サーシェ

天山敬法

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第八章 帰るべき場所

99話 創痍の凱旋

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 打ち捨てられていたばかりのラズミルの廃墟にズミ軍が入り……当然そこは兵士達の活気ににわかに包まれた。
 この部隊の中に王都に縁のあったものがどれほどいるかは分からない。一度壊滅している以上は、故郷と懐かしむ者はそう多くないだろうとは想像できる。
 しかしそれでも皆これからの未来に胸を高鳴らせて……、見知らぬ廃墟を掘り起こす作業に取り掛かることとなる。クスダンの郊外に基地を作った時と同じように、しかしその時とは比べようもなく高ぶった空気感の中で、兵士達はそれぞれ指示を受けて作業を始めるようだ。
 そんな喧騒の中、モルズは段取りの指示は部下に任せたようで、真剣な面持ちでパウルに向き直っていた。
「慌ただしくてすまないな、イグノール殿。ご覧の通り落ち着ける場所もないのだが……」
 パウルはにやりと、彼らしい笑みを浮かべた。
「はは、お前と俺の仲だ、今更堅苦しい挨拶はいらないだろうが……。まあ、まずはこうして我々を受け入れてくれたことに感謝しよう」
「受け入れたって……、ほとんど成り行き任せじゃないか、相変わらず強引だな。まあ当然私だって、お前と協力体制にあるのは今更のことだと思っているがな。お前、本当にあのイグノールなのか」
 呆れた顔でモルズは言う。パウルはからりと笑った。
「なんだお前、俺の名前を知っていたのか? まあ、ズミ人にも分かる形での証明と言われると難しい。信じてくれ、としか言いようがないが……そうだな、やっぱりそれっぽい喋り方したほうが信用も上がるかな?」
「喋り方は今更だろ……。私はかつて国王陛下に直に仕える身だった、ズミとの外交に出てきてた王子の名前ぐらいは憶えている。正直にわかには信じ難いが、お前の言葉を聞いてトレンティア軍が退却して行ったのは事実だ。聞いて理解できるものかどうかも分からんが、あれはどういう事情だったんだ?」
 パウルは顎に手を当てて、凄むように目を細めて笑う。
「前にも話したよな、トレントの種ってのはトレンティアの国家の至宝で、本来なら国王にしか触ることも許されない。ビザールの近くにいたのなら知っているかな、俺は死んだことになってるんだが王位争いを巡っては危うい位置にいてね。俺が生きていたこと自体奴らにとってはびっくりだろうが、よりによってその手に種が渡っちまった……。こいつはトレンティアの王家、ひいては政治の全部に天変地異が起こったっておかしくない事態なわけ。それを目の当たりにして、指揮官といえど軍人風情には何も判断なんてできなかっただろうよ」
 そうすらすらと語る彼の言葉を、モルズは難しそうに顔をしかめて聞いていた。
「俺が本物かどうかを疑う奴は向こうにも当然いるだろうが、クラウスが……、ああ、この魔剣士はトレンティアでも近衛騎士の代表格だ、こいつが確信を持って俺に従っているという事実が何より強い根拠になる。クラウス・フォス・カディアルを従えた男がパウル・イグノールを名乗り、トレントの種を持っている……、それだけの事実で揺さぶりには十分だ。これから本国へ報告がなされて大騒ぎになるだろうな」
「……最後に会った軍勢は、ほとんど戦わずして退いていったのだ、まだ兵力に余裕はあるだろう。すぐに攻勢に出てくるか……お前はどう読む?」
「ことがことだ、軍も国王の判断を仰ぐだろうから少しは時間もかかるんじゃないかな。当然ギルバートの野郎が俺の存在を知れば、躍起になって攻めようとするだろう。だが……、未だ王室の近くにもディアノール、イグノールの筋を支持している派閥がいないわけじゃない。そこで揉め事でも起きてくれれば更に時間はかかる。祖国に内紛を起こすような真似はできればしたくなかったが……、他にとれる手段がもう見つからなかったもんでね……」
