていた。
――今日、この瞬間のために。
「エレノア・フォン・リーベルト嬢」
高らかに呼ばれた私の名に、ざわめきがぴたりと止む。