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Episode6. 声と珈琲とあなた【助教×准教授】
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その落書きは、机の隅にひっそりとあった。
『学食のカレーくそまず』
ここは大学のキャンパス内にある図書館の一番端。この辺りの棚は専門書ばかりなので、この自習スペースは穴場だった。
学生の利用が少ないおかげで邪魔されない俺のお気に入りの席だったのだけど。
(たしか、昨日来た時はなかったよな……?)
首を傾げつつ選んだ本と共に席へと着く。
殴り書きされた乱暴な文字は、それでいて細くて柔らかく、綺麗に整っている。
消しゴムをかけようか悩んだ末に、俺が手にしたのはシャーペンだった。
『醤油かけてみて』
その落書きの下に、一言綴ってみた。
並んだ文字を眺めて、苦笑いが漏れる。
「……学生かっつーの。何してんだか」
ここ最近の研究室は慌ただしかった。
助教が一人辞めたことと、教授が突然の所用で休職したこと。
そして、その穴埋めに教授の知り合いだという系列大学の若い准教が非常勤講師としてやってきたのだが、まぁそいつの人使いが荒かった。
おかげでここ数日はなかなか忙しい。
准教に頼まれた資料を探しながら、本を捲ってゆく。
星の世界へとのめり込めば、カレーのことなんて頭から消えていった。
仕事に忙殺されて、そんな落書きのことなんて、すっかり頭から抜けていた数日後のことだった。
『うまかった』
落書きが増えていたのだ。
「……ははっ」
その返事に嬉しくなって、またシャーペンを手に取る。
『水曜限定の唐揚げ定食もおすすめ』
そう綴り、見つけた資料を片手に図書館を飛び出す。研究室へと走って戻れば、白衣を着たチンピラが振り返った。
「おっせぇ!どこまでいってやがった。はじめてのおつかいか馬鹿が」
眼鏡の奥の瞳が、鋭さを増す。
きっとその眼鏡がサングラスに変われば、もう完璧すぎる風貌だ。
相変わらずの口の悪さと柄の悪さに眩暈を感じながら、すかさず資料を手渡す。
「はい!すんません!」
「図体ばっかりデカくて使えねぇな」
謝りながらも、思考を遠くへ飛ばして現実逃避だ。心を無にすれば、頭の片隅には、あの机の落書きが浮かんでいた。
(返事、またあるかな……?)
この日から、この奇妙な文通は幕を開けたのだった。
*
休憩がてら訪れた図書館の一番端。
煩わしい学生も同僚もいないこのスペースが、ここ最近のお気に入りだ。
しかし、俺は苛立っていた。
世話の焼ける年上の友人のおかげで増えた仕事。ストレスを解消するために苛立ちながら食べた大盛りカレーが、これまた不味くて余計にストレスが溜まったのだ。
(カレーがまずいなんてあるのかよ!カレーだぞ!!)
集中が切れた手は、手元に開いていたノートではなく机へと動いていた。
『学食のカレーくそまず』
我ながら学生かと突っ込みたくなる。
けれど、そんな思いを吐き出した机に、なんと翌日返事があった。
『醤油かけてみて』
簡潔な文章だった。
角ばった癖のある字。書いたのは学生だろうか?
「醤油なんかでどうにかなるかっつーの」
そう呟きながら、気がつけば学食で性懲りも無くカレーの食券を購入していた。
相変わらず不味そうなカレーに、テーブルに備え付けてある醤油を手に取り振りかける。スプーンで乱暴に掬って一口頬張れば、思わず言葉が漏れた。
「……っ、うっまぁ」
誰だか知らんが、返事の主は天才か!と感動する。その日のうちに、図書館へと出向いて感想を書いてしまった。
数日後、研究室では相変わらず仕事に忙殺されていた。生意気な学生ども相手の授業準備と、使えない助教への指示出し。
「おっせぇ!どこまでいってやがった。はじめてのおつかいか馬鹿が」
資料片手にようやく戻ってきた助教に思わず怒鳴った。
「はい!すんません!」
「図体ばっかりでかくて使えねぇな」
返事と謝罪だけは一丁前な野郎に舌打ちがでる。差し出された資料を受け取り、一人で図書館へと向かった。
例の机に座れば、また返事が一つ。
『水曜限定の唐揚げ定食もおすすめ』
まさか続くと思わなかった落書きの返事に、目を見開いた。けれど、それは決して嫌ではなくて……
「明日の昼飯決まったなぁ」
呟きは、静かに机へと零れた。
**
『唐揚げうまかった。他のおすすめは?』
『何系食べたい?』
『疲れた。甘いのくいたい』
『お疲れ様。毎週金曜に来てるパン屋のチョココロネおすすめ』
『今日も疲れた。うまかった。でもチョココロネにはフルーツ牛乳だろ。ここの売店なんで売ってねーの?』
『ゆっくり休んで。甘いのに甘いの飲むの?そこは珈琲とかじゃない!?』
『お前も休めよ。苦いの飲めねー』
『ありがとう。じゃあー……、』
「って、ここのミルクココアオススメしちゃったけど。大丈夫だったか?」
図書館の裏にひっそりと設置されている自販機の前で一人呟く。
それは、この自販機の中でも、一番隅にある目立たないミルクココアだった。
ゆるキャラのような牛が描かれた地味なパッケージとマイナーなメイカーのココアだったけど、実はうまい……と思う。
(俺は好きなんだけど。また気に入ってもらえるかな……)
未だ見知らぬ相手を思いつつ、ICカードをポケットから取り出そうとする。
しかし、俺はそこでハタと気がついた。
「……っ、あれ?ない!」
ゴソゴソと両ポケットに手を突っ込み、さらに屈んで中を覗くがそこは無情にも空っぽだった。
(研究室に忘れたー!わざわざこのココア買うためだけにここまできたのに!)
