サーシェ

天山敬法

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第五章 聖樹の都

41話 男達は戦争のことを考えている

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 目を覚ますと、静かな空気が広がっていた。
 柔らかい布団に名残惜しく縋るのを止める者はいない。嘘みたいに穏やかな日々。だけど窓の外を流れる空気は、やっぱりふるさととは違う。
 白く透き通っていくような時間の中で、だんだんと分からなくなる。……自分が何をしているのか、何をするべきなのか。
 ぼんやりとして体を起こすと、机の上には散乱したままの書籍が待ち構えている。それが私を現実へと引き戻す。続きを読まないと……。
 まずは髪を編む。以前は毎日フェリアに編んでもらっていたのを、自分の手でやるようになったのも、もう慣れてきていた。
 頭の後ろから編み始め、次第にその流れが下へ降りてくると胸の前まで寄せて見る。黒い髪の束が指の中で重なっていく、その様を目に焼き付けるみたいに、無意識に見つめてしまう。遠い異国の地で、自分の黒髪にふるさとを感じるから……。
 髪を編み終えて、人目もないからと下着で寝ていた格好の上に服を着る。部屋の扉を開けると、すぐそこに用意されている水を桶ごと部屋の中に持ち込んで、顔を洗い、口をすすぐ。桶を外の台に返す。
 机の隅に寄せていた蓋のついた籠から、パンを取って頬張る。くずがついてしまうといけないから本からは離れる。本当はパンを齧りながらでもすぐに読み始めたいけど。
 パンを噛みながら、なんとなく窓の外を見る。今日は雨が降っている。雨音が持ってくる静かな情緒の中で、この敵国の地での穏やかな日々を噛みしめる。……フェリアは今どうしてるだろうか、なんて思いを毎日のように馳せる。
 今自分がやるべきことは、積み上がった本と対話をすることだ。ズミでは学べなかった多くのことを知る、その糸口がこの本の中には詰まっている。
 男達は戦争のことを考えている。彼らに守られて生きる私も、本当ならそうあるべきなのかもしれない。だけど自分が何をすればいいのかなんて分からない。
 戦いで傷ついた彼らを治療する、それだけでいいと彼らは言ってくれる。だけど本当にそれでいいんだろうかと考えてしまう。
 だって、治療している時の私は、もう二度とこんなことはしたくないと嘆いてばかりいるから。そもそも傷つかないでほしいから。
 私はただ、魔法が学びたい。戦争に役立つためでも、誰かを幸せにするためとも思わない。ただ自分の知らなかった世界をひとつひとつ切り開いていく、その快感を味わいたいだけだ。
 魔道王国トレンティアの首都まで来てその機会に恵まれることなんてきっと他にない。その衝動に飛びついて、ついてきただけ……。
 今日もそのためにトレンティアの本を読む。魔法学の話が書かれているわけじゃない、ただトレンティアの言語に親しむための訓練だ。知識を得るには、そのための体力をつけるという準備も必要だ。地道に、根気よく。
 だけど単語をひとつひとつ辞典で拾いながら読んでいく、そのゆっくりとした作業の中で出会うもの、それもまたひとつひとつが輝いていた。
 今手に取っている本はどうやら小説のようだ。誰かがどこかへ行って何かをして、誰かと話をして……。そんな内容が書かれているらしい。事細かにはまだ分からない……。
 単語が分かるものだけ拾う。草地、羊の群れ、良い天気、花の美しさ、人の美しさ、笑っている……、誰が? 唾を吐く……、なんで? 笑っていたのに? 誰? 地名? ああ、分からない。
 言語の壁によってもやがかかったような情景。一生懸命に解読する。そして想像する。ここに書かれている人は、この本の中に生きている人は、このトレンティアという国で生まれ育った人なのだろうと。
 この国の自然を、人を、社会を見て生きてきた人。その行動ひとつひとつに、この国だけの思いがある、そんな感じがする……。

 ふと静けさに気が付いて、本から顔を上げた。外は雨が降っていて少しだけ暗い。けど、時間はもう朝を過ぎて昼と言ってもいい頃合いのはずだ。それにしては静かだと。
 そう、いつもならこれぐらいの時間になれば、退屈を募らせた少年が隣の部屋から訪問してくる。今日は遅いな。そんなことを思った。
 彼が来ると私は辞書を読む席を譲ってやる。不機嫌そうにするけど、他にやることもないから彼も何かを読み始める。だけどすぐに嫌になって投げ出してしまう。
 他の場所に椅子を持っていって、何をするでもなくぼんやりとする。やがてまた本を読み始めたり、時々自分の部屋に戻っていったりする。
 使うわけでもないのに短剣を磨いたり、弓の弦を張り直したりする。やることがなくなるとやっぱり私の部屋にきて、所在なく本を斜めに見る。……その姿が、今日は見えない。
 読書の休憩がてら、私は隣の部屋を覗いてみることにした。廊下に出て、その扉を控えめに何度か叩いてみる。奥から物音はしない。
 数秒待ってから、そっと扉の取っ手を捻る。手前側に引くと、ぎいと重い音が鳴って部屋の中の景色が目に入る。……静かだった。
「ヨハン?」
 名前を呼んでみる。ひと目で見渡した限り、部屋の中に人影はない。当然返事をする者もいない。どこかへ行ったのだろうか……たまに庭を散歩していることもあるようだが、この雨の日に限って?