 そう少しだけ苦そうに言ったパウルを、モルズはまだ睨むように見つめている。
「……心はズミの民と共に、などと書いてあったな。確かにお前が二十年前はズミに友好的な王子であったことは知っている。だがそれは……、その証にとお前の元へ嫁がれたミョーネ様とあのような別れ方をしたというのに、今もなお?」
 そしてそう深い声で訪ねた。その名前を聞いて、一瞬だけ僕は息を詰まらせる。しかしパウルは平然として微笑んで見せた。
「だからこそ、だよ。これはこの国への……私とミョーネの罪滅ぼしだ。二十年前に王子として果たせなかった使命を、今度こそは果たしたい」
 そう言い切ったパウルを見て、モルズは真剣な顔を緩めはしなかった。ただ、分かった、と低く頷いただけだ。
「まあ、相談すべきことはまだいくらでもあるだろうが……、俺にも考える時間が欲しい。この町に腰を据えながら……おいおいな」
 ふとパウルは声を軽くして両手を頭の後ろで組んだ。釣られるようにして、モルズは眉間に深く寄った皺を押さえて大きなため息をつく。
「ああ、考える時間は私も欲しい。ともかく今は目の前の仕事を片付けるか。ひとまずは同盟とやらを組んでおいてやる。手伝えよ」
「了解しましたよ、隊長」
 そう冗談めかして言い合う、彼らの様子を黙って眺めているクラウスもどこか渋そうに顔をしかめていた。しかし何かを言うわけではなく、ふらふらと歩き出すパウルの斜め後ろに、クラウスは厳然とした足取りで付き従う。
 ……こうしてその騎士を背中に連れているのを見ると、確かに王子だというのにもやけに説得力がある気がした。そんなクラウスの威厳に威嚇されるように、僕はその背についていく気にはならなかった。
 恐らくこれからエレアノールと合流をするのだろう。しかし僕は……特段の指示もなさそうなので別の方面へ歩き出す。仕事を探して……ではなく、後方部隊に連なっているはずの仲間の姿を探して。

 先刻の戦いは長く続かなかったが、それでも敵の魔法による広範囲攻撃を受けた。その時に火傷を負った負傷者達が集まって治療を受けている景色を見つけ、足早にそこへ歩いた。
 当然そこでは衛生兵達が仕事に励んでいる。その中にジュリとアルドの姿も。
 数少なかった負傷者の治療にそう時間はかからなかったのか、手元を見てもあまり慌ただしい様子はなさそうだった。
 僕が近付くと、アルドがほっとしたように穏やかな微笑を浮かべる。
「ヨハン、無事だったか……! またお前が偵察中にいなくなったとか、戻ってきたと思ったらすぐに前線に切り込んだとか、情報が入り乱れてて……どうなってるのかと心配したぞ」
 僕は少しむずかゆい思いをしながら父の元へ歩み寄った。
 すぐ近くにいるジュリも、僕に気付いたようでハッとしてこちらを振り向いた。まだ戦場の緊張が抜けていないのか、表情は強張っている。
 彼らの姿を前に置いて、僕の胸は……いつの間に締め付けられていたのだろうか、それがどっと一気に解けたような脱力感に襲われた。
 思わず、何を言うでもなくその父の体へと身を寄せる。倒れるようにして寄りかかった僕の体をアルドはしかと抱きとめ、その背に回した手が温かくそこを撫でていった。
 縋るように親の腕に抱きつく、そんな子どもみたいな仕草に、もはや周りの目を気にする余裕もなかった。衝動的にまで動いた自分の体に、自分で驚きさえする。
 顔を僕の耳のすぐ横に寄せたアルドは、どこまでも、どこまでも穏やかに言葉を紡ぐ。
「ああ、頑張ったんだなヨハン……。本当に、本当に……。あなたが無事に帰ったことを今日も感謝いたします、ミュロス・サーシェ」
 僕はアルドに抱きしめられたまま、どんな言葉を言えばいいのかも分からなかった。……昨日の朝、クスダンの基地から出発してから……、あまりに多くのことが起こりすぎた。