その場にしゃがみ込んで、小さく絶望した時だった。
ピッ、と電子音が鳴り響く。
顔を上げれば、ココアのボタンを長い指が押していた。
「…………え?」
小さく声を洩らせば、頭上から盛大な舌打ちが鳴り響く。
「ああ?俺がココア買っちゃ悪いか?」
見れば、休憩時間には一番会いたくない人物No. 1がそこに立っていた。
「っとんでもないでひゅ!」
……盛大に舌を噛んだ自分を殴りたい。
眼鏡の奥で此方を睨む瞳に震えていると、あろうことか更に質問された。
「お前、ICカード忘れたのか?ダセェ」
「け、研究室に置いて来ちゃったんスよねぇ。ははっ」
苦笑いで何とか誤魔化す。
「どれ飲むんだよ」
「はい?」
「どれ飲むんだよ!」
「ミルクココアですぅう!!」
質問攻めにヤケクソで答えた瞬間、もう一度電子音が鳴り響く。
「ん、ほらよ」
そして、差し出されたのは、ゆるキャラの牛が描かれた缶だった。
「……え、大丈夫ッスか?今日世界終わるんじゃね?」
「はぁ!?お前いっぺん締めんぞ!!」
「すんませんっ!あざーっす!!!」
慌てて立ち上がり、盛大に頭を下げて缶を受け取った。
じぃーっと感じる視線に耐えかねて、プルタブを開けて一口煽る。
すると、目の前の悪魔はニヤリと笑って俺を見上げた。
「お前、今飲んだよな?」
「はい!」
「俺に感謝してるよな?」
「はい!」
「じゃあ、一つ頼まれごとしてくれるよな?」
「……………はい?」
突き出されたのは、大きな手の平だった。
「スマホ出せ」
その姿は、まさに追い剥ぎ。
(……あ、俺、終わったな)
遠くで蝉が虚しく鳴いた。
***
「久しぶり!元気にしてるか?今度ペルセウス流星群を見ながら呑もうって話になってるんだけど、よかったら参加しない?」
電話口へとひきった笑顔を浮かべながら必死に語りかける助教の姿を、ぼんやりとした頭で眺める。
ペルセウス流星群。
それは、年間三大流星群にあげられる真夏の流星群だった。スピーカーの向こうからは、若い青年の声が聞こえた。
『行きたいですけど……、それって教授も参加します?』
警戒するような声。
縋るように此方を見下ろす額を叩いて、伸ばした指先でつむじを押しつぶす。
ツボ押ししながら、否定しろと思い切り睨みつけた。
「し、しないしない!御偉いさん同士はそっちで集まって天体観測するんだって。俺等は俺等で気楽に集まろうぜ~。なんたって、今年は八年に一度の好条件らしいからな!」
暫く話のち、通話が切れる。
無事に目的を果たせた助教を、なかなか良い仕事をしたと褒めてやった。
「やるじゃねぇか、ココア君」
「いってぇ……!アンタ、俺がお腹下したら一生責任取ってくださいよ」
「誰が野郎の責任なんかとるかよ。デカいおっぱいつけて出直してこい」
「俺だって野郎の趣味はねぇわっ!!」
アンタだってココア飲んでるじゃないか……!
そんなことをブツブツと言いながら不貞腐れているコイツの額をもう一度叩いてから、俺は図書館へと引き返す。
「え、ちょっ!待って下さいよ。状況がわかんないんですけど……」
背後から掛けられた声に、振り向かずに答える。
「お前も流星群の日空けとけよ。俺らは指定した時間の一時間前に集合だから」
「はぁ!?その日はバイトが……」
「あぁ?なんか言ったか?」
「はい!すんません!」
大きな背中を丸めた威勢の良い謝罪にもう一度呆れる。
本当に、コイツは調子だけはいいのだ。
いつもの席に座りココア缶をおけば、机の端には新しい落書きがあった。
『ココア、飲んだ?』
オススメしておいて、いざとなったら心配になったのだろう。
こちらの様子を伺うような文字の語尾は、微かに不安げに揺れていた。
その文字を眺めながら、缶を開けて一口煽る。胡散臭いパッケージとは裏腹に、濃厚なココアの味がしっかりと口の中に広がった。
胸ポケットからシャーペンを取り出し、走り書きする。
『すっごいうまい』
いつもより心なしか文字が大きくなってしまったのは、ご愛嬌だ。
机に書かれた文字をそっと指でなぞれば、自然と肩に入っていた力が抜けた。
女か男かも分からない相手との気兼ねないやり取りは心地よく、楽しんでしまっている自分を自覚する。
(気遣いもできるし、うまいもん知ってるし、いい子だよなぁ。適度な距離感で、謙虚な感じもいい。それに引き換え……)
先程のココア君が脳裏に過ぎる。
威勢と調子だけ良い、ヘラヘラした顔。
「ああいう奴が、一番嫌いだ」
そっと瞳を閉じれば、懐かしい後ろ姿が見えた気がした。
学生時代、お世話になったあの人。
その背中に追いつきたくて、飛び込んだ星の世界。
憧れて、焦がれ続けた声が反響する。
『彼には、未来があるから』
ようやく友人と呼んでもらえるようになった今。それでもー……、
「アンタの未来に、俺はいないじゃん」
机に、再度ペンを走らせる。
もう一口煽ったココアは、酷く味気なくて塩っぱかった。
****
「おい……。なんだ、そりゃあ」
それが、チンピラの第一声だった。
「は?天体観測用の望遠鏡ですけど」
素直にそう答えると、最近恒例となりつつある勢いで額を叩かれた。
「見りゃあ分かるわっ!なんでこんな時だけ真面目なんだよっ!!」
彼が待ち合わせに指定した場所は、大学近くの公園だった。
夕焼けに照らされ始めた公園の茂みで、男二人でコソコソと膝を突き合わせる。
