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第五章 聖樹の都
38話 魔法の学校
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パウルの提案によってその日、僕とジュリはトレンティアの魔法学校へ赴いて公開授業というものを受けることになっていた。
当日はロードの使用人に頼ることはなく、任務の地までの案内はパウルが務めることになる。
身支度を整えて屋敷から出た時、僕は変わらず空を覆うトレントの姿を見上げた。
今日は空がよく晴れていて、地上に近い部分はうっすらと青緑色の光を纏い、天に近付くにつれて金色に霞んでいる……、そんな色の階段がより一層の神秘を醸し出している。
「帰りは一緒にいてやれんから、道をちゃんと覚えとけよ」
屋敷から歩いて街路へ出て、パウルはそう言ってひらひらと片手を振った。
「パウルさんは授業受けないんですか」
既に緊張している面持ちのジュリに聞かれて、パウルは呆れたように肩を竦めた。
「俺は学生って歳でもないし、ガキども向けのイベントをのんびり参観してるほど暇じゃないんだ。案内が終わったらすぐに調べ物に戻るさ」
ジュリは「そうですか」と相槌を打ったものの不安そうに肩を落としている。つまりここに来て初めて、トレンティア人の同行がない状態になるのだ。僕だって緊張している。
パウルは歩きながら、懐から紙を取り出した。
「直前になって公開授業の案内を手に入れたが……。どうやら今回は特に催し物の色が強い。授業というよりフィールドワークだな。喜べ、と言っていいのか分からんが、お前達がお得意な回復魔術についての、だ」
そうニヤリと笑って言った。ジュリは「おお」と小さな歓声を上げた。僕もちらりとその手元を見る。当然トレンティア語で書かれた案内は読めないが……。
ふと気付くと、何やらジュリが不思議そうな視線をこちらに向けてきている。
「ヨハンは回復魔術の心得なんてないでしょう? ゼロからになってしまうと思いますけど大丈夫なんでしょうか」
僕はジュリを見つめ返して、「あー」なんて変な相槌を打った。回復魔術を使った経験は実はあるのだが……、そういえばジュリがいない時だった。
やや顔を伏せてその時のことを思い出していると、頭の上からパウルのだるそうな声がかかってくる。
「嬢ちゃんが勝手にいなくなった時、負傷した俺を治療してくれたぜ。……まあさすがと言うべきか、いや意外でもあったが、こいつは回復魔術の適性がどうやら高い」
今更ながらに初耳だったらしいジュリは、目を丸くして僕を見つめてきた。
「ヨハンに回復魔術の適性!? い、意外……」
それは貶されているのか何なのかいまいち分からないが……、なんとなくむっとした顔で僕はジュリに視線を返した。
「まあこいつならどの分野だろうとある程度器用にこなせると思うぜ。たまにいるんだよな、そういう、魔力の扱いに関して天性のセンスを持ってる奴が。だがそれも実践魔道に関してはというだけだ。座学はヒヨッコ以下のタマゴ……授業に置いていかれないよう頑張れよ」
パウルは同じ調子の声で言う。それは……おそらく褒めているのだろうが、なんとなく喜んで見せる気にはならない。ジュリは、へええ、と驚いた様子の感嘆の声を上げて僕を見ていた。
……実際に魔術を使う時はともかく、パウルの言う通り、理論を勉強することに得意な意識はない。学校で授業を受けた経験だってもちろんない。置いていかれないように、なんて言われてもどうすればいいのか想像さえつかなかった。
しかしまあ、なるようにしかならない。諦めとも覚悟ともつかない心を決めて、僕はただジュリについていくことにした。
貴族の住居が並ぶ区画から抜け、商店街らしい通りなどが見え隠れし始める。やはり建物は黒っぽい色のものが多く、重々しい印象を受ける。
重厚ながらも密度が高い都会、そんな中を歩くこと数十分、パウルが立ち止まって目的地を指さした。
黒いレンガ造りの建物が横長に広がっている。その手前にとられた石畳と砂地が混ざったような広場に、ぱっと見ただけでもいかにも華やかな、若者たちが多く集まっている様子が見えた。
「ここで待ってたらたぶん案内が始まるから、あとは従え。じゃあな」
パウルは素っ気なく言って、返事を交わすこともなく一人で歩き去っていった。
いよいよズミ人二人になった僕達は、緊張してなんとなく体を寄せていた。そんな僕達の元へは、当然一斉に好奇の視線が浴びせられる。
……前髪を短く切られてしまったから視線を覆うものもない。明るい視界の中、僕は努めて平静の表情を装った。
「こんにちは、始めまして。ズミから来た人……なのかな? 君たちも公開授業に?」
見知らぬトレンティア人の青年に話しかけられる。僕は明るく作った顔で頷いた。
「あ、ああ。片親はトレンティア人だけど出身はズミだ。トレンティアの貴族様に親切をしてもらって、勉強しにきてるんだ」
「へえ、それは数奇なことだね。トレンティアの景色と学問を楽しんでいくといい」
社交的な性格なのだろう、青年は爽やかに言ってのけた。
僕は頷いて、隣にいるジュリの様子をちらりと窺った。彼女は取り繕った振る舞いをする余裕もないようで、ただただ緊張した顔で棒立ちしていた。
幸いパウルの言っていた通り、王都の学生は礼儀正しい者が多いのか、見るからに下世話な様子で彼女に近付く者は今のところいなさそうだが……。
話しかけてきた青年は僕達の元を離れると、友人らしい者達の輪に入って楽しそうに喋っている。その友人たちの視線もめいめいに僕達を見ていたから、そうやってすぐに話が広まっていくのだろう。