 不思議に思って、部屋の中まで入っていく。家具の陰に隠れてるなんてことがなければ、そんなことをしてもいないものはいないのだが。
 机の脇に置かれた荷物の中に目立つものは……ない。無いことに気付いてハッとした。
 ズミにいた時からパウルがよく腰に提げていた長剣……トレンティアの王都に来てからはさすがに帯剣することもなく出かけていたようだが、それが今は無い。武器を持って出かけた?
 ヨンの武器は……と思ったが、彼は短剣を愛用しているから、パウルの剣ほどは目立たない。鞄の中を漁れば分からないが、やはりぱっと見た限りは無い。弓矢はここに置いているようだが……。
 パウルが武器を持って出かけたとしたら……、何の用事かは分からないが、ヨンを伴っている可能性も高そうだ。それで今日はいないのだろうか。
 一体武器を持ってどこへ……、何をしに出かけたのだろう。考えたところで想像がつくはずもないのだが、それだけで胸がざわざわしてしまう。
 彼らがこの屋敷にいないことに気付いて、突然その静寂がいやに重たく感じられた。今、私はたった一人でここにいる……。
 胸にじわりと染み込んでくる嫌な感情は、戸惑いと恐怖……、いや、少し違う。その気持ちを表す言葉が、すぐに見つからなかった。
 どうせヨンがいたところで、元々口数が少ない彼だから会話をすることは少ない。何か共同作業をするわけでもない。あまり騒がしくされても勉強の邪魔だから静かにしていてくれたほうがいい。いてもいなくてもその静けさに大きな差はないはずなのに……、なぜかこの瞬間が、とても重たい。
 ふと、ベッドの上に落ちているものに目がいった。白っぽい色の布団の上でもなお一層白い一片……、トレントの葉だ。確か、学院の授業で出会ったアルバートという少年からヨンが受け取っていた。
 ベッドの脇まで歩いて、枕元に放置されていたそれをなんとなく拾い上げる。ヨンが手に持っていた時は金色に光っていたように見えたが、今はその様子はない。
 だけどその純白の葉はそれだけでもやはり興味を惹かれる。……アルバートは御守りだと言っていた。これに神様の加護が宿っているのだと。
 この国の人はこの葉に、神様への思いを寄せて生きてきたのだ。そう思うと、その葉を見ているだけで少し遠い気分になる。
 そしてその葉を、ヨンはどんな気持ちで手に取ったのだろうか。捨てずに持っているということは、何かしらの思い入れはあるのだろうか。言葉も少なく感情表現の乏しい彼が、何を思っているのかなんて私にも分からない。
 ただ雨音だけが耳を撫でる重たい静寂の中、なんだか急に遠い気分になって、疲れたように私はそこに腰掛けた。手でなんとなくトレントの葉を弄んでみるけど、やっぱり光ったりする様子はない。
 ため息ひとつ、私はその場にごろりと体を横たえる。この葉があるということは、こちらのベッドがヨンが使っているもの……。
 その布団に頬を寄せて目を瞑ると、瞼の裏にヨンの顔が浮かび上がってくる。元々は冷たく暗い印象だった顔は、ここへきて前髪を切ってしまい雰囲気が一変した。
 よくよく目を見ることなんて今までなかったけど、少し睫毛が長めで、目尻の線が少しだけ吊っていて、意外と目は細くなくて、くっきりとした輪郭の中に水色の瞳が光っていて……。
 口元を動かすことはやっぱり少ないけど、目の色を見ているとやっぱり感情のある人間なんだと分かる。笑うことは……少ないけど、トレンティアに来てからは穏やかに微笑んで見せたりしている。
 一緒に公開授業を受けに行った時なんて、ずっと愛想の良さそうな柔らかい表情をしていた。……そんな顔ができたのかと、正直驚いてしまうぐらい。
 それは民間人を装うための演技ではあるのだろう、けど、そうじゃないものもあるんじゃないかと疑ってしまう……それは、彼があんなに見事に回復魔術を使って見せたから。
 回復魔術は数ある魔法分野の中でも、最も個人の素質に左右されると言われる。その時は“癒やし”のイメージとか、魂の質とか、少し賢いふりをした言葉を使ったけど……、ズミに伝わった魔法学では、端的にこう言われていた。「回復魔術は心の優しい人にしか使えない」と。