「お前ただでさえデケェのに、そんなデカいモン持ったら余計に目立つだろ」
「アンタが天体観測って言ったのに」
「だから、素直すぎんだろっ!呼び出す口実だわっ!!」
「はぁ!?意味わかんないっス!」
「ニブチンが!だーかーらー……っ」
そう、叫ばれた時だった。
「ー……っ!しっ」
突然、口元を手で覆われた。
身を屈めて二人で植木の茂みから顔を覗かせれば、目当ての人物がいた。
腕時計を確認すれば、随分と早く到着しているようだ。
だが彼は、キョロキョロと辺りを見回した後、公園を出て行ってしまった。
「行っちゃいましたけど……」
「ちっ、アイツおせぇなぁ!」
二人で立ち上がり、砂と落ち葉だらけの体を払う。すると、もう一度入口から誰かがやってくる。
それは、休職中の教授だった。
准教授は、溜息をつきながら教授へと向き直る。少し痩せた様子の教授は、朗らかに笑った。
「久しぶり。来るのおせぇわ」
「君は相変わらずだな。時間前じゃないか。それより、直接会うのは引き継ぎの時以来だね。どうだい、学生達はー……」
「そんな話をしに来たんじゃねぇよ」
准教授が、穏やかに話す教授の声を遮って言った。
「アンタの大切な"あの子"……、さっきまで此処にいたぜ」
その一言に、教授の顔色が変わる。
「どういうことだ。まさか、君が、あの子を……」
「だったら何だよヘタレが」
「っ!」
教授は不敵に笑う准教授の襟首を掴み上げた。そのせいで、彼のワイシャツのボタンが数個飛び散る。それでも准教授は、教授から一切抵抗もせず目も逸らさなかった。
俺は、急いで二人の間に割って入ろうとした。けれど、間に合わなかった。
教授の拳が振りかぶられた時ー……
響いたのは、ペチンという音だった。
目を見開いたままの教授の頬を、准教授の手のひらが優しく叩いたのだ。
「誰かに盗られて後悔するくらいなら……、早く追いかけろよ」
それは、いつもの彼からは想像できない程に、穏やかな声だった。
「お前の未来に俺はいるか……、ってさ。いたいって、足掻いて、声に出して伝えなきゃ何も始まらないんだよ」
その言葉に、今度は俺が息を呑む。
それは、見覚えのある台詞だった。
*****
「悪かった」
そう声をかければ、ココア君はバツが悪そうに俯いた。
「万が一暴れられた時にお前みたいなデカいのがいりゃあ安心かと思ったんだが……、ただの杞憂だったな」
乱暴にされてはだけだ首元を適当に直し、笑って向き合う。
しかし、ゆっくりと開かれた口から告げられたのは、予想外の質問だった。
「本当にそれだけっスか?」
ヘラヘラとした調子の良さは、どこかへと消えていた。
(……こんな時だけ、鋭いじゃん)
そんな彼に、苦笑いが一つ零れ落ちる。
「今日のお礼に珈琲でも奢ってやるよ」
声が震えないように、精一杯の虚勢ででたのは、こんな言葉だけだった。
「この前学生に教えて貰ったんスよ」
そう言って連れて来られたのは、梟の置物が入り口の前にある、小さな店だった。
コイツが方向音痴なせいで辿り着くのに随分と時間がかかったが、まぁ悪くない。
だが、問題は……
「あ、奢るだけだから。俺は珈琲パスで」
「えっ!」
「苦いの苦手なんだよ」
「それは……」
意外ですね。
どうせ、そう言われるのかと思えば、聞こえたのは違う台詞だった。
「申し訳ないっ!珈琲専門の喫茶店じゃなくて、他にすればよかったッス」
目の前の男は笑うことも揶揄うこともせずに、ただ謝った。それが、なんだかむず痒くて、乱暴にメニューを開く。
「んな謝んじゃねぇよ。別に珈琲以外にもメニューくらいあるだろ」
「他に苦手なものありますか?」
「辛いの」
「じゃあ、好きなのは?」
「甘いもの。あと、酒」
そう答えると、突然ココア君は席から立ち上がった。
「よし!俺店員さんにオススメ聞いてきます!」
「は?え……」
引き止めようとする間もなく、店員がいるカウンターへと飛んでいってしまった。
呆気にとられたまま座っていると、しばらく若い店員と話した後、またすごい勢いで戻ってきた。
「とっておきの出してくれるらしいです!それなら、一緒に楽しめるでしょ?」
俺は、思わず声を出して笑った。
コイツに犬の耳と尻尾が生えてるように見えたのは、絶対に俺だけじゃない筈だ。
「こちらが本日のおすすめでございます」
お待たせ致しました、という言葉と共に芳しく甘やかな香りが立ち昇る。
目の前に置かれた珈琲カップには、たっぷりのホイップクリームが乗せられていた。
「これ、ウインナー珈琲?だったら、砂糖も追加で……」
「いいえ、お客様。こちらは、ルシアン珈琲です」
「ルシアン?」
思わず聞き返せば、マスターは微笑みながら相槌をうつ。
「ココアと珈琲をブレンドしたカカオ風味の珈琲ですよ。ウィンナー珈琲とそっくりですが、飲んだら違いに驚くかもしれません」
「……なるほど」
甘やかな香りはココアだったのか。
不意にあの机を思い出して、泣きたくなるような気持ちを堪える。
すると、マスターが小さな小瓶を取り出した。
琥珀色の液体が、テーブルランプに照らされて光り輝く。
「風味付程度ですが、お酒が大丈夫でしたら、追加で此方のブランデーもおすすめです。心も体も温まりほぐれますよ」
「ありがとうございます!」
ココア君がお礼を言うと、マスターは一礼してカウンターへと戻っていった。
小瓶を静かに傾ければ、とろりとした琥珀色が白いホイップの上に広がる。