集まった者達は全員で四十人程度に見える。一番若くて十歳ぐらいだろうか、ぱっと見た感じでは十五から二十歳ぐらいまでの若者が一番多い印象だ。年齢だけでいえば僕とジュリもちょうど溶け込めるような雰囲気だ。
中には中年の者もちらほらといたが、学生なのか講師の側なのかはよく分からない。全体的には男が多いが、学生らしい女の姿も何人もあった。
着ている服もめいめいだが、トレンティアの文化に疎い僕でさえ、貴族階級とそうでないのだろう者とは見分けがついた。服の生地の質と刺繍の密度が違う。どちらかといえば貴族らしい格好の者が多いが、平民らしい者も目立つほど数少ないわけでもなさそうだ。
「皆様、公開授業を始めます。参加の印を」
貴族らしい装いの中年の女性がそう声を張り上げた。集まった若者達が彼女の元に集まり、広場に出された卓上の紙に何かを記している。たぶん、参加の受付のようなことをしているのだろう。
僕達も後ろめにその流れに乗った。用の済んだ者から離れていき、僕達の番が回ってくると受付の女性はにこりと力強い笑顔を浮かべた。
「クラネルト様から話は聞いています。ジュリ・ニスカ・リューノさんとヨハン・テーディルさん。記名はこちらでいたしますね」
トレンティア語を扱えないだろうという配慮だろう、そう言って女性が代わりに僕達の名前を書いてくれたようだ。ありがとう、と礼を言って僕も離れた。
ちょうど僕達の後ろにいた少年とすれ違う時、やはり興味深そうに視線を向けてくる。彼は何を言うでもなかったが、机から離れようとしていた僕のすぐ後ろで、受付の女性と会話しているのが耳に入ってきた。
「アルバート・ブランドルです。学院生の印は……」
その名前を聞いて、しかし思わず足を止めるようなことはしない。自然な素振りを装ってゆるりと外周に離れてから元いた場所を振り向いた。
ジュリはやはり慣れないようで、驚いた顔をして、僕とすれ違った少年の方を交互にキョロキョロと見ていた。
せっかく僕が気にもとめてない風を装ったのに怪しい素振りをするなよ、なんて小言を言いたくもなったが、周りは少年少女の雑多な活気に埋もれているので、目立つことはないだろう。
改めてその少年の姿を少し離れたところから見た。歳はやはりこの場にいる多数と同じく十五歳前後だろう。少し巻いた癖がある短い金髪に、眠たそうに垂れた目尻が印象的な、いたって変わり映えのない少年だ。
孤児だというのは本当なのだろうか、着ている服はやはり平民らしく見える。彼は受付を済ませたあとも、誰か友人と会話をするような様子はなく、人混みから離れて一人でしんと佇んでいた。
やがて集まった全員が受付を済ませたのだろう、同じ女性が音頭をとって授業が始まった。
広場の奥に進むと、長い机と椅子とが外に出されていた。授業はそのまま屋外でされるらしく、参加者はめいめいに椅子に座る。席が指定されるようなことはないらしい。
僕はジュリの手を引いて席を探すふりをした。混雑を避けるように、何気ない素振りを見せながら標的……、アルバートのすぐ近くへ。
幸い彼は友人などと纏まって動くタイプではないらしく、ひとりぽつんと座った彼の隣の席をとるのは容易かった。
「隣、いい?」
僕は愛想を作ってアルバートに声をかけた。アルバートは驚いた顔でこちらを見て、すぐにとろりと目尻を下げて笑った。
「どうぞ。……失礼だったらごめん、授業に来るのは初めて? 黒い髪の人を見るのは珍しくて」
僕とジュリが並んで座ると、彼の方から話を始めた。その声の印象も柔らかく、穏やかそうな人柄に見えた。
「ズミから留学に……と言っても、まだ来たばかりで何も分かってないんだけど」
「ああ、本当にズミから来た人だったんだ。いろいろ教えてほしいな」
僕達はいたって穏やかに微笑んでそう談笑した。……やはり人当たりがよさそうだという印象のほかに、変わったものは見つからない。パウルは一体何を思ってこの少年に関心を寄せているのか……。
考えたところで仕方がないし、パウル自身もそこまで執着している様子はなかった。意識の端に留めておく程度にして、僕は授業へと集中を向けた。
アルバート少年も鞄からメモ書き用らしい紙束を取り出して準備をしていた。端が擦り切れたみたいにほころんだ、赤っぽくて品質の低い紙の束……。
講師の女性は前に出した黒板に文字を書き、回復魔術の基礎術式を解説し始めたようだ。その言葉の端々には、いつかパウルに教わった文字の名前と時々合致するものもあった。
切り傷と打ち身では魔法陣に使う文字の最適解が違うとか、肉体の損壊を修復するのと血液の働きを促進することのタイミングを誤ってはいけないとか……、回復魔術の解説は具体的な話が多くてまだ聞きやすかった。アルバートの論文よりは少なくとも。
ちらりと隣を見ると、ジュリの顔は真剣そのものだ。しかし目は講師を見ずに伏せていて、片腕をぐっと胸元に寄せ、もう片腕は紙のない机の上に指で魔法陣を書く仕草をとっている。
もう片方の隣に遠慮がちに視線を向けると、アルバートは紙を手元に広げてはいるものの、ペンを走らせる様子はなく、じっと講師を見つめているようだった。
時々目が動く、彼の視線はどうやらジュリの悩ましげな手元にあった。僕を挟んで向こう側にいるジュリが気になったのだろう、彼がそちらに視線をやると自然と僕の視線と交わる。ぱっと目があってしまい、彼はふとはにかんだ。
「……凄く真剣に聞いてるなと思って。回復魔術が好き?」
アルバートは小声で言った。ジュリは自分が話しかけられていることに気付くのにすら数秒かかったらしい。「はっ」と、相槌ともなんとも言えない声をあげてアルバートの方を振り向いた。
「え、ああ、はい。好きというか……まあ」
急に話しかけられたせいか、しどろもどろな曖昧な返事だった。
「回復魔術は女性のほうが適性が高いからね。今日は先生も女性だし、受講生も女性が多いね。やっぱりズミの人も同じなのかな」
