サーシェ

天山敬法

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第十二章 私達の愛の形

142話 獣の掟

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 ブランドル学院と士官学校フォリストルの交流会はつつがなく終わり……翌日、興味のない授業を欠席して僕は学校の近くにある公共資料室へ足を運んだ。
 フォリストルとの交流会も多少の刺激にはなったが、日常が激変するようなことはなかったはずだった。それでも何か、胸の奥に引っかかるものがある。
 それを探るために、ここしばらくの新聞をいくつかめくる。
 大半が、お金も地位もない平民には縁のない話ばかりだが……、紙面のそこかしこに、確かに先生の言ったように募兵の広告が載っている。
 しかしズミでの反乱について取り上げているような記事はどうにも見当たらない。数年前は確か、ズミの王都を陥落させたとか、ズミでの支配体制が進んでいるとか、そういうニュースがしきりに書かれていた気がするが……。
 反乱が起きて苦戦しているなんて話はどうにも取り上げづらいのだろうか。それほどまでに苦戦しているのだろうか。
 彼は……ヨハンは無事だろうか。戦争に巻き込まれてなどいないことを願いたいが……いや、僕は彼の身の上や彼の国での暮らしぶりを何も知らないのだ、考えたところで何の見当もつかない。
 今は戦争中だから到底叶わないが……やっぱりいつかズミに行ってみたいな、なんてぼんやりと思う。
 しばらく新聞を遡ってみてもやっぱりそれらしい記事は見つからなくて、僕は諦めをつけて書架の方へと歩いた。
 しかしズミについて記した書物や資料も、公共の図書館にはなかなかない。まだ国交を始めてからの歴史は浅く、しかも戦争を挟んでもいるのだ、情報がなかなか普及しないのも無理はないだろう。
 そうでなくとも最新のズミの情勢なんて分かるわけはないし、ここで調べ物をしていてもあまり成果はなさそうだった。
 早めに区切りを付けて資料室を後にする。
 寮に戻る前に日用品の買い物をしていこうと思って、商店街の方へと歩く。人々の往来が多い道の脇に、作られてまだ新しい立て札があるのに気が付いた。そこにも募兵の広告。
 それを見ると先ほど漁っていた新聞の紙面を、そして学校で聞いた先生の言葉も思い出す。
 本当に戦争をしているんだなと、実感と言うにはあまりに遠い、ひたひたとしたその足音を王都の日常の中にも感じる。……子どもの頃はそんなこと、考えてもいなかったのに。
 こんなことを気にするようになったのも、僕達が日々の祈りと感謝を捧げるこの聖なる樹木を、憎しみ持って見上げた人がいるということを知ってしまったからだろう。空を見上げると、今日もトレントの勇壮な姿が僕達を見下ろしている。
 二年前、トレントのマナが戦争に利用され、それはズミの街を、そこに住んでいる多くの人の命と共に焼き払ったと言う……。
 その時はトレンティアでも、民間の研究所や学校が連帯して王室に抗議の声明文を出す程の騒ぎになったらしい。それを王様がどれほど聞き届けたのかは知らないが……。

 雑踏の中を歩いていると、街の空気に呑まれるような気がして少し気分が悪かった。買い物は明日にしよう、なんて思い直して僕は商店街へ向かっていた足を別の方向へ切り返した。
 ひと気のない場所にいたかったが、王都はどこに行っても人混みがある。静かに過ごしたいと思えば、結局は学校の敷地内へ逃げることになった。
 授業をしている時間中にうろうろしている所が目立つと何か言われそうなので、こそこそと隠れるようにして校庭の隅の植木の近くに腰掛けた。
 そこからまた空に広がっているトレントの枝葉を見上げるが、そうしていてもなんだか気分が塞ぎ込んでいくような気もして、気を紛らわせようと結局本を開く。
