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第十二章 私達の愛の形
145話 父を仰ぐ者達
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サダナムへと出発する予定日を翌日に迎えて、しかし前日だろうと、一兵士に過ぎない自分のやることは変わらなかった。
午前の内は兄の事務仕事を手伝い、午後からは訓練のために護衛騎士のルヴァークと剣を交わす。
夕方に差し掛かったのでそろそろ切り上げようか、なんて思いながらも剣を振っている私達の所へ、ふらりと現れた人影があった。
何気なくそれを振り向いて目を丸くした。
珍しく一人で来た様子のジャックが立っていた。女同士の手合わせなど、好んで見に来ることもないと思っていたが……。
「どうかしたの?」
そう聞くと、ジャックは無表情のまま少しだけ言葉を探すように目を泳がせた。
大事をとって随分と長い間寝かせられていた彼も、数日前には完治と診断を受けて通常任務に戻っていたはずだ。そうであれば今も、基本的にはパウルの護衛についていなければおかしい。
「殿下は明日に備えて早く休まれるそうで……、私も少しだけお暇をいただきまして。エレアノール様、良ければ少しお時間をいただけませんか」
躊躇いがちに言ってくる言葉を聞いて、私は余計に眉をひそめてしまった。
ジャックの方から時間をくれなんて誘いをしてくるのは……いつぶりだ? いや初めてでさえあるかもしれない。いつでも彼はあるじの忠犬であり、自らの意思を表に出すことなど滅多にない。
「明日からは遠征になりますので、その前に父上にも挨拶をと思いまして。よろしければご一緒に」
ジャックがそう続けたのを聞いて、私も手合わせで上がっていた息を静かに整えた。
……彼の父ドミニクはここ、ナートで亡くなった……その亡骸は私達の手で砦の敷地の隅に葬ったのだった。その墓参りに、ということらしい。
そういう話なら、と了解して私は手合わせを切り上げた。
「ご家族の墓参りですか。では私は外してよろしいでしょうか」
ルヴァークも汗を拭きながらそう聞いてくるので、頷いた。
「ええ、ジャックと一緒に行くから護衛の心配もないし……。ルヴァーク、あなたも明日に備えて準備とかしておくといいわ」
そう指示をすると、ルヴァークは静かに素早く去って行った。それを見送ってジャックもきょとんとした表情を浮かべる。
「気が早い騎士ですね。お部屋までぐらいお送りするべきでしょうに」
騎士の心構えについては、国の文化差か性格の差かは分からないが、ジャックには思う所がいろいろとあるらしい。私からすればそんな些細なことはどうだっていいのだが。
選手交代とばかりに私の護衛の姿勢に入ったジャックをぴたりと背後にはべらせて、私は言われるがままに一旦は自室へと戻る。
訓練をして汗まみれだし、最近は面倒くさくてずっと訓練用の軍服を着たままだ。夫の墓に顔を出すというのにこの格好ではあんまりだろう……着替える必要があった。
自室へ入って汗を拭き、いつか調達した女服へと着替える。
ゆったりとした腕の袖と、すとんと落ちるように細長いスカートを組み合わせたそれは、この国の現地で仕入れたズミの伝統衣装だ。
ジュリもいつもよく似た形のものを着ている……正装に近いものなのか普段着なのか、いまいち私には判断がつかないが、まあ軍服よりかはマシだろう。
トレンティアのものの服はまだ手に入らない……ナートを制圧した際に押収した物資の中にも、さすがに女服などはなかった。
着替えてから部屋から出て、そこで待っていたジャックと共にドミニクの墓へと向かう。
父の墓を訪れるという時にやはりジャックも思う所があるのだろう、その足取りは彼にしては珍しく緩やかだった。いつもは鋭い目も物憂げに伏せている。
「兄様はもう休むって? 早寝なんて珍しいわね」
そこで交わされる会話も緩やかで、ジャックからも騎士という風な緊張感は抜けているように感じられた。
「起きてはいるでしょうけど、まあ、リョドルと一緒に部屋に引っ込んでしまわれて」
そう答えたジャックの横顔は少し憂鬱そうだった。思わず私も「ああ」なんて呆れた声を漏らした。
どうやらいつの間にか男同士で恋人になってしまったらしい彼らは、時々にそうしてジャックを追い払って夜を共にしているそうだ。サダナムへの遠征に教官長は連れていけないから、今晩はしばしの別れを惜しんでたっぷりよろしくやるのだろう。
「まったく、再婚を考えるどころか男遊びに走られるとは嘆かわしい。本当にどうするつもりなんでしょう……」
「本当に、よりによって兄様が男色に目覚めるとは思ってもみなかったわ。人生分からないものね」
「まあ、お若い頃からなんとなくそういう気配はありましたが……」
「マジで? あんたも何かされたの?」
「いえ、さすがに……。私の方にその気はないので……」
あまりに下品でくだらない話のようにも思えるが、考えてみれば本当にどうするつもりなのかと不安にもなってしまう。
“男遊び”ならまだいいが、相手は一国の祭司長ではないか。男同士とはいえ、“遊び”の範疇に収まるのか、それ。