アルバートは授業の景色を眺めながらぼんやりと言った。僕も席に座る面々を何気なく見たが、どう見たって男の方が多い。これでもまだ女性が多い方なのだろうか。
回復魔術は女の方が向いてる、なんて話はそういえばパウルからも似たようなことを聞かされた気がする。そう思えば、僕の回復魔術の適性が高いなんて話も……少し複雑な心境だ。
「……どうなんでしょう。ズミにはそもそも魔道士自体が少ないのでなんとも……」
ジュリはの返事は変わらず曖昧だった。
そうこうしているうちに、講師が「実践の準備をしますと」言って、何やら建物の中へと引っ込んでしまった。講師のしばしの不在の間、休憩の雰囲気となったらしく生徒達が談笑を始めた。
「……実践って、何するんでしょう」
ジュリがぽかんとして言った。それにアルバートが答える。
「ああ、僕は前もって聞いてたんだけど、羊を使って実際の施術を体験するんだって」
「羊……っていうと家畜ですか。へえ、そんな練習方法してるんですね」
意外そうに言うので、黙っているのも愛想が悪いなと思って僕も口を挟んだ。
「まあ、練習台になる人間がそう都合よくはいないだろうし、そんなもんじゃないの?」
ジュリは「それもそうか」なんて気の抜けた相槌を打った。一体彼女はズミで回復魔術を習った時どうやって練習していたのだろう、なんて一瞬疑問に思ったが……、そういえば彼女も幼くして戦争に巻き込まれ、練習どころか国軍に従って兵士らを治療する仕事に就いていたはずだった。
「しかし家畜では練習台としてもどうなんでしょうね。人間とは違いすぎるのであまり本当の実践の練習にはならないような……」
ジュリは顎に片手を当ててそんなことを言い始めた。……確かに家畜と人間では、歩く足の数が違うし毛の生え方も骨の形も全然違う。
「だけど血や肉体に干渉するイメージとしてはそう違わないんじゃない? 内臓だってだいたい同じものがあるらしいし」
アルバートがそう言った。そう言われればそんな気もしてくる。どうやら僕には判断のつかない領域だ。
しかしジュリにはハッキリとしたものがあったらしい。眉を寄せながら平然と言う。
「全然違いますよ。回復魔術の土台は……もちろん術式の正確さも必要条件ではあるんですが、根本は“癒やし”のイメージです。それと魔力との連動が上手く行かないと、肉をつなげることはできても生命力を元通りに巡らせることは難しい。そこが回復魔術が最も個人のセンスに依存する分野だと言われる所以ですから。家畜と人間では、生命力が根ざす魂の質に差がありすぎて癒やしのイメージが通りづらいんです」
その説明も、僕にとっては分かるような分からないような……微妙に難解なものだった。アルバートは興味深そうに目を丸くした。
「魂の、質。なるほど……。僕は回復魔術には全く疎くてあまり知らなかったけど、そういうものがあるのか。それはズミで習ったこと? すごく詳しいんだね」
アルバートに尋ねられ、ジュリはまた曖昧に呻いて目を泳がせた。さすがに、トレンティアとの戦争で実践してきましたなんて話を隠すぐらいの賢明さはあるようだ。
そこへふと、僕達の列のひとつ前の席に座っていた別の少年がこちらを振り向いた。
「あの……、ズミからきたって人ですよね。ズミではどんなふうに魔法が広まってるのか俺も興味があって……。良かったら話を聞かせてくれないかな」
そう言ったのは、ジュリが呟いていた解説が聞こえたのだろうか、僕ではなくジュリの顔を見て話したようだ。ジュリは若干の戸惑いを見せながらも曖昧に相槌を打っていた。
それも、振り向いたのは一人ではない。その少年は友人達と一緒に座っていたらしく、近くにいた二人も一緒になってジュリに身を寄せていた。トレンティアの少年三人に覗き込まれ、ジュリは緊張しきった様子で背筋を固まらせている。
それを見ている僕にも不安な気持ちが起こってきた。また面倒な絡まれ方をしているような……、いやしかし、少年たちはいたって紳士的に魔法の話を彼女に聞いているだけである。別に乱暴されそうな雰囲気ではない……。あまり過剰に反応しても良くないような気がして、僕はぐっと感情を堪えて身を引いた。
……なんだろう、見知らぬ少年達の友好的な笑顔に囲まれているジュリ……、面白くない、無性に面白くない。
ただ黙ってその様子を睨んでいる僕の隣で、くすりとアルバートが笑みを零した。
「やっぱり他の皆もズミの人の話を聞きたいんだな。君は……、ああ、ごめん、名前言ってなかったね。僕はアルバート・ブランドルっていうんだけど」
そしてジュリが他の生徒達に捕まったのを見て、彼は僕の方に向き直った。僕も仕方なくそれに合わせることにする。
「ヨハン・テーディルだ」
「テーディル……君か。ズミの名前なんだね。君も回復魔術には詳しいの?」
そう聞いてくるので、僕はふっと笑い飛ばした。
「いや全然。僕は彼女よりもずっと初心者で。講義も聞いているだけでやっとだよ」
「へえ、そうなんだ。そういう僕も、この授業には学院生だから習慣で来ているだけで、回復魔術……というか実践魔道自体親しんでなくて……」
そう恥ずかしそうにはにかんでいるが、僕は知っている。彼は聞いてるだけで意識が飛びそうなほど難解な論文を書く人間なのだと。
実践魔道、というのはそういった文章で扱う理論上の魔法学と対比して、実際効能を発揮するために使う魔術のことを指しているのだろう。
「実践だけが魔法じゃないよ。……よく知らないけど、たぶん理論の部分だって大事だろ」
そう知ったかぶりをして僕は適当に愛想を浮かべた。しかし案の定その言葉はアルバートの気持ちをくすぐったらしく、彼はぱっと明るい表情を浮かべた。
「はは、そう言ってくれる人がいると嬉しくなるな。最近は実践魔道ばっかりが重んじられる傾向が強いから……」