ティースプーンで混ぜ合わせて一口飲めば、チョコレートドリンクのような甘さが口いっぱいに広がった。
「どう、ですか?」
「すっごいうまい」
「ははっ、よかったぁ」
嫌いなタイプだと思っていたコイツとの時間は、何故かひどく居心地良かった。
けれど、そんな時間は長く続かない。
会計をする時に、それに唐突に気付かされた。
「せっかくだからスタンプカード作ります。また奢ってくださいね」
調子良く鼻歌なんか歌いながら、カードの名前の欄に記入される文字を見てしまったのだ。角ばった癖のある字を。
その文字に、俺は息を呑む。
それは、見慣れたあの文字だった。
******
会計を済ませようとした時、それは唐突な出来事だった。
「用事思い出したわ。これで払っといて。お釣りはいらねぇ。じゃあな」
スタンプカードの記入をしている間に、振り返れば准教授は姿を消した。
カウンターに、一万円札を残して。
「いやっ!多すぎでしょっ!」
思わず叫ぶと、喫茶店の店員の青年が言った。
「あなたの書く名前を、随分と熱心に見つめていらっしゃいましたよ」
その言葉にスタンプカードを見下ろす。
そして、俺はお釣りを受け取り、すぐにあの場所へと向かって走り出した。
全速力で足を動かしながら、頭に浮かぶのは、細くて柔らかなあの文字だった。
『唐揚げうまかった。他のおすすめは?』
『疲れた。甘いのくいたい』
『今日も疲れた。うまかった。でもチョココロネにはフルーツ牛乳だろ。ここの売店なんで売ってねーの?』
『お前も休めよ。苦いの飲めねー』
『すっごいうまい』
他にも、たくさん会話した。
今日の天気について。仕事のグチについて。ココア缶のデザインについて。
言葉尻は荒いのに、丁寧な文字。
口調は悪いのに、どこか優しい言葉。
でも、昨日は、違かったんだ。
なのに、意気地ない俺は初めて返事を書くことができなかった。
だから、今。書きに行くんだ。
閉館時間間際の図書館は、人の気配がほとんどなかった。
棚の間を縫い歩き、ようやく辿り着いたあの席に、彼は座っていた。
いつもの威圧感なんて形を潜めて、静かに机に向かっている。
その手に握られていたのは、小さな消しゴムだった。
それを見た瞬間、言いようのない焦燥感に駆られた。
すべて、消えてしまう。
そう思えば、自分を止めることなんて出来なかった。
「やめてくださいっ……!」
背後から彼の手を掴み上げて消しゴムを取り上げる。
振り返る瞳から溢れた涙が滴ったのは、最後に残された文字。
『お前の未来に、俺はいるか?』
それは、線が揺らいだ、拙い字だった。
「っ、離せよ!お前も気づいてたのか?気づいた上で、揶揄ってたのか。それとも、見ないフリしてたのかよ、あの人みたいに」
涙と共に、彼の言葉は堰を切った様に溢れ出す。
「あの人って、あの教授ですか?」
「そうだよ!お前の言う通りだ。馬鹿みたいにみっともなく縋らないように、保険にお前を巻き込んだんだよ。……本当はっ、」
「本当は?」
掴んだ手を握ったまま尋ねれば、震えた唇が言葉を紡いだ。
「本当は、ずっと、俺をみてほしかった。未来にいていいって、言ってほしかった」
痛いほどの、心からの叫びだった。
鼻先に、あのブランデーとカカオの香りが鼻を掠める。
甘い香りに絡め取られるように、俺は彼の唇に口づけした。
「ゃめ……っ!?」
殴って来ようとする腕ごと抱きしめて、より深く舌を絡める。
「っ、ふ……、ぁん」
甘やかな声と共に、優しい甘さが口に広がる。
ようやく唇を離した時、俺は告げた。
「アンタ、完璧なんです」
「ふ、……え?」
「強がって、吠えばっかりで、その眼鏡、サングラスにしたらって思うくらい」
「おい、馬鹿にしてんな?」
「そんくらい柄悪いのに憎めない、完璧に俺の理想の人なんです」
「…………は?」
呆けた唇に、もう一度口付けた。
「だから、好みの話ッス」
そう囁いて唇を離せば、今度こそ目の前の男は顔を真っ赤にして目を吊り上げた。
「お前、野郎の趣味はねぇんだろうが」
「なかったですが、アンタは別です。デカいおっぱいつけて出直した方がいいスか?」
「はあぁ!?」
「……出直す時間がもったいないんで、返事だけ書かせて下さい」
そう言って彼の胸ポケットから取り出したシャーペンで、机に走り書きする。
その文字を見て、茹だるほどに赤い顔で、彼は俺の額を叩いた。
そして、一言、呟く。
「……責任を、とらないでもない」
ルシアン珈琲の香りと共に、甘くほぐれた心の声が、ようやく言葉になる。
それは、いつかの口喧嘩の結末だった。
『お前の未来に、俺はいるか?』
『お腹下したんで、一生いてください』
*******
「いらっしゃいませ」
軽快なドアベルが音を奏でれば、その数だけ様々な物語が訪れます。
今宵の物語は、これにて閉話と致しましょう。さようなら、愛しいお客様。
次なる物語が、訪れるその日まで。
*******
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Episode.7『涙と珈琲とあなた』
『学食のカレーくそまず』
ここは大学のキャンパス内にある図書館の一番端。この辺りの棚は専門書ばかりなので、この自習スペースは穴場だった。
学生の利用が少ないおかげで邪魔されない俺のお気に入りの席だったのだけど。
(たしか、昨日来た時はなかったよな……?)
