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真実
しおりを挟む今ではもう随分とお馴染みになってしまった、扉を開ける。
「……おつかれ。」
「……おつかれさま、です。」
「来ると、思ってた。」
「そうですか……先輩の思惑通りに、来ちゃいましたね。」
放課後になった今に相応しい挨拶を交わしながら、視界に入ってきたのは目映い黄色。北沢楓の微笑みに、同じものを返した。
当たりに広がる夕焼けのオレンジが、ひどく暖かくて。数段ある小さな階段のいちばん上。北沢楓の隣に、鎖骨下を襲う僅かな痛みを隠しつつ腰をおろす。
「最近、元気だったか?」
「はい。学校には一応、ちゃんと来てたんで……先輩、は?」
「元気。学校にも真面目に来てたし、この場所にも来てた。鍵が開いてねえから、手前までだけど。」
「……そうです、か。」
「だから……ほなみが来てくんねえと、俺、困る。避けられたりすんのも、寂しい。」
「……はい。」
訊きたいことが、あるのに。たくさんたくさん、ありすぎるのに。何から訊けばいいのか言えばいいのか分からず、足先に落ちてしまう視線。そんな、私の頭。俯き加減になってしまったそこに、ぽん。と、大きな手のひらが乗せられた。
偉大ささえ覚えるそれの持ち主、北沢楓の声には、優しい雰囲気しか纏っていない。懐かしさと安心さしか得られない行動に、性懲りもなく泣きたくなってしまった。学校指定のスリッパから覗かせた自分の爪先を見つめ、素っ気なく相槌を打つことが精一杯、で。
「一緒にいたやつは?帰ったのか?」
「光希、のことですよね?さっきまで保健室で喋ってて、先に帰りました。恭、も。」
「ああ……あいつ、おもしれえよな。気が小っせぇのかなんなのか、よく分かんねえ。」
「うん。」
頭上にあった小さな重みがなくなると同時に、顔を上げる。愉しそうに恭を弄る横顔に堪えきれず、ありのままの自分で笑ってしまった。ごめんね、恭。と、届かない懺悔を、相手にこっそり呼びかける。
「……でも、ほなみのこと、しっかり護ってたな。みつき、ってやつのことも。」
「そう、ですね。」
「うん」
「はい」
「立派で、かっこよかった。」
「……はい。」
「………………」
「………………」
並んだお互いが、正面を向く。心此処に在らず、な匂いを漂わせながらも。確かな真実が入っているのであろう恭への言葉を、大切に記憶へと残した。
そのまま流れる、暫くの沈黙。
「……ねぇ、先輩。」
「……ん?」
「S、K、Y……これ、分かりますよね?」
「………………」
「先輩たち、そう呼ばれてるみたいで。先輩と、赤と青い髪色をした2人の名前。その、頭文字をとって。……知ってました?」
破ったのは、私。隣に、北沢楓に、向けた顔。ひとつひとつ、丁寧に。執拗いほど遅いスピードで、3つのアルファベットを口にした。それでも北沢楓はぴくりとも動かないまま、反応さえしないまま、押し黙る。
目の前にある2つの瞳が、真っ黒な穴のように見えた。虚構みたいな、ただの、2つ。絶望を、知っている瞳。
そして私も。これらをよく、知っている。見ることさえ、ざらにあった。
日が昇り目が覚めて、お父さんとお母さんと顔を合わせれば。
自分自身が映し出された、鏡を覗けば。
毎日のようにすぐ側に現れた。
もしかすると北沢楓だって、私の瞳を見て同じような思いを抱いているのかもしれない。きっと。私と北沢楓は、似ているから。それも、北沢楓の前で上手く自分を隠すことの出来ない理由なんだろう。
「……知ってるよ。」
「……その2人って、今日、さっきここで。助けてくれた2人、ですよね。」
「……ああ。」
「ケーキを買って、ここに、置いてました。」
「……うん。」
「なんか、誰かに祀るみたいに。」
「……そうだな。」
「誰かの誕生日、だったのかな。」
「…………ほなみ、」
「今日が誕生日だった誰かが、亡くなったり、したのかな。」
顔の筋肉だけで笑って、追い詰めるように。何にも知らない解っていないフリをして、無邪気に言葉を重ねていく。哀しそうに片目を歪ませる北沢楓に気遣うこともなく首を傾け念を押す私は、性格が悪いのかもしれない。今さら、止めたりもしないけれど。