そう言ってるそばから、講師が実践魔道の装置を運び出してきたのが見えた。
哀れにも実験台にされる毛の短い羊は、足を縛られた状態で手車に載せられ、そこから哀愁漂う鳴き声を上げていた。休憩時間に談笑していた生徒たちも、どよめきながらそちらに集中する。
回復の施術を体験するためにあえて羊を傷つける……、その作業は女性講師ではなく助手らしい男がするらしい。小ぶりのナイフを持って男が羊に近付いた。
そして蹄の少し上にぐっと刃を入れて切り傷を付ける。その瞬間に小さく悲鳴を上げて目を逸らす女学生の姿があった。
「かわいそうですが、魔法技術の発展のために必要なことです。血潮猛きフラル様に祈りを捧げ、身を差し出してくれている羊に感謝しましょう」
講師はそんなことを言って生徒たちを宥めたようだ。そして魔法陣を地面に書き、講義で説明していた切り傷の治療術の実践を生徒たちに見せる。そんな様を初めて見る者もいたのか、どことなく歓声があがった。
続いて講師は生徒に呼びかけた。
「体験してみたい方はいませんか? 失敗しても私が補佐をするので怖がらず挑戦してみてください」
生徒たちは互いに顔を見合わせて更にどよめいた。しかし中からすぐに手を挙げる者もいないらしく、お前いけよ、なんて小突き合う声が出る。ぼんやりと見ていると、僕にまで小突く手があった。
「ヨハン」
名前を呼んでくるのはジュリだ。僕は彼女を見つめ返し、思わず眉をひそめた。まさか僕にやれと、そう言っているのか? と。
「ヨハンが回復魔術を使えるなんて知らなかったので。どんなふうなのか見てみたい」
そう好奇心に燃えた目で訴えてくる。思わず僕は僅かにだけ顔を引きつらせた。それを脇で見ていた別の生徒がぽつりと呟く。「ズミ人が?」と。
その呟きが伝播し、何やら次々と他の生徒達の眼差しがこちらに向いてきたではないか。……みな青い目を光らせて僕に迫ってくる。ズミ人が魔法を使うところを見てみたい、と。
その流れに煽られるように、講師の目が僕を射止めるまでそう時間はかからなかった。
「テーディルさん、やってみますか?」
彼女は僕の名前を知っているのだった。名指しで言われ、僕は思わずうっとうめき声を上げた。
……ジュリにまで言われてるのだから、頑として拒否する……というのも躊躇われた。仕方なく、僕は無言で前に進み出た。おお、なんて歓声が周りから上がる。
回復魔術の基礎は今しがたの講義で聞いたばかりだ。答え合わせをするように、正しい術式を書くことは難しくなかった。
魔法陣の基礎の二重円、いつかパウルに教わったようにその幅に気を配る。魔力を流し込んだ時の“通り”の良さという感覚は既に手が覚えていた。自分の手……いや魔力と会話をするようにして丁寧に、導線とトレンティアの魔道文字を地面に書き込んだ。
そして一度は講師が癒やした羊の足を、また助手の男が刃物で切った。分かってはいることだがやはり残酷だな、なんてどこか思う。
切り傷を負って血を流す羊の足を魔法陣の上に載せて、後は魔力を流すだけだ。前にやった時はどうだったかな、なんて思い起こそうとしても、自分だって大怪我を負った後、目の前に死にそうな顔の仲間がいて、という切迫した状況でのことは上手く思い出せない。
それよりも今しがた聞いた基礎の術と、ジュリの言葉のほうが頼りになりそうだ。“癒やし”のイメージに魔力を擦り合わせる。“癒やし”というのが何なのかはよく分からないが……、せめて目の前の哀れな獣を見つめた。
この羊という家畜を僕はトレンティアに来て初めて見たのだが、田舎の方では草原で草を食んでいる姿があったように思う。もし彼がトレンティアではなくズミの地にいたとしたら、森の中で鹿のように優美に駆け回っただろうか。それとも、そこでも哀れっぽい鳴き声を上げながら縛られていただろうか。……獣の幸福など人間には分かりもしない。
僕は呼吸を静かに落ち着けて、そっと魔力を流した。それはパウルの治療をした時と同じ……、回復のイメージは安定した循環。ムラなく、濁りなく、心臓の鼓動の間隔で。
すぐに魔法陣が光り、術は成った。正しい術式を書いているのだから当然だろうが、羊の怪我は瞬く間に再生し、痕一つ残らない綺麗な白い足が蘇る。
後ろからまた、おお、とどよめくような歓声が聞こえる。
「よくできましたね。テーディルさん、あなたは素晴らしい。失敗をするどころか……、完璧です。本当に素晴らしい!」
講師が大袈裟に騒ぎ立てたので、僕は下手な愛想笑いを浮かべて、足早に席の方へと引っ込んだ。周りからの好奇の眼差しはどうにも収まらなかったが、それ以上に驚いた様子のジュリの視線が気になった。
「本当にできたんですね。驚きました。しかも家畜相手でもあんな簡単に」
ジュリ曰く家畜と人間とでは感覚が全然違うらしいが……、まあ、確かに実際やってみたら違ったかもしれない。魂の質、はピンとこないが……。
席に戻ると、ずっと座ったまま見ていたアルバートが僕に微笑んで言った。
「テーディル君、すごいじゃないか。すぐにでも医者になれそうだね」
そんなことを言うのは大袈裟に褒めた冗談なのだろう。適当な愛想笑いで流す。だけど医者という言葉を聞いて、どうしてもむずむずする気持ちがあった。テーディル、それは医者をやっていた養父から借りた名前だから……。
その後も生徒たちは小突き合いながら、何人か術を試すものがあった。その度に羊は足を切られ、何度も悲鳴を上げていた。術に失敗して不適合反応を起こし、余計に哀れな羊を苦しめる者もいた。……残酷だが、魔法技術の発展のためには必要なこと、らしい。
僕にやらせたのだからジュリも、と思って彼女を見たが、ジュリは頑として首を横に振った。アルバートもずっと穏やかな表情を浮かべて自席に座っているだけだった。