 しかしその字面を追い始めて程なくして、人の足音が聞こえた。
 それが近付いてくるのを感じてどきりとするが、今から慌てて逃げ出しても不自然だし、失礼かもしれない。そう思って素知らぬふりを決めこむことにした。
 まるで気付かない素振りで読書を続けようとしたが、どうにもその足音は真っ直ぐ僕の元へ向かってくるではないか。
 複数人ではなく一人のようだが……僕が授業をサボっているのに気付いて注意しにきた教員の誰かだろうか。
 そう危ぶんで恐る恐る視線を上げたが、しかしそこにいたのは知らない顔、それも生徒らしい子どもだった。
 僕よりもいくつも歳下だろう、初等科の学生だろうか? 身につけている服からして貴族の子どものようだが……、しかしその腰にあるものを見て思わずぎょっとした。子どもの体に合わせたような小ぶりの剣が携えられている。
 街中で帯剣しているなんて普通の学生ではない、学生でなくても軍人ぐらいしかやることじゃない。
 だけど子ども? 誰? 呆気にとられて目を丸くしている僕のすぐ前に立って、貴族の少年は腕を組んで胸を張った。
「アルバート・ブランドルというのはお前か」
 その声も子どもらしくあどけない……しかし貴族らしい威厳を精一杯に張ったような、重たいものだった。
 声をかけられてやっと、僕は慌てふためいて立ち上がった。子どもだろうと相手は貴族だ。
「は、はい。アルバート・ブランドルです。失礼ですがあなたは……」
 恐る恐る尋ねると、少年は同じふんぞり返るような姿勢で立ったまま堂々と名乗る。
「ハルク・フォス・カディアルと言う」
 きりと引き締めた表情で名乗ったそれは、昨日も聞かされた家名を背負っていた。思わず驚いた顔を取り繕いもせずに、僕は固まった。
 またカディアル家? しかも今度はフォスの名前まで冠している。
 同じ家名ということはきっと縁者なのだろう、昨日見たカルロスと同じように、ハルクは値踏みをするような目でじろじろと僕の顔を見つめてきた。次第に眉をひそめ始める。
「ふーん……? 見た所みすぼらしいただの平民だけどな……」
 そんな独り言を呟いたのを聞いて、何か嫌な汗が背中を流れるような気がした。
「な、なんでしょうか……? 僕に何か……?」
 聞き返した声は少し震えてしまったかもしれない。
 ハルクはカルロスとは違って、笑顔を作ることはしないらしい。むすっと眉を寄せたまま、僕よりも低い位置の頭から見上げる角度で睨みつけてくる。
「昨日の交流会で叔父上……カルロス様と話をしたと聞いた。お前みたいな平民があの方に取り入るなんて、一体どうやった?」
 怪訝な感情を隠しもせずにそう問うてくる。僕は余計に困って首を傾げるばかりだ。
「え、ええと、取り入るなんてそんな大層なことは……。僕はブランドル学院での勉強が評価されたことがあって、それで昨日の会にも出席させられ……いやさせてもらって、僕みたいな平民がいるのを不思議に思ったと、仰ってましたけど。少し話をしただけで、本当に何も」
 しどろもどろに説明をするが、僕を怪しむ目で見つめる少年がそれだけのことで納得することはなさそうだった。
「嘘をつくな、ただ勉強ができるだけの平民にカルロス様があんなに気を掛ける訳がないだろう」
「ええ……? そ、そう言われましても、僕は何も……」
 怪しむハルクと戸惑う僕とで、その問答が解決する気配はなかった。……気に掛けられていたのか? ただあれだけの会話で?
 いやしかし、近衛騎士の筆頭を担う家の子ならきっとフォリストルに所属しているのだろうが、記憶の限りでは昨日の交流会でもハルクほど年少の生徒はいなかった。
 いくら身分が高くても初等科の学生が出るようなものではないし、彼は昨日の席にはいなかったはずだ。
 それなのにカルロスが僕を気にしていたことを知っているというのなら、誰かから噂を聞いたか、あるいはカルロス本人から何かを聞かされたのかもしれない。そこには僕自身も知らない話があったとでも言うのだろうか?
