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犯罪と思い出

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「おはようございます。いやあ今日も暑いっすねえ。こんなんじゃあ部屋の冷房必須っすよ」
 更衣室で、いつもの作業着をを半袖にしただけの暑苦しい布を羽織っていると、珍しい時間に出勤をして来た工藤が話し掛けてきた。更衣し室にはエアコンが完備されていない為、前日の残り香を漂わせた空気が、人口増加により蒸し上がり、人々の体臭をより濃く充満させていく。工藤の上半身から香る制汗剤の、人工的な柑橘の香りが、つんと鼻を刺激した。
「先輩もちゃんとつけて来ました?家のエアコン」
 最近買い直したトランクスをズボンで隠し、股間のジッパーを上げて「ああ」と答え、溜息をつく。
「ヒューマノイドを起動しておくってのは案外金がかかるんだな」
「そうっすね。電源切っておけばまだマシなんでしょうけど、それも可哀想っすもんね。先輩のとこは古い型なんだし特に気遣いそうですね」
「まあでもエアコンつけてレースカーテン引いてくるだけだけどな。一人で出掛ける訳でもないし」
「木野の所のコタロー君は、日中買い出しまでしてるらしいっすよ。保冷剤持たせてるって言ってましたけど」
「お前、最近木野と仲良いな」
 工藤は背後を通る他部署の職員を避けて苦笑した。
「あいつ素っ気無いから逆に話しやすいことに気付きまして」
「ほう、そりゃいいことだ」
 工藤はこめかみを掻きながら控えめに微笑んで、逃げるようにして更衣室を出て行った。昨晩確認した書類の入ったファイルを携え工藤に続き、部室へ向かう。
 コハクは俺が所持しているゲームソフトをクリアし尽くし、一時廃人のようにテレビをつけっぱなしにソファーから動かない生活を続けていた。しかし暇が過ぎるのか、俺が職場から持ち帰る書類を後ろから覗き込んでは、興味深そうに眺めるので、気まぐれに発注品のカタログの内容を説明していると、アリの巣を観察するようにそれを見つめた。
「こんなの見て面白いか?」
「面白いわけじゃない。初めて見たから、珍しくて。これ何のこと書いてるか全然分からないね。ねえ、ゲーム買ってよ。テレビでやってたモンスター狩るやつ」
「お前そんなことやってる暇あるならゴミくらい捨てておいてくれよ」
「通勤路にゴミ捨て場あるんだから自分で持って行けばいいじゃん。僕は暑くて具合が悪くなるんだよ」
 体の調子のことを出されると、俺が引き下がることを学んだらしいコハクは、悠々とソファーに寝転がる。「ん」とコントローラーを寄こしてくるので、持っていたレジ袋を座卓において渋々受け取った。
「一戦だけだからな」
 毎晩格闘ゲームで対戦する日課は変わらない。お陰で少しずつ上達している気がする。久しぶりにソロでランクマッチでも試してみるか。ゲームに興じている時間は仕事のことを忘れて夢中になれるからいい。家事に関してはポンコツだが、コハクの暇潰しに付き合うのは奇しくもQOⅬが上がっている気がして、八万円でそれが手に入ったと思えばまあ妥当と認める他なかった。
 料理長に文句を言われながら生姜焼き定食を食べて、デスクに戻ると一グループの課長と話していた鈴村部長が、俺を見つけた途端向かって来て、口角を引き上げた。
「芳賀君、ヒューマノイド買ったんだって?」
「はあ、あまり役に立たないやつですけど」
 鈴村部長は俺の耳元に顔を寄せてこそこそと声を潜める。愛妻弁当の肉じゃがの匂いが近付いてきて、思わず息を殺した。
「ニュースになってるけど、最近ロボットのリモートコントロールによる犯罪が増えてるみたいだから気を付けた方がいいよ。例えば職場から持ち帰った書類を記憶して他所に流すとか。職員の所持するロボットから漏れたとなると、勿論ロボットじゃなくユーザーの責任になるからね。気を付けて。まあ皆に言ってるんだけど。そのうちメールでまわるよ」
 言うだけ言ってさっさと離れていく鈴村部長の顔は得意げだった。
 ヒューマノイドを所持していない彼には、今回の警鐘は全く無関係な話題で、微塵も咎められる心当たりはなく、その行いの正しさを誇示出来る嬉しさが滲み出ていた。学年成績二位の生徒が教師を言い負かして優越感に浸っている表情に似ている。中学3年生の時同じクラスだった竹田君だ。教師が高飛車な生徒の見当違いな論述に呆れているとも知らずに、つらつらと持論を並べ、周囲から一目をおかれるどころか一線を引かれるてしまった人だ。