そしてその実技が終わると、公開授業はお開きになるらしい。講師が締めくくりの話と挨拶をするのを、僕はぼんやりと聞いていた。
当日はロードの使用人に頼ることはなく、任務の地までの案内はパウルが務めることになる。
身支度を整えて屋敷から出た時、僕は変わらず空を覆うトレントの姿を見上げた。
今日は空がよく晴れていて、地上に近い部分はうっすらと青緑色の光を纏い、天に近付くにつれて金色に霞んでいる……、そんな色の階段がより一層の神秘を醸し出している。
「帰りは一緒にいてやれんから、道をちゃんと覚えとけよ」
屋敷から歩いて街路へ出て、パウルはそう言ってひらひらと片手を振った。
「パウルさんは授業受けないんですか」
既に緊張している面持ちのジュリに聞かれて、パウルは呆れたように肩を竦めた。
「俺は学生って歳でもないし、ガキども向けのイベントをのんびり参観してるほど暇じゃないんだ。案内が終わったらすぐに調べ物に戻るさ」
ジュリは「そうですか」と相槌を打ったものの不安そうに肩を落としている。つまりここに来て初めて、トレンティア人の同行がない状態になるのだ。僕だって緊張している。
パウルは歩きながら、懐から紙を取り出した。
「直前になって公開授業の案内を手に入れたが……。どうやら今回は特に催し物の色が強い。授業というよりフィールドワークだな。喜べ、と言っていいのか分からんが、お前達がお得意な回復魔術についての、だ」
そうニヤリと笑って言った。ジュリは「おお」と小さな歓声を上げた。僕もちらりとその手元を見る。当然トレンティア語で書かれた案内は読めないが……。
ふと気付くと、何やらジュリが不思議そうな視線をこちらに向けてきている。
「ヨハンは回復魔術の心得なんてないでしょう? ゼロからになってしまうと思いますけど大丈夫なんでしょうか」
僕はジュリを見つめ返して、「あー」なんて変な相槌を打った。回復魔術を使った経験は実はあるのだが……、そういえばジュリがいない時だった。
やや顔を伏せてその時のことを思い出していると、頭の上からパウルのだるそうな声がかかってくる。
「嬢ちゃんが勝手にいなくなった時、負傷した俺を治療してくれたぜ。……まあさすがと言うべきか、いや意外でもあったが、こいつは回復魔術の適性がどうやら高い」
今更ながらに初耳だったらしいジュリは、目を丸くして僕を見つめてきた。
「ヨハンに回復魔術の適性!? い、意外……」
それは貶されているのか何なのかいまいち分からないが……、なんとなくむっとした顔で僕はジュリに視線を返した。
「まあこいつならどの分野だろうとある程度器用にこなせると思うぜ。たまにいるんだよな、そういう、魔力の扱いに関して天性のセンスを持ってる奴が。だがそれも実践魔道に関してはというだけだ。座学はヒヨッコ以下のタマゴ……授業に置いていかれないよう頑張れよ」
パウルは同じ調子の声で言う。それは……おそらく褒めているのだろうが、なんとなく喜んで見せる気にはならない。ジュリは、へええ、と驚いた様子の感嘆の声を上げて僕を見ていた。
……実際に魔術を使う時はともかく、パウルの言う通り、理論を勉強することに得意な意識はない。学校で授業を受けた経験だってもちろんない。置いていかれないように、なんて言われてもどうすればいいのか想像さえつかなかった。
しかしまあ、なるようにしかならない。諦めとも覚悟ともつかない心を決めて、僕はただジュリについていくことにした。
貴族の住居が並ぶ区画から抜け、商店街らしい通りなどが見え隠れし始める。やはり建物は黒っぽい色のものが多く、重々しい印象を受ける。
重厚ながらも密度が高い都会、そんな中を歩くこと数十分、パウルが立ち止まって目的地を指さした。
黒いレンガ造りの建物が横長に広がっている。その手前にとられた石畳と砂地が混ざったような広場に、ぱっと見ただけでもいかにも華やかな、若者たちが多く集まっている様子が見えた。
「ここで待ってたらたぶん案内が始まるから、あとは従え。じゃあな」
パウルは素っ気なく言って、返事を交わすこともなく一人で歩き去っていった。
いよいよズミ人二人になった僕達は、緊張してなんとなく体を寄せていた。そんな僕達の元へは、当然一斉に好奇の視線が浴びせられる。
……前髪を短く切られてしまったから視線を覆うものもない。明るい視界の中、僕は努めて平静の表情を装った。
「こんにちは、始めまして。ズミから来た人……なのかな? 君たちも公開授業に?」
見知らぬトレンティア人の青年に話しかけられる。僕は明るく作った顔で頷いた。
「あ、ああ。片親はトレンティア人だけど出身はズミだ。トレンティアの貴族様に親切をしてもらって、勉強しにきてるんだ」
「へえ、それは数奇なことだね。トレンティアの景色と学問を楽しんでいくといい」
社交的な性格なのだろう、青年は爽やかに言ってのけた。
僕は頷いて、隣にいるジュリの様子をちらりと窺った。彼女は取り繕った振る舞いをする余裕もないようで、ただただ緊張した顔で棒立ちしていた。
幸いパウルの言っていた通り、王都の学生は礼儀正しい者が多いのか、見るからに下世話な様子で彼女に近付く者は今のところいなさそうだが……。
話しかけてきた青年は僕達の元を離れると、友人らしい者達の輪に入って楽しそうに喋っている。その友人たちの視線もめいめいに僕達を見ていたから、そうやってすぐに話が広まっていくのだろう。
集まった者達は全員で四十人程度に見える。一番若くて十歳ぐらいだろうか、ぱっと見た感じでは十五から二十歳ぐらいまでの若者が一番多い印象だ。年齢だけでいえば僕とジュリもちょうど溶け込めるような雰囲気だ。
中には中年の者もちらほらといたが、学生なのか講師の側なのかはよく分からない。全体的には男が多いが、学生らしい女の姿も何人もあった。
