8 / 36
【Lesson.2】
二人の時間2
「由衣濱先生に何かアドバイスをいただければ。奇譚ない意見をお聞かせください。……あ、もちろん、相談料はお支払いします」
「いえいえ、お金はいただきませんから。すごいじゃないですか。どれも美味しそうです」
「褒めていただいて……光栄です。サラダなんかはスーパーで買って楽することはあるんですけど」
「俺も一人暮らしなので、カット野菜をよく使っていますよ」
久住は安心したような顔になる。親元を離れたばかりの大学生みたいで、何だか微笑ましい。教室に通い始めたばかり……自炊の経験もほとんどゼロだった初期に比べれば、目覚ましい進歩だ。
多希が受け持つ生徒は、料理に対して苦手意識がなく、共通の趣味や習い事として通っている女性がほとんどだ。実際にAllegroはそういった層をターゲットにしている。初心者に教えることは普段ないため、久住の成長が嬉しい。
「一人暮らしなんですね」
「え、ええ」
「由衣濱先生は美人だから彼女いそうですよね」
「……い、いや」
「って、他の生徒さんが噂していました」
プライベートの話に切り替わり、返答はしどろもどろになってしまった。動揺と淡い期待で膨らんだ内心を悟られないよう、多希は新しい酒を喉に流した。
「ちょっとペース早くないですか? 顔と首が真っ赤ですよ」
「ん、へーきです……」
「何か食べられたほうがいいですよ」
少し潤んだ視界の中で、久住が多希の小皿にせっせとつまみを取り分けている。何らおかしいことはないのに、多希は浮かれた気分になってくすっと笑った。カウンターに頬杖をつきながら、多希は男の横顔をじっと見据える。
「久住さんって意外と睫毛長いですね」
「ゆ、由衣濱先生……?」
普段真面目で、感情の起伏が読み取れない男の相好が崩れる。その後の記憶がなく、久住に介抱してもらう形で店を出た。
冷たい秋風に晒されるうちに、酔いも少しずつ冷めてくる。いつもコートのポケットに入れているはずの、自宅の鍵がない。
「え、あれ……」
「どうしたんですか?」
「家の鍵がなくて。……あ」
キーケースをエプロンのポケットへ入れていたことを思い出した。取りに行こうとしたが、多希のキーケースには事務所の鍵も一緒になっている。社長の三好ももう帰っている時間だ。
怒られるのを承知で電話をかけるも、三好が出る気配はない。呼び出し音が耳で響く度に、焦りで鳩尾のあたりが冷たくなっていくのを感じる。久住がじっと待っていることに気付き、多希は一度通話を終了した。
「すみません。事務所に鍵を忘れてしまったみたいで。久住さんは先に帰ってください」
「先にって……由衣濱先生はどうされるんですか?」
「友人の家を当たってみます。だから気にしないでください」
多希はトークアプリを開き、学生時代の旧友を探す。メッセージを送る前に、再び久住が話しかけてきた。
「俺も由衣濱先生と同じ一人暮らしなんです」
「は、はい……?」
「今日は俺のところに泊まりませんか? 替え用の布団もありますし」
「いや、そんな。ご迷惑でしょう」
「美味しいご飯に誘っていただいたお礼です」
確かに誘ったのは多希だったが、支払いはどちらがしたっけ……? 割り勘だった?