首を傾げつつ選んだ本と共に席へと着く。
殴り書きされた乱暴な文字は、それでいて細くて柔らかく、綺麗に整っている。
消しゴムをかけようか悩んだ末に、俺が手にしたのはシャーペンだった。
『醤油かけてみて』
その落書きの下に、一言綴ってみた。
並んだ文字を眺めて、苦笑いが漏れる。
「……学生かっつーの。何してんだか」
ここ最近の研究室は慌ただしかった。
助教が一人辞めたことと、教授が突然の所用で休職したこと。
そして、その穴埋めに教授の知り合いだという系列大学の若い准教が非常勤講師としてやってきたのだが、まぁそいつの人使いが荒かった。
おかげでここ数日はなかなか忙しい。
准教に頼まれた資料を探しながら、本を捲ってゆく。
星の世界へとのめり込めば、カレーのことなんて頭から消えていった。
仕事に忙殺されて、そんな落書きのことなんて、すっかり頭から抜けていた数日後のことだった。
『うまかった』
落書きが増えていたのだ。
「……ははっ」
その返事に嬉しくなって、またシャーペンを手に取る。
『水曜限定の唐揚げ定食もおすすめ』
そう綴り、見つけた資料を片手に図書館を飛び出す。研究室へと走って戻れば、白衣を着たチンピラが振り返った。
「おっせぇ!どこまでいってやがった。はじめてのおつかいか馬鹿が」
眼鏡の奥の瞳が、鋭さを増す。
きっとその眼鏡がサングラスに変われば、もう完璧すぎる風貌だ。
相変わらずの口の悪さと柄の悪さに眩暈を感じながら、すかさず資料を手渡す。
「はい!すんません!」
「図体ばっかりデカくて使えねぇな」
謝りながらも、思考を遠くへ飛ばして現実逃避だ。心を無にすれば、頭の片隅には、あの机の落書きが浮かんでいた。
(返事、またあるかな……?)
この日から、この奇妙な文通は幕を開けたのだった。
*
休憩がてら訪れた図書館の一番端。
煩わしい学生も同僚もいないこのスペースが、ここ最近のお気に入りだ。
しかし、俺は苛立っていた。
世話の焼ける年上の友人のおかげで増えた仕事。ストレスを解消するために苛立ちながら食べた大盛りカレーが、これまた不味くて余計にストレスが溜まったのだ。
(カレーがまずいなんてあるのかよ!カレーだぞ!!)
集中が切れた手は、手元に開いていたノートではなく机へと動いていた。
『学食のカレーくそまず』
我ながら学生かと突っ込みたくなる。
けれど、そんな思いを吐き出した机に、なんと翌日返事があった。
『醤油かけてみて』
簡潔な文章だった。
角ばった癖のある字。書いたのは学生だろうか?
「醤油なんかでどうにかなるかっつーの」
そう呟きながら、気がつけば学食で性懲りも無くカレーの食券を購入していた。
相変わらず不味そうなカレーに、テーブルに備え付けてある醤油を手に取り振りかける。スプーンで乱暴に掬って一口頬張れば、思わず言葉が漏れた。
「……っ、うっまぁ」
誰だか知らんが、返事の主は天才か!と感動する。その日のうちに、図書館へと出向いて感想を書いてしまった。
数日後、研究室では相変わらず仕事に忙殺されていた。生意気な学生ども相手の授業準備と、使えない助教への指示出し。
「おっせぇ!どこまでいってやがった。はじめてのおつかいか馬鹿が」
資料片手にようやく戻ってきた助教に思わず怒鳴った。
「はい!すんません!」
「図体ばっかりでかくて使えねぇな」
返事と謝罪だけは一丁前な野郎に舌打ちがでる。差し出された資料を受け取り、一人で図書館へと向かった。
例の机に座れば、また返事が一つ。
『水曜限定の唐揚げ定食もおすすめ』
まさか続くと思わなかった落書きの返事に、目を見開いた。けれど、それは決して嫌ではなくて……
「明日の昼飯決まったなぁ」
呟きは、静かに机へと零れた。
**
『唐揚げうまかった。他のおすすめは?』
『何系食べたい?』
『疲れた。甘いのくいたい』
『お疲れ様。毎週金曜に来てるパン屋のチョココロネおすすめ』
『今日も疲れた。うまかった。でもチョココロネにはフルーツ牛乳だろ。ここの売店なんで売ってねーの?』
『ゆっくり休んで。甘いのに甘いの飲むの?そこは珈琲とかじゃない!?』
『お前も休めよ。苦いの飲めねー』
『ありがとう。じゃあー……、』
「って、ここのミルクココアオススメしちゃったけど。大丈夫だったか?」
図書館の裏にひっそりと設置されている自販機の前で一人呟く。
それは、この自販機の中でも、一番隅にある目立たないミルクココアだった。
ゆるキャラのような牛が描かれた地味なパッケージとマイナーなメイカーのココアだったけど、実はうまい……と思う。
(俺は好きなんだけど。また気に入ってもらえるかな……)
未だ見知らぬ相手を思いつつ、ICカードをポケットから取り出そうとする。
しかし、俺はそこでハタと気がついた。
「……っ、あれ?ない!」
ゴソゴソと両ポケットに手を突っ込み、さらに屈んで中を覗くがそこは無情にも空っぽだった。
(研究室に忘れたー!わざわざこのココア買うためだけにここまできたのに!)