 魔術の適性は心のあり方に依存する。元は優れた腕の治療師が、過酷な戦場渡り歩くうちに心を病んでしまって、回復魔術が使えなくなったなんてのも有名な話だ。
 かと思えば、似たような思想や性格でも適性の差がばらばらだったりするので、話はそう単純でもないのだろうが……だけどやっぱりそうなのかな、なんて考えてしまう。
 いつでも冷めきった表情を浮かべる彼は、人の痛みにも命にもまるで無関心であるかのように見えた。きっとそれだけ過酷な経験を、それまでの戦場でしてきたのだろうと思っていた。
 だけど彼の魔法がそうではないと語っている。人の痛みを理解し、それを癒やすことのできる心が、彼にはある……。あの冷たい色の瞳の奥で、今までどれほどの痛みを噛み殺してきたというのだろうか。彼のことを思うと、胸が苦しくなる。
 今はきっとパウルと共にいる。彼と同じく武器を持って……、また危険な目にあってはいないだろうか。心配したところで自分にできることは何もないけど、考えるとやっぱり不安になってしまう。
「ヨン……」
 自分でも意識しないうちに、また彼の名前を呼んだ。顔は、彼が寝ていたのだろう布団に埋めるようにして……、そこで息をしたら彼の香りが感じられるような……。
 その瞬間、はたと冷静になった。……自分は何をしているのだ。
 慌ててベッドから飛び退いた。別に、誰かが見ているというわけではないけど。深呼吸ひとつ、気を取り直す。こんなところで時間を無駄にしているわけにはいかない、勉強の続きをしないと。
 気を引き締め直して、足早に自分の部屋へと引き返した。また本の続きを読むために書斎の椅子に座る。自分の振る舞いが恥ずかしくて、無駄に心臓が速く打っていた。
 そんな自分の鼓動が少しだけうるさい、後は元と同じ、雨音だけがしとしとと続く、重たい静寂。もう冬は遠くに去って、寒いことはないはずなのに、まるで体の底から冷えてくるような、ぞくりとした静寂。
 静かなはずの雨音が、なぜかだんだんと耳についてくる。開いた本を目の前に置いても集中力が高まらない。いろんなものにかき乱されるようで、文字が頭に入ってこない。静か……ただひたすらに静か。静かすぎるのだ。
 ヨンがいてくれたら、と思わずそんな言葉が頭に浮かぶ。
 口数の少ない彼だから会話をすることは少ない。何か共同作業をするわけでもない。あまり騒がしくされても勉強の邪魔だから静かにしていてくれたほうがいい。いてもいなくてもその静けさに大きな差はない……はずなのに。
 辞書の紙面をなぞる指の感触が、やっとその言葉に辿り着く。……一人は、寂しい。
 本を見ているのも虚しくなって、また窓の外の雨を眺める。雨の色に霞む空気の向こうに、王都の町並みが少しだけ見える。……ヨンはどこにいるんだろう。
 気が付けば彼のことばかり考えてしまうのは、寂しさのあまりだろうか。これではまるで……、いや、頭に浮かびそうなった言葉は沈めて飲み込もう。
 元々歳が近いし、異性として意識することがないわけではなかったけど……、やっぱり無感情すぎて怖かったし、近付いたところで私に興味を示すことなんてないだろうと思っていた。
 だけど一緒に過ごしているうちに、顔に出さないだけでいろんな感情があることはやっぱり分かってしまうし、何よりトレンティアに来たばかりの頃……私が柄の悪い男達に乱暴をされそうになった時、見るからに逆上した彼を見てからはどうしても考えてしまう。
 彼は私のことをどう思ってるんだろう、なんて。その時恐怖のあまりに縋り付いてしまった彼の腕の力強さを、まだ忘れられないでいる。
 今になって、ガダンで初めてティファに会った時の、彼女の言葉が蘇ってしまう。そういえば彼女もトレンティアの青い瞳が好きだ、なんて言ってたなと。彼女がただ無邪気なだけの乙女ではないと知った今になれば、その言葉もどこまでが本当だったのかは分からないが……。
 なんとなくパウルの顔も思い浮かんだ。……ヨンと同じ目をしている。よく見ると睫毛が少し長くて、でもヨンと違って毛の色が明るいから細く見えて。