記憶が混濁するほど飲んだくれていたみたいで、改めて久住に対して申し訳なさでいっぱいになる。久住が腕にはめた時計を確認し、多希のカバンを引っ張った。
「終電、そろそろなので急いだほうがいいです」
「えっ……あ、はい……」
まだアルコールの回っている頭で多希は誘導されるまま、ふらふらと久住に着いていく。終電で少し混み合う車内に揺られること十分程、久住が住んでいるというアパートへ連れてこられた。
「どうぞ」
「……おじゃまします」
廊下の明かりをつけながら、久住は言った。廊下も部屋も綺麗に整頓されており、余計なものが一切ない。本人の性格をよく表している部屋だ。
「風呂沸かしてますので、由衣濱先生お先にどうぞ」
「え、いや、俺は久住さんの後で大丈夫です」
「着替えも用意してますので。はい」
渡されたのは袋に入っている新品のスウェットと下着、歯ブラシだった。
「何から何まですみません」
多希は風呂場のドアをきっちりと閉めると、多希は身につけているものを脱いでいく。事務所のロッカーは施錠できるようにはなっているが、多希は念のため貴重品は肌見放さず持ち歩く主義だった。久住と飲みに行くことに気を取られ、完全に頭から抜けていた。
風呂から上がると、ベッドの横に久住が寝床の準備をしていた。スーツはカーテンレールに吊り下げられていて、久住はシャツと下着のみの格好だった。見てはいけないものを見てしまった気がして、多希は視線を床へと落とした。
「あ、由衣濱先生。ベッドと敷布団、どちらでも好きなほうで横になってください」
声をかけられたが、内容が右から左へ抜けて入ってこない。ぎこちなく「はい」と答えると、多希と入れ替わる形で、久住は浴室へ向かった。
床へ吸い込まれるように、へなへなと腰が抜けていくのを感じた。紺色のボクサーパンツとそこから伸びる筋が浮き出た足。尻を向けていた久住の姿がはっきりと頭の中に浮かび、今も消えてくれない。
「いえいえ、お金はいただきませんから。すごいじゃないですか。どれも美味しそうです」
「褒めていただいて……光栄です。サラダなんかはスーパーで買って楽することはあるんですけど」
「俺も一人暮らしなので、カット野菜をよく使っていますよ」
久住は安心したような顔になる。親元を離れたばかりの大学生みたいで、何だか微笑ましい。教室に通い始めたばかり……自炊の経験もほとんどゼロだった初期に比べれば、目覚ましい進歩だ。
多希が受け持つ生徒は、料理に対して苦手意識がなく、共通の趣味や習い事として通っている女性がほとんどだ。実際にAllegroはそういった層をターゲットにしている。初心者に教えることは普段ないため、久住の成長が嬉しい。
「一人暮らしなんですね」
「え、ええ」
「由衣濱先生は美人だから彼女いそうですよね」
「……い、いや」
「って、他の生徒さんが噂していました」
プライベートの話に切り替わり、返答はしどろもどろになってしまった。動揺と淡い期待で膨らんだ内心を悟られないよう、多希は新しい酒を喉に流した。
「ちょっとペース早くないですか? 顔と首が真っ赤ですよ」
「ん、へーきです……」
「何か食べられたほうがいいですよ」
少し潤んだ視界の中で、久住が多希の小皿にせっせとつまみを取り分けている。何らおかしいことはないのに、多希は浮かれた気分になってくすっと笑った。カウンターに頬杖をつきながら、多希は男の横顔をじっと見据える。
「久住さんって意外と睫毛長いですね」
「ゆ、由衣濱先生……?」
普段真面目で、感情の起伏が読み取れない男の相好が崩れる。その後の記憶がなく、久住に介抱してもらう形で店を出た。
冷たい秋風に晒されるうちに、酔いも少しずつ冷めてくる。いつもコートのポケットに入れているはずの、自宅の鍵がない。
「え、あれ……」
「どうしたんですか?」
「家の鍵がなくて。……あ」
キーケースをエプロンのポケットへ入れていたことを思い出した。取りに行こうとしたが、多希のキーケースには事務所の鍵も一緒になっている。社長の三好ももう帰っている時間だ。
怒られるのを承知で電話をかけるも、三好が出る気配はない。呼び出し音が耳で響く度に、焦りで鳩尾のあたりが冷たくなっていくのを感じる。久住がじっと待っていることに気付き、多希は一度通話を終了した。
「すみません。事務所に鍵を忘れてしまったみたいで。久住さんは先に帰ってください」
「先にって……由衣濱先生はどうされるんですか?」
「友人の家を当たってみます。だから気にしないでください」
多希はトークアプリを開き、学生時代の旧友を探す。メッセージを送る前に、再び久住が話しかけてきた。
「俺も由衣濱先生と同じ一人暮らしなんです」
「は、はい……?」
「今日は俺のところに泊まりませんか? 替え用の布団もありますし」
「いや、そんな。ご迷惑でしょう」
「美味しいご飯に誘っていただいたお礼です」
確かに誘ったのは多希だったが、支払いはどちらがしたっけ……? 割り勘だった?