「僕はそんなに気を掛けられていたんでしょうか」
 失礼にならないだろうかと怯えながらも、僕はそう聞き返した。ハルクは更に表情を不機嫌そうにして睨んでくる。
「そりゃ、部下の人にお前のこと調べさせたり、だいたい交流会を突然見に行くなんて言い出したのも……、いや……」
 ハルクは呟くように言った、僕は更にぎょっとして思わず飛び上がる。
 部下に僕のことを調べさせていただって? そんなことをされる心当たりは全く無い、あんな軍人に探られているなんて、考えただけでも怖くて言葉も出ない。一体何だと言うのだ。
 驚きのあまり固まってしまった僕を見て、ハルクはやがて呆れたような顔でため息をついた。
「変な奴だな、自分で何も知らないのか? まあいいや、お前の話ちょっと聞かせろ。平民のくせに中等科まで進学してるなんて、家は金持ちなのか? 親は何してる」
 そう切り替えて尋問をしてくるので、僕はまだ戸惑いながらもなんとか話を続けた。
「僕はブランドルの修道院で育てられた孤児です、親はいません……」
「親がいない?」
 途端にハルクは目を丸くして、今度は彼が固まってしまった。その驚きようにこちらが戸惑う程だ。
 上流貴族の子息の世界では、孤児なんてものを見るのも初めてなのだろうか? 年齢はまだ幼いのだ、そんなことで驚くのも無理はないのかもしれない。
「父も母もいないのか? 死んだのか?」
「父も母も、誰なのかも分からないです。物心つく前からずっと孤児ですよ」
 ハルクは驚きのあまりか、既にそこから高圧的な態度さえ消えていた。ただ目を丸くして、混乱したみたいな顔で僕を見つめている。
 孤児なんて存在を知ったのも初めてだと言うのなら、それを蔑む気持ちも起こらないものだろうか。
「誰かも分からないなら、もしかすると貴族かもしれない?」
 それは子どもならではの、微笑ましいほど素朴な疑問だった。思わず笑ってしまいそうになるが、それは無礼だと怒られるかもしれない。
「分からないですけど、ちゃんとした貴族の人だったら子どもを捨てたりしないんじゃないですかね……」
 笑い出すのは堪えたが、つい声が柔らかくなってしまった。
 ハルクはまた面食らったように口を開けたまま固まって、すぐに困った顔になって首を傾げてしまった。初等科ぐらいの年齢なら、上流貴族の子どもも可愛いものだ……。
「誰にしたって分からない以上はいないのと同じです。ですから僕には家もありません、平民の中でも一番身分の卑しい人間ですよ」
 そう語って聞かせる声はどうしても自虐っぽくなるが、それが僕にとってどれほど不幸なことなのか、この少年が理解することはないだろう。
 ハルクは返す言葉も分からない様子で首を傾げたまま黙ってから、難しそうに表情を動かしたかと思えば、また怪訝な顔になって僕をじろじろと睨み始める。
「いや、だったらやっぱりカルロス様が気にするのはおかしいじゃないか。何か隠し事してるだろ」
「何も知りませんよ……。カルロス様なんて、お顔を見たのも昨日が初めてで……」
 また僕も困った顔で肩を竦める。
 一体どこの筋から軍人貴族なんかに僕の名前が知られたのだろう、学外の本に出した論文が人知れず物議を醸していたりするのだろうか。
 そんな想像がよぎると思わずそわそわと胸が浮く心地がするが、僕自身の耳に届かないのは釈然としない。
 そんな有名になるのなら、わけもわからず軍人に探られるよりも、学者としての就職の話があってもいいだろうに。本当になかなか、思うようにはいかないものだ。
 ハルクはまだ訝しげに僕を睨んでいる。
「ふーん……、まあいいや。見た所暇そうだな、少し俺に付き合えよ」
 ハルクは軽い口調で言ってくいと手招きをしてくる。どうやらどこかへ向かうらしい。
 え、なんて僕は戸惑った声を上げたが、当然上流貴族に逆らうことはできない。どこへ行くのかは分からないが、仕方なく僕は彼について歩き始めた。

「じゃあなに、勉強が好きで進学したのか」
「ええ、はい。卒業した後は学者になりたいなと……」
「ふーん、平民でも学者ってなれるんだ」
「ええ、そのはず……なんですけど、やっぱりちょっと難しい、ですね」
「俺の家は代々みんな近衛騎士だから、俺も将来は騎士になる。お前は……そうか、家がないからそういうのもないのか」
「そうですね……」
 歩きながら他愛のない身の上を話していた。好奇心の旺盛な性格なのだろう、全く身分の異なる僕の話が新鮮なようで、ハルクは存外に楽しそうだ。
 その足も、どこか明確な目的地に向かっている様子ではなかった。学校の敷地から出て、僕が来た道を戻るみたいに商店街へ向かったかと思うと、そこの往来の多さを見て顔をしかめてまた道を逸れる。
 暇そうだな、なんて僕に言った彼もまた暇なのだろうか。フォリストルでは土曜日に授業をやっていないのだろうか?
