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簡単に空になりまた満たされる器 1/2

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 幸せだったのだと思う。
 幸せだったのだと実感している。

 ジョフは自らの過去を思い出す。
 ジョフは小さな家庭で育てられた。ジョフは互いが互いに興味がないという両親の中で都合の良いペットのように育った。
 親愛の情が向けられるペットではない。モノ扱いという意味に近いペット扱い。

 それはつまり、気まぐれに構われ、気まぐれに叱られ、気まぐれに放置される。
 気まぐれの元に、飼い主の都合だけを元に扱われる、所有物という意味でのペット扱い。
 動物に対する扱いでもなければ、人間同種に対する扱いでもない。
 同じくしてみていればできない扱い。

 そんな中で育った。
 そして、ジョフはといえばそんな中で育ったのにも関わらず、犯罪等をするような人間とはならなかった。
 危なげなものに誘われたことはある。
 いくつか、参加したことがないわけではない。
 それでも、ジョフは途中まで。
 危ないラインが見えているように引き返すのだ。だから、ジョフの経歴に傷はなく、周りの人間の評判もそう悪いわけではない。

 ある種の蝙蝠じみた行動ではある。近寄って、けれど深入りしすぎないを繰り返している。交友関係も広いが誰もジョフ自信を深くは知らない。
 しかし、問題は起きない。
 ジョフは媚びを売るのがうまかった。

 ジョフは両親を愛していない。
 両親がジョフを子供として愛さなかったように、両親としての存在を認めていない。
 ジョフは無償の愛とか家族愛といったものを信じない。

 与えられたものはそこら中に転がっているものだと自覚している。
 誰しも持っている、気まぐれに、誰かを『自分本位に』救いたいだとか、愛を与えただとか思いたいからする行動でしかないのだと知っている。
 勘違いなのだと。全ては、その関係が特別だと思っているが故の。すぐに崩壊する程度でしかないそれを、命綱のように思って握りしめているだけなのだという目でずっと見ている。

 だからジョフはその綱を増やしてきたのだ。
 頼りないなら増やせばいい。単純な発想だった。
 気まぐれに食事を与えられなくなった時、愛想を一応振りまいていた近所の老夫婦から食事をまた気まぐれにもらい、その老夫婦も気まぐれにまたやめて食事に困ったことからそうするように努めてきたのだ。

 だからぐれるといった行動にでなかったのだ。
 誰かに認めてもらいたいわけでも、世間という風呂敷を広げながらの親という存在への反抗といった風なことに耽溺する気持ちもなかった。それは、効率が悪い事だと知っているから。
 ジョフにとってそういう誘いを断らないことは、短絡的に暴力を振るえる者へのコネクションを得る事だけだった。そう認識されているのなら、それは立派な抑止力でその組織に身を置かない距離であれば己にとって有用だと考えていたからだ。

 ジョフは自分には理解できないが、この世代の多くはどんなに着飾っていても自らというものを受け入れるものや認めてくれるものに飢えているという事は知っていた。だから、ジョフは人気があったのだ。
 誰もジョフを深く知ろうとしなくとも全く不満もない。
 むしろそれは、ジョフ自信の考えを肯定してくれるものだ。

 誰しもただ自分が気持ちよくなりたいだけだという証左であると認識できた。
 だから、ジョフは幸せだった。
 もうハイスクールを卒業するころには新たな綱を増やすために婚姻を結ぶ予定もあった。