記憶が混濁するほど飲んだくれていたみたいで、改めて久住に対して申し訳なさでいっぱいになる。久住が腕にはめた時計を確認し、多希のカバンを引っ張った。
「終電、そろそろなので急いだほうがいいです」
「えっ……あ、はい……」
まだアルコールの回っている頭で多希は誘導されるまま、ふらふらと久住に着いていく。終電で少し混み合う車内に揺られること十分程、久住が住んでいるというアパートへ連れてこられた。
「どうぞ」
「……おじゃまします」
廊下の明かりをつけながら、久住は言った。廊下も部屋も綺麗に整頓されており、余計なものが一切ない。本人の性格をよく表している部屋だ。
「風呂沸かしてますので、由衣濱先生お先にどうぞ」
「え、いや、俺は久住さんの後で大丈夫です」
「着替えも用意してますので。はい」
渡されたのは袋に入っている新品のスウェットと下着、歯ブラシだった。
「何から何まですみません」
多希は風呂場のドアをきっちりと閉めると、多希は身につけているものを脱いでいく。事務所のロッカーは施錠できるようにはなっているが、多希は念のため貴重品は肌見放さず持ち歩く主義だった。久住と飲みに行くことに気を取られ、完全に頭から抜けていた。
風呂から上がると、ベッドの横に久住が寝床の準備をしていた。スーツはカーテンレールに吊り下げられていて、久住はシャツと下着のみの格好だった。見てはいけないものを見てしまった気がして、多希は視線を床へと落とした。
「あ、由衣濱先生。ベッドと敷布団、どちらでも好きなほうで横になってください」
声をかけられたが、内容が右から左へ抜けて入ってこない。ぎこちなく「はい」と答えると、多希と入れ替わる形で、久住は浴室へ向かった。
床へ吸い込まれるように、へなへなと腰が抜けていくのを感じた。紺色のボクサーパンツとそこから伸びる筋が浮き出た足。尻を向けていた久住の姿がはっきりと頭の中に浮かび、今も消えてくれない。
あなたにおすすめの小説
完結|好きから一番遠いはずだった
七角
BL
大学生の石田陽は、石ころみたいな自分に自信がない。酒の力を借りて恋愛のきっかけをつかもうと意気込む。
しかしサークル歴代最高イケメン・星川叶斗が邪魔してくる。恋愛なんて簡単そうなこの後輩、ずるいし、好きじゃない。
なのにあれこれ世話を焼かれる。いや利用されてるだけだ。恋愛相手として最も遠い後輩に、勘違いしない。
…はずだった。
運命の番は僕に振り向かない
ゆうに
BL
大好きだったアルファの恋人が旅先で運命の番と出会ってしまい、泣く泣く別れた経験があるオメガの千遥。
それ以来、ずっと自分の前にも運命の番があらわれることを切に願っていた。
オメガひとりの生活は苦しく、千遥は仕方なく身体を売って稼ぐことを決心する。
ネットで知り合った相手と待ち合わせ、雑踏の中を歩いている時、千遥は自分の運命の番を見つけた。
ところが視線が確かに合ったのに運命の番は千遥を避けるように去っていく。彼の隣には美しいオメガがいた。
ベータのような平凡な見た目のオメガが主人公です。
ふんわり現代、ふんわりオメガバース、設定がふんわりしてます。
完結しました!ありがとうございました。
【完結】男の後輩に告白されたオレと、様子のおかしくなった幼なじみの話
須宮りんこ
BL
【あらすじ】
高校三年生の椿叶太には女子からモテまくりの幼なじみ・五十嵐青がいる。
二人は顔を合わせば絡む仲ではあるものの、叶太にとって青は生意気な幼なじみでしかない。
そんなある日、叶太は北村という一つ下の後輩・北村から告白される。
青いわく友達目線で見ても北村はいい奴らしい。しかも青とは違い、素直で礼儀正しい北村に叶太は好感を持つ。北村の希望もあって、まずは普通の先輩後輩として付き合いをはじめることに。
けれど叶太が北村に告白されたことを知った青の様子が、その日からおかしくなって――?
※本編完結済み。後日談連載中。
魔性の男
makase
BL
俺はとにかくモテる。学生の頃から、社会人になった今でも、異性問わずにモテてしまう。
最近、さえない同性の先輩に好意を持たれている。いつものことだろう。いい人だから、傷つけたくはないな。
そう、思っていた。
[BL]憧れだった初恋相手と偶然再会したら、速攻で抱かれてしまった
ざびえる
BL
エリートリーマン×平凡リーマン
モデル事務所で
メンズモデルのマネージャーをしている牧野 亮(まきの りょう) 25才
中学時代の初恋相手
高瀬 優璃 (たかせ ゆうり)が
突然現れ、再会した初日に強引に抱かれてしまう。
昔、優璃に嫌われていたとばかり思っていた亮は優璃の本当の気持ちに気付いていき…
夏にピッタリな青春ラブストーリー💕
ヤンデレ王子と哀れなおっさん辺境伯 恋も人生も二度目なら
音無野ウサギ
BL
ある日おっさん辺境伯ゲオハルトは美貌の第三王子リヒトにぺろりと食べられてしまいました。
しかも貴族たちに濡れ場を聞かれてしまい……
ところが権力者による性的搾取かと思われた出来事には実はもう少し深いわけが……
だって第三王子には前世の記憶があったから!
といった感じの話です。おっさんがグチョグチョにされていても許してくださる方どうぞ。
濡れ場回にはタイトルに※をいれています
おっさん企画を知ってから自分なりのおっさん受けってどんな形かなって考えていて生まれた話です。
この作品はムーンライトノベルズでも公開しています。