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あい すてる らぶ うー1

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 意地が悪そうな、生意気そうな、よろしくはない表情をした男の子を見て、千都子はどこか苦々しい思いを抱く。
 教え子ということになる、優等生として名の通った少年はそのまま優秀である。
 外で会えば背筋歩き、人好きする笑みを浮かべて懐くように、どこか年上をくすぐるように近づいてくるのを知っている。
 地域でも評判であるらしい。クラスでも人気者であるらしい。

 はきはきとしていて、明るく、成績もトップクラス。運動だってできる。
 まるで、お手本通りの優等生。
 それが演技だと知っていることが、苦々しさを舌にべったりと貼られたような気分になることの原因だ。

「真面目にやる気がないなら、奥様に意味がないといってやめたらどうです?」

 家庭教師のアルバイトとしては、楽な部類に入る。
 何せ、話は聞きはしないが成績が落ちることはない。
 ただ千都子が生意気さと底意地の悪さに耐えさえすれば、何もせずとも評判すら上がるのだ。
 今までの仕事を止めた繋ぎにしても、おいしい仕事ではあった。

「余計なことはするなよ。別にいいじゃん。楽して金もらえるんだからさぁ」
「親はお金を無駄に消費しているわけですが」
「それで満足するんだからいいだろ。満足代だよ。何が不満だよ。楽な仕事なら、それにこしたこたねぇだろ?」

 つまらないものを見るような目で、千都子を見る。
 茶請けにと盆にのせられて出されたお菓子をばりばりと食べるさまは、年齢相応に悪ガキのように見える。
 どこを気に入ったのか、それとも何か千都子に感じるところでもあったのか、初めて会った時には被っていた猫はすぐに脱げてしまった。
 思わずといった様子ではなく、しばらく話したとたんにするりとやめたのだ。それからずっと被りなおされることはないらしい。

 それがどうしてなのか、千都子にはわからない。
 わからないが、抱くのは不快であった。
 別に、雇っている傘に何かをしてこようとするわけではない。
 ただ、優等生の仮面を脱ぎ捨てて、ろくに家庭教師という仕事をさせてくれないだけではある。
 元より、繋ぎである。

 しかし、千都子としては真面目にやる気だったのだ。
 自分のしてきたことは無駄にならないものだと、少しはやる気になってもいた。
 紹介先がこれである。
 何ともしがたい気分になることは避けられなかった。
 ただ、それだけという話ではない。
 ましてや、生意気だから――というのが全く関わっていないわけではないが――というのが原因でもない。

「私は真面目なんですよ。君とは違ってね」
「敬語も気持ち悪いなぁ……楽にしたら?」
「ばらされるとか思わないんですか?」
「なにを? 態度を? あんたが? そんなことして、何の得になるんだよ。あんたはしないよ。だって、似たモン同士じゃねーか」

 いらっとする。
 どうしても、この目の前の子供に対する不快感を止めることはできなかった。
 それでも、かっとして手を挙げる等はできない。口ぎたなく口角泡を飛ばすようにして罵ることもできない。
 ただはっきりとした怒りを示すことも。

「どこが似てるんですか? 私はもっと真面目でしたよ」
「だからだろ」

 男の子の表情がストンと抜ける。
 だからお前もイラついてるんじゃないのか? 同族嫌悪だ、そうだろ?
 気楽にやろうぜ。そうしたいんだ。そうしてくれよ。
 そう言われている気分になる。

「……似ていませんよ。君は、滑り落ちないようにすればいい」
「へぇ、滑り落ちたんだ。にしては、いまだに良い猫被ってるように見えるけど?」
「君みたいに、猫をかぶり続けているように見えました? おあいにく様ですね、私は、猫をかぶっているわけではないんです。そうなろうとしているんですよ。君とは、違う」

 そう。
 目の前の、まだ取り返しのつく年齢の、取り返しのつく段階の人間ではないのだと千都子は思う。
 きっと、イライラしているのは。
 優等生、猫被り、そうせずにはいられぬ環境に、苛立ち。
 そういったものが似ているというだけではない。

 きっと、どうしようもあるのが羨ましくて仕方がないのだ。
 きっと、どうしようもあるくせに、同じことになりそうな少年が疎ましいのだ。
 八つ当たりだ。
 羞恥、苛立ちを飲み込む。

「可愛くねぇの。彼氏も随分ご無沙汰なんじゃねえの? そんなじゃ。相手してやろうか?」
「セクハラかましてくる親父じゃないんですから……下品ですよ、やめなさい」

 下品な顔をして手をわきわきする男の子の手を持って下げる。
 割合、素直に下げる。

「それに、残念ながらご無沙汰ってわけでもないので。とはいえ、今はいませんが」
「言い訳の常套手段じゃん」
「本当ですよ。単に、1ヶ月前に別れたのでいないだけです」
「フラれたんだなぁ。重そうだもんな」

 何が楽しいか、にやにやしながら言われるのも千都子は不快に思う。
 しかし、顔には出さない。
 それは、大人の意地というわけではなかった。

「重そう、ですか。それは、君もそうだからですか?」
「……はぁ?」

 淡々と口に出した反論に、返ってきた声は少し温度が低い。
 苛立った。
 わかりやすい変化だと思う。
 もっと、表情など隠せるのだろうにと千都子は思う。
 これも、懐かれているというのかもしれないが、こんな懐かれ方はごめんだった。
 もっと素直に懐かれていたのなら――それもどうだろうか、と千都子はわからなくなる。

「似てるんでしょう? じゃあ、君自身が重いって思っているという事じゃないんですか?」
「……」

 また、表情が抜ける。
 黙り込む。
 勝った……などと、いい気分に離れなかった。
 歳が離れていることもあるが、子供に対応してやり込めたところでという所である。
 どこか、拗ねているようにも見える。
 子供らしいな、と少しだけほほえましい気分にもなれるのは、余裕がまだあるからだろうかと思う。

(重い……重い、ね……どうだろうか。軽かったんじゃないかなぁ、ある意味さ……やっぱり、似ていないよ海君。君は、もっと自覚というやつがある。私みたいに、馬鹿な踏み外し方はしないだろうさ――ストレスで、爆発しそうで、よりかかれそうに見えたかもしれないけどさ。悪いね。私だって、そんな余裕はないのよ)

 自分が、この海という少年の年頃だったころのことを思い出す。
 あぁ、と思う。
 強く強く嫌悪感があるのは――この年頃くらいから完全に踏み外したからだ、ということを思い出した。
 完全には重ならない。

(抑圧されたものは、どうにかしてあげなければ破裂してしまうんだ。どこかで亀裂が入る。君も苦しいんだろう。見ていればそれはわかるよ。でも、私じゃ力が不足しているのさ。完全にではないけど、同類に求めるものじゃないんだよ。傷のなめ合いを否定はしないけど、それだって歳が近くないと私が悲惨だ)

 少しだけ重なる少年を前にして。いつも通りに、近寄ってほしいと回りくどくいうのをそっと突き放す。
 そうしながら、千都子は自分がどんな過ごし方をしていたのかを思い出していた。
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