 そして、その流れで子供もできたと知った。
 初めて、その将来妻になる女と目が合った気がした。
 ジョフはその時初めて――何か、奇妙な感覚を味わった。

 心臓が内側から叩かれるような錯覚を受けた。頭に液体をぶち込まれるような。
 それは、不安ではない。

 言葉にすればつまり。
 何か、わくわくしたのだ。

 何かが変わるという予感であり、確信だった。
 それが何だったのかジョフにはわからなかったが、だからこそ待ち望んでいた。

 新しい自分が見つかるような気持ちだったのだ。
 何か、強く今までのモノを捨て去らねばならない予感もあったがそれ以上に。

 何か、光り輝く道のような――



 だが、それがなくなった。
 なくなってしまった。

 なにがどうしたかはわからない。
 記憶には空白があるように思う。

 ただ大事なことは、周りには結婚秒読みだった人間はいなくて。
 つまり、自分にとって大きな転機を確信させた存在もいない。

 それだけが、ジョフにとって大事なことだったのだ。
 今まで手繰り寄せてきた綱が無くなったことさえどうでもよかった。

 ジョフは決して人間社会において悪性だったわけではない。
 どういう思考をしていようが、それが合理的でないと考えていたからだろうが、他者を率先して傷つけようなどとは考えたこともなかった。
 誰かを貶めてやろうと思ったこともない。
 愛は知らなかったけれど、愛してると囁く結婚相手をないがしろにしたこともない。むしろ、ジョフはジョフなりに一番丁寧に扱ってきたつもりだ――それがどういう思考に基づくものだとしても。

 ジョフは何も裁かれるような悪意を社会に示したことはない。
 むしろ、ただ安全に生きたいという目的のために善良と呼ばれる行動を率先して行ったことも多々ある。

 ジョフは笑った。
 ここにきて、何もなくなったのだと自覚して大声で笑った。
 悲しみだけではない、そこには強い強い歓喜もあった。

 何もなくなったことを自分に気付いて。
 何もなくなったことをらしい自分に気付いて。
 何もなくなったこと自体でなく、その先をどうやら自分に気付いて。

『あぁ! あぁ神様! 愛とは、情とは、失ってから強くその身に感じられるものなのですね!』

 転機はあった。
 違う転機があったはずだった。
 恐らく芽生え始めていた。関係性と生活の中で。
 もしかすれば、子と共にそれは生まれる予定だったのかもしれない。それをもって新しいジョフとして完成したのかもしれない。

 だがもうなくなったのだ、この瞬間に。
 ジョフは、人間社会において善良だった。ジョフを知るものの中で、一方的に悪性だと糾弾するものなどいないだろうくらいに。

 ジョフはそこに神を見たのだ。
 見てしまったのだ。
 今まで信じられなかった、身勝手の権化でしかなかった『愛情』と呼ばれる存在が不確かだったものを、違う形で自分を通してはっきり見ることができてしまった。

 その日より、ジョフはPKと呼ばれるものと化した。
 それは善良なる意識からである。

『この場所は素晴らしい! 何度も何度も繰り返し愛の実感を得ることができる。きっと、それを与えることこそここで目覚めた自分の使命なのだ!』

 ジョフはその日より、誰かを殺さなかった日はない。
 ジョフは幸せだった。
 その胸に、ただ平和に生きたかったから這いずり回ったかつてのジョフはいない。
 その胸に、幸せの綱を掴みかけていただろうかつてのジョフはもういない。
 ただ、今ジョフは幸せと使命感に包まれていて、無償の愛をばらまくばかりだ。
 やめてくれ、という声は届かない。
 制止の声など響かない。愛を知らない気まぐれの声に等しいものでしかないからだ。むしろ、そういうものこそ失うべきだと考えて、優しさでその心臓を止めるのだ。
 ジョフにとっての正義で真実は、失うことで知る愛が全てなのだから。ジョフはそれをただ与えたいだけなのだから。
 誰かがそれを壊れているといったとして、誰がそうしないことこそ正常であると示すことができるだろうか。
 善意も悪意も、他者が勝手にただそう名付けるモノである。

 殺すことも愛を知らす行為であり幸せ。
 向かってきて殺されるのも愛を知れて幸せ。

 ジョフにとってこの場所とは愛によってできていて、愛によって包まれている。
 じりじりと焦がす愛が、そう思えと言っているのだからそれは正しいのだ。
 ジョフは幸せだった。
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