そうでなくてもパウルの跡取り問題は深刻だ。ヨハンをズミの王家に引き渡してしまったから、これから新しい王子を産むために再婚しなければいけないはずなのに、彼は歳上の美男子に熱を上げるばかりで、全くその気がなさそうなのだ。
歳はもう三十六になる。ギルバートを無事に倒して王位を取り戻してから、なんて言ってるといつになるやら分からない。その頃にはもうパウルも歳を取ってしまっているかもしれない。
そして彼が言い訳のように零した“もう一人の息子”は、奇しくもヨハンと同じ年に生まれている。記憶が正しければ年初に生まれたヨハンより遅く、ちょうど今頃の季節にその王子はひっそりと生まれていたはずだ。
その頃既にヨハンは母親に連れ去られてズミへ渡っていて、妃の逃亡とトレントの種を紛失した咎でパウルの王位継承権は取り消されていた。
その王位争いの騒ぎの中でひっそりと生まれていた王子……名前をアルバートと言った男児は存在を秘匿され、その後パウルが姿を消したことを契機に、ヨハンもろとも始めからいなかったことにされている。彼の存在を知っているのは、当時の王室の側近の中でもごくごく限られた者だけだ。
そして彼は自身が王家の血を引いていることを知りもせず、これまたヨハン同様捨て子として孤児院で育っているらしい。
今年で十六歳になる彼は、歴史から抹消された経緯で当然、トレントの聖血を受けていない。順当な理屈で言えば王位を継ぐ資格を持っていない。これから聖血の儀を行っても、十六まで育ってしまった少年では失敗する確率が大きい。
それでも他に血筋がないのならと、聖血を持たない者が一時的に王権を握った例は歴史上に無いわけでもないが、当然揉め事は尽きないだろう。……考えただけで頭が痛い。本当にどうするつもりなのだろう。
一番現実的なところで言えば、ギルバートの孫である赤子ブライアンをパウルが養子に迎え入れる、というところだろうが……ギルバート派とイグノール派の対立関係がある中でそれをやるとやっぱり揉める。
何にせよ揉めるのなら、揉め合いながらでもなんとかやっていってもらうしかないだろうか……。
しかしそもそもパウルが王位に就けるかどうかもまだ分からないのだ、今からそんな先のことに頭を悩ませていても仕方がない。とにかく今は目の前のことに集中しなければならなかった。
今はまずズミ軍と協力して戦いを進めること、そしてその前に……異国の地に骨を埋めることとなった誇り高き騎士に、哀悼の念を捧げること……。
ジャックと二人で砦の庭を進み、簡素ながらに墓碑を整えたドミニクの亡骸の元へ辿り着いた。
供える花を買いに行く時間すら私達には無いが、ただ二人でその墓を見つめてそれぞれの思いに耽る。……まだ、彼の最期の姿は瞼の裏に焼き付いているみたいに鮮明だった。
私とてガブリエルの聖血の儀の夜、決死の思いでズミに逃げてきた時には、もう二度と会うこともないと覚悟を決めてきたはずだ。
しかし本当に二度と帰らぬ人となってしまったとなると、どうしてもわだかまる思いはある。夫婦と言ったって、どうせ夫婦らしい愛情なんて少しも無かったというのに。
ジャックとて覚悟を決めてイグノールの配下へ降っているのだ、そこに抱く感情が、今更後悔や悲哀であるはずはなかった。彼は父の姿を見下ろしてただ、その血を継ぐ騎士としての決意を抱いている。
「ねえジャック、私にはまだよく分からないの。……どうしてドミニク様は自ら死を望んだの? なぜ死なねばならなかったの?」
私はその横顔に静かに語りかけた。ジャックはゆっくりと私の顔に視線を向けてくる……穏やかな表情だった。
「……父上はもともとディアノール陛下の騎士でしたが、陛下が退位されたことを機にギルバートへと主人を変えています。どんな理由があったとしても、一度誓った忠誠を覆すことはできない……それはフォス・カディアルの騎士としての意地だったのでしょう」
「だけど本音は兄様の敵にもなりたくなかったから、その板挟みから逃れるために死んだってこと? 馬鹿みたい、そんなことをして何になるって言うのよ……」
思わず恨みっぽい言葉が出てしまう。ジャックは少しだけ苦しそうに目を細めた。
「……いえ、私には到底理解できないけど、それが彼自身が望んだ誇りの表れだと言うのなら……今更どうこう言うべきではないわね。今はただ安らかに眠っていてくださることを祈りましょう」
自分の胸に言い聞かせるようにして、私は目を瞑った。ジャックの声はなおも穏やかに、しかしどこか重たく言葉を紡ぐ。
「あなたにとっては不幸なことでしょうか……、私には分かります。そして父上が他でもないイグノール殿下の御前で最期を迎えられたことを……心底から喜ばしくも思います。そして父上がその命を以て訴えられた本当のお心を……この身で確かに聞くことができたことも幸いでした。……私はもう、迷わずに済みます」
その命で以て……そう、ドミニクはイグノールへの、ある意味本当の忠誠を示して見せた、のだろう。それが騎士としてどれほどの美徳であるかなんて、私には理解したくもないけど。
確かに死に際に残していった言葉なのだ、そこに嘘偽りがあるとは思えない。その確信が救いだと言えば……それはそうかもしれない。
彼はディアノールとイグノールの味方だった。カルロスが語った言葉の方が偽物だったのだ。
しかしその時の、必死のカルロスの顔を思い出すのもまた……苦しかった。彼は父に騙されていたとでも言うのか?