 そうでなくても貴族の子どもなんていつでも何かの教育を受けているような印象があるが、偏見というやつだろうか。僕だって上流貴族の人の話を聞く機会なんて滅多にないからよく分からない。
 かと言ってこちらからあれこれと質問などすれば無礼になってしまいそうで、僕はただ彼から向けられる素朴な質問に淡々と答えていた。
 彼の気まぐれな足取りは、次第に商業街から離れて貴族の居住区域に近付いていた。建物の密度は下がり、大きな屋敷や庭園の景色が近付いてくる。
 それにつれて周囲の人の往来も減っていく。それは僕などにはおいそれと近付くこともできない場所だが、今は貴族であるハルクに言いつけられて伴っているのだ、咎められることもないだろう……。
 それにしたってどうしても緊張する。無意識に背中を丸めておどおどと歩くような姿勢をとってしまう。
 周りの視線も気になってきょろきょろとしていると、やや離れたところからこちらを指さしてくる数人の人間がいるのに気が付いた。
 ぱっとひと目見ただけで分かる、どうやら貴族の人間だ。どきりとして立ち止まると、ハルクも不思議そうな顔をしてこちらを振り向いた。
 そして僕の視線を追ったのだろう、その先を見て何やら曇った表情で眉を寄せる。
 指さしてきていた数人の貴族は立ち止まった僕達の元へ歩いて近付いてきていた。顔を見ると、皆僕と同い年ぐらいに見える少年達だ。
 こんな所を薄汚い平民が歩いているなんて、と罵られるのだろうとそう身構えたが、どうやら彼らの視線はそれを連れているハルクの方に向いていた。
 昨日のカルロスと同じような、貴族らしい余裕のある笑みをそれぞれ浮かべて、三人の少年は自分達より背の低いハルク少年を見下ろした。
「誰かと思えばハルク殿じゃないか。久しぶりだな、ご機嫌いかがかな?」
 一人の少年がそう彼に語りかける。しかしどうにもその声色は皮肉っぽくて、友好的に感じなかった。
 ハルクも同じなのだろうか、暗い表情になって相手の少年を睨みつけた。
「変わりないよ。君たちは何してるんだ? 学校はどうしたんだ」
 相手の少年達はみな僕と同じ年頃に見える、ハルクよりはいくつも歳上だろう。口ぶりを聞くにフォリストルの学生だろうか?
「学校はどうした? だって、おい聞いたか。さすがフォス・カディアルのご令息は言うことが違うな!」
 少年は仲間の方を振り向いてそう大仰に言い、三人でどっと笑い声を上げ始めた。そのあからさまな嘲笑に、僕は息が詰まる気さえした。
 ハルクの小さな背中が震える、しかし何かを言い返すことはない、できないのかもしれない。
 少年達は同じ調子でハルクを見下ろして、追い打ちをかけるように強い語気を浴びせていく。
「君こそ学校はどうしたんだ? なあハルク殿!」
「停学中の不良児がこんな明るい時間から表を歩くなよ、家の恥になるぞ?」
「何をしてるかと思えば犬の散歩か? フォス・カディアルの跡取り様は随分なご身分だな! 羨ましいよ!」
 その侮辱の言葉の数々は容赦なくハルクを殴っているかのようだ。
 身分の関係は分からない、だけどいくつも歳上の者が複数人がかりになって、こんな幼い少年を罵って嘲笑っている、その醜悪なまでの光景に僕は愕然とした。
 フォス・カディアルといえば神位の家名、上流も上流の貴族のはずだ。その子どもであっても、こんな憂き目に遭うことがあるのか? 貴族の社会というのはそういうものなのだろうか。
 それを見ても当然僕にできることは何も無い。彼らとハルクの関係も事情も何も知らない。
 ただ見ていることしかできない中、ハルクは果敢にも、一人でとうとう激昂した。
「俺を馬鹿にするのか!」
 そして彼は目の前にいた少年の胸ぐらを両手で掴みかかった。自分よりも頭ひとつ分も背の高い歳上の少年に……。
「何だ、手を出す気か? それならやり返されても文句は言えないよな!」