 初めて自分の魔力で振るった魔剣、王宮で目の当たりにしたウィルとの戦闘の光景、そのあまりに惨く悲しい最期の姿。そこでトレンティアの王子イグノールから託された言葉も、この地へ凱旋した仲間達の喝采も、英雄の誉れさえも、全てが重たくて、分厚くて……。
 そこから解き放たれたように、だらりと幼い体を父へ預ける。ドクドクと鳴る自分の鼓動を確かめて、まだ、自分は小さくて弱い存在なのだと……、だけどそれはみじめな感情でもなくて、どこかしっとりと沁み込んでいくような感触で飲み込んでいく。
 魔剣を提げた腰はすっかり重たくなった、それでもやっぱりまだ、あなたの息子でいてもいいだろうか、なんて変な言葉が自然と胸に浮かんできてしまう。
「サーシェ、ありがとう」
 そうとだけ小さく返事をして、ゆっくりと息を整えてからアルドから体を離した。
 そして何気もなく、隣にいるジュリにも向き直ったのだ。彼女の緊張した視線を見つめ合う……だけど、アルドとは抱き合えても彼女と抱き合うのは、さすがに、躊躇われる。
 向き合っても何となくかける言葉を見つけられない僕達を見て、アルドは穏やかに笑う。
「ジュリさんもずっと働き詰めで疲れているだろう、少し休んでくるといい」
 僕達はぼんやりとさえしてアルドの顔を見返した。彼は平然とした様子で、手元で整理していた布や薬の片付けを続けるようだった。
 僕はジュリを振り向く。
「大丈夫?」
「ええ、まあ……」
 何の心配をしているのか自分でもよく分からないが、そんな曖昧に言葉を交わして、やがて二人で歩き出した。ジュリはアルドの言葉に甘えて、衛生兵の仕事場から離れるらしい。
 そして僕もそんなアルドのお節介みたいな気遣いに、今は甘えてしまう。

 夏至を過ぎたばかりの季節、山や森の少ないラズミル地方の日は長い。正午を過ぎて久しいものの、まだ太陽は遠くに見える低い山の上にあかあかと顔を覗かせていた。
 その斜めからの眩しい日差しに目を細めながら、僕達はどこへともなく歩く。少しだけ前を歩いているのはジュリだった。
 彼女は僕の方を見ずに、張り詰めたままの無表情で、その小さな歩幅を静かに進めていた。
「二年の間に……、様変わりしましたね」
 そう呟いた声を聞いて僕は視線を上げた。
 この廃墟は紛れもなく、彼女にとっては生まれ故郷だ。そこにどれほどの感傷があるのかなんて、きっと僕とは比べ物にもならないだろう。
 周囲には野営の準備を進める兵士達の姿が散りながら広がっていく。どこの建物も無人になっているのだ。屋根の残っているものを選べば、雨風をしのぐ場所ならいくらでもある……各々居心地の良さそうな場所や、あるいは思い入れのある場所を選んでいるのだろうか。
 それを尻目に見ながら、ジュリはゆっくりと歩きながら語り始める。
「二年前は……、当たり前ですけど、もっと賑やかで……この通りはいつも窮屈でした。今は店もないので道がいやに広いですね。この通りの左手側に露店商が毎日のように風呂敷を広げていて」
 その言葉は切なげで、僕に語りかけているというよりは独り言を零しているような調子だった。うん、と小さく相槌だけを打って、僕は瞼の裏にも浮かばないその活気に思いを馳せた。
 次第に自分の言葉に気分が乗ってきたのか、ジュリはまた視線を上げて、その顔には微笑すら浮かび始めた。
 僕の方は見ずにただ廃墟と化した故郷の景色を眺めて……。僕はその横顔をじっと見ていた。
「私は……王宮暮らしだったので街に出ることも少なかったんですけど、その分たまに使用人の仲間と集まって出かける時はすごく楽しみで……、露店を端から端まで見ようとして……、時間かけすぎだなんて言って怒られて……」
 穏やかにさえ見える横顔とは裏腹に、次第に声は掠れるように詰まっていく。
 僕はジュリの隣に並んだその半歩後ろを歩きながら、彼女の柔らかい手を取った。それを拒むでもなく、しかし振り向くこともなく、ジュリはまだしずしずと足を進める。