 目尻がピンと吊っているのはヨンに似ている気がする。不機嫌か露悪的な顔ばかりするけど、やっぱりその真円の瞳は晴れ渡った空みたいな色をしていて。
 不遜で、騒がしくてだらしなくて、ヨンとは対照的に見える態度だけど……、でも時々真剣な顔をする時は聡明さを感じて、なんだかんだ文句を言いながら面倒見はよくて、何より信じられないほど魔法の知識が深くて、聡明さを感じるだけじゃなくて実際に相当頭の回転がよくて、私達をいつも導いてくれる、頼もしい人だ。
 考えてみれば魅力的な男性、なのかもしれないけど……、でもやっぱり不遜で露悪的でだらしないし……、そもそも私からすれば彼の年齢は親の世代に近い。あまり……そういう対象じゃないな、なんて言い捨ててみる。
 視界にはトレンティア語が並んだ本が開いている。まだ見ぬ知識が私を待ち構えている。だというのに、私は一体何をしているのか。仲間である男達を品定めしているような自分が少し嫌になった。……男達はどうせ、戦争のことを考えている。

 ただじっと寂しさに耐えている雨の日に。
 どれぐらい時間が経っただろうか、頭にはなかなか入らない文字を、それでも惰性のように目で撫でていた……、ある時突然、その静寂を破るものがあった。扉を叩く音……。
 驚いて本から目を離して視線を上げた。ヨン達が帰ってきたのか、と思わず心が弾む。本を開いたまま机に置き、小走りにさえなって扉の元へ駆けた。
「ヨハン……」
 扉を開けると同時にその名前が口から飛び出てしまった。しかし扉の向こうにあったのは、期待していた姿とは全然違った。
 落胆するのは一瞬、すぐに驚きがやってくる。パウルでもヨンでもない者が訪ねてきたのなんて初めてだったから。
 そこにいたのは、屋敷の使用人らしい金髪の若い女性だった。自分から扉を叩いたくせに、驚いたように目を丸めてこちらを見ている。
「ジュリ・ニスカ・リューノ様でございますね? 突然失礼いたします」
 女性はすぐに驚いた顔を引っ込めて微笑んだ。私は戸惑いながらもなんとか平静を取り繕って相槌を打った。
「実は……、奥様がどうしてもズミの方のお話を聞いてみたいとおっしゃいまして。お時間をいただけますでしょうか?」
 そう言う表情は少し困ったふうに眉を下げていた。今度は私が目を丸くしてしまう。
 ……奥様、というと……、この屋敷でのことだからロードの妻ということだろう。屋敷にやってきた初日に見かけたっきり顔も合わせていない。同じ屋敷にいることすら忘れかけていたぐらいだ。
 ロードとパウルの話を聞いた限りではトレンティアの王女だったはずだが、そんな女性が私の話を聞きたいと、そう言っているということか。
 ヨンもパウルもいない時に他の人と話すのは不安だが、そんな高貴な身分の人の頼みを断るのもよくない気がして、私は曖昧に頷いた。
 一体何の話をされるのかは分からないが、ただ外国の話を物珍しいから聞きたいだけというなら、無下に断ることもないだろう……。
「ありがとうございます。ではこちらへ……」
 使用人の女性は丁寧な仕草で礼をし、先立って歩き始めた。私も廊下に出て、扉を閉めてからそれを追う。静寂の中、扉が閉まる音がいやに大きく聞こえた。
 やがて通された部屋は、私達が寝泊まりしている部屋より一段と上等な家具が揃えられた一室だった。
 机と椅子、綺麗な背表紙が並ぶ小さな本棚、金細工がところどころに施された棚、壁にかけられているのは水面のごとく景色を映す大きな鏡。そして白く塗った木材の窓枠の奥から差す柔らかい外の光……、それを受けてさらさらと揺れるのはまるでドレスみたいなレースのカーテン。
 そんな窓際に、その女性は静かに座っていた。頭の後ろで三つ編みをさらに編み込んで固めた金髪にきらきらと揺れる花の簪、胸元は広めに開いた服からすらりと伸びた首筋を飾るのは金色のネックレス、空色の生地に銀の糸できらびやかな花柄を縫ったドレスは、ずしりとした重量感さえある大きなスカートで腰から下のシルエットを隠している。
 そして白い肌の上に光る相貌は、やはり青い瞳。初めて見た時にも思ったが、年若い。私と同じ……少し歳下だろうか?