「それがドミニク様の本当のお心であると言うなら、なぜカルロスは……」
苦しげに詰まったような私の声を聞いて、ジャックも小さく息を呑んだようだ。
……ベルタスでよく見ていたカルロスの顔を思い出す。戦場で見たそれとはまるで別人のように、いつも穏やかな微笑を湛えていた。
カルロスとは、私がドミニクの妻としてカディアル家に入る前から面識はあったが、婚約者だったジャックと違ってそう深い親交があるわけでもなかった。
初めて妻としてカディアル家の屋敷に挨拶に行った時、ジャックと二人、瓜二つの顔を並べて目を丸くしていたことを憶えている。
兄が政争に追われたことをきっかけにベルタスから逃げていた私は、カディアル家などと付き合うことももうないだろうなんて思っていた。
いざ連れ戻されて見ると、ジャックが知らぬ間に妻子を持っていたことに衝撃を受けたものだ。その再会の時に、お互いに抱いていた恋心を封じ込めた……気まずい思いをした。
カルロスは当然そんな事情には関係もなくて、ただ息子として、歳の近い継母を迎えて柔らかく微笑んでくれていた。
「実母が他界した時私はまだ幼くて……ほとんど憶えてもいないのです。エレアノール様……これからは家族として、どうか実の母の分までたくさん親孝行をさせてください」
そう最初に言った言葉通り、彼は挨拶に来る度甲斐甲斐しく私に声を掛け、よく贈り物もしてくれた。その頃既にズミの戦地へと飛ばされていたジャックよりもよっぽど、私達は仲睦まじい親子の如く過ごしていたことだろう。
過ぎ去った日のことを噛み締めるように思い出していると、どんどんと胸が痛くなるような気がした。ジャックは同じ調子で静かに答える。
「カルロスはギルバートの王子の騎士を務めていた男ですから……その手前、父上も彼には本心を明かしていなかったのかもしれません。仮に父の心を知っていたとしても……カルロスのあの性格では素直に聞くとも思えませんし」
そんなことを言い捨てるジャックを、私はゆっくりと振り向いた。
「性格って何よ……。そりゃ普段気まぐれなとこはあったけど、曲がりなりにも騎士だし……別にドミニク様とも不仲だったわけじゃないし……」
父と息子とで不仲になる貴族もよくいるが、フォス・カディアル家においてその空気はなかったはずだ。貴族としても騎士としても、カルロスは家長である父に従順な男だった。
自分は父を裏切ったりなどしないと叫んでいた、ナートで彼を囚えた時に聞いた言葉が偽りのものだったとも思えない。
「まあ、あなたと違ってトレンティアに居続ける限り表立ってギルバートに反抗することは難しいのでしょうし、板挟みに苦しんで死に急ぐよりかはマシなのかもしれないけど……。でも、やっぱり父の遺志に背いて兄や母と敵対するなんて……どうにもならないのかしら、本当に」
ついため息混じりに嘆いてしまうが、やはりクラウスは難しそうな顔できっぱりと首を横に振った。
「母はともかく……あれが私を兄だなどと慕っているとは思えません。無理でしょう。仮に父の遺志を継いで今からイグノール殿下の元に下ります、なんて言い出したとしても信用できないぐらいです。奴のことですから騙し討ちを考えていたって驚かない」
……そこまで言うか? そんな思いがして、私は思わず不機嫌な目でジャックを睨む。この兄弟仲が悪いのは知っていたが……。
同じ家に生まれて同じ父と母を慕っているというのに、なぜそこで仲が悪くなるのだろう。男兄弟というのは難しいものだ。
「……エレアノール様はあれがどれほど悪辣な本性をしているのかをご存知ないのですか? いえまあ、身分の高い女性相手には格好をつける奴ですから、あなたの目にはそう映らなかったとしても無理はありませんが……。騎士として仕えていたガブリエル殿下が亡くなってからというもの余計に、気が違ったように放逸になってしまったとも聞きます。昨日と今日で言うことがころころと変わるとか、部下の誰にも断らず突然姿を消したかと思えば翌日に泥酔した状態で発見されるとか、事前に組んだ予定を平気で反故にし、仲間や臣下を散々振り回し……」
くどくどと弟を貶し始めるジャックを、私は呆れた顔になって手振りで制止した。さすがにジャックもムッとして口を噤んだ。
ここは父親の墓前である、いくらなんでも慎むべきだと思い直したのか、ジャックは気まずそうにため息をついて、むずむずと動き始めた。
話しているうちに夕方も暮れて空は夜の色を纏っていた。
「……もう暗くなります。気が済んだら切り上げましょう」
その言葉に促されるようにして、私は改めて夫の墓碑を見つめた。
……いくら見ていたところで、死者は何とも答えない。
「まだ別れは……気持ちの整理はつきませんか」
ジャックは続けてそう確かめてくる。
それは墓参りに満足したのかという問いでないことは、声色でなんとなく分かった。まだ夫の死を受け入れられないのかと、そう問うてきている。
「別に……夫婦と言ったって本物の夫婦だったわけじゃないもの。彼が自分で満足して死んだのなら私が今更思うことなんて、ないわ」
もう一度それを確かめる。彼は騎士としてその使命を生ききって、そして死んでいった。
理解はできないが、ジャックの言う通りそれはきっと、幸せな死に方だったのだろう。
思いを振り切るようにして私から先に歩き出した。ジャックもそれに静かについてくる。
「私も長くズミに駐在していましたから、近年は父上と会って話すことも少なかったのですが、挨拶に出向いた時にいつも零しておられた。……早く死にたい、と」
部屋に向かって歩きながら、ジャックはまた穏やかな声になって語り始めた。その言葉を聞いて私も思い出す。
決して会話の弾む夫婦ではなかったが……冗談めかして笑いながら確かによく言っていた。早くこの世のおいとまをいただきたいものです、なんて。
「年寄り特有の悪い冗談かと思って聞き流していましたが……、今になってみれば思い詰めていたのかもしれません。あなたが屋敷から出奔してからは余計に……」
切なげに言うジャックをちらりとだけ振り向いて、私は思わず口を尖らせた。
「なんで私が出てくるのよ。本物の夫婦だったわけじゃないって言ったでしょ? 私なんかいなくなったって、あの人はそう構わないわよ」
しかしジャックはうっすらと微笑を浮かべさえして首を振る。
「いつか、一度だけ言っていました。私が死ねばエレアノール様にはまだ再婚の機会があるだろう、と。無駄に生きている間にあの方の人生を潰してしまっていることが心苦しくて仕方がないと……」
今度は思わず、足を止めてしまった。後ろを歩いていたジャックがつんのめってぶつかってくる。
……私の人生? 再婚の機会? そんなことまで考えて彼は死に急いだと言うのか?