 その足が僕が元いた場所、王宮の方面へ向かっていることは分かった。
「……みんな、いなくなってしまったんですよね。誰がどこで死んだのか、生きて逃げ延びた人がどれほどいてどこに行ったのか……、何も分からない」
 そう呟いた時、ついにジュリは足を止めた。それ以上はもう進めないと、小さな背中が必死に訴えているようだった。顔を俯けてその体を震わせ始める。
 僕は周囲に人の目があるかどうかも確かめず、彼女の体を抱き竦めた。本隊の流れからは少し逸れた道に入っていて、辺りは静かではあった。
「……ごめんなさい、つらい思いを、しにきたわけではないのに」
 ジュリは僕の背中の服を両手で強く掴んで、その胸の中に顔を埋めて泣いていた。
「謝ることじゃない。つらいのは……当たり前なんだから」
 何も言わずにいることもできなくて、僕は不器用に言葉を紡ぐ。ただでさえ喋るのが苦手なのに、人を慰める言葉なんてそういくつも知らない。
「でも……、それでも、私はここに帰ってこれた。こんな姿になってしまった町だけど、それでも……帰ってきたんです、故郷に」
 息も苦しそうなほどに涙の滲んだ声で、ジュリはそれでも必死に喋った。
 もう無理をするな、何も言わなくていいと、僕はそんな言葉をかけたくもなった、しかしその勇気もなかった。
「私は、弱くて、小さくて、何もできなくて……。だけどヨンは、パウルさんやモルズさんは……このためにずっと戦ってきたんですよね。……ありがとうございます、この町を取り戻してくれたことを、心から……ありがとう、ヨン」
 その胸は痛みで張り裂けそうなはずなのに、それでも感謝の言葉を言って見せる彼女は、こんなにも苦しそうなのにそれでいて力強い。僕はアルドがそうしたように、その背をできるだけ優しく撫でるばかりだ。
「何もできないなんてそんなことない……。仲間の治療をしてくれたし、薬を作るのも手伝ってくれたし、敵の指令書の翻訳をしてくれたのも君じゃないか。君は僕達のれっきとした仲間だ」
 精一杯に紡ぐ言葉は、しかしどうにも彼女の心には届かない気がしてしまう。その涙を晴らすことは僕にはきっとできない。そんなことしようとする方が傲慢なのかもしれない。
 ただ抱きしめる彼女の温もりに、僕が縋っているようなそんな気分さえしてきた。
 ぐっと閉じた瞼の裏に、昨日の朝の景色が蘇る。いよいよラズミルへ向けて進軍が始まる前、クスダンの宿で最後に過ごした朝を。
 父親から託されたものの重さを、受け止めるだけの覚悟もできていない気がして……、柄にもなく気持ちを確かめた朝だった。
 それを受け止めてくれたのも君だったじゃないか、そんな思いはどうやって言葉にすればいいのか、その問題はあまりに難解だ。ジュリは僕の腕の中で小さく首を振った。
「分かってます。全部……分かってます」
 その声はまるで、それ以上何も言うなと僕を宥めているようでさえあった。
 僕は小さく唇を噛むようにして口を噤んだ。ただ体温を確かめ合う、それ以上のものがあるだろうか……あまりに言葉は無力だ。
 やがてジュリはゆっくりと僕の胸から顔を上げた。涙と汗に混じったもので顔は濡れて、その目も真っ赤に充血している。
 そうして濡れた前髪を僕は片手の指でそっと撫でるように分ける。黒い瞳がしっとりと僕の目を見つめる、それに引き寄せられるようにして顔を近付けた。
 お互いに瞼は閉じて、やがて唇を重ねる。廃墟の隙間を緩やかに抜けていく風もまた湿気を帯びて、静かに僕達を包んでいた。
 誰かが見ている気がする、だけどきっとそれは風の中に混じった、人ならざるものの眼差しだっただろう。
「ここにヨンがいてくれてよかったです」
 再び歩き出した時、ジュリはまだ涙に嗄れた声で、しかしその表情には微笑を浮かべてそう言った。
 釣られるようにして僕も口角を上げた。その重たさには自分でも驚く。……笑うなんていつぶりだ? 
