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鬼の首1

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 一心不乱とは呼べない心持だった。
 ただ、己にあっていて、苦ではないからやっていただけの話。
 雨宮敬一郎にとって、武芸とはそういったものであり、それ以外も万事そういうものであった。
 特に、体を動かすものについて啓一郎の熟練速度は早く、苦労、苦心、壁といったものはあまり実感した覚えもない。
 才能がある。
 他人から、そう、一言にまとめられることが多い。

『お前に教えるようなことはもうここにはない。すまんな』

 物心ついたころに、どこか疲れたような表情で父親にそういわれたことを覚えている。
 別に、疎んじられていたわけではないし、何かしら虐待をされていたわけではない。
 ただ、そう言われた日から、ずっと最初は熱心に、次第にどこか空虚な感情と共に啓一郎に仕込んできた武術というものを。
 啓一郎の父が、生き、子をなして、己を突き詰め、それを伝えようとし続けてきたものを。
 一切止めてしまった事を、覚えている。

 大きかった、数年とはいえ物心ついてからずっと当たり前のようにあった歴史ある道場を潰して。
 なかったことにするように。きれいさっぱりと、そのにおいを消していった。
 啓一郎にやめろとはいわなかった。ただ、啓一郎の父は一切かかわらなくなったというだけ。
 ただ、それに申し訳なさも覚えることができず、戸惑ったことを覚えているのだ。
 やめた父は、どこか朗らかですらあったから。

『どうして父はこんなに楽しいものをやめてしまったのだろう』

 と。熱心にやらなくとも、娯楽として続けていればいいのに、と。
 しかし、歳を重ねて、高校、大学に入るころになれば、さすがに理解できた。

(父は嫉妬したのだ。嫉妬して、そんな自分に愕然とした――冷静でありたい人だったから。真面目な人だったから……己の才能が、俺に届かないことをはっきりと知ったのだ。自覚してしまった。そうだ、一度言われたことがある)

『お前は、まるで鬼だ』

 思わず漏れたといったそのつぶやきが。
 その後、はっとしたような顔をして、青ざめた父が。
 何をさしていて、どういう気持ちなのかはわからないけれど。

(俺は別に、それで何を思いもしないのに。それで傷がついたわけでもないのに。それでもきっと、父は己を許せなかったのだろう。武は、負の感情のままただの暴力というものとして振るってはいけないと頑なな人だったから)

 大学生になった啓一郎から考えて、当時の啓一郎の父という存在は決して弱者ではなかった。
 思い出せる限りでも技の冴えがないわけではないし、むしろ熟練者であり、見てきた中でも思い出補正、身内補正というものがあるにしても上位に位置するに疑いはない。
 それでもきっと、一方的に叩き潰せてしまうことがわかるけれど、それでも決して弱いというカテゴリにいるわけではなかった。

(申し訳なくは、思わない。思えない。ただ、残念には思うんだよなぁ)

 明らかに自分より高い才能というものを目の当たりにして。それの高さを見るだけの目があってしまったことが不幸だったのだろうか。
 それを、何をしても越えられないと思った?
 だから、止めてしまえと思った?

(そうじゃないんだろうな。そういう人じゃない。結局は)

 嫉妬だ。
 嫉妬してしまった事だ。
 
 今ならはっきりわかる、どうしようもなく負の感情というものが込められた目だ。

 きっと、越えられないうんぬんよりも、そう思ってしまった事、その思いが――武術というものに関わっている限り、消えはしないと確信できてしまう己が。
 情けなく思えて、絶望してしまったのだろうと啓一郎は思う。別に、そう見られても平気だったのにと思う。それでもきっと、自分は父を嫌う事はなかったと。

(子を、大事にする人だったから)

 だからといって、虐待されたわけでも、稽古にかこつけて理不尽や暴力を強いるわけでもなかったのに。
 それでも、なによりも、子供にそんな感情を持ち続けることが許せなかったのだろうと。

(数十年。続けてきたことは、決して軽くない。それを、放り捨ててしまうことなんてなかったのに)

 そう思ってしまうのは、生涯かけてまでやるものだと思っていないからだろうか。
 すっぱりやめたことを、啓一郎は勘違いしていない。

(絶対に。当てつけでもなければ、諦めたくたくてあきらめたわけではない――俺が、自分の子供でなければ、きっとそれでも続けていただろう)

 不器用な人だった。
 だから、子供に正面から向き合い続けるために。

(子供を、ただ子供として見るという自信を持ち続けるために。ただそれだけのために、長年、自分自身ともいえるものを捨てるなんて。軽くもなかっただろうに、本当にすっぱりやめたからな)

 天秤にかけるまでもなく、子供のほうが続けてきたものよりも重いというその心は、素直に凄いと思うけれど。
 ただ、急速に老けたと思う。
 続けていてくれれば、もう少し共にいれたと。
 だから、とても残念に思うのだ。
 申し訳はなくは思えなくとも、ただただ。嫉妬されようが、生きて一緒に親子をやってほしかったと。
 どこか、怒りのような火のような、熱い温度のある気持ちもありながら、残念だとも思うのだ。

(図らずも、親戚に鬼子等呼ばれるはめになったっけか。どうでもいいんだよなぁ、どういわれようが。どっか、壊れでもしてるのかね? 普通は、もっと怒ったり悲しんだりするべきなのか? いいじゃないか、他人がどう思おうが)

 ドライにみられるのか、雰囲気が怖いと言われることもあり、長続きする友人というものを啓一郎は今まで得ることができないでいた。
 同性も、異性も、友人も、恋人も。
 啓一郎という人間は、何もかも長続きがしない男だった。
 ただ、熱心ではなくも父から伝えられた武術だけは淡々と、癖のように続けているだけ。
 大学も、言っておいた方がいいという父の言葉に従って進学しただけの話で、特に目的意識等というものもなく。

(何をすればいいだろう。何を目指そうか……人と殴り合うのは嫌いじゃないんだが、そんな将来って割とすさんでるよな)

 きっと、割と物理で短絡的に解決したがる思考の啓一郎が、それでもしっかり勉強してトラブルを積極的に起こさず生きてこれたのは、父という存在があったからだろう。
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