「夫婦らしい夫婦ではなかったのかもしれません。しかし父上は父上なりに、あなた様の幸せを考えておられました。自身とは死に別れた後にきっと……と」
すぐ後ろでつんのめったまま、距離を取り直すこともなく間近から囁くようにジャックは言葉を掛けてくる。何も返事はできなかった。
「……その遺志を受け取るのなら……。あなたも再婚を考えるのでしょうか?」
同じことを先日にジュリにも聞かれた気がする。……同じ答えを言って笑い飛ばすしかなかった。
「私ももう三十よ? 再婚の機会なんていらないわ」
三十歳を超えて子どもを産むのは難しいし、子どもを産まないのであればあえて結婚なんてする意味もないはずだ。
「まだお若いし、お美しい」
ジャックは端的に褒めてくるが、声色はどこか淡白でぎこちなかった。
社交辞令を言うのが得意でないことは知っているし、男物の軍服を着て剣を振り回している年増の女には皮肉というものだろう。
無視をして歩き出そうとした、それを捕まえるように後ろからジャックに手首を掴まれた。驚いて振り向いた先に、思い詰めた彼の顔があった。
「私のものになっていただけませんか」
そして唐突に告白してきた。あまりにも唐突……いや、その想いを彼が捨てていないことを私も知ってはいた……。
あの日確かに……息をつくのもやっとだった必死の戦いのさなか、私達は親子でありながら唇を重ねたのだ。
だけどあんなのは……お互いに必死の戦闘をくぐり抜けたばかりでどうにかしていただけなのだ。奇しくもその直後に訪れたドミニクの死によってかき消された……一時のまぼろしのようなものだった、はずではないか。
あまりにも唐突なその要請に、私はただ困った顔になって首を振った。
「あなた、妻いるじゃない」
ドミニクが亡くなった今、私達は既に親子ではないと言い切るのは難しくなかったかもしれない。しかしさすがに、ジャックの妻は離れているとは言え健在である。子どもだっているではないか。そのひと言で私達の関係はあえなく終わる。
「……もう随分と会っていません」
「会ってなくても死んだわけじゃないんだから。それとも何、腐ってもトレント・エルフィンズに生まれた女を側室に収めようとでもいうの?」
トレンティアでは貴族といえども一夫一妻が原則である。妻を複数持つ者もいるにはいるが、それにはたとえば跡取りが生まれないとか、先立った兄弟の未亡人を子どもごと引き取るだとか、特段の事情がなければ認められない。
それでもあれこれと理屈をつけて側室を持つ貴族も後は絶たないのだが……、私はジャックの正妻よりも……それどころかジャック本人よりも身分が高い。
常識的に考えれば側室などに落ち着けるわけはないし、だからと言って跡取りを産んだ先の妻を差し置いて後から正妻に、なんていくらなんでも、ただ好きだからなんて理由で理解を得られるわけがない。
しかしジャックは呆れるほどに正直で単細胞な男だった。きりと引き締めた真顔で、堂々と私の目を見つめてくる。
「駄目ですか?」
「駄目というか無理でしょ。ベイリー家にどう顔向けするつもり……というか亡き父の妻を息子が娶るなんて、いくら実子がいないと言ったって醜聞もいいところよ。王家ほどの権力があればいざ知れず……一臣下がそんなことをしたら針のむしろにされるわよ」
そこまで言うとやっとジャックは苦手な頭脳を動かし始めたらしい。難しそうに眉を寄せて言葉に迷い始めた。
「王家……じゃないですか」
「はい?」
「あなたは王家の人間ではないですか。……そうです、私があなたを妻にするのではなく、あなたが私を愛人にしていただければ誰も文句は言いません」
大真面目な顔で言うのだから、思わず力が抜けて転びそうになった。慌ててジャックは掴んでいた私の手を引いてそれを支えた。
「……駄目ですか?」
再度そう問いかけてくる。その真剣に思い詰めた顔を見ていると……呆れて返事もできなかった。
騎士が王女を側室にするのは無理があるが、王女が騎士を愛人にするのならいいのだろうか。言い方を変えただけではないのか? なんだか分からなくなってきた。
「もう好きにしなさいよ……」
結局力の抜けた声でそんな投げやりな返事を言うことしかできなかった。
ジャックは面食らったように目を丸くして、やがてぽつりと呟くように言う。
「好きにしていいんですか」
私は何も返事をせず、彼に構わずさっさと歩き出した。
その腕を掴んでいたジャックは、引っ張られるようにしてついてくる。いい加減に離せ、と意思を込めて手を振ると、それは呆気なく解かれた。
しかし自室へ真っ直ぐ帰る私の後ろにジャックは変わらずぴたりと付いてくる……そしてお互い何を言うでもなく、部屋の中まで入ってきてしまった。
時刻は既に夜で、部屋の中にある小さな窓から入ってくる光は少ない。壁にとりつけた魔法灯に光をつける気にもならなくて、私はそのまま夜闇に意識を絡め取られていった。
この夜が明ければいよいよ私達は祖国への道を進軍する。また多く命のやりとりをすることになるだろう。
私とて死にたくはないが、その気持ちだけで生き残れるのなら苦労はしない。本当に生き残れるかは分からない。
だけどほかでもなく、まさにそのために――自分自身が生き残るために、そしてこの愛する人を死なせないためにも戦い続けなければいけない。
覚悟とともに男の愛を受け止める、その熱をもまた飲み込んでいく……。