 だけどその口は開くことはない、正しい言葉なんて分からない。
 ジュリはまた僕を先導するように歩き始めたが、どうやらその足が向かう方角は変わっている。次第に山際に沈んでいく日差しは朱色に染まっていく、道の広い廃墟に伸びた背の高い影の動きは、それだけを見るとどこか楽しそうですらあった。
「もう日が暮れる。休む時は人の多い場所の方がいい」
 僕はその背中に言葉を投げたが、ジュリの小さく軽やかな足取りは止まらなかった。
「もう少しだけ……すぐそこなので」
 名残惜しそうに言う声は、既に晴れやかにさえ感じられた。
 どこへ向かっているのだろうか、何か特別な思い出がある場所なのだろうか。そう想像を馳せていると僕もどこか胸が浮くような、だけどやっぱりどうしてもそこに鋭い痛みを伴ってしまいそうで怖いような、むずむずとした気持ちになってくる。
 やがてジュリがゆったりと足を止めた場所には既視感があった。思わずぎょっとして周囲を見回す……、トレンティア兵の死体を探してしまったのだ。
 そこは丸く筒状に造られた石造りの建物……しかし偵察任務の時に訪れたそれとはまた別らしい。王都には神殿が複数あるようで、幸いこの場所の近くに死体が転がっている様子はなかった。
 昨日敵兵を看取った神殿とは違って、天井がまるごと抜けたように無い。しかしそれは崩れ落ちたというよりは、始めから無かったのだろうかと想像ができる……綺麗に天井がない神殿だった。
 広くとられた円形の床は雨風が降り込むままになっていて、ひび割れた隙間から力強く雑草が割り込んでいる。
 ジュリはその神殿に佇んで、綺麗な赤から次第に藍色を混ぜていく空を見上げた。
「ミュロス・サーシェ。……ふるさとの景色を再び見られたことを……感謝します。アミュテュス・サーシェ、旅立った仲間の皆に安らぎがありますように……」
 彼女はそう静かに祈る。ああ、どんな痛みも、言葉にならない感情も、全部がそこに吸い込まれては清められていく。
 僕はジュリの隣に立ってその手を片手で握り、祈りの時を共にした。
 しかしその神殿の、壁際に安地されている、腕の取れた神像は……女神のものだった。ミュロスではない。
 空を見上げていた彼女の視線がすうと正面へ降りたのを見てから、僕も口を開く。
「これはアミュテュス?」
 その神像は腕がとれ、ところどころひび割れているが、元は立派な造りなのだろう。石造りながらに躍動感のある肉や体に巻き付けているような布のひだが細やかに表現されている。アミュテュスというには力強そうな、逞しい体つきの女神だった。
 ジュリはくすりと笑った。
「ああ……、この像はイディナですね。仕事仲間の女友達に付き合わされてよく一緒にお祈りにきていました」
「イディナ……」
 僕はその聞き慣れない神の名前を呟いた。
 そもそも神殿があるのはそれなりの規模の町に限ったことであるが、王都ともなると祀っている神ごとに神殿が分かれているらしい。田舎者にはいまいちピンとこない感覚だ。
「アミュテュスの臣下で、生命の誕生を祝福する女神と言われています。神話では一人で四十八人の子どもを生んだとか……」
 穏やかな声でジュリは言う。僕は目を細めてその女神を見つめた。どうりで逞しいわけだ。
「それから……、この神殿はよく結婚式を挙げる場所にもなってましたね。貧しくて家で挙式ができない人や、家族のない人にもせめて祝福をと、ここの神官様が始めたことらしくて」
 へえ、と僕は気の抜けた相槌を打った。
 出産を祝福するならば結婚も、なんて話になったのだろうかと想像をする。結婚と出産を司る女神の神殿は……きっと女性に人気だったのだろう。女友達に付き合ってお祈りに来ていたなんて言うジュリは、その時どんな気持ちでいたのだろうか……なんて考えてしまう。
 僕はジュリと横並びに立って女神を見つめたまま、その隣り合った片手同士を彼女と繋いだまま、ゆっくりと目を細めた。
「……町の復興がもう少し進んだら……、僕達も結婚式を挙げようか」
 まるで世間話をするみたいに平然と言った。緩く指を絡めていただけの手にこもった力がきゅっと強くなったのが分かった。
「……それは……、素敵ですね……」
 ジュリの答えた声もどこかのんきだった。
 数秒してからやっと彼女を振り向くと、既に薄暗い空の下、神殿の壁の影の中に入ってジュリの顔色もあまり分からなかった。少しだけ目を伏せるように下を向いている。
 釣られるように彼女も僕の顔を見たようだ。僕は自分がどんな顔をしているのかもよく分かっていなかった。
 何を言うでもなく、また静かに身を寄せ合って口付けをする。
 こんな時に囁くべき言葉は何であるだろうか、分かるようで分からないようで、だけど何にしたって口を開く気にもならなかった。
 幸福、と言うにはあまりにも寂寥に満ちた風景だ。かつて吹きすさんだ戦塵の風の下で縋り合う、僕達はあまりに幼い子どもだっただろう。
 女神達はそれを見下ろしてなお微笑むのだろうか、言葉にならない感情は、全てサーシェのひと声に吸い込まれては清められていく。
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