着ている服もめいめいだが、トレンティアの文化に疎い僕でさえ、貴族階級とそうでないのだろう者とは見分けがついた。服の生地の質と刺繍の密度が違う。どちらかといえば貴族らしい格好の者が多いが、平民らしい者も目立つほど数少ないわけでもなさそうだ。
「皆様、公開授業を始めます。参加の印を」
貴族らしい装いの中年の女性がそう声を張り上げた。集まった若者達が彼女の元に集まり、広場に出された卓上の紙に何かを記している。たぶん、参加の受付のようなことをしているのだろう。
僕達も後ろめにその流れに乗った。用の済んだ者から離れていき、僕達の番が回ってくると受付の女性はにこりと力強い笑顔を浮かべた。
「クラネルト様から話は聞いています。ジュリ・ニスカ・リューノさんとヨハン・テーディルさん。記名はこちらでいたしますね」
トレンティア語を扱えないだろうという配慮だろう、そう言って女性が代わりに僕達の名前を書いてくれたようだ。ありがとう、と礼を言って僕も離れた。
ちょうど僕達の後ろにいた少年とすれ違う時、やはり興味深そうに視線を向けてくる。彼は何を言うでもなかったが、机から離れようとしていた僕のすぐ後ろで、受付の女性と会話しているのが耳に入ってきた。
「アルバート・ブランドルです。学院生の印は……」
その名前を聞いて、しかし思わず足を止めるようなことはしない。自然な素振りを装ってゆるりと外周に離れてから元いた場所を振り向いた。
ジュリはやはり慣れないようで、驚いた顔をして、僕とすれ違った少年の方を交互にキョロキョロと見ていた。
せっかく僕が気にもとめてない風を装ったのに怪しい素振りをするなよ、なんて小言を言いたくもなったが、周りは少年少女の雑多な活気に埋もれているので、目立つことはないだろう。
改めてその少年の姿を少し離れたところから見た。歳はやはりこの場にいる多数と同じく十五歳前後だろう。少し巻いた癖がある短い金髪に、眠たそうに垂れた目尻が印象的な、いたって変わり映えのない少年だ。
孤児だというのは本当なのだろうか、着ている服はやはり平民らしく見える。彼は受付を済ませたあとも、誰か友人と会話をするような様子はなく、人混みから離れて一人でしんと佇んでいた。
やがて集まった全員が受付を済ませたのだろう、同じ女性が音頭をとって授業が始まった。
広場の奥に進むと、長い机と椅子とが外に出されていた。授業はそのまま屋外でされるらしく、参加者はめいめいに椅子に座る。席が指定されるようなことはないらしい。
僕はジュリの手を引いて席を探すふりをした。混雑を避けるように、何気ない素振りを見せながら標的……、アルバートのすぐ近くへ。
幸い彼は友人などと纏まって動くタイプではないらしく、ひとりぽつんと座った彼の隣の席をとるのは容易かった。
「隣、いい?」
僕は愛想を作ってアルバートに声をかけた。アルバートは驚いた顔でこちらを見て、すぐにとろりと目尻を下げて笑った。
「どうぞ。……失礼だったらごめん、授業に来るのは初めて? 黒い髪の人を見るのは珍しくて」
僕とジュリが並んで座ると、彼の方から話を始めた。その声の印象も柔らかく、穏やかそうな人柄に見えた。
「ズミから留学に……と言っても、まだ来たばかりで何も分かってないんだけど」
「ああ、本当にズミから来た人だったんだ。いろいろ教えてほしいな」
僕達はいたって穏やかに微笑んでそう談笑した。……やはり人当たりがよさそうだという印象のほかに、変わったものは見つからない。パウルは一体何を思ってこの少年に関心を寄せているのか……。
考えたところで仕方がないし、パウル自身もそこまで執着している様子はなかった。意識の端に留めておく程度にして、僕は授業へと集中を向けた。
アルバート少年も鞄からメモ書き用らしい紙束を取り出して準備をしていた。端が擦り切れたみたいにほころんだ、赤っぽくて品質の低い紙の束……。
講師の女性は前に出した黒板に文字を書き、回復魔術の基礎術式を解説し始めたようだ。その言葉の端々には、いつかパウルに教わった文字の名前と時々合致するものもあった。
切り傷と打ち身では魔法陣に使う文字の最適解が違うとか、肉体の損壊を修復するのと血液の働きを促進することのタイミングを誤ってはいけないとか……、回復魔術の解説は具体的な話が多くてまだ聞きやすかった。アルバートの論文よりは少なくとも。
ちらりと隣を見ると、ジュリの顔は真剣そのものだ。しかし目は講師を見ずに伏せていて、片腕をぐっと胸元に寄せ、もう片腕は紙のない机の上に指で魔法陣を書く仕草をとっている。
もう片方の隣に遠慮がちに視線を向けると、アルバートは紙を手元に広げてはいるものの、ペンを走らせる様子はなく、じっと講師を見つめているようだった。
時々目が動く、彼の視線はどうやらジュリの悩ましげな手元にあった。僕を挟んで向こう側にいるジュリが気になったのだろう、彼がそちらに視線をやると自然と僕の視線と交わる。ぱっと目があってしまい、彼はふとはにかんだ。
「……凄く真剣に聞いてるなと思って。回復魔術が好き?」
アルバートは小声で言った。ジュリは自分が話しかけられていることに気付くのにすら数秒かかったらしい。「はっ」と、相槌ともなんとも言えない声をあげてアルバートの方を振り向いた。
「え、ああ、はい。好きというか……まあ」
急に話しかけられたせいか、しどろもどろな曖昧な返事だった。
「回復魔術は女性のほうが適性が高いからね。今日は先生も女性だし、受講生も女性が多いね。やっぱりズミの人も同じなのかな」
アルバートは授業の景色を眺めながらぼんやりと言った。僕も席に座る面々を何気なく見たが、どう見たって男の方が多い。これでもまだ女性が多い方なのだろうか。
