上 下
84 / 296

悩まぬ変容

しおりを挟む

 ダンジョンというものを知った時に、体が変化してしまうということを知った時に。
 彼女はそれをチャンスだと考えた。
 絶対ではないとはいえ、そうできる可能性があると知って、とても素晴らしい機会を得ることができたと感激した。

 ――鳥になりたかった。

 だから試せることはためらいなく試した。きっと、掴むべき、ここでしか掴むことができない、そういうものだという確信があった。

 ――空が特別に好きなわけではないけれど、私は鳥になりたかったのだ。

 情報を集めるだけ集めていたが、逸る気持ちは抑えることができなかった。

 ――羽ばたき、飛べる。

 そのためなら何でもした。
 痛くて苦しくとも、彼女は今までの虐げられるばかりの日常を思えば、それらもなんということもなかったのだ。

 ――私は翼が欲しかった。

 停滞が訪れてしまって。焦りが限界に来そうなとき――とある人に、彼女は幾つかの支援をもらった。頑張ったねと、応援するよと、褒める言葉と嬉しくなる言葉と一緒に。
 それで、終わり。それが、始まり。

 ――私は私の幸せである場所が欲しかっただけだ。安全に安心して生きたかっただけだ。それは、そんなに悪い事だったろうか。罰を受けなければいけないほどの。




 バギギ、と、硬質でありながら空気を押しのける音がする。
 羽ばたきの音だ。

「う、ああぁ……」

 うめき声がする。
 羽ばたきの足元で、大きなカギ爪に貫かれた、それ以外にも穴が開いている無惨な人の声だ。普通の人間なら死んでおかしくなくとも、強化された人間はそれだけ死ににくい生き物である。現に呻くことができ、気すら失うこともできない。

 そこら中に、死なないが動けない程度にされたものがいくつも転がっている。全てに、逃げれないようにするためなのか、様々な鳥が監視するように近くにとまってじぃと見ている。

『―――』

 合唱。
 鳥の声が重なり合う。人にも馴染み深いものからそうでないものまで。

 北から、東から、南から、西から。全て方角から。
 恐ろしくあり、不安定さを呼び起こすものである。

 どこか滑稽さもあり、冗談のようでもある。
 まるで結界のようで、箱庭のようで、鳥でできた籠のようである。

 無数の鳥類がそこにはいる。行われるそれをじぃと鳴きながら見ている。
 ただの鳥から、翼竜などと呼ばれるようなモンスターまで。翼をもつもの多数の存在がそこにはいた。

 ――鳥になるのだ。翼をもつものになるのだ。

 ――私を縛る全てから、羽ばたくために。もう、捕らわれなくてすむように。

 ――私の足に重しを付けるものの頭を、この嘴で貫くために。煩わしい全てに穴を開いてやるために。

 ――鳥になりたいと、そう願い続けるのだ。

 ――願い続け、翼を持てば、私は鳥である。

 輪を描くような鳥たちの、その中心にいるは、どこか人の面影を残した存在である。
 しかし人とは到底呼べぬ存在である。この場にいるどれが一番化け物モンスターなのかと問いを投げかけたなら、きっとという答えになるだろう。

 鱗が折り重なるような奇妙な翼、大きなカギ爪の足、裂けたような一つ目、いびつながら鋭く大きな嘴。煌々と赤く光るようにぎらつく目は、何かへの憎しみを湛えている事を強制的に見ているものに理解させるようだ。

 何かのなりそこないのように、鱗である部分と人の皮膚のような部分がまだらに残っているようなそれは、人の感性があるものが見ればそれだけで精神に歪みを与えそうな不快で不安を与える造形をしている。

 爬虫類でも竜でも人でも鳥でも、どこかしらそれらに似通っていながら、それは今どれでもなかった。
 やわらかな羽が羽ばたくような音とは違い、その動きはなめらかでありながらどこか硬質な音を響かせる。

 人が、それ以外の生物が、耳をふさぎたくなる音。
 不協和音。

 周りで鳴く鳥と折り重なるように鳴る。
 どうやら、周りの様々なモンスターも含めた鳥の姿をしたものどもは、を中心として集まっている。

 その様子は反逆するでも狙っているでもなく、群れのボスを見るような、崇拝する神を待つような、中心にいる者へ従って当然という雰囲気であった。

 ――鳥であるはずの私に、どこか人が残っていることが耐えがたい。

 ――人は私に辛きを敷いてきた。

 ――私は同じ人であることが耐えがたい。

 ――私は、ずっと、ずっと、人でいたくなかった。

 ――ついに捨てうる機会を得たはずなのに。

 ――未だ残る人は、未練ではないはずで、そうでないなら、どうしてかという答えがあるはずである。

 ――見つけねば鳥になれない?