その場にしゃがみ込んで、小さく絶望した時だった。
ピッ、と電子音が鳴り響く。
顔を上げれば、ココアのボタンを長い指が押していた。
「…………え?」
小さく声を洩らせば、頭上から盛大な舌打ちが鳴り響く。
「ああ?俺がココア買っちゃ悪いか?」
見れば、休憩時間には一番会いたくない人物No. 1がそこに立っていた。
「っとんでもないでひゅ!」
……盛大に舌を噛んだ自分を殴りたい。
眼鏡の奥で此方を睨む瞳に震えていると、あろうことか更に質問された。
「お前、ICカード忘れたのか?ダセェ」
「け、研究室に置いて来ちゃったんスよねぇ。ははっ」
苦笑いで何とか誤魔化す。
「どれ飲むんだよ」
「はい?」
「どれ飲むんだよ!」
「ミルクココアですぅう!!」
質問攻めにヤケクソで答えた瞬間、もう一度電子音が鳴り響く。
「ん、ほらよ」
そして、差し出されたのは、ゆるキャラの牛が描かれた缶だった。
「……え、大丈夫ッスか?今日世界終わるんじゃね?」
「はぁ!?お前いっぺん締めんぞ!!」
「すんませんっ!あざーっす!!!」
慌てて立ち上がり、盛大に頭を下げて缶を受け取った。
じぃーっと感じる視線に耐えかねて、プルタブを開けて一口煽る。
すると、目の前の悪魔はニヤリと笑って俺を見上げた。
「お前、今飲んだよな?」
「はい!」
「俺に感謝してるよな?」
「はい!」
「じゃあ、一つ頼まれごとしてくれるよな?」
「……………はい?」
突き出されたのは、大きな手の平だった。
「スマホ出せ」
その姿は、まさに追い剥ぎ。
(……あ、俺、終わったな)
遠くで蝉が虚しく鳴いた。
***
「久しぶり!元気にしてるか?今度ペルセウス流星群を見ながら呑もうって話になってるんだけど、よかったら参加しない?」
電話口へとひきった笑顔を浮かべながら必死に語りかける助教の姿を、ぼんやりとした頭で眺める。
ペルセウス流星群。
それは、年間三大流星群にあげられる真夏の流星群だった。スピーカーの向こうからは、若い青年の声が聞こえた。
『行きたいですけど……、それって教授も参加します?』
警戒するような声。
縋るように此方を見下ろす額を叩いて、伸ばした指先でつむじを押しつぶす。
ツボ押ししながら、否定しろと思い切り睨みつけた。
「し、しないしない!御偉いさん同士はそっちで集まって天体観測するんだって。俺等は俺等で気楽に集まろうぜ~。なんたって、今年は八年に一度の好条件らしいからな!」
暫く話のち、通話が切れる。
無事に目的を果たせた助教を、なかなか良い仕事をしたと褒めてやった。
「やるじゃねぇか、ココア君」
「いってぇ……!アンタ、俺がお腹下したら一生責任取ってくださいよ」
「誰が野郎の責任なんかとるかよ。デカいおっぱいつけて出直してこい」
「俺だって野郎の趣味はねぇわっ!!」
アンタだってココア飲んでるじゃないか……!
そんなことをブツブツと言いながら不貞腐れているコイツの額をもう一度叩いてから、俺は図書館へと引き返す。
「え、ちょっ!待って下さいよ。状況がわかんないんですけど……」
背後から掛けられた声に、振り向かずに答える。
「お前も流星群の日空けとけよ。俺らは指定した時間の一時間前に集合だから」
「はぁ!?その日はバイトが……」
「あぁ?なんか言ったか?」
「はい!すんません!」
大きな背中を丸めた威勢の良い謝罪にもう一度呆れる。
本当に、コイツは調子だけはいいのだ。
いつもの席に座りココア缶をおけば、机の端には新しい落書きがあった。
『ココア、飲んだ?』
オススメしておいて、いざとなったら心配になったのだろう。
こちらの様子を伺うような文字の語尾は、微かに不安げに揺れていた。
その文字を眺めながら、缶を開けて一口煽る。胡散臭いパッケージとは裏腹に、濃厚なココアの味がしっかりと口の中に広がった。
胸ポケットからシャーペンを取り出し、走り書きする。
『すっごいうまい』
いつもより心なしか文字が大きくなってしまったのは、ご愛嬌だ。
机に書かれた文字をそっと指でなぞれば、自然と肩に入っていた力が抜けた。
女か男かも分からない相手との気兼ねないやり取りは心地よく、楽しんでしまっている自分を自覚する。
(気遣いもできるし、うまいもん知ってるし、いい子だよなぁ。適度な距離感で、謙虚な感じもいい。それに引き換え……)
先程のココア君が脳裏に過ぎる。
威勢と調子だけ良い、ヘラヘラした顔。
「ああいう奴が、一番嫌いだ」
そっと瞳を閉じれば、懐かしい後ろ姿が見えた気がした。
学生時代、お世話になったあの人。
その背中に追いつきたくて、飛び込んだ星の世界。
憧れて、焦がれ続けた声が反響する。
『彼には、未来があるから』
ようやく友人と呼んでもらえるようになった今。それでもー……、
「アンタの未来に、俺はいないじゃん」
机に、再度ペンを走らせる。
もう一口煽ったココアは、酷く味気なくて塩っぱかった。
****
「おい……。なんだ、そりゃあ」
それが、チンピラの第一声だった。
「は?天体観測用の望遠鏡ですけど」
素直にそう答えると、最近恒例となりつつある勢いで額を叩かれた。
「見りゃあ分かるわっ!なんでこんな時だけ真面目なんだよっ!!」
彼が待ち合わせに指定した場所は、大学近くの公園だった。
夕焼けに照らされ始めた公園の茂みで、男二人でコソコソと膝を突き合わせる。