 私を見ると、彼女はうっすらと微笑んで見せた。私は彼女の前に立ち、いまいち作法は分からなかったが、とりあえず跪いて頭を深く下げた。
 そんな私の動作を驚いた風にこちらを見つめ、しかしすぐに異国の作法だと察しはついたのだろう、楽しそうに笑顔を浮かべた。
「ジュリ・ニスカ・リューノです。お呼びいただき光栄に思います」
 そう挨拶をすると、「まあ」なんて軽やかな感嘆の声を上げて、やっぱり楽しそうに笑う。
「マリアンヌ・イザベラ・レイン・クラネルトでございます。来ていただいて嬉しいわ、リューノさん」
 対して彼女は、椅子に座ったままでそう名乗る。手元の小さな丸いテーブルの上には、茶が入っている様子の磁器のポットと空のカップが置かれていた。
「本当ならラファエル……、ああ、夫も同席していただきたかったのですけど、彼はとても忙しいようでなかなか時間が合いませんの。わたくし、我慢できなくなっちゃって。公の場ではありませんし、作法などお気になさらないで、気軽にお話を聞かせてくださいな。さあ、もっとお近くへ来てくださる? ズミの女性の黒髪は本当に美しいと聞きますから、失礼でなかったら見せていただきたいですわ」
 喜んで、と一言返し、私はクラネルト夫人へと静かに歩み寄る。
 しかし女同士とはいえ、他人に髪を見せろなんて言われると内心は戸惑ってしまう。どう見せるべきなのだろうか……。後頭部から一本にして背中に垂らしていた髪を、とりあえず体の前の方に持っていってみる。
 さすがに手を触れることはしないらしく、夫人は座ったままやや前かがみになって私の三つ編みを見つめたようだ。
「まあ、本当に綺麗。ええ、本当に。すごいわ。まるで水の魔道を纏っているみたい。こんなに艷やかなのは何かの魔法なの?」
 そう心底不思議そうに聞いてくる。そこまで言われると悪い気はしないな……なんて思いながら、自然と間近に寄った夫人の髪も、失礼ながら見させてもらった。
 金色の髪は黒髪よりやはり細く見えるが、その豊かな流れは窓からの光を受けてまるで絹の糸のように光っている……、その髪だって十分綺麗じゃないか、なんて思った。
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 そんな社交辞令が自然と出てくる自分に、自分でも少し驚いた。幼い頃の癖というのは案外抜けていないものだ。夫人は頬を少し染めて微笑んだ。
「ありがとう。クラネルト家は代々水を専門に扱う魔道の一門……、お肌の調子をよくする魔法の薬の精製法、なんてものもあるんですけれど、髪ばっかりはズミの方に敵いませんわ。ねえ、ズミはどんな国なのでしょう? 魔道士があまりいらっしゃらないと聞きますが、皆様はどのように暮らしているのでしょう?」
 興味津々の様子で聞いてくる。こんな話を聞かれるのは、学院の授業から数えて一体何回目になることやら……。何度も相手しているうちに要領も掴めてきてしまう。
「ズミはトレンティアと比べて森が深い国です。畑を多く作らずとも木の実や山菜をとり、弓矢で獣を狩っていて飢えることはありません。ですからズミの男はみな弓の扱いに優れ、村の者はみな山菜に詳しく育ちます。薪と油を燃料とし、夜は街灯をともすことも少なく、町中であっても真っ暗……、その分、空の星と月がとても明るく見えます」
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 続けてそう聞いてきた。……ロードが私達のことを妻にどう説明したのか……何と答えたらいいのか分からない。このあどけないお姫様に、レジスタンスのことやズミでの戦争のことを話しているとは……彼女の様子からしても考えにくそうではある……。
 考えても分からない。適当な嘘で誤魔化すのが正解なんだろうか……。
「わたくしはズミでも、少しだけですが魔法の勉強をしていました。どちらかというと、ロード様のお仕事に関わったのは一緒にきたもう二人……、パウル・レーンとヨハン・テーディルですね。私はついてきただけで……」
 結局嘘は言ってないけど詳しくも語らない、というような曖昧な返事に落ち着いた。ここで名前を出しても大丈夫だっただろうか……、内心は不安で気が気でない。
 夫人は不思議そうに目を瞬かせた。その様子を見て、何かまずいことを言ってしまったかな、と急に不安が大きくなる。