 ――そんなばかなはなしがあるだろうか。

 見る者が見れば、恐らくプレイヤーが変質したものだという予測が立てられるものもいたかもしれない。
 が、その数は少なかっただろう。

 実際に、人であることを積極的にやめるために様々な方法を試したプレイヤーというものは少ない。
 狙った姿になることは、非情に困難だといっていいからということもある。

 体を改造するものはいまだに後を絶たないが、その中でも完全に振り切ることができる者は少ない。
 どこかで、『人間』を越えてしまう事はどうしても躊躇ってしまう。

 そうなりたいという憧れも、恐怖の前に途中で止まってしまうものがほとんどだ。その多くは取り返しがつかなくとも、先に進むこともできずに止まるのだ。

 当然といえば当然の話で、それが本能であるといえる。ブレーキがかかる。かかるブレーキがある。
 他の生物になることは、たとえそうできたとてタブーである認識がどこかにあるだろう。忌避することはなんらおかしくないのだ。言わば、それはある種の死であるから。

 改造するような人間も、その瀬戸際を楽しんでいるようなものが多数だ。脱さない範囲で遊んでいるようなものである。
 振り切れるものは、恐怖なく積極的に人を止めるようなものは――壊れている。

 それだけ、人を止める事に近づけば恐怖は近くにいるものなのだ。
 根本から別物になるのは、それだけ恐ろしい。

『ギ――――――――――――――ァッ!!!!!!』

 響くのは切り裂くような悲鳴であり、絞殺された獣の声のようであり、生まれて泣く赤ん坊のようでもあった。
 変形した醜い嘴の中に覗くのは、並んだ人じみている歯であり舌である。

 ――なくそう。

 ――見える限りの人をいなくしてしまおう。

 ――きっと、人がなくなったなら、私はすでに人でないという証になるのだ。1つ潰してしまうたび、私の人も消えてくれることだろう。1つ消化してしまうたび、私の人も溶けてくれるに違いない。

 ――だから、そうしよう。そうしなければならない。そうすることが私にとって正しい。正しいことは良い事だ。素晴らしいといったのも人なのだから私が悪いことなど一つもなくそれが善である。善である以上止める権利も人になく、つまり私が悪であることなど一かけらもないという事であって? そんな目で見るな。気持ち悪く振るわれる暴力が力もつものにとっての権利なら私がそうすることも正しいはずであり言い逃れができない。恨まれる。もう閉じ込められるのも熱いのも痛いのも苦しいのも潰されるのもお腹が空くのも笑うのも鳴くこともごめんなさい涙親飛ぶためには鳥でなければ人は私が振るう私の力で私が羽ばたき私が。翼、鳥になりたい。鳥になろう。全て飛び立って、飛んで。翼があればどこにでもいける。どこにいっても逃げ、私が。私が? 私。

 ――わたし。

 ――そういえば、お腹が空いている。

 ――くばらねばならない。わたしはしはいしゃであるから。

 ――たべよう。そうしていい。

 人外になれたとして、どこまで人が消えることだろうか。
 元の格が残り続けて居れば、それはどこまで影響するモノだろうか。
 それがある限り、10の存在になることはできないのではないだろうか。

『――――――――――!!!!!』

 いびつな生き物が笑うように鳴く。
 自分の目的を果たすために、蕩けていく魂を祝うように鳴く。

 足元の肉を潰して嘴の中に放り投げる。
 ぐちゃぐちゃと、おいしそうに咀嚼する音がしばし続いた。
しおりを挟む

処理中です...