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第二章

34. 昔話

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 私が初めて悠介と出会ったのは、高校の入学式だった。
 エスカレーター式で大学までいけるはずの私立の中学校から、たいして偏差値もよくないこんな高校に入ってきた浮世離れするほど美しい男の子。
 女子生徒達は、こぞって彼を取り囲んだ。

『外国人なのかな?』
『でも名前は日本人じゃん』
『ハーフなの? どこの国?』
『日本語話せる? 教えてあげようか』

 次々に黄色い声を浴びせられる彼の表情は、人形のように動かない。
 けれど、声変わりしたばかりの低い声が、ただ一言だけ告げた。

『うぜぇ。近寄んなブス共』

 それが、私が初めて聞いた彼の声だった。


「え、ごめん。誰の話?」
「え、悠介よ」

 思わずストップをかけた俺に、芦名さんはケラケラと笑いながら焼酎をあおぐ。
 そして、全て飲み干して言った。

「実家嫌いだから、きっとこれは蒼大くんにも話してないと思うけど……。彼の実家、有名な華道の家元なのよ」

 予想外の話に、息を呑む。
 
「ふふ。そんなお坊ちゃまが何で普通の高校に……って思ったでしょう? 私もそう思ったもの」
 芦名さんは苦笑いしながら続けた。
「海外から日本に嫁いできた母親と親族の折り合いが悪かったらしいの。結局母親は、悠介が幼い時、彼だけを残して出ていったそうよ。それ以来、毎日のように着たくもない着物を着せられて、稽古漬けにされて……、嫌気がさして反抗したって言ってたわ」
「そんな……」
 俺の頭の中の片隅に、早川さんの台詞が蘇った。

『そうかな。僕も随分久しぶりに着たから少し下手くそだよ。……実家ではね。着物を着る機会の方が多かったんだ』

 あの寂しげな横顔を鮮明に思い出し、俺はそれ以上何も言えなくなる。
 芦名さんは「詳しいことは本人に聞きなさい」と言い、また焼酎を注ぎ始めた。
「まぁ、そんなお坊ちゃまに酒と煙草を教えたのは私だけどね。あ、これは内緒の話よ」
 芦名さんはお茶目にウインクする。
 だれに内緒ですか!? と脳内で叫んでいると、不意に芦名さんは言った。

「でも、当時の悠介は私以上に荒れてた。まるで、心が空っぽな人形みたいに」

 懐かしむように揺れる視線が、リビングの方へと向く。つられて視線の後を追うと、その先にはあの写真立てがあった。
 写真の中の芦名さんは、いい笑顔だ。
 けれどよく見れば、その隣にいる早川さんは、笑ってなどいなかった。
 彼らの青春を想像しようとして、でも結局想像なんてできなくて俯くしかない。
 胸が、どうしようもなく苦しい。

『蒼大くん』

 低い声が、耳の奥で甘やかに響く。
 俺は、彼の言葉遣いが悪かったなんて知らない。
 俺は、彼のお酒や煙草を嗜む姿なんて想像できない。
 俺は、笑わない彼なんて、知らない。
(結局俺は、早川さんの本当の姿なんて、見えてなかったんだ……)
 そう、机の下で拳を握りしめた時だった。

「でもね」

 その声に顔をあげると、いつの間にか視線をこちらへ戻していた芦名さんが言った。

「大学に入って、変わったの」

 そっと長い睫毛を伏せながら、彼女は当時のことを語り出す。

「大学の講義中、ふと覗いた悠介のノートの端に、小さな落書きがあったの。それを見つけた瞬間、初めて知ったわ。彼の絵が、あんなにも素晴らしいってことを」
 お酒を飲んでも変わらなかった彼女の頬が、わずかに高揚する。
「あの日、雑に描かれたはずの落書きが、輝いて見えた。気がつけば、講義中なんてことは忘れて、彼の名前を呼びながら、夢中で絵を褒めちぎっていたわ。そうしたら、後ろの席から、突然声をかけられたの。

『もしかして、悠介か?』

 って。そこで出会ったのがー……」


 その時だった。
 玄関のドアが開閉する音が響いた。
 驚いて振り返れば、リビングのドアの向こうから、少しずつこちらへと近づく足音が聞こえ始める。
「あぁ……、やっと帰ってきた」
 足音がリビングの前で止まった。
 芦名さんが立ち上がり、ドアを開ける。

 そして、ついにその人は現れた。

 色素の薄いヘーゼル色の瞳が俺を捉えたかと思えば、形の良い唇がゆったりと開く。
 低い声が、柔らかく囁いた。

「初めまして、蒼大くん」

 癖のないサラサラな髪は、見慣れぬ黒色。
 そして、その左手の薬指に輝くのは、芦名さんと同じシルバーの指輪。
「紹介するわ」
 芦名さんが、振り向き告げる。

「芦名 悠平ゆうへいさん。悠介の双子の兄よ」

 それは、早川さんの面影を残した……けれど、決して彼ではない別人だった。
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