 自分は人とは違うと思い込んでいる人間を見ると少しだけ心が痛む。竹田君の論破事件と同じ時期まで、俺もそういった考えを持っていたからだ。歳を重ねる毎に大多数の波に流される方が楽だと知り、抗うことをやめた。社会人になると余裕がなくなり、ますます安寧を求め人に紛れ、大勢と同等であるように振舞った。人より秀でないように、人より劣らないように、人に面倒を掛けないように。家の中のことは隠せばいいし、職場では卒がないようにやればそれなりの評価がついてくる。適切な自己評価の元、大多数の平均値の中に収まるよう管理しながら生活することが、社会生活や人間関係を円滑にする。自分は人より抜きんでていると自己評価の高い鈴村部長や竹田君の振舞いは嫌悪感を向けられやすく、うちにいるような役に立たないヒューマノイドは淘汰されていく。
 しかし誰しも平均値を脱してしまう可能性は十分にある。予測不能な出来事、抗えない病、逸した感情。そして疲労だ。役に立たないヒューマノイドを所持して面倒を見ながら生活しているなんて。俺も十分奇怪な行動を取っているだろうか。最新で有能なヒューマノイドを引いていればば、大多数の枠に入っていただろうか。ポンコツで小児型のヒューマノイドと共に機嫌よく暮らしていることが知れたなら、一線を引かれてしまうのか。
そんなリスキーなことをいつまで続けられるだろう。もしもコハクが不正を行うヒューマノイドであったなら、罰を下されるのは俺だ。
「はあ、気を付けます」
 ぼんやりしながら筋の伸びた背に半端な声を返す。
「まあ優秀な芳賀君ならそんなことないと思うけど」
 ヘリウムガスを入れた風船のような軽やかさで、鈴村部長は一グループの年長職員の元へ飛んで行った。
「私も言われましたよ」
「俺もっすー」
 鈴村部長が遠ざかって行くと、背後から顔を出した木野と工藤が小さく挙手をして見せるので、思わず吹き出した。
「今更リモートコントロールしようなんて奴いるんすねえ。見つかったら捕まるってのに」
「悪いことに使うには持ってこいですからね」
「最近のヒューマノイドはハッキング出来ないように強固な防御システムが入搭載されていますがが、それを突破する技術を持っているハッカー集団は存在するらしいですからね」
 神妙な顔で木野が喋るのを聞きながら、俺は、流石コタローのことになると力の入れ具合が違うなと感心していた。工藤も図面を書いている時とは比べられないような、やけに真剣な表情を浮かべて頷いているので、ヒナちゃんのことを考えているに違いないだろう。
「ヒナちゃんがそんなことになったら俺泣いちゃうな」
「だろうな」
「私も暫く立ち直れなさそうです」
「そうだろうな」
 暗い顔で俯く二者に相槌を打って、冷房の利いた部屋でモンスターを狩っているであろうコハクを思い浮かべた。リモートコントロールで犯罪を起こしたロボットは即刻廃棄される。ゴミ処理場でミンチのようになる、小さく頼りない筐体と、甘い味のしそうな双眸、中身の配線やコンピュータが漏れなく露わになる様子を思い浮かべても、共に過ごした存在が途端にゴミになる時の感情の解像度はまだ高くない。
「コハクちゃんでしたっけ?先輩のとこも気をつけてあげて下さいね。古い型は今の防御システムははインストールされてないっすよね。そうじゃなくても先輩仕事持って帰るんだだから、これを機にすぱっとやめてみたらどうっすか?俺を見習って」
「自信満々に言うなよ。お前は持って帰ってでもやれ」
 コハクが隣から乗り出して書類を見つめる時の、目のフォーカスを合わせるじりじりという音が耳に残っていた。
 リモートコントロールをしているかどうかなんて言動の不自然さを見抜く他ないらしいが、コハクの場合はそもそもどんなことをプログラムされているのか、いまだに把握できていない上に気まぐれで、違和感を感じることの難易度が高い。ふと一万円札八枚が火にくべられるところを想像した。今日持ち帰ろうとデスクの端に積んでいたホチキスで閉じられた冊子を引き出しに仕舞う。そうだ、やけに熱心に資料を見ていた。疑惑の芽植えられると堪らず、定時で家に帰った。
「イベントクエストクリアした!」
 玄関で出迎えられて驚いた。コハクの中性的な声が廊下にこだまする。コントローラを握りしめ、興奮した様子で見上げられて、思わず仰け反る。
「お、おう。よかったな」