回復魔術は女の方が向いてる、なんて話はそういえばパウルからも似たようなことを聞かされた気がする。そう思えば、僕の回復魔術の適性が高いなんて話も……少し複雑な心境だ。
「……どうなんでしょう。ズミにはそもそも魔道士自体が少ないのでなんとも……」
ジュリはの返事は変わらず曖昧だった。
そうこうしているうちに、講師が「実践の準備をしますと」言って、何やら建物の中へと引っ込んでしまった。講師のしばしの不在の間、休憩の雰囲気となったらしく生徒達が談笑を始めた。
「……実践って、何するんでしょう」
ジュリがぽかんとして言った。それにアルバートが答える。
「ああ、僕は前もって聞いてたんだけど、羊を使って実際の施術を体験するんだって」
「羊……っていうと家畜ですか。へえ、そんな練習方法してるんですね」
意外そうに言うので、黙っているのも愛想が悪いなと思って僕も口を挟んだ。
「まあ、練習台になる人間がそう都合よくはいないだろうし、そんなもんじゃないの?」
ジュリは「それもそうか」なんて気の抜けた相槌を打った。一体彼女はズミで回復魔術を習った時どうやって練習していたのだろう、なんて一瞬疑問に思ったが……、そういえば彼女も幼くして戦争に巻き込まれ、練習どころか国軍に従って兵士らを治療する仕事に就いていたはずだった。
「しかし家畜では練習台としてもどうなんでしょうね。人間とは違いすぎるのであまり本当の実践の練習にはならないような……」
ジュリは顎に片手を当ててそんなことを言い始めた。……確かに家畜と人間では、歩く足の数が違うし毛の生え方も骨の形も全然違う。
「だけど血や肉体に干渉するイメージとしてはそう違わないんじゃない? 内臓だってだいたい同じものがあるらしいし」
アルバートがそう言った。そう言われればそんな気もしてくる。どうやら僕には判断のつかない領域だ。
しかしジュリにはハッキリとしたものがあったらしい。眉を寄せながら平然と言う。
「全然違いますよ。回復魔術の土台は……もちろん術式の正確さも必要条件ではあるんですが、根本は“癒やし”のイメージです。それと魔力との連動が上手く行かないと、肉をつなげることはできても生命力を元通りに巡らせることは難しい。そこが回復魔術が最も個人のセンスに依存する分野だと言われる所以ですから。家畜と人間では、生命力が根ざす魂の質に差がありすぎて癒やしのイメージが通りづらいんです」
その説明も、僕にとっては分かるような分からないような……微妙に難解なものだった。アルバートは興味深そうに目を丸くした。
「魂の、質。なるほど……。僕は回復魔術には全く疎くてあまり知らなかったけど、そういうものがあるのか。それはズミで習ったこと? すごく詳しいんだね」
アルバートに尋ねられ、ジュリはまた曖昧に呻いて目を泳がせた。さすがに、トレンティアとの戦争で実践してきましたなんて話を隠すぐらいの賢明さはあるようだ。
そこへふと、僕達の列のひとつ前の席に座っていた別の少年がこちらを振り向いた。
「あの……、ズミからきたって人ですよね。ズミではどんなふうに魔法が広まってるのか俺も興味があって……。良かったら話を聞かせてくれないかな」
そう言ったのは、ジュリが呟いていた解説が聞こえたのだろうか、僕ではなくジュリの顔を見て話したようだ。ジュリは若干の戸惑いを見せながらも曖昧に相槌を打っていた。
それも、振り向いたのは一人ではない。その少年は友人達と一緒に座っていたらしく、近くにいた二人も一緒になってジュリに身を寄せていた。トレンティアの少年三人に覗き込まれ、ジュリは緊張しきった様子で背筋を固まらせている。
それを見ている僕にも不安な気持ちが起こってきた。また面倒な絡まれ方をしているような……、いやしかし、少年たちはいたって紳士的に魔法の話を彼女に聞いているだけである。別に乱暴されそうな雰囲気ではない……。あまり過剰に反応しても良くないような気がして、僕はぐっと感情を堪えて身を引いた。
……なんだろう、見知らぬ少年達の友好的な笑顔に囲まれているジュリ……、面白くない、無性に面白くない。
ただ黙ってその様子を睨んでいる僕の隣で、くすりとアルバートが笑みを零した。
「やっぱり他の皆もズミの人の話を聞きたいんだな。君は……、ああ、ごめん、名前言ってなかったね。僕はアルバート・ブランドルっていうんだけど」
そしてジュリが他の生徒達に捕まったのを見て、彼は僕の方に向き直った。僕も仕方なくそれに合わせることにする。
「ヨハン・テーディルだ」
「テーディル……君か。ズミの名前なんだね。君も回復魔術には詳しいの?」
そう聞いてくるので、僕はふっと笑い飛ばした。
「いや全然。僕は彼女よりもずっと初心者で。講義も聞いているだけでやっとだよ」
「へえ、そうなんだ。そういう僕も、この授業には学院生だから習慣で来ているだけで、回復魔術……というか実践魔道自体親しんでなくて……」
そう恥ずかしそうにはにかんでいるが、僕は知っている。彼は聞いてるだけで意識が飛びそうなほど難解な論文を書く人間なのだと。
実践魔道、というのはそういった文章で扱う理論上の魔法学と対比して、実際効能を発揮するために使う魔術のことを指しているのだろう。
「実践だけが魔法じゃないよ。……よく知らないけど、たぶん理論の部分だって大事だろ」
そう知ったかぶりをして僕は適当に愛想を浮かべた。しかし案の定その言葉はアルバートの気持ちをくすぐったらしく、彼はぱっと明るい表情を浮かべた。
「はは、そう言ってくれる人がいると嬉しくなるな。最近は実践魔道ばっかりが重んじられる傾向が強いから……」
そう言ってるそばから、講師が実践魔道の装置を運び出してきたのが見えた。
哀れにも実験台にされる毛の短い羊は、足を縛られた状態で手車に載せられ、そこから哀愁漂う鳴き声を上げていた。休憩時間に談笑していた生徒たちも、どよめきながらそちらに集中する。
