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第87話 悪意と蜘蛛の糸
深夜。レインバーグ侯爵邸の裏庭は月が雲に隠れ、底知れぬ暗闇に沈んでいた。
風が枯れ木を揺らす不気味な音だけが響く中、カツン、カツンと、硬い木が石畳を叩く音が近づいてくる。
離れでの軟禁生活を強いられていたマリアだった。分厚いギプスが外れ、まだ松葉杖は手放せないものの、彼女の足の怪我は確実に治りつつあった。
身体の自由が少し戻ったことで、彼女の心の中にドス黒く澱んでいた悪意が再び鎌首をもたげていた。
(……オスカー。私をこんな目に遭わせておいて許せない。でも泣き声を聞いたら、気分が少し晴れるかもね)
彼女が向かっていたのは、あの古井戸だった。マリアは、警備兵たちの会話を耳にした。夜ごと井戸の底でオスカーの呻き声を耳にしていたという、井戸番の話だった。
あのオスカーが泥と汚物にまみれ、飢えと寒さで泣き喚いているのだ。
その事実が、彼女の歪んだ自尊心を甘く満たした。私を見捨てた男は、今や私以下の惨めな環境で這いつくばっている。
(あなたの無様な姿を上から見下ろし、この前なんかよりもたっぷりと嘲笑ってやりたい)
あの時、すぐ助けてくれなかったことが、心のもやもやを消してくれない。
その一心で、彼女は監視の目を盗んでここまでやって来たのだった。この時間帯は井戸の警備兵がいないこともちゃんと調べてある。
井戸の縁に辿り着いたマリアは、松葉杖を傍らに置いて重い木板を少しだけずらした。
ムワッと、饐えたような悪臭が立ち昇る。マリアは鼻をつまみながら、意地悪な笑みを浮かべて下を覗き込んだ。
「……ねえ、オスカー。生きてる?」
マリアの甘ったるくも冷酷な声が、井戸の底へと落ちていく。
「誰だ……? 誰か、いるのか……?」
「あはは、可哀想に。あの麗しの侯爵様が、ネズミみたいに震えているのね」
マリアは、井戸の傍らに置かれていた太い麻縄を手に取った。
そして、わざと底まで届くように、スルスルと縄を垂らしていった。
「ほら、お縄を下ろしてあげたわよ。これに捕まって、上まで登ってきなさいな。……ま、今のあんたみたいに骨と皮だけになったガリガリの男に、ここを登り切る体力なんて残ってないでしょうけどね!」
それは、最悪の挑発だった。絶対に届かない希望(蜘蛛の糸)を目の前に垂らし、途中で力尽きて絶望する姿を拝んでやろうというマリアなりの歪んだ余興。
だが、マリアは人間の狂気というものを甘く見過ぎていた。
井戸の底は完全な暗黒と極寒。空腹の中でオスカーの精神は、とうの昔に限界を迎え崩壊していた。
そこに、スッと垂れてきた一本の縄。
「あ……ああ……!? な、縄だ……!?」
オスカーの血走った目が、闇の中で不気味に見開かれた。
マリアの嘲笑など、今の彼の耳には届いていなかった。彼の狂った脳髄は、これを神の救済だと信じ込んだ。
自分は特別な人間なのだから、神が自分を見捨てるはずがなかった。生き延びて、自分を陥れた奴らに復讐しなければならない。
「天からの導きだ……! 神は、私を見捨てていなかったぞぉぉっ!!」
野獣のような咆哮と共に、オスカーは縄に飛びついた。
ガクガクと震えていたはずの手足に、火事場の馬鹿力とも呼べる異常な力が宿る。
彼は汚物にまみれた爪を立て、泥だらけの靴を壁に擦りつけながら、ズルリ、ズルリと、執念の塊となって縄をよじ登り始めた。
風が枯れ木を揺らす不気味な音だけが響く中、カツン、カツンと、硬い木が石畳を叩く音が近づいてくる。
離れでの軟禁生活を強いられていたマリアだった。分厚いギプスが外れ、まだ松葉杖は手放せないものの、彼女の足の怪我は確実に治りつつあった。
身体の自由が少し戻ったことで、彼女の心の中にドス黒く澱んでいた悪意が再び鎌首をもたげていた。
(……オスカー。私をこんな目に遭わせておいて許せない。でも泣き声を聞いたら、気分が少し晴れるかもね)
彼女が向かっていたのは、あの古井戸だった。マリアは、警備兵たちの会話を耳にした。夜ごと井戸の底でオスカーの呻き声を耳にしていたという、井戸番の話だった。
あのオスカーが泥と汚物にまみれ、飢えと寒さで泣き喚いているのだ。
その事実が、彼女の歪んだ自尊心を甘く満たした。私を見捨てた男は、今や私以下の惨めな環境で這いつくばっている。
(あなたの無様な姿を上から見下ろし、この前なんかよりもたっぷりと嘲笑ってやりたい)
あの時、すぐ助けてくれなかったことが、心のもやもやを消してくれない。
その一心で、彼女は監視の目を盗んでここまでやって来たのだった。この時間帯は井戸の警備兵がいないこともちゃんと調べてある。
井戸の縁に辿り着いたマリアは、松葉杖を傍らに置いて重い木板を少しだけずらした。
ムワッと、饐えたような悪臭が立ち昇る。マリアは鼻をつまみながら、意地悪な笑みを浮かべて下を覗き込んだ。
「……ねえ、オスカー。生きてる?」
マリアの甘ったるくも冷酷な声が、井戸の底へと落ちていく。
「誰だ……? 誰か、いるのか……?」
「あはは、可哀想に。あの麗しの侯爵様が、ネズミみたいに震えているのね」
マリアは、井戸の傍らに置かれていた太い麻縄を手に取った。
そして、わざと底まで届くように、スルスルと縄を垂らしていった。
「ほら、お縄を下ろしてあげたわよ。これに捕まって、上まで登ってきなさいな。……ま、今のあんたみたいに骨と皮だけになったガリガリの男に、ここを登り切る体力なんて残ってないでしょうけどね!」
それは、最悪の挑発だった。絶対に届かない希望(蜘蛛の糸)を目の前に垂らし、途中で力尽きて絶望する姿を拝んでやろうというマリアなりの歪んだ余興。
だが、マリアは人間の狂気というものを甘く見過ぎていた。
井戸の底は完全な暗黒と極寒。空腹の中でオスカーの精神は、とうの昔に限界を迎え崩壊していた。
そこに、スッと垂れてきた一本の縄。
「あ……ああ……!? な、縄だ……!?」
オスカーの血走った目が、闇の中で不気味に見開かれた。
マリアの嘲笑など、今の彼の耳には届いていなかった。彼の狂った脳髄は、これを神の救済だと信じ込んだ。
自分は特別な人間なのだから、神が自分を見捨てるはずがなかった。生き延びて、自分を陥れた奴らに復讐しなければならない。
「天からの導きだ……! 神は、私を見捨てていなかったぞぉぉっ!!」
野獣のような咆哮と共に、オスカーは縄に飛びついた。
ガクガクと震えていたはずの手足に、火事場の馬鹿力とも呼べる異常な力が宿る。
彼は汚物にまみれた爪を立て、泥だらけの靴を壁に擦りつけながら、ズルリ、ズルリと、執念の塊となって縄をよじ登り始めた。
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