ようやく、僅かにだけれど。困惑を表に現した相手から、視線を外した。北沢楓はどうやら、誤魔化すことを諦めたらしい。いつものように、ふざけた嘘を吐くことも、あからさまに話の腰をおることもしない。
「……エスケーワイって、呼び名。皆さんが1年生だった頃は、違うものだったんでしょ?文字としての見ためは変わってないけど、呼び方は、違う。」
「……そうだな。」
「……その頃は 、スカイ、だった。」
「……うん。合ってる。」
今はもう、いつもの空気を醸し出し合う2人だった。話の内容、そして、重さが異なっているだけの。幼い、子ども。
音もなく微笑めば、北沢楓も似たように微笑む。振り返れば、私たちはいつも、同調仕草が多かったように感じた。
「それ聞いて、思ったんです。エスケーワイ、なんてわざわざ一文字ずつ言う呼び方に変えなくても、スカイの方が短く呼べるのに……どうして変わっちゃったのかな、って。」
「……ほなみは、どうしてだと、思った?」
耳だけで判断する北沢楓から訊ねられた声は、場違いな優しさと落ち着きで作られていて。全ての感情を余計な不安を遮断するため、深く瞼を閉じる。
「"スカイ"って呼ばれていた頃は、その代名詞に値する人物が、4人だった。けど1人いなくなって…3人に、なって。エスケーワイに、変わった。いなくなった人の〝名前〟の所為で、変えざるを得なくなった。矛盾が、生じてくるから。」
「……さすが。首席入学。」
「じゃあ……これ、あたりですか?」
真っ暗に染めた視界を、広げた。見えたのは、オレンジ色の空と。
「あたり。それも綺麗な、模範解答。」
悔しそうに微笑む、北沢楓。
私は、笑う。
そっと、笑った。
この笑顔は、見てる相手にどんな感情を与えるだろう。
なんて、逃避のように、考える。
北沢楓も、笑う。
そっと、笑った。
その笑顔は、苦しそうで、見ている側の息まで詰まらせにかかっているような辛さで、泣きたくなった。
決して泣かないであろう、本人に代わって。
演出のように、風が止む。
何もかもの音が、消え去った。
それでも、静かな静かなこの場所でも、私が紡ぎ続ける言葉だけが、無くならない。
「エスケーワイ、って呼ばれてた、4人。」
ねぇ。お兄ちゃん。
「外村、心。」
お兄ちゃん。
「槙本、陽。」
見つけた。
「……北沢、楓。」
お兄ちゃんの、足跡。
「…………永谷、空。」
お兄ちゃんと、北沢楓の、接点。
でも、それならば。
どうして、だったのだろう。
「エス、はあの青髪の人。ケー、は先輩。ワイ、が赤髪の人で……これに、お兄ちゃんの名前を含めて、スカイ。空は英語でskyですから。4人を纏め合わせて、呼ばれてた?」
「……そうだよ。」
「……お兄ちゃんは、もういない。だから、スカイって呼ばれなくなった。〝空〟 は、もう何処にも、ない。だから一文字ずつ呼び直した。矛盾はしない、エスケーワイ、に。」
「……ああ。」
「…………ねえ、先輩、」
「……ん?」
「私に近付いてきたのは、どうして、ですか?」
「………………」
「…………私、もう、逃げないから。北沢楓も、隠さないで、話して。知ってることがあるなら、お兄ちゃんのこと、教えて下さい。」
「………………。」
「……お願いだから、教えて、ください。」
「……ん。分かった。」
ひとつの、新しく大きな疑問。私のことを知らないフリして。そんな演技まで続けて、近付いて。北沢楓は、なにがしたかった?
小刻みに震えだした手のひらを、悟られないようにぎゅう、と。きつく握って、拳を象る。何かを覚悟したよう瞼をおろした北沢楓を、横目で確認して。
「お兄ちゃんが死んだのは、」
「うん」
「死んだ、のは……」
「うん」
「事故、じゃなくて……自殺、だったんですか?」
「………そうだよ。」
「…………っ、」
「……空はあの日、あの場所から、自分で、飛び降りた。」
ポトリ。
一粒だけの大きな雫が、頬を伝った。
止んでいた風が静かに吹き差り、お兄ちゃんと同じ生まれつき茶色い私の髪を、さらう。
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