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第75話 テラス席の不協和音
王都の大通りに面した華やかなオープンテラスのカフェ。
行き交う人々のざわめきと、カップがソーサーに触れる上品な音が響くその空間で、通りの隅に近い薄暗いテーブルだけが奇妙な静寂と緊張に包まれていた。
「……あっ……ああっ……!」
ブライアンの喉から、ひゅっと空気が漏れるような情けない音が出た。
彼は無意識に、自分が着ている安物の擦り切れた平服と、テーブルに置かれた冷めきった薄いコーヒーを隠そうとした。
つい数日前まで、彼もまた豪奢な騎士の制服を身に纏い、高級なワイングラスを片手に真実の愛を高らかに語っていたのだ。その落差があまりにも残酷だった。
一方のニーナも、顔面を蒼白にしながら、手にした安っぽい木製の扇子で口元を隠した。
(この女は、夫に愛されなかった敗北者のはずなのに……)
だが、彼女の底の浅いプライドが、目の前の圧倒的な格差を認めることを拒絶した。
「……ご、ごきげんよう、エリザ夫人。ず、随分と……その、派手になられたこと」
ニーナは歪んだ笑みを唇に刻み、嫌味を滲ませるように口にした。
「侯爵様が大変なことになっているというのに、王都で楽しそうにお買い物とは。お気楽でよろしいですわね。それに、隣を歩いている殿方は……あら、新しいパトロンですか?」
その言葉が出た瞬間、周囲の空気が一気に数度下がったような錯覚が起きた。
エリザの背後でおとなしく控えていたレオナルドが、スッと目を細めたのだ。
「……」
レオナルドは何も言わなかった。ただ、その深淵を覗くような瞳で、ニーナとブライアンを路傍の石あるいは害虫を見るような、凍りつくような眼差しで見下ろしただけだ。
だが、それだけで十分だった。
「ひっ……!」
ニーナは、その視線が孕む凄絶な殺気と力の差を、肌が粟立つほどの恐怖として本能で理解した。
そんな男がエリザの忠実な騎士。いや、それ以上の親密な距離感で、彼女の背後を完璧に守護しているのだ。
「ニーナ……っ、エリザ様に……失礼だろう……っ!」
ブライアンは恐怖と焦りに胸を締め付けられ、言葉を途切れさせながらニーナを叱った。
「……エリザ、知り合いか」
レオナルドが、底なしの暗黒から響くような声で尋ねた。
「ええ。オスカー様の……懇意にされていたご友人の方々ですわ」
エリザは、ニーナの嫌味に対して怒ることも狼狽えることもなかった。
ただ、可哀想な子供を見るような、静かで慈愛に満ちた微笑みを浮かべたまま答えた。
「ご心配には及びませんわ、ニーナ様。オスカー様との『離縁の手続き』は、王室の全面的なお力添えにより順調に進んでおります。オスカー様はもうすぐ、レインバーグ家の人間ではなくなりますし……ですから、私が誰とどこを歩こうと、自由なのです」
王室の全面的な力添え。その言葉が、二人の胸に決定的な絶望の楔を打ち込んだ。
エリザは捨てられたのではない。王室という最強の後ろ盾を得て、自らオスカーという泥船から華麗に脱出していたのだ。
自分たちを底辺に叩き落としたのは他ならぬ王室であり、その王室が目の前のエリザを保護している。
(俺たちは……とんでもない相手を敵に回していたのか……?)
ブライアンの膝が、ガクガクと音を立てて震え始めた。
行き交う人々のざわめきと、カップがソーサーに触れる上品な音が響くその空間で、通りの隅に近い薄暗いテーブルだけが奇妙な静寂と緊張に包まれていた。
「……あっ……ああっ……!」
ブライアンの喉から、ひゅっと空気が漏れるような情けない音が出た。
彼は無意識に、自分が着ている安物の擦り切れた平服と、テーブルに置かれた冷めきった薄いコーヒーを隠そうとした。
つい数日前まで、彼もまた豪奢な騎士の制服を身に纏い、高級なワイングラスを片手に真実の愛を高らかに語っていたのだ。その落差があまりにも残酷だった。
一方のニーナも、顔面を蒼白にしながら、手にした安っぽい木製の扇子で口元を隠した。
(この女は、夫に愛されなかった敗北者のはずなのに……)
だが、彼女の底の浅いプライドが、目の前の圧倒的な格差を認めることを拒絶した。
「……ご、ごきげんよう、エリザ夫人。ず、随分と……その、派手になられたこと」
ニーナは歪んだ笑みを唇に刻み、嫌味を滲ませるように口にした。
「侯爵様が大変なことになっているというのに、王都で楽しそうにお買い物とは。お気楽でよろしいですわね。それに、隣を歩いている殿方は……あら、新しいパトロンですか?」
その言葉が出た瞬間、周囲の空気が一気に数度下がったような錯覚が起きた。
エリザの背後でおとなしく控えていたレオナルドが、スッと目を細めたのだ。
「……」
レオナルドは何も言わなかった。ただ、その深淵を覗くような瞳で、ニーナとブライアンを路傍の石あるいは害虫を見るような、凍りつくような眼差しで見下ろしただけだ。
だが、それだけで十分だった。
「ひっ……!」
ニーナは、その視線が孕む凄絶な殺気と力の差を、肌が粟立つほどの恐怖として本能で理解した。
そんな男がエリザの忠実な騎士。いや、それ以上の親密な距離感で、彼女の背後を完璧に守護しているのだ。
「ニーナ……っ、エリザ様に……失礼だろう……っ!」
ブライアンは恐怖と焦りに胸を締め付けられ、言葉を途切れさせながらニーナを叱った。
「……エリザ、知り合いか」
レオナルドが、底なしの暗黒から響くような声で尋ねた。
「ええ。オスカー様の……懇意にされていたご友人の方々ですわ」
エリザは、ニーナの嫌味に対して怒ることも狼狽えることもなかった。
ただ、可哀想な子供を見るような、静かで慈愛に満ちた微笑みを浮かべたまま答えた。
「ご心配には及びませんわ、ニーナ様。オスカー様との『離縁の手続き』は、王室の全面的なお力添えにより順調に進んでおります。オスカー様はもうすぐ、レインバーグ家の人間ではなくなりますし……ですから、私が誰とどこを歩こうと、自由なのです」
王室の全面的な力添え。その言葉が、二人の胸に決定的な絶望の楔を打ち込んだ。
エリザは捨てられたのではない。王室という最強の後ろ盾を得て、自らオスカーという泥船から華麗に脱出していたのだ。
自分たちを底辺に叩き落としたのは他ならぬ王室であり、その王室が目の前のエリザを保護している。
(俺たちは……とんでもない相手を敵に回していたのか……?)
ブライアンの膝が、ガクガクと音を立てて震え始めた。
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