その夜闇の中で切り裂かれた肌に、滲んだ血を見た、その時はジャックも驚いたらしい。ただ荒く交わしていた息遣いの中に、震えるような声が落ちてきた。
「……グロリア様? は、初めて……ですか? 父とは、その……」
「だから……本物の夫婦じゃないって言ったでしょうが……」
呆れた声で返してやる。
トレンティアの婚礼と言えば、本来初夜まで過ごして一連である。実際のところ彼は、私に指一本触れることなく死んでいったのだ。
……それも、私の幸せというものを願ってのことだったと、そう言うのだろうか。
今更何が幸せかなんて分からないが……ただその遺志すらも背負った騎士が優しく口付けをしてくる、人間なんて大概、そんなことで生きているものなのだろう。
午前の内は兄の事務仕事を手伝い、午後からは訓練のために護衛騎士のルヴァークと剣を交わす。
夕方に差し掛かったのでそろそろ切り上げようか、なんて思いながらも剣を振っている私達の所へ、ふらりと現れた人影があった。
何気なくそれを振り向いて目を丸くした。
珍しく一人で来た様子のジャックが立っていた。女同士の手合わせなど、好んで見に来ることもないと思っていたが……。
「どうかしたの?」
そう聞くと、ジャックは無表情のまま少しだけ言葉を探すように目を泳がせた。
大事をとって随分と長い間寝かせられていた彼も、数日前には完治と診断を受けて通常任務に戻っていたはずだ。そうであれば今も、基本的にはパウルの護衛についていなければおかしい。
「殿下は明日に備えて早く休まれるそうで……、私も少しだけお暇をいただきまして。エレアノール様、良ければ少しお時間をいただけませんか」
躊躇いがちに言ってくる言葉を聞いて、私は余計に眉をひそめてしまった。
ジャックの方から時間をくれなんて誘いをしてくるのは……いつぶりだ? いや初めてでさえあるかもしれない。いつでも彼はあるじの忠犬であり、自らの意思を表に出すことなど滅多にない。
「明日からは遠征になりますので、その前に父上にも挨拶をと思いまして。よろしければご一緒に」
ジャックがそう続けたのを聞いて、私も手合わせで上がっていた息を静かに整えた。
……彼の父ドミニクはここ、ナートで亡くなった……その亡骸は私達の手で砦の敷地の隅に葬ったのだった。その墓参りに、ということらしい。
そういう話なら、と了解して私は手合わせを切り上げた。
「ご家族の墓参りですか。では私は外してよろしいでしょうか」
ルヴァークも汗を拭きながらそう聞いてくるので、頷いた。
「ええ、ジャックと一緒に行くから護衛の心配もないし……。ルヴァーク、あなたも明日に備えて準備とかしておくといいわ」
そう指示をすると、ルヴァークは静かに素早く去って行った。それを見送ってジャックもきょとんとした表情を浮かべる。
「気が早い騎士ですね。お部屋までぐらいお送りするべきでしょうに」
騎士の心構えについては、国の文化差か性格の差かは分からないが、ジャックには思う所がいろいろとあるらしい。私からすればそんな些細なことはどうだっていいのだが。
選手交代とばかりに私の護衛の姿勢に入ったジャックをぴたりと背後にはべらせて、私は言われるがままに一旦は自室へと戻る。
訓練をして汗まみれだし、最近は面倒くさくてずっと訓練用の軍服を着たままだ。夫の墓に顔を出すというのにこの格好ではあんまりだろう……着替える必要があった。
自室へ入って汗を拭き、いつか調達した女服へと着替える。
ゆったりとした腕の袖と、すとんと落ちるように細長いスカートを組み合わせたそれは、この国の現地で仕入れたズミの伝統衣装だ。
ジュリもいつもよく似た形のものを着ている……正装に近いものなのか普段着なのか、いまいち私には判断がつかないが、まあ軍服よりかはマシだろう。
トレンティアのものの服はまだ手に入らない……ナートを制圧した際に押収した物資の中にも、さすがに女服などはなかった。
着替えてから部屋から出て、そこで待っていたジャックと共にドミニクの墓へと向かう。
父の墓を訪れるという時にやはりジャックも思う所があるのだろう、その足取りは彼にしては珍しく緩やかだった。いつもは鋭い目も物憂げに伏せている。
「兄様はもう休むって? 早寝なんて珍しいわね」
そこで交わされる会話も緩やかで、ジャックからも騎士という風な緊張感は抜けているように感じられた。
「起きてはいるでしょうけど、まあ、リョドルと一緒に部屋に引っ込んでしまわれて」
そう答えたジャックの横顔は少し憂鬱そうだった。思わず私も「ああ」なんて呆れた声を漏らした。
どうやらいつの間にか男同士で恋人になってしまったらしい彼らは、時々にそうしてジャックを追い払って夜を共にしているそうだ。サダナムへの遠征に教官長は連れていけないから、今晩はしばしの別れを惜しんでたっぷりよろしくやるのだろう。
「まったく、再婚を考えるどころか男遊びに走られるとは嘆かわしい。本当にどうするつもりなんでしょう……」
「本当に、よりによって兄様が男色に目覚めるとは思ってもみなかったわ。人生分からないものね」
「まあ、お若い頃からなんとなくそういう気配はありましたが……」
「マジで? あんたも何かされたの?」
「いえ、さすがに……。私の方にその気はないので……」
あまりに下品でくだらない話のようにも思えるが、考えてみれば本当にどうするつもりなのかと不安にもなってしまう。
“男遊び”ならまだいいが、相手は一国の祭司長ではないか。男同士とはいえ、“遊び”の範疇に収まるのか、それ。