「まあ。でしたらその……、お二人のどちらかが、リューノさんと御夫婦ということですか?」
 何を言い出すかと思えば、何やらとんでもない飛躍をした。思わず私は顔が引きつりそうになったのを必死に堪えた。
 自分の言葉をゆっくり思い返して……、確かに、外国まで男についてきただけ、という女がいたなら……、それは夫の仕事に伴ってきたのだろうと想像をするかもしれない。
 そこでも私は咄嗟の、しかも苦しい判断に迫られる。もしかするといつかのように夫婦のふりをしたほうが無難なのかもしれないが、私の判断でそんな勝手な設定を作ってしまって、ヨンやパウルの考えと食い違うことにならないだろうか。
 だけど正直に夫婦ではないと言うと、では何なのだとなってしまう。まさかレジスタンスの戦争に治療師として一緒にいましたとは言えないだろうし、それ以外に私と彼らの関係を無難に説明できる話を……、私は咄嗟に思いつくこともできない。
「あ、いえ……、その。夫婦というわけではないんですが……」
 焦った頭では冷静に思考することもできず、思わずしどろもどろに、とりあえずの否定をする。当然夫人は更に不思議そうな顔をする。
 咄嗟に否定してしまったものの、どう取り繕うべきか……、思いつかなくて私は言葉に詰まってしまった。そんな苦しそうな私を見て、夫人はまた楽しそうに笑った。
「あら、まだご結婚はされてなかったのですね。いいのですよ、リューノさん。貴族でない方々にとっては、未婚であっても愛し合って連れ添うようなことも珍しくないとわたくしも知っています。王都で流行った小説にそのような話がありましたの。素敵ですわ……、いつかご結婚もされるのでしょうか?」
 どうやら夫人は想像力が豊かな性格らしい。そう勝手に都合の良い設定を思いついてくれるのは幸い……、幸いなのか? 彼女の語った内容に、私は思わずへたりこんでしまいそうになる。
 愛し合って連れ添う、だって? ととと、とんでもない、私はヨンともパウルともそんな関係では断じてないし、そもそも私だって曲がりなりにも貴族の女だ、仮に愛し合っていたとしても未婚の身でそんな大それたことができるはずもない!
 ……なんて、思い切り否定したくなる衝動はあったけど、ではじゃあ何なのだという話ができない以上何も言えない。勝手に勘違いをしてくれたそのままにしておいた方が、話としては都合がいい……のか?
 呆気にとられて固まってしまった私を見て、夫人は当然のごとくそれを肯定ととる。
「お仕事とはいえ外国までいらしてるんですもの、お忙しくて婚礼の儀を挙げることもできない、というご事情もあるのでしょうか。それでも確かに愛し合っているのなら、いつか必ず神様が結び合わせてくださいますわね。……素敵です、本当に」
 そううっとうりと呟くように言い、しかしやがてその声がどこか悲しみに張り詰めたような色に変わっていく。
「わたくしも自分で出会った殿方と恋をして、結婚になど縛られず共に旅ができたらどんなに幸せだったかしら。叶わないことだと分かっていても……考えてしまいますわね」
 そこに込められた、若い王女の切なさは身につまされるものを感じた。
 王家に生まれ、上流貴族の男の元へ嫁いだ彼女に、自分の意思を差し挟む余地が皆無だっただろうことは想像に難くない。夫人はすぐにぱっと笑みを取り繕った。
「いえ、ラファエル様に不満があるわけではありませんのよ。王家の女に結婚相手を選ぶことなんてできませんけども、その中であんな素敵な方と結ばれたことは本当に幸運だと思っておりますの。でも、だからこそ寂しいのです。あの方は外交のお仕事をされていて、度々ズミへと行かれてしまう……。その間わたくしは一人っきり……」
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 そう言って、切なそうにはにかんだ。
「そのような……。ロード様はそれだけ奥様のことを大事に思っておられるのでしょう」
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 一人は寂しい。同じ思いをしている。だけどどうしようもなく隔たっている。もう彼女に殊更の言葉をかける気にもならなかった。
 そんな女二人を、雨音がただ撫でていた。……男達はどうせ、戦争のことを考えている。
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