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第81話 小さな勇気の芽生え
王都の空は、雲一つない澄み切った晴天だった。
レインバーグ侯爵邸の広大な庭園では、凍てつくような冷気など気にも留めない様子で、弾むような高い笑い声が響いていた。
「やあっ! そぉれっ!」
「ははは、甘いぞノア。剣を振る時は、もっと足腰にしっかり力を入れて!」
木製の短い練習剣を両手で握り締め、一生懸命に打ち込んでいくノア。
それを、上着を脱いでシャツ一枚になったレオナルドが片手で軽々と受け止めている。それでも、顔からは計り知れないほどの優しさが溢れている。
あの日、暗い井戸の底から引き上げられ、恐怖で心を閉ざしかけていた少年の姿はそこにはなかった。
陽光の下で頬を紅潮させ、大好きなレオナルドに向かって無邪気に笑いかけるノアの姿は、年齢相応の健やかな生命力に満ちていた。
「ノア、元気を取り戻してくれて、本当に良かった……」
テラスの椅子に腰掛け、温かい紅茶を飲みながらその光景を見つめるエリザの胸には、穏やかな幸福感が満ちていた。
レオナルドは公務の合間を縫っては、こうして屋敷を訪れノアの遊び相手になってくれている。
彼が示す、強くて優しくて決して裏切らない絶対的な愛情は、ノアの傷ついた心を着実に癒やしていた。
だがエリザの眉間に、ふと微かな不安がよぎる。
(……それでも、まだ……)
昼間はあんなにも元気なノアだが、夜になり部屋の明かりが消えると、時折激しいパニックを起こすことがあった。
「パパ、ごめんなさい! ぼくがいい子にするから、暗いところに捨てないで!」
泣き叫んで目を覚ますノアを、エリザは何度も強く抱きしめて背中を擦り続けてきた。
「大丈夫だ、私たちが絶対に守る」
レオナルドが泊まり込んでいる夜は、彼も一緒になってノアの手を握り朝まで語りかけてくれた。
そのおかげで、愛されているという安心感は育っている。しかし、ノアの心の奥底には未だに絶対的な恐怖の象徴としてのオスカーの幻影が、真っ黒な根を張って居座っているのだ。
無償の愛を捧げる母エリザや、剣を教える師匠であるレオナルドがいくら「もう大丈夫だ」と言葉を尽くしても、ノア自身がその恐怖を乗り越えなければ真の解放は訪れない。
(どうすれば、あの子は……)
エリザはその残酷な事実を痛感していた。
その日の午後。剣の稽古を終え、三人で昼食をとっていた時のことだった。
ノアがふいに、スプーンを置いて俯いた。
「……ママ。レオナルドおじ様」
「どうしたの、ノア? お腹がいっぱいになっちゃった?」
エリザが優しく尋ねると、ノアはキュッと小さな唇を噛み締め、それから意を決したように顔を上げた。
その瞳には、いつもの甘えるような光ではなく、不思議なほど大人びた強い決意の色が宿っていた。
「ぼく……パパとお話ししてみたい」
カチャン、と。エリザの手からフォークが滑り落ち、皿に当たって鋭い音を立てた。
「ノ、ノア……? 今、なんて……?」
「パパに、会いたい。井戸のところへ行きたいの」
エリザの顔色が、一瞬にして青ざめた。
レインバーグ侯爵邸の広大な庭園では、凍てつくような冷気など気にも留めない様子で、弾むような高い笑い声が響いていた。
「やあっ! そぉれっ!」
「ははは、甘いぞノア。剣を振る時は、もっと足腰にしっかり力を入れて!」
木製の短い練習剣を両手で握り締め、一生懸命に打ち込んでいくノア。
それを、上着を脱いでシャツ一枚になったレオナルドが片手で軽々と受け止めている。それでも、顔からは計り知れないほどの優しさが溢れている。
あの日、暗い井戸の底から引き上げられ、恐怖で心を閉ざしかけていた少年の姿はそこにはなかった。
陽光の下で頬を紅潮させ、大好きなレオナルドに向かって無邪気に笑いかけるノアの姿は、年齢相応の健やかな生命力に満ちていた。
「ノア、元気を取り戻してくれて、本当に良かった……」
テラスの椅子に腰掛け、温かい紅茶を飲みながらその光景を見つめるエリザの胸には、穏やかな幸福感が満ちていた。
レオナルドは公務の合間を縫っては、こうして屋敷を訪れノアの遊び相手になってくれている。
彼が示す、強くて優しくて決して裏切らない絶対的な愛情は、ノアの傷ついた心を着実に癒やしていた。
だがエリザの眉間に、ふと微かな不安がよぎる。
(……それでも、まだ……)
昼間はあんなにも元気なノアだが、夜になり部屋の明かりが消えると、時折激しいパニックを起こすことがあった。
「パパ、ごめんなさい! ぼくがいい子にするから、暗いところに捨てないで!」
泣き叫んで目を覚ますノアを、エリザは何度も強く抱きしめて背中を擦り続けてきた。
「大丈夫だ、私たちが絶対に守る」
レオナルドが泊まり込んでいる夜は、彼も一緒になってノアの手を握り朝まで語りかけてくれた。
そのおかげで、愛されているという安心感は育っている。しかし、ノアの心の奥底には未だに絶対的な恐怖の象徴としてのオスカーの幻影が、真っ黒な根を張って居座っているのだ。
無償の愛を捧げる母エリザや、剣を教える師匠であるレオナルドがいくら「もう大丈夫だ」と言葉を尽くしても、ノア自身がその恐怖を乗り越えなければ真の解放は訪れない。
(どうすれば、あの子は……)
エリザはその残酷な事実を痛感していた。
その日の午後。剣の稽古を終え、三人で昼食をとっていた時のことだった。
ノアがふいに、スプーンを置いて俯いた。
「……ママ。レオナルドおじ様」
「どうしたの、ノア? お腹がいっぱいになっちゃった?」
エリザが優しく尋ねると、ノアはキュッと小さな唇を噛み締め、それから意を決したように顔を上げた。
その瞳には、いつもの甘えるような光ではなく、不思議なほど大人びた強い決意の色が宿っていた。
「ぼく……パパとお話ししてみたい」
カチャン、と。エリザの手からフォークが滑り落ち、皿に当たって鋭い音を立てた。
「ノ、ノア……? 今、なんて……?」
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エリザの顔色が、一瞬にして青ざめた。
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