 掴みかかられた少年はそう挑発的に笑って、すぐに右手を振り上げてハルクの頬を平手で打った。
 思わずその瞬間に目を背けたくなる、だけど僕は戸惑いと恐怖のあまりに動くこともできなかった。
 背の高い男に殴られて、しかしハルクはなおも相手の胸から手を離さない。
「離せよこの狂犬が! 上級生に盾突きやがって、やっぱり父親と同じで道理わきまえていない愚か者なんだな!」
 少年はそう怒鳴ってハルクの胸元を締め上げながら掴み返す、彼の小さな足がつま先立ちになって苦しんでいるのが後ろからでも分かった。
「父上を……侮辱するな……!」
 ハルクは苦しげな声で、しかしそれでも気丈な言葉を吐き続けた。少年は更に怒りの熱を加速させ、締め上げたハルクの顔に唾をかけるような距離で怒鳴る。
「お前の父は近衛騎士でありながら国と陛下を裏切ったじゃないか! それを庇いたてするなんてお前も同じなんだろう! フォスの名を汚す背信者が!」
「違う! 父上は国を裏切ったりしない!」
「違わない! 裏切り者のクラウスだと皆言っている! だからお前だって停学にされたんじゃないか! 身の程をわきまえろ、この野良犬が!」
 その罵倒を聞いたあと、ハルクは小さな拳を握って相手の顔に振り上げた。
 しかし相手も恐らくフォリストルの学生だ、士官学校に通っているということは軍人候補生なのだろう、喧嘩が弱いわけもない。それを難なく片手で受け止め、またハルクの頬を殴り飛ばす。
 その力は精一杯に込められていたようだ、ハルクは耐えきれず彼の胸元から引き剥がされ、苦しげに咳き込みながら地面に倒された。
「こいつ、裏切り者の子どもの分際で上級生に手を上げやがった。おい、ちょっと分からせてやろうぜ」
 少年は背後でニヤニヤと眺めていただけの二人の仲間を振り向いて言う。
 楽しそうに嘲笑を浮かべながら倒れた幼い少年の元へ歩み寄る彼らを見て、僕はただぞくりとした悪寒を飲み込むことしかできない。……こんなの、リンチじゃないか。
 見ているだけで胸が苦しい、だけど僕にはどうすることもできない。僕は平民だし、当然喧嘩なんかできないし、最悪貴族に口答えをしたというだけで殺されたっておかしくない。
 変に巻き込まれる前にその場から逃げ出すべきだったのかもしれない。だけど体は思うように動かなかった。
 ただ無意識にもそこから離れようとして、這うように後退る。見開いた目はハルクの体から離せなかった。
 少年は倒れ込んだハルクの体を足蹴にしたかと思うと、すぐにその胸ぐらを掴んでまた立たせ、顔を殴る。
「前から気に入らなかったんだよ、ちょっと親が偉いからってガキのくせに偉そうにしやがって。今は誰も庇ってくれないもんな? いい見ものだ!」
 そう怒鳴って少年達はハルクを何度も殴り、倒れた彼を蹴り飛ばし、その暴力は止む気配を見せない。
 なぜ貴族の子がそんな目に遭わなければいけないのだろうか、父親が国を裏切ったとかなんとか……、端々から聞こえる言葉を拾ってもいまいち分からない。
 ただ為すすべなく、僕はその暴力が過ぎ去るのを見守ることしかできない。せめて相手の少年達が満足した後には治療をしてやらないといけない、そんなことを思うだけだ。
 しかしなかなか止む気配を見せない暴力の現場に、それが過ぎ去るよりも前に、別の足音が唐突に届いたのが聞こえた。それは力強く石畳を踏む……蹄の音。
 何かと思って振り向くよりも早く、それはあまりに唐突に、激しさを伴ってもたらされた……その瞬間に息が止まったのは僕だけではないだろう。
 ズシと地面が揺れたような衝撃、それにたがえることのない爆発音、そして目には鮮やかなまでの橙色が弾けるように燃えた……、そこに起こったのは確かに、魔術による爆炎だった。