「お前ただでさえデケェのに、そんなデカいモン持ったら余計に目立つだろ」
「アンタが天体観測って言ったのに」
「だから、素直すぎんだろっ!呼び出す口実だわっ!!」
「はぁ!?意味わかんないっス!」
「ニブチンが!だーかーらー……っ」
そう、叫ばれた時だった。
「ー……っ!しっ」
突然、口元を手で覆われた。
身を屈めて二人で植木の茂みから顔を覗かせれば、目当ての人物がいた。
腕時計を確認すれば、随分と早く到着しているようだ。
だが彼は、キョロキョロと辺りを見回した後、公園を出て行ってしまった。
「行っちゃいましたけど……」
「ちっ、アイツおせぇなぁ!」
二人で立ち上がり、砂と落ち葉だらけの体を払う。すると、もう一度入口から誰かがやってくる。
それは、休職中の教授だった。
准教授は、溜息をつきながら教授へと向き直る。少し痩せた様子の教授は、朗らかに笑った。
「久しぶり。来るのおせぇわ」
「君は相変わらずだな。時間前じゃないか。それより、直接会うのは引き継ぎの時以来だね。どうだい、学生達はー……」
「そんな話をしに来たんじゃねぇよ」
准教授が、穏やかに話す教授の声を遮って言った。
「アンタの大切な"あの子"……、さっきまで此処にいたぜ」
その一言に、教授の顔色が変わる。
「どういうことだ。まさか、君が、あの子を……」
「だったら何だよヘタレが」
「っ!」
教授は不敵に笑う准教授の襟首を掴み上げた。そのせいで、彼のワイシャツのボタンが数個飛び散る。それでも准教授は、教授から一切抵抗もせず目も逸らさなかった。
俺は、急いで二人の間に割って入ろうとした。けれど、間に合わなかった。
教授の拳が振りかぶられた時ー……
響いたのは、ペチンという音だった。
目を見開いたままの教授の頬を、准教授の手のひらが優しく叩いたのだ。
「誰かに盗られて後悔するくらいなら……、早く追いかけろよ」
それは、いつもの彼からは想像できない程に、穏やかな声だった。
「お前の未来に俺はいるか……、ってさ。いたいって、足掻いて、声に出して伝えなきゃ何も始まらないんだよ」
その言葉に、今度は俺が息を呑む。
それは、見覚えのある台詞だった。
*****
「悪かった」
そう声をかければ、ココア君はバツが悪そうに俯いた。
「万が一暴れられた時にお前みたいなデカいのがいりゃあ安心かと思ったんだが……、ただの杞憂だったな」
乱暴にされてはだけだ首元を適当に直し、笑って向き合う。
しかし、ゆっくりと開かれた口から告げられたのは、予想外の質問だった。
「本当にそれだけっスか?」
ヘラヘラとした調子の良さは、どこかへと消えていた。
(……こんな時だけ、鋭いじゃん)
そんな彼に、苦笑いが一つ零れ落ちる。
「今日のお礼に珈琲でも奢ってやるよ」
声が震えないように、精一杯の虚勢ででたのは、こんな言葉だけだった。
「この前学生に教えて貰ったんスよ」
そう言って連れて来られたのは、梟の置物が入り口の前にある、小さな店だった。
コイツが方向音痴なせいで辿り着くのに随分と時間がかかったが、まぁ悪くない。
だが、問題は……
「あ、奢るだけだから。俺は珈琲パスで」
「えっ!」
「苦いの苦手なんだよ」
「それは……」
意外ですね。
どうせ、そう言われるのかと思えば、聞こえたのは違う台詞だった。
「申し訳ないっ!珈琲専門の喫茶店じゃなくて、他にすればよかったッス」
目の前の男は笑うことも揶揄うこともせずに、ただ謝った。それが、なんだかむず痒くて、乱暴にメニューを開く。
「んな謝んじゃねぇよ。別に珈琲以外にもメニューくらいあるだろ」
「他に苦手なものありますか?」
「辛いの」
「じゃあ、好きなのは?」
「甘いもの。あと、酒」
そう答えると、突然ココア君は席から立ち上がった。
「よし!俺店員さんにオススメ聞いてきます!」
「は?え……」
引き止めようとする間もなく、店員がいるカウンターへと飛んでいってしまった。
呆気にとられたまま座っていると、しばらく若い店員と話した後、またすごい勢いで戻ってきた。
「とっておきの出してくれるらしいです!それなら、一緒に楽しめるでしょ?」
俺は、思わず声を出して笑った。
コイツに犬の耳と尻尾が生えてるように見えたのは、絶対に俺だけじゃない筈だ。
「こちらが本日のおすすめでございます」
お待たせ致しました、という言葉と共に芳しく甘やかな香りが立ち昇る。
目の前に置かれた珈琲カップには、たっぷりのホイップクリームが乗せられていた。
「これ、ウインナー珈琲?だったら、砂糖も追加で……」
「いいえ、お客様。こちらは、ルシアン珈琲です」
「ルシアン?」
思わず聞き返せば、マスターは微笑みながら相槌をうつ。
「ココアと珈琲をブレンドしたカカオ風味の珈琲ですよ。ウィンナー珈琲とそっくりですが、飲んだら違いに驚くかもしれません」
「……なるほど」
甘やかな香りはココアだったのか。
不意にあの机を思い出して、泣きたくなるような気持ちを堪える。
すると、マスターが小さな小瓶を取り出した。
琥珀色の液体が、テーブルランプに照らされて光り輝く。
「風味付程度ですが、お酒が大丈夫でしたら、追加で此方のブランデーもおすすめです。心も体も温まりほぐれますよ」
「ありがとうございます!」
ココア君がお礼を言うと、マスターは一礼してカウンターへと戻っていった。