 俺の戸惑いの隠せなかった声を聞いたコハクが、サプライズを失敗したように表情を曇らせたのを見て、心の中の地底で地震が起きた。震度三だ。子どもの感情を蔑ろにしてしまった罪悪感で、帰宅をやり直したくなった。急いで靴を脱ぎ、コハクの肩を掴んでリビングに連れて行く。
「いい素材出たか?」
「うん」
 残念そうに声量を落としたコハクをソファーに座らせ、隣に腰を下ろす。
「あのさ、お前やりたいことある?欲しいものとか、行きたい所でも」
「え?何、突然」
 あまりに唐突な問いかけに、コハクは訝るように俺を見つめた。テレビの真上に設置されているエアコンの風が直に当たり、生のままの二の腕が冷えていく。コハクは少しの間考える素振りをして、こちらを向き直した。
「言ったら叶えてくれるの?」
「ああ、ゲーム以外なら」
 コハクが鼻の頭を掻く。ゲームならいくらでも買ってやるって。そういうのじゃなくて。じれったくなりながら返答を待っていると、コハクが真剣な顔で僅かに唇を動かした。
「え?」
「だから、……海に行きたい」
 絞り出すように発した言葉は、思いもよらない内容だった。暫しの間首を傾けていると、コハクが膝の上に置いていたゲーム機を力を入れて握って、「我儘だってわかってるよ。違うの考えるから待っててよ」と不貞腐れたように言ってそっぽを向いた。
「いや、別に難しくない。バッテリーと、熱がこもらないように保冷材でも持っていけばいいだろ。ここからだと二時間半か」
「突然何なの?恐いんだけど」
「お前古いからさ、いつ壊れるか分からんだろ。最近乗っ取りも増えてるみたいだし、思い出作りってやつだ」
「何それ。人間は死ぬ前にそういうことするの?騒ぐのは葬式だけで十分だろ」
 俺の発言にコハクの不機嫌がぼたん雪のように積もっていく。素直に喜ぶとは思っていなかったが、こうも気分を害すような提案だったろうか。夕立にあったような心地で黙っていると、コハクが大きな瞳を余計に大きくした。
「僕はいつか壊れるだろうけど、勝手に目処をつけられるのは嫌だ。あなただっていつ死ぬか分からないだろ
う。特別僕だけが死ぬわけじゃない」
 出会って初めて感情を剥き出しに訴え掛けてくる姿と、苦しそうな声に、顔の筋肉が故障したように動かなくなった。コハクの言うことはもっともだ。しかし肝臓の数値が思わしくないだけの健常体で、死と程遠いところにいると思い込んでいる俺には想像出来ない話だった。
 苦し紛れに記憶の引き出しを開ける。
 実家で飼っていたチャチャ、スミ、クロが死ぬ間際、いつもより値の張るペットフードを口に運んでやった。食べ慣れない物のせいか、不信がって匂いを嗅いだだけだった。あの行為が正解だったかどうか、いまだに分からない。いつもの餌をあげていたら安心して食べたのかもしれない。美味しい記憶を持って天国に行けたのかもしれない。そういうことを、コハクは言っているのだろうか。
「丈夫なあなたには分からないかもしれないけど」
 見捨てるような声色に、我に返った。
「そう深くは考えてなかった。嫌な気持ちにさせたのだったら謝る。すまん」
 コハクは俺の目を見ないまま微かに頷いた。
「じゃあ夏の思い出ってことで海に行かないか?」
「え?」
「夏っていえば海だろ。涼しくなるまで待って紅葉でいい。冬は……そうだな、かまくらでも作るか」
 口を開けたままきょとんとしているコハクを見て、緊張が解けて口元が緩んだ。
 俺の実家は昔の風習を引きずったままの家で、行事がある度に親戚を集めて宴会を計画して騒いでいた。そのお陰か俺も、いくら飲んだくれて引きこもっていても、桜や花火、紅葉、クリスマスや正月などの様子を伝えるニュースを確認しないと落ち着かない体になってしまった。季節や風物詩を感じることなんて、それくらい日常的なことだった。コハクはロボットだから事前に準備することは多々あるが、赤ん坊と外出する時だってミルクやオムツ、着替えを準備するだろう。そう特別なことじゃない。
「人間ってのは普通にそういうことをするんだよ、死ぬ前じゃなくても。街灯に集まる虫と一緒だ。イベントには乗っかりたいんだ」
「海の次もあるの?」
「お前が付き合ってくれるならな」
「そっか……じゃあ、海にも紅葉にも連れてってよ」
 じゃあ夏期休暇に入ったら、と口を開いた途端に俺の腹から間抜けな音が鳴った。
「ごはん食べたら?」
 俺の腹部にフォーカスを移すコハクの前髪が、睫毛に掛かるのを指先で避けてやりながら、「何か楽しみになってきたわ」と独り言のつもりで言うと、コハクが頭を縦に揺らした。
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