 それは倒れたハルクを散々に弄んで揉み合っていた少年達の、すぐ足元の石畳を細かく粉砕したようだ。そこから黒い煙が糸を引くように吹いていった……こんなに間近で本物の戦闘魔術を見たのは、僕にとっては初めてだった。
 突然に訪れたのは乗馬した一人の男……そこにいた一同は皆凍りついたように静止して彼を振り向く。
 馬上から魔法を撃ったのだろう、片手だけを手綱から離して遊ばせているのは、身なりからして貴族――いや、その顔には僕も見覚えがあった。
「こんな所で狼藉を働いているのは誰かと思えばフォリストルの学生か? 嘆かわしいことだな」
 ゆらりと暗い表情を浮かべている……昨日見たばかりの軍人貴族、カルロスだった。
 その顔を当然、ハルクをいたぶっていた少年達も知っていたのだろう。途端に蒼白な顔になってびしりと体を強張らせた。
「かっ……、カルロス様!」
 一人が裏返ったような悲痛な声で彼の名前を呼び、すぐにハルクから離れて皆敬礼の仕草を取った。
 取り残されたハルクは蹲って苦しげな息をついたまま、顔を上げることもできないようだ。
「所属と名前を言え」
 カルロスは馬に乗ったまま彼らの元へ進み、そう尋問するような調子で言う。
 すっかり怯えながら少年達は言われるがままに名乗る、それをカルロスは憂鬱な面持ちで懐から取り出した紙に書き留めたようだ。
「も、申し訳ありません! あ、あの私達は……」
 少年は慌てふためいてそう謝罪をするが、カルロスの調子は相変わらずただ気怠げだった。
「弁明を聞く気はない、処分は後日教頭から聞け。今はさっさと消えろ」
 そう言い捨てられて、少年達は泣きそうな返事をしながら足早に立ち去っていく。
 僕はまだどくどくと胸が早打つのを感じながら、力が抜けてその場にへたり込みそうになった。
 そんな僕へ、カルロスは陰鬱な表情のままちらりと視線を向けてきたが、すぐに蹲っている少年の方へ視線を移した。
 馬から降り、彼のすぐ前へと歩いたようだ。
「立て、ロイ」
 ハルクへ呼びかけたその名前は、平民相手には名乗ることもなかった彼のファーストネームだろう。立てと言いつける声も重たく、厳しいものだった。
 ハルクは震えながら身じろぎし、やがて息を詰まらせるように咳をしながらも、それでもふらふらと体を立ち上がらせた。
 散々に殴られた顔は腫れているし、唇から血が滲んでいる、それでもその目に激しい感情を滲ませているのも分かった。
 そんなハルクを、カルロスは変わらず冷めきった暗い表情で見下ろし、そしてふいに手を振り上げた。
 気を緩めて少しずつ彼らの元へ近付いていた僕は、その瞬間にまた息を詰まらせた。一方的に殴られていたハルクを助けに来たのかと思えば、そこにある感情は到底温かいものではなかったらしい。
 せっかく立ち上がった彼の頬をカルロスが更に殴る。大人の軍人が振るった力はそれまでの少年よりも一層強かったのだろう、ハルクの小さな体は飛ぶように押しのけられ、びたりとまた石畳に打ち付けられた。
 そこで彼は両手の拳を握りながら言葉にもならない呻き声を上げ、その目から落ちた涙が小さく地面にまだら模様を作った。
 その少年を見下ろし、告げるカルロスの声はどこまでも冷たかった。
「謹慎中の身で何を勝手に出歩いている、馬鹿者が。お前もあれと同じ薄汚いドブ鼠にでもなりたいのか?」
 あれ、と言いながらその時に親指だけで指したのは僕の方だった。ぎょっとして僕は身を強張らせるが、その視線は向いても来ない。
 ハルクは地面に蹲ったまま、わなわなと声を震わせた。
「ち、ちうえは……、父上は本当に裏切ったんですか……、おれを捨てたんですか!? おれも孤児になるんですか……?」
 その叫びが、ずしりと僕の胸をも刺したようだった。……事情は何も分からない、だけどその瞬間に彼の痛みが分かって、しまった。
「あれを父などと呼ぶな。そう怯えなくとも、お前が身を慎んでさえいれば私が父親になってやる」
 カルロスは暗く淡々とした声で言う、途端にハルクは腫れ上がった顔を上げてハッと目を見開いた。
「叔父上が、父に……? それはどういう……」
「父上が……ドミニク殿が亡くなって一旦は私が家督を譲り受けたが、フォスの聖血を受けたお前が次の跡取りであることに変わりはない。私の養子に入ってもらう。クラウスが死んだ後にだが、な」
「……おれの、父上が……死ぬ……?」
 ハルクの声は震えている、それはきっと、殴られた痛みやカルロスに対する恐怖故ではない。
 カルロスはへたり込んでいるハルクの元へまた歩き、その胸ぐらを片手で乱暴に掴み上げて立ち上がらせた。彼の苦しい呻き声がまた僕をも苛んでいく。
 それにカルロスはぐっと顔を近付けて、その時に笑った。
「これから私が殺すんだよ。だから安心しろ、ロイ。もう裏切り者の息子などと呼ばれないよう、その汚名は私がしっかりと拭ってきてやる」
 笑みとともに滲むその殺意に、ぞくりと背筋が冷たくなる。
 ハルクの父が何者なのか、その事情を僕は全く知らない、だけど国を裏切ったと言われていた、それを何となくにも察するのは難しいことではなかった。
 代わり映えのない王都での日常に、その足音は……戦争の音はひたひたと近付いているようだった。それはあるいは、ハルクやカルロスにとってはずっと前からの日常だったのかもしれない。
 しかしそれが突然僕の目前に現れたのは、一体何の因果だと言うのだろうか。
 ただ唖然としたまま立ち尽くしている僕を、その時カルロスはまたぎろりと睨みつけてきた。
 昨日の交流会の時のように取り繕った様子は全く無い、むき出しの戦意を滾らせた、まるで獰猛な獣のような目で……。
「その時には……貴様の父親も一緒に地獄へ叩き送ってやるからな」
 そして言い渡してきた言葉を、僕は呆気にとられて、その時は飲み込むことすらできなかった。……何と言った?
「下賤は下賤らしく、一生泥を啜って生きていろ」
 その衝撃はしかし、あまりにも率直な侮蔑の言葉に塗り潰されるようにしてかき消えていった。
 そこで繰り広げられた貴族達の暴力も、幼い少年が味わった痛みと恐怖も、そしてその裏で渦巻いている謎の因果をも……、ただの平民である僕には理解することも能わない、知ろうとすることさえ許されない。
 僕は何もできない、この無力もまた、憂鬱な毎日で何も変わらないことの、一つだ。
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ゲーム三昧の毎日を送る元ニート、佐々木二郎。  ある夜、三度目のゲームオーバーで眠りに落ちた彼が目を覚ますと、そこは見たこともない広大な草原だった。  剣と魔法が当たり前に存在する世界。だが二郎には、そのどちらの才能もない。  ――代わりに与えられていたのは、**「自分が見た・聞いた・触れたことのあるものなら“召喚”できる」**という不思議な能力だった。  面倒なことはしたくない、楽をして生きたい。  そんな彼が、偶然出会ったのは――痩せた辺境・アセトン村でひとり生きる少女、レン。  「逃げて!」と叫ぶ彼女を前に、逃げようとした二郎の足は動かなかった。  昔の記憶が疼く。いじめられていたあの日、助けを求める自分を誰も救ってくれなかったあの光景。  ……だから、今度は俺が――。  現代の知恵と召喚の力を武器に、ただの元ニートが異世界を駆け抜ける。  少女との出会いが、二郎を“召喚者”へと変えていく。  引きこもりの俺が、異世界で誰かを救う物語が始まる。 ※こんな物も召喚して欲しいなって 言うのがあればリクエストして下さい。 出せるか分かりませんがやってみます。

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