小瓶を静かに傾ければ、とろりとした琥珀色が白いホイップの上に広がる。
ティースプーンで混ぜ合わせて一口飲めば、チョコレートドリンクのような甘さが口いっぱいに広がった。
「どう、ですか?」
「すっごいうまい」
「ははっ、よかったぁ」
嫌いなタイプだと思っていたコイツとの時間は、何故かひどく居心地良かった。
けれど、そんな時間は長く続かない。
会計をする時に、それに唐突に気付かされた。
「せっかくだからスタンプカード作ります。また奢ってくださいね」
調子良く鼻歌なんか歌いながら、カードの名前の欄に記入される文字を見てしまったのだ。角ばった癖のある字を。
その文字に、俺は息を呑む。
それは、見慣れたあの文字だった。
******
会計を済ませようとした時、それは唐突な出来事だった。
「用事思い出したわ。これで払っといて。お釣りはいらねぇ。じゃあな」
スタンプカードの記入をしている間に、振り返れば准教授は姿を消した。
カウンターに、一万円札を残して。
「いやっ!多すぎでしょっ!」
思わず叫ぶと、喫茶店の店員の青年が言った。
「あなたの書く名前を、随分と熱心に見つめていらっしゃいましたよ」
その言葉にスタンプカードを見下ろす。
そして、俺はお釣りを受け取り、すぐにあの場所へと向かって走り出した。
全速力で足を動かしながら、頭に浮かぶのは、細くて柔らかなあの文字だった。
『唐揚げうまかった。他のおすすめは?』
『疲れた。甘いのくいたい』
『今日も疲れた。うまかった。でもチョココロネにはフルーツ牛乳だろ。ここの売店なんで売ってねーの?』
『お前も休めよ。苦いの飲めねー』
『すっごいうまい』
他にも、たくさん会話した。
今日の天気について。仕事のグチについて。ココア缶のデザインについて。
言葉尻は荒いのに、丁寧な文字。
口調は悪いのに、どこか優しい言葉。
でも、昨日は、違かったんだ。
なのに、意気地ない俺は初めて返事を書くことができなかった。
だから、今。書きに行くんだ。
閉館時間間際の図書館は、人の気配がほとんどなかった。
棚の間を縫い歩き、ようやく辿り着いたあの席に、彼は座っていた。
いつもの威圧感なんて形を潜めて、静かに机に向かっている。
その手に握られていたのは、小さな消しゴムだった。
それを見た瞬間、言いようのない焦燥感に駆られた。
すべて、消えてしまう。
そう思えば、自分を止めることなんて出来なかった。
「やめてくださいっ……!」
背後から彼の手を掴み上げて消しゴムを取り上げる。
振り返る瞳から溢れた涙が滴ったのは、最後に残された文字。
『お前の未来に、俺はいるか?』
それは、線が揺らいだ、拙い字だった。
「っ、離せよ!お前も気づいてたのか?気づいた上で、揶揄ってたのか。それとも、見ないフリしてたのかよ、あの人みたいに」
涙と共に、彼の言葉は堰を切った様に溢れ出す。
「あの人って、あの教授ですか?」
「そうだよ!お前の言う通りだ。馬鹿みたいにみっともなく縋らないように、保険にお前を巻き込んだんだよ。……本当はっ、」
「本当は?」
掴んだ手を握ったまま尋ねれば、震えた唇が言葉を紡いだ。
「本当は、ずっと、俺をみてほしかった。未来にいていいって、言ってほしかった」
痛いほどの、心からの叫びだった。
鼻先に、あのブランデーとカカオの香りが鼻を掠める。
甘い香りに絡め取られるように、俺は彼の唇に口づけした。
「ゃめ……っ!?」
殴って来ようとする腕ごと抱きしめて、より深く舌を絡める。
「っ、ふ……、ぁん」
甘やかな声と共に、優しい甘さが口に広がる。
ようやく唇を離した時、俺は告げた。
「アンタ、完璧なんです」
「ふ、……え?」
「強がって、吠えばっかりで、その眼鏡、サングラスにしたらって思うくらい」
「おい、馬鹿にしてんな?」
「そんくらい柄悪いのに憎めない、完璧に俺の理想の人なんです」
「…………は?」
呆けた唇に、もう一度口付けた。
「だから、好みの話ッス」
そう囁いて唇を離せば、今度こそ目の前の男は顔を真っ赤にして目を吊り上げた。
「お前、野郎の趣味はねぇんだろうが」
「なかったですが、アンタは別です。デカいおっぱいつけて出直した方がいいスか?」
「はあぁ!?」
「……出直す時間がもったいないんで、返事だけ書かせて下さい」
そう言って彼の胸ポケットから取り出したシャーペンで、机に走り書きする。
その文字を見て、茹だるほどに赤い顔で、彼は俺の額を叩いた。
そして、一言、呟く。
「……責任を、とらないでもない」
ルシアン珈琲の香りと共に、甘くほぐれた心の声が、ようやく言葉になる。
それは、いつかの口喧嘩の結末だった。
『お前の未来に、俺はいるか?』
『お腹下したんで、一生いてください』
*******
「いらっしゃいませ」
軽快なドアベルが音を奏でれば、その数だけ様々な物語が訪れます。
今宵の物語は、これにて閉話と致しましょう。さようなら、愛しいお客様。
次なる物語が、訪れるその日まで。
*******
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Episode.7『涙と珈琲とあなた』
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