回復の施術を体験するためにあえて羊を傷つける……、その作業は女性講師ではなく助手らしい男がするらしい。小ぶりのナイフを持って男が羊に近付いた。
そして蹄の少し上にぐっと刃を入れて切り傷を付ける。その瞬間に小さく悲鳴を上げて目を逸らす女学生の姿があった。
「かわいそうですが、魔法技術の発展のために必要なことです。血潮猛きフラル様に祈りを捧げ、身を差し出してくれている羊に感謝しましょう」
講師はそんなことを言って生徒たちを宥めたようだ。そして魔法陣を地面に書き、講義で説明していた切り傷の治療術の実践を生徒たちに見せる。そんな様を初めて見る者もいたのか、どことなく歓声があがった。
続いて講師は生徒に呼びかけた。
「体験してみたい方はいませんか? 失敗しても私が補佐をするので怖がらず挑戦してみてください」
生徒たちは互いに顔を見合わせて更にどよめいた。しかし中からすぐに手を挙げる者もいないらしく、お前いけよ、なんて小突き合う声が出る。ぼんやりと見ていると、僕にまで小突く手があった。
「ヨハン」
名前を呼んでくるのはジュリだ。僕は彼女を見つめ返し、思わず眉をひそめた。まさか僕にやれと、そう言っているのか? と。
「ヨハンが回復魔術を使えるなんて知らなかったので。どんなふうなのか見てみたい」
そう好奇心に燃えた目で訴えてくる。思わず僕は僅かにだけ顔を引きつらせた。それを脇で見ていた別の生徒がぽつりと呟く。「ズミ人が?」と。
その呟きが伝播し、何やら次々と他の生徒達の眼差しがこちらに向いてきたではないか。……みな青い目を光らせて僕に迫ってくる。ズミ人が魔法を使うところを見てみたい、と。
その流れに煽られるように、講師の目が僕を射止めるまでそう時間はかからなかった。
「テーディルさん、やってみますか?」
彼女は僕の名前を知っているのだった。名指しで言われ、僕は思わずうっとうめき声を上げた。
……ジュリにまで言われてるのだから、頑として拒否する……というのも躊躇われた。仕方なく、僕は無言で前に進み出た。おお、なんて歓声が周りから上がる。
回復魔術の基礎は今しがたの講義で聞いたばかりだ。答え合わせをするように、正しい術式を書くことは難しくなかった。
魔法陣の基礎の二重円、いつかパウルに教わったようにその幅に気を配る。魔力を流し込んだ時の“通り”の良さという感覚は既に手が覚えていた。自分の手……いや魔力と会話をするようにして丁寧に、導線とトレンティアの魔道文字を地面に書き込んだ。
そして一度は講師が癒やした羊の足を、また助手の男が刃物で切った。分かってはいることだがやはり残酷だな、なんてどこか思う。
切り傷を負って血を流す羊の足を魔法陣の上に載せて、後は魔力を流すだけだ。前にやった時はどうだったかな、なんて思い起こそうとしても、自分だって大怪我を負った後、目の前に死にそうな顔の仲間がいて、という切迫した状況でのことは上手く思い出せない。
それよりも今しがた聞いた基礎の術と、ジュリの言葉のほうが頼りになりそうだ。“癒やし”のイメージに魔力を擦り合わせる。“癒やし”というのが何なのかはよく分からないが……、せめて目の前の哀れな獣を見つめた。
この羊という家畜を僕はトレンティアに来て初めて見たのだが、田舎の方では草原で草を食んでいる姿があったように思う。もし彼がトレンティアではなくズミの地にいたとしたら、森の中で鹿のように優美に駆け回っただろうか。それとも、そこでも哀れっぽい鳴き声を上げながら縛られていただろうか。……獣の幸福など人間には分かりもしない。
僕は呼吸を静かに落ち着けて、そっと魔力を流した。それはパウルの治療をした時と同じ……、回復のイメージは安定した循環。ムラなく、濁りなく、心臓の鼓動の間隔で。
すぐに魔法陣が光り、術は成った。正しい術式を書いているのだから当然だろうが、羊の怪我は瞬く間に再生し、痕一つ残らない綺麗な白い足が蘇る。
後ろからまた、おお、とどよめくような歓声が聞こえる。
「よくできましたね。テーディルさん、あなたは素晴らしい。失敗をするどころか……、完璧です。本当に素晴らしい!」
講師が大袈裟に騒ぎ立てたので、僕は下手な愛想笑いを浮かべて、足早に席の方へと引っ込んだ。周りからの好奇の眼差しはどうにも収まらなかったが、それ以上に驚いた様子のジュリの視線が気になった。
「本当にできたんですね。驚きました。しかも家畜相手でもあんな簡単に」
ジュリ曰く家畜と人間とでは感覚が全然違うらしいが……、まあ、確かに実際やってみたら違ったかもしれない。魂の質、はピンとこないが……。
席に戻ると、ずっと座ったまま見ていたアルバートが僕に微笑んで言った。
「テーディル君、すごいじゃないか。すぐにでも医者になれそうだね」
そんなことを言うのは大袈裟に褒めた冗談なのだろう。適当な愛想笑いで流す。だけど医者という言葉を聞いて、どうしてもむずむずする気持ちがあった。テーディル、それは医者をやっていた養父から借りた名前だから……。
その後も生徒たちは小突き合いながら、何人か術を試すものがあった。その度に羊は足を切られ、何度も悲鳴を上げていた。術に失敗して不適合反応を起こし、余計に哀れな羊を苦しめる者もいた。……残酷だが、魔法技術の発展のためには必要なこと、らしい。
僕にやらせたのだからジュリも、と思って彼女を見たが、ジュリは頑として首を横に振った。アルバートもずっと穏やかな表情を浮かべて自席に座っているだけだった。
そしてその実技が終わると、公開授業はお開きになるらしい。講師が締めくくりの話と挨拶をするのを、僕はぼんやりと聞いていた。
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