そうでなくてもパウルの跡取り問題は深刻だ。ヨハンをズミの王家に引き渡してしまったから、これから新しい王子を産むために再婚しなければいけないはずなのに、彼は歳上の美男子に熱を上げるばかりで、全くその気がなさそうなのだ。
歳はもう三十六になる。ギルバートを無事に倒して王位を取り戻してから、なんて言ってるといつになるやら分からない。その頃にはもうパウルも歳を取ってしまっているかもしれない。
そして彼が言い訳のように零した“もう一人の息子”は、奇しくもヨハンと同じ年に生まれている。記憶が正しければ年初に生まれたヨハンより遅く、ちょうど今頃の季節にその王子はひっそりと生まれていたはずだ。
その頃既にヨハンは母親に連れ去られてズミへ渡っていて、妃の逃亡とトレントの種を紛失した咎でパウルの王位継承権は取り消されていた。
その王位争いの騒ぎの中でひっそりと生まれていた王子……名前をアルバートと言った男児は存在を秘匿され、その後パウルが姿を消したことを契機に、ヨハンもろとも始めからいなかったことにされている。彼の存在を知っているのは、当時の王室の側近の中でもごくごく限られた者だけだ。
そして彼は自身が王家の血を引いていることを知りもせず、これまたヨハン同様捨て子として孤児院で育っているらしい。
今年で十六歳になる彼は、歴史から抹消された経緯で当然、トレントの聖血を受けていない。順当な理屈で言えば王位を継ぐ資格を持っていない。これから聖血の儀を行っても、十六まで育ってしまった少年では失敗する確率が大きい。
それでも他に血筋がないのならと、聖血を持たない者が一時的に王権を握った例は歴史上に無いわけでもないが、当然揉め事は尽きないだろう。……考えただけで頭が痛い。本当にどうするつもりなのだろう。
一番現実的なところで言えば、ギルバートの孫である赤子ブライアンをパウルが養子に迎え入れる、というところだろうが……ギルバート派とイグノール派の対立関係がある中でそれをやるとやっぱり揉める。
何にせよ揉めるのなら、揉め合いながらでもなんとかやっていってもらうしかないだろうか……。
しかしそもそもパウルが王位に就けるかどうかもまだ分からないのだ、今からそんな先のことに頭を悩ませていても仕方がない。とにかく今は目の前のことに集中しなければならなかった。
今はまずズミ軍と協力して戦いを進めること、そしてその前に……異国の地に骨を埋めることとなった誇り高き騎士に、哀悼の念を捧げること……。
ジャックと二人で砦の庭を進み、簡素ながらに墓碑を整えたドミニクの亡骸の元へ辿り着いた。
供える花を買いに行く時間すら私達には無いが、ただ二人でその墓を見つめてそれぞれの思いに耽る。……まだ、彼の最期の姿は瞼の裏に焼き付いているみたいに鮮明だった。
私とてガブリエルの聖血の儀の夜、決死の思いでズミに逃げてきた時には、もう二度と会うこともないと覚悟を決めてきたはずだ。
しかし本当に二度と帰らぬ人となってしまったとなると、どうしてもわだかまる思いはある。夫婦と言ったって、どうせ夫婦らしい愛情なんて少しも無かったというのに。
ジャックとて覚悟を決めてイグノールの配下へ降っているのだ、そこに抱く感情が、今更後悔や悲哀であるはずはなかった。彼は父の姿を見下ろしてただ、その血を継ぐ騎士としての決意を抱いている。
「ねえジャック、私にはまだよく分からないの。……どうしてドミニク様は自ら死を望んだの? なぜ死なねばならなかったの?」
私はその横顔に静かに語りかけた。ジャックはゆっくりと私の顔に視線を向けてくる……穏やかな表情だった。
「……父上はもともとディアノール陛下の騎士でしたが、陛下が退位されたことを機にギルバートへと主人を変えています。どんな理由があったとしても、一度誓った忠誠を覆すことはできない……それはフォス・カディアルの騎士としての意地だったのでしょう」
「だけど本音は兄様の敵にもなりたくなかったから、その板挟みから逃れるために死んだってこと? 馬鹿みたい、そんなことをして何になるって言うのよ……」
思わず恨みっぽい言葉が出てしまう。ジャックは少しだけ苦しそうに目を細めた。
「……いえ、私には到底理解できないけど、それが彼自身が望んだ誇りの表れだと言うのなら……今更どうこう言うべきではないわね。今はただ安らかに眠っていてくださることを祈りましょう」
自分の胸に言い聞かせるようにして、私は目を瞑った。ジャックの声はなおも穏やかに、しかしどこか重たく言葉を紡ぐ。
「あなたにとっては不幸なことでしょうか……、私には分かります。そして父上が他でもないイグノール殿下の御前で最期を迎えられたことを……心底から喜ばしくも思います。そして父上がその命を以て訴えられた本当のお心を……この身で確かに聞くことができたことも幸いでした。……私はもう、迷わずに済みます」
その命で以て……そう、ドミニクはイグノールへの、ある意味本当の忠誠を示して見せた、のだろう。それが騎士としてどれほどの美徳であるかなんて、私には理解したくもないけど。
確かに死に際に残していった言葉なのだ、そこに嘘偽りがあるとは思えない。その確信が救いだと言えば……それはそうかもしれない。
彼はディアノールとイグノールの味方だった。カルロスが語った言葉の方が偽物だったのだ。
しかしその時の、必死のカルロスの顔を思い出すのもまた……苦しかった。彼は父に騙されていたとでも言うのか?
「それがドミニク様の本当のお心であると言うなら、なぜカルロスは……」
苦しげに詰まったような私の声を聞いて、ジャックも小さく息を呑んだようだ。
……ベルタスでよく見ていたカルロスの顔を思い出す。戦場で見たそれとはまるで別人のように、いつも穏やかな微笑を湛えていた。
カルロスとは、私がドミニクの妻としてカディアル家に入る前から面識はあったが、婚約者だったジャックと違ってそう深い親交があるわけでもなかった。
初めて妻としてカディアル家の屋敷に挨拶に行った時、ジャックと二人、瓜二つの顔を並べて目を丸くしていたことを憶えている。
兄が政争に追われたことをきっかけにベルタスから逃げていた私は、カディアル家などと付き合うことももうないだろうなんて思っていた。
いざ連れ戻されて見ると、ジャックが知らぬ間に妻子を持っていたことに衝撃を受けたものだ。その再会の時に、お互いに抱いていた恋心を封じ込めた……気まずい思いをした。
カルロスは当然そんな事情には関係もなくて、ただ息子として、歳の近い継母を迎えて柔らかく微笑んでくれていた。
「実母が他界した時私はまだ幼くて……ほとんど憶えてもいないのです。エレアノール様……これからは家族として、どうか実の母の分までたくさん親孝行をさせてください」
そう最初に言った言葉通り、彼は挨拶に来る度甲斐甲斐しく私に声を掛け、よく贈り物もしてくれた。その頃既にズミの戦地へと飛ばされていたジャックよりもよっぽど、私達は仲睦まじい親子の如く過ごしていたことだろう。
過ぎ去った日のことを噛み締めるように思い出していると、どんどんと胸が痛くなるような気がした。ジャックは同じ調子で静かに答える。
「カルロスはギルバートの王子の騎士を務めていた男ですから……その手前、父上も彼には本心を明かしていなかったのかもしれません。仮に父の心を知っていたとしても……カルロスのあの性格では素直に聞くとも思えませんし」
そんなことを言い捨てるジャックを、私はゆっくりと振り向いた。
「性格って何よ……。そりゃ普段気まぐれなとこはあったけど、曲がりなりにも騎士だし……別にドミニク様とも不仲だったわけじゃないし……」
父と息子とで不仲になる貴族もよくいるが、フォス・カディアル家においてその空気はなかったはずだ。貴族としても騎士としても、カルロスは家長である父に従順な男だった。
自分は父を裏切ったりなどしないと叫んでいた、ナートで彼を囚えた時に聞いた言葉が偽りのものだったとも思えない。
「まあ、あなたと違ってトレンティアに居続ける限り表立ってギルバートに反抗することは難しいのでしょうし、板挟みに苦しんで死に急ぐよりかはマシなのかもしれないけど……。でも、やっぱり父の遺志に背いて兄や母と敵対するなんて……どうにもならないのかしら、本当に」
ついため息混じりに嘆いてしまうが、やはりクラウスは難しそうな顔できっぱりと首を横に振った。
「母はともかく……あれが私を兄だなどと慕っているとは思えません。無理でしょう。仮に父の遺志を継いで今からイグノール殿下の元に下ります、なんて言い出したとしても信用できないぐらいです。奴のことですから騙し討ちを考えていたって驚かない」
……そこまで言うか? そんな思いがして、私は思わず不機嫌な目でジャックを睨む。この兄弟仲が悪いのは知っていたが……。
同じ家に生まれて同じ父と母を慕っているというのに、なぜそこで仲が悪くなるのだろう。男兄弟というのは難しいものだ。
「……エレアノール様はあれがどれほど悪辣な本性をしているのかをご存知ないのですか? いえまあ、身分の高い女性相手には格好をつける奴ですから、あなたの目にはそう映らなかったとしても無理はありませんが……。騎士として仕えていたガブリエル殿下が亡くなってからというもの余計に、気が違ったように放逸になってしまったとも聞きます。昨日と今日で言うことがころころと変わるとか、部下の誰にも断らず突然姿を消したかと思えば翌日に泥酔した状態で発見されるとか、事前に組んだ予定を平気で反故にし、仲間や臣下を散々振り回し……」
くどくどと弟を貶し始めるジャックを、私は呆れた顔になって手振りで制止した。さすがにジャックもムッとして口を噤んだ。
ここは父親の墓前である、いくらなんでも慎むべきだと思い直したのか、ジャックは気まずそうにため息をついて、むずむずと動き始めた。
話しているうちに夕方も暮れて空は夜の色を纏っていた。
「……もう暗くなります。気が済んだら切り上げましょう」
その言葉に促されるようにして、私は改めて夫の墓碑を見つめた。
……いくら見ていたところで、死者は何とも答えない。
「まだ別れは……気持ちの整理はつきませんか」
ジャックは続けてそう確かめてくる。
それは墓参りに満足したのかという問いでないことは、声色でなんとなく分かった。まだ夫の死を受け入れられないのかと、そう問うてきている。
「別に……夫婦と言ったって本物の夫婦だったわけじゃないもの。彼が自分で満足して死んだのなら私が今更思うことなんて、ないわ」
もう一度それを確かめる。彼は騎士としてその使命を生ききって、そして死んでいった。
理解はできないが、ジャックの言う通りそれはきっと、幸せな死に方だったのだろう。
思いを振り切るようにして私から先に歩き出した。ジャックもそれに静かについてくる。
「私も長くズミに駐在していましたから、近年は父上と会って話すことも少なかったのですが、挨拶に出向いた時にいつも零しておられた。……早く死にたい、と」
部屋に向かって歩きながら、ジャックはまた穏やかな声になって語り始めた。その言葉を聞いて私も思い出す。
決して会話の弾む夫婦ではなかったが……冗談めかして笑いながら確かによく言っていた。早くこの世のおいとまをいただきたいものです、なんて。
「年寄り特有の悪い冗談かと思って聞き流していましたが……、今になってみれば思い詰めていたのかもしれません。あなたが屋敷から出奔してからは余計に……」
切なげに言うジャックをちらりとだけ振り向いて、私は思わず口を尖らせた。
「なんで私が出てくるのよ。本物の夫婦だったわけじゃないって言ったでしょ? 私なんかいなくなったって、あの人はそう構わないわよ」
しかしジャックはうっすらと微笑を浮かべさえして首を振る。
「いつか、一度だけ言っていました。私が死ねばエレアノール様にはまだ再婚の機会があるだろう、と。無駄に生きている間にあの方の人生を潰してしまっていることが心苦しくて仕方がないと……」
今度は思わず、足を止めてしまった。後ろを歩いていたジャックがつんのめってぶつかってくる。
……私の人生? 再婚の機会? そんなことまで考えて彼は死に急いだと言うのか?
「夫婦らしい夫婦ではなかったのかもしれません。しかし父上は父上なりに、あなた様の幸せを考えておられました。自身とは死に別れた後にきっと……と」
すぐ後ろでつんのめったまま、距離を取り直すこともなく間近から囁くようにジャックは言葉を掛けてくる。何も返事はできなかった。
「……その遺志を受け取るのなら……。あなたも再婚を考えるのでしょうか?」
同じことを先日にジュリにも聞かれた気がする。……同じ答えを言って笑い飛ばすしかなかった。
「私ももう三十よ? 再婚の機会なんていらないわ」
三十歳を超えて子どもを産むのは難しいし、子どもを産まないのであればあえて結婚なんてする意味もないはずだ。
「まだお若いし、お美しい」
ジャックは端的に褒めてくるが、声色はどこか淡白でぎこちなかった。
社交辞令を言うのが得意でないことは知っているし、男物の軍服を着て剣を振り回している年増の女には皮肉というものだろう。
無視をして歩き出そうとした、それを捕まえるように後ろからジャックに手首を掴まれた。驚いて振り向いた先に、思い詰めた彼の顔があった。
「私のものになっていただけませんか」
そして唐突に告白してきた。あまりにも唐突……いや、その想いを彼が捨てていないことを私も知ってはいた……。
あの日確かに……息をつくのもやっとだった必死の戦いのさなか、私達は親子でありながら唇を重ねたのだ。
だけどあんなのは……お互いに必死の戦闘をくぐり抜けたばかりでどうにかしていただけなのだ。奇しくもその直後に訪れたドミニクの死によってかき消された……一時のまぼろしのようなものだった、はずではないか。
あまりにも唐突なその要請に、私はただ困った顔になって首を振った。
「あなた、妻いるじゃない」
ドミニクが亡くなった今、私達は既に親子ではないと言い切るのは難しくなかったかもしれない。しかしさすがに、ジャックの妻は離れているとは言え健在である。子どもだっているではないか。そのひと言で私達の関係はあえなく終わる。
「……もう随分と会っていません」
「会ってなくても死んだわけじゃないんだから。それとも何、腐ってもトレント・エルフィンズに生まれた女を側室に収めようとでもいうの?」
トレンティアでは貴族といえども一夫一妻が原則である。妻を複数持つ者もいるにはいるが、それにはたとえば跡取りが生まれないとか、先立った兄弟の未亡人を子どもごと引き取るだとか、特段の事情がなければ認められない。
それでもあれこれと理屈をつけて側室を持つ貴族も後は絶たないのだが……、私はジャックの正妻よりも……それどころかジャック本人よりも身分が高い。
常識的に考えれば側室などに落ち着けるわけはないし、だからと言って跡取りを産んだ先の妻を差し置いて後から正妻に、なんていくらなんでも、ただ好きだからなんて理由で理解を得られるわけがない。
しかしジャックは呆れるほどに正直で単細胞な男だった。きりと引き締めた真顔で、堂々と私の目を見つめてくる。
「駄目ですか?」
「駄目というか無理でしょ。ベイリー家にどう顔向けするつもり……というか亡き父の妻を息子が娶るなんて、いくら実子がいないと言ったって醜聞もいいところよ。王家ほどの権力があればいざ知れず……一臣下がそんなことをしたら針のむしろにされるわよ」
そこまで言うとやっとジャックは苦手な頭脳を動かし始めたらしい。難しそうに眉を寄せて言葉に迷い始めた。
「王家……じゃないですか」
「はい?」
「あなたは王家の人間ではないですか。……そうです、私があなたを妻にするのではなく、あなたが私を愛人にしていただければ誰も文句は言いません」
大真面目な顔で言うのだから、思わず力が抜けて転びそうになった。慌ててジャックは掴んでいた私の手を引いてそれを支えた。
「……駄目ですか?」
再度そう問いかけてくる。その真剣に思い詰めた顔を見ていると……呆れて返事もできなかった。
騎士が王女を側室にするのは無理があるが、王女が騎士を愛人にするのならいいのだろうか。言い方を変えただけではないのか? なんだか分からなくなってきた。
「もう好きにしなさいよ……」
結局力の抜けた声でそんな投げやりな返事を言うことしかできなかった。
ジャックは面食らったように目を丸くして、やがてぽつりと呟くように言う。
「好きにしていいんですか」
私は何も返事をせず、彼に構わずさっさと歩き出した。
その腕を掴んでいたジャックは、引っ張られるようにしてついてくる。いい加減に離せ、と意思を込めて手を振ると、それは呆気なく解かれた。
しかし自室へ真っ直ぐ帰る私の後ろにジャックは変わらずぴたりと付いてくる……そしてお互い何を言うでもなく、部屋の中まで入ってきてしまった。
時刻は既に夜で、部屋の中にある小さな窓から入ってくる光は少ない。壁にとりつけた魔法灯に光をつける気にもならなくて、私はそのまま夜闇に意識を絡め取られていった。
この夜が明ければいよいよ私達は祖国への道を進軍する。また多く命のやりとりをすることになるだろう。
私とて死にたくはないが、その気持ちだけで生き残れるのなら苦労はしない。本当に生き残れるかは分からない。
だけどほかでもなく、まさにそのために――自分自身が生き残るために、そしてこの愛する人を死なせないためにも戦い続けなければいけない。
覚悟とともに男の愛を受け止める、その熱をもまた飲み込んでいく……。
その夜闇の中で切り裂かれた肌に、滲んだ血を見た、その時はジャックも驚いたらしい。ただ荒く交わしていた息遣いの中に、震えるような声が落ちてきた。
「……グロリア様? は、初めて……ですか? 父とは、その……」
「だから……本物の夫婦じゃないって言ったでしょうが……」
呆れた声で返してやる。
トレンティアの婚礼と言えば、本来初夜まで過ごして一連である。実際のところ彼は、私に指一本触れることなく死んでいったのだ。
……それも、私の幸せというものを願ってのことだったと、そう言うのだろうか。
今更何が幸せかなんて分からないが……ただその遺志すらも背負った騎士が優しく口付けをしてくる、人間なんて大概、そんなことで生きているものなのだろう。
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