116 / 118
第115話 満ちあふれる恵み
「マリア、背中を流すよ。……ああ、こんなに汚れて……」
「オスカーも……髪の毛、泥だらけよ。私が洗ってあげる……」
二人は、高級な石鹸をたっぷりと泡立て、互いの体を洗い合った。
薔薇の芳醇な香りが、井戸の底でこびりついた排泄物と腐敗の匂いを打ち消していく。爪の間に詰まった黒い泥をこすり落とし、脂でベタベタになっていた髪を指の腹で丁寧に洗う。
汚れが落ちていくたびに、彼らは人間としての最低限の尊厳を取り戻していくような錯覚に陥った。
「もう、オスカー……やめて、くすぐったいってば」
「いや、しっかり洗わないと駄目だぞ!」
オスカーとマリアは、ぎこちない笑みを交わしつつも、ついにはふざける余裕まで生まれ、緊張の糸が少しずつほぐれていくのを感じていた。
「うぅっ……うっ、ぐすっ……」
「マリア……泣いているのか?」
「だって……温かいんだもの……。いい匂いがして、息も苦しくなくて……私、私……生きてる……!」
マリアの目からポロポロと涙がこぼれ落ち、湯船に波紋を作った。それは、恐怖や屈辱の涙ではなく、純粋な喜びと安堵の涙だった。
オスカーもまた、綺麗になったマリアの顔を見て声を出して泣いた。
汚れを完全に落とし切り、看守が用意してくれた新しい(とはいえ粗末な麻布だが、清潔な)服に着替えた二人は、もはや先ほどの臭い生ゴミではなくなっていた。
「よし、綺麗になったな。次は飯だ。エリザ様からたっぷりと金を預かっているからな、特別に厨房の奴らに腕を振るわせたぞ」
看守長が鉄格子越しに差し出したのは、大きなお盆だった。そこに置かれていたのは、固い黒パンや塩水のようなスープではない。
エリザはオスカーに金貨を五枚施すと、看守長にも二人の目の届かないところで、『彼らを手厚く扱ってください』と言い添えてお金を渡した。
「お、おおぉ……っ!!」
オスカーとマリアの目が、信じられないものを見るように見開かれた。
木のお椀になみなみと注がれているのは、ゴロゴロとした肉と野菜がたっぷりと煮込まれた、とろみのある濃厚なブラウンシチュー。そしてその横には、湯気を立てるふかふかの白い丸パンが二つ。
それは、大貴族の食卓に比べれば庶民的なメニューかもしれない。しかし、極限の飢えと寒さを経験した今の二人にとっては、王宮のフルコースにも勝る神々の食べ物だった。
「ほ、本当に……私たちが……た、食べていいのか……!?」
「す、凄い! こんな美味しそうなの久しぶり」
「さっさと食え。冷めちまうぞ。ただし、エリザ様への感謝の祈りを忘れるなよ」
「……エリザ様、マリアを助けてくださって、ありがとうございます……っ!」
「……エリザ様、こんなにしてくださって……心から感謝します!」
二人はエリザへの感謝をいい終えると、お盆にすがりつくように飛びつき、スプーンも使わずにパンを千切ってシチューに浸した。
「はむっ……! う……う、美味いっ!!」
オスカーが叫んだ。濃厚な肉の旨味と、野菜の甘みが溶け込んだ熱々のシチューが、空っぽの胃の腑に染み渡っていく。柔らかい白パンの甘みが、口の中でとろけた。
「オスカーも……髪の毛、泥だらけよ。私が洗ってあげる……」
二人は、高級な石鹸をたっぷりと泡立て、互いの体を洗い合った。
薔薇の芳醇な香りが、井戸の底でこびりついた排泄物と腐敗の匂いを打ち消していく。爪の間に詰まった黒い泥をこすり落とし、脂でベタベタになっていた髪を指の腹で丁寧に洗う。
汚れが落ちていくたびに、彼らは人間としての最低限の尊厳を取り戻していくような錯覚に陥った。
「もう、オスカー……やめて、くすぐったいってば」
「いや、しっかり洗わないと駄目だぞ!」
オスカーとマリアは、ぎこちない笑みを交わしつつも、ついにはふざける余裕まで生まれ、緊張の糸が少しずつほぐれていくのを感じていた。
「うぅっ……うっ、ぐすっ……」
「マリア……泣いているのか?」
「だって……温かいんだもの……。いい匂いがして、息も苦しくなくて……私、私……生きてる……!」
マリアの目からポロポロと涙がこぼれ落ち、湯船に波紋を作った。それは、恐怖や屈辱の涙ではなく、純粋な喜びと安堵の涙だった。
オスカーもまた、綺麗になったマリアの顔を見て声を出して泣いた。
汚れを完全に落とし切り、看守が用意してくれた新しい(とはいえ粗末な麻布だが、清潔な)服に着替えた二人は、もはや先ほどの臭い生ゴミではなくなっていた。
「よし、綺麗になったな。次は飯だ。エリザ様からたっぷりと金を預かっているからな、特別に厨房の奴らに腕を振るわせたぞ」
看守長が鉄格子越しに差し出したのは、大きなお盆だった。そこに置かれていたのは、固い黒パンや塩水のようなスープではない。
エリザはオスカーに金貨を五枚施すと、看守長にも二人の目の届かないところで、『彼らを手厚く扱ってください』と言い添えてお金を渡した。
「お、おおぉ……っ!!」
オスカーとマリアの目が、信じられないものを見るように見開かれた。
木のお椀になみなみと注がれているのは、ゴロゴロとした肉と野菜がたっぷりと煮込まれた、とろみのある濃厚なブラウンシチュー。そしてその横には、湯気を立てるふかふかの白い丸パンが二つ。
それは、大貴族の食卓に比べれば庶民的なメニューかもしれない。しかし、極限の飢えと寒さを経験した今の二人にとっては、王宮のフルコースにも勝る神々の食べ物だった。
「ほ、本当に……私たちが……た、食べていいのか……!?」
「す、凄い! こんな美味しそうなの久しぶり」
「さっさと食え。冷めちまうぞ。ただし、エリザ様への感謝の祈りを忘れるなよ」
「……エリザ様、マリアを助けてくださって、ありがとうございます……っ!」
「……エリザ様、こんなにしてくださって……心から感謝します!」
二人はエリザへの感謝をいい終えると、お盆にすがりつくように飛びつき、スプーンも使わずにパンを千切ってシチューに浸した。
「はむっ……! う……う、美味いっ!!」
オスカーが叫んだ。濃厚な肉の旨味と、野菜の甘みが溶け込んだ熱々のシチューが、空っぽの胃の腑に染み渡っていく。柔らかい白パンの甘みが、口の中でとろけた。
あなたにおすすめの小説
「許してやりなさい」と言われ続けた令嬢が、許した回数を数えていた——千二百回
歩人
ファンタジー
「許してやりなさい」
侯爵令嬢リーリエは、この言葉を千二百回聞いた。
婚約者が夜会で他の令嬢と踊ったとき。義母に「出来損ない」と言われたとき。父が「お前さえ我慢すれば丸く収まる」と目を逸らしたとき。
リーリエは毎晩、帳面に書いた。日付。許した内容。許した理由——その欄はいつも空白だった。
千二百回目の「許してやりなさい」を聞いた日、リーリエは帳面を閉じた。
「お父様。千二百回、許しました。千二百一回目は、ございません」
帳面が社交界に渡ったとき、「許してやりなさい」と言っていた全員の顔から血の気が引いた。我慢の記録は、どの告発よりも雄弁だった。
【完結】え、別れましょう?
須木 水夏
恋愛
「実は他に好きな人が出来て」
「は?え?別れましょう?」
何言ってんだこいつ、とアリエットは目を瞬かせながらも。まあこちらも好きな訳では無いし都合がいいわ、と長年の婚約者(腐れ縁)だったディオルにお別れを申し出た。
ところがその出来事の裏側にはある双子が絡んでいて…?
だる絡みをしてくる美しい双子の兄妹(?)と、のんびりかつ冷静なアリエットのお話。
※毎度ですが空想であり、架空のお話です。史実に全く関係ありません。
ヨーロッパの雰囲気出してますが、別物です。
私を捨てた公爵が、すべてを知った時にはもう手遅れでした
唯崎りいち
恋愛
呪いに侵された令嬢は、婚約者である公爵から「出来損ない」と蔑まれ、婚約を破棄される。
人を傷つけてしまう力を恐れ、彼女は人里離れた森で静かに生きることを選んだ。
それでも――かつて愛した人が死にかけていると知った時、彼女は自らの命を削り、その命を救う。
想いを告げることもなく、すべてを置いて去った彼女。
やがて真実を知った公爵は、彼女を求めて森へ向かうが――
そこにいたのは、別の男に手を取られ、幸せそうに微笑む彼女の姿だった。
すれ違いの果てに、ようやく手に入れた幸せと、すべてを失った男の後悔の物語。
兄のお嫁さんに嫌がらせをされるので、全てを暴露しようと思います
きんもくせい
恋愛
リルベール侯爵家に嫁いできた子爵令嬢、ナタリーは、最初は純朴そうな少女だった。積極的に雑事をこなし、兄と仲睦まじく話す彼女は、徐々に家族に受け入れられ、気に入られていく。しかし、主人公のソフィアに対しては冷たく、嫌がらせばかりをしてくる。初めは些細なものだったが、それらのいじめは日々悪化していき、痺れを切らしたソフィアは、両家の食事会で……
〈完結〉ここは私のお家です。出て行くのはそちらでしょう。
江戸川ばた散歩
恋愛
「私」マニュレット・マゴベイド男爵令嬢は、男爵家の婿である父から追い出される。
そもそも男爵の娘であった母の婿であった父は結婚後ほとんど寄りつかず、愛人のもとに行っており、マニュレットと同じ歳のアリシアという娘を儲けていた。
母の死後、屋根裏部屋に住まわされ、使用人の暮らしを余儀なくされていたマニュレット。
アリシアの社交界デビューのためのドレスの仕上げで起こった事故をきっかけに、責任を押しつけられ、ついに父親から家を追い出される。
だがそれが、この「館」を母親から受け継いだマニュレットの反逆のはじまりだった。
【完結】私の妹を皆溺愛するけど、え? そんなに可愛いかしら?
かのん
恋愛
わぁい!ホットランキング50位だぁ(●´∀`●)ありがとうごさいます!
私の妹は皆に溺愛される。そして私の物を全て奪っていく小悪魔だ。けれど私はいつもそんな妹を見つめながら思うのだ。
妹。そんなに可愛い?えぇ?本当に?
ゆるふわ設定です。それでもいいよ♪という優しい方は頭空っぽにしてお読みください。
全13話完結で、3月18日より毎日更新していきます。少しでも楽しんでもらえたら幸いです。
【完結】勘違いしないでくれ!君は(仮)だから。
山葵
恋愛
「父上が婚約者を決めると言うから、咄嗟にクリスと結婚したい!と言ったんだ。ああ勘違いしないでくれ!君は(仮)だ。(仮)の婚約者だから本気にしないでくれ。学園を卒業するまでには僕は愛する人を見付けるつもりだよ」
そう笑顔で私に言ったのは第5王子のフィリップ様だ。
末っ子なので兄王子4人と姉王女に可愛がられ甘えん坊の駄目王子に育った。
公爵令嬢ローズは悪役か?
瑞多美音
恋愛
「婚約を解消してくれ。貴方もわかっているだろう?」
公爵令嬢のローズは皇太子であるテオドール殿下に婚約解消を申し込まれた。
隣に令嬢をくっつけていなければそれなりの対応をしただろう。しかし、馬鹿にされて黙っているローズではない。目には目を歯には歯を。
「うちの影、優秀でしてよ?」
転ばぬ先の杖……ならぬ影。
婚約解消と貴族と平民と……どこでどう繋がっているかなんて誰にもわからないという